【メッセージ】
1983年に「いわさきちひろ絵本美術館新館オープン記念特別展を開催したときの冊子「夢二からちひろへ ―こどもの心を持ちつづけたイラストレーターの歴史―」を同館の学芸員さんに見つけていただき、このほど受領しました!ほぼ同時に、ちひろ美術館副館長松本由理子氏の「ちひろ美術館ものがたり」を読了し、同氏の前夫・猛氏と4人の子どもとともに、美術館の創設、リニューアル、運営にまい進した様子に感動しました。いわさきちひろの可憐な絵に秘められた平和への願い、それを継承するちひろ美術館の発展の歴史の中に、絵本の原点として夢二が登場したことに大きな喜びを感じます。
「竹久夢二は、これまで青春期の子女向けの抒情画の面だけが強調されてしまったきらいがあるが、御覧の通り子供の世界に深い関心を持っていた。それは自分の愛児たちの生活からの観察もあろうが、まだ江戸の生活習慣が多く残っていた明治末期のキモノ姿の子供に注目されたい。同時に洋服を着た子供の生活にも、まだ見ぬ西洋の生活への憧憬もこめられていることは見過せぬ。毛筆から金属ペンの描線に移ると同時に西洋ペン画の影響が出はじめ、それがのちに続く清水良雄、武井武雄、初山滋にも引き継がれていることも感じとられることであろう。」
【タイワンショット】
■北投温泉
北投温泉は北投公園内にあります。北投温泉博物館は日本統治時代、「北投温泉公衆浴場」として大いに賑わっていました。建設が開始された1910年(明治43年)当時は、庶民が気軽に温泉を楽しめる場所が少なかったこともあり、地元の人たちの陳情を受けた当時の台北州庁長、井村大吉がもともとあった公衆浴場「瀧乃湯」を改築、拡張工事を行なって公衆浴場としました。1913年に浴場が正式に落成すると、さらに周囲に北投公園を建設、徐々に北投温泉郷として姿を整え、発展していました。
この公衆浴場は静岡県伊豆山温泉を手本として完成しました。1923年には当時皇太子だった裕仁天皇が訪れたことから、さらに増築し、和風と洋風をミックスさせたエキゾチックな大浴場になったそうです。
しかし、戦後台湾が中華民国に返還された後は管轄部門が次々と変わり、一度は倉庫に使用されるなど荒廃し、人々から忘れ去られていました。ところが1994年、北投小学校の生徒と教師が授業でこの公衆浴場のことを知り、付近の住民たちとともに台北市に熱心に働きかけた結果、内政部から市定古跡に指定されました。そこで、台北市が中心となって北投温泉をテーマとした博物館の設立を計画、1998年10月31日にオープンしました。
北投温泉には石川県の加賀屋も進出していて、豪華な台湾の旅の楽しみもさらに増えそうです。
ところで、「北投石」は世界で唯一、台湾の地名が付けられ、世界では北投と日本の玉川温泉にしかないという貴重な鉱石。地熱谷から湧き出る硫酸鉛やバリウム、ラジウムなどを含む湯が北投渓の流れと交わり、水温が下がって鉱物の結晶が川石に付着してできたもので、微量の放射能をもち、日本統治時代には「天然記念物」に指定されていました。(台湾観光局の説明から抜粋)
「夢二と台湾との出会い」その14
“夢二、台湾へ(5)”
昭和8年(1933)10月26日に台湾に着いた夢二は、同日に師と仰いだ「白馬会美術研究所」の創立者藤島武二と遭遇。外地での運命的な対面を経験しました。翌日には早速台湾日日新報に夢二のインタビュー記事が掲載され、ドイツでの状況を聞かれています。夢二は、「例外として金融資本家のユダヤ人はなんら排斥を受けていないのは資本主義時代の一つの矛盾を示している」、「西洋人の複雑した感情はどうも私共にはよくわかりません」と客観的な視点を披露し、「ナチスの芸術は今後だんだん希薄になつて行きますが、美術は彼等の生活に大した影響はなくとも、音楽が聞けなくなると云ふことは一番の苦しみだらうと思ひます。」と一般人にとっての芸術という観点から意見を述べています。
11月1日、最初の舞台が訪れました。同月3日が展覧会開会なので、おそらくそれまでは夢二は展覧会場の警察会館で飾り付けの指示をしていたものと思われます。
この頃の台湾の状況を見ると、世界恐慌の世界恐慌が日本にも波及し不況が深刻化していましたが、昭和5年(1930)には八田與一が烏山頭ダムを完成、翌年には嘉儀農業高校(KANO)が甲子園で準優勝になるなどの活性事象が見られるほか、昭和10年(1935)には、台湾統治開始以来40年目の「始政40周年記念行事」である「台湾博覧会」が2年後に予定されていることもあり、市中はお祭りムードの前兆が見えるような状況でもあったと思われます。現にこの時期は基隆税関合同庁舎の竣工直前であり、夢二は入港の際、改装中のふ頭にそびえたつその姿を目にしたことと思われます。
こんな雰囲気の中で、東方文化協会の発会式は大稲埕「蓬莱」で盛大に挙行されました。そして、翌日の「台湾日日新報」には、次のような展覧会の紹介記事が掲載されました。
「夢二画伯の作品展 警察會館にて
東方文化協會臺灣支部の設立を記念する為めの竹久夢二畫伯の作品展覧會は三日より五日まで三日間、警察會館で開催の筈であるが、出陳「點数は五十余、屏風、額滞欧作品「海濱」「女」「旅人」等の外枕屏風中、「春夢幻想」「榛名山秋色」の一點は同畫伯の近況を物語るものであり、四尺二枚折屏風「舞姫」は、〇(判読不可)に有島生馬氏との合作にて「古き夢二式美人」を偲ぶものであるといふ。」
次回は、いよいよ台湾初の夢二展覧会の開催と講演会です。 (つづく)
●21 どんたく絵本
1集が「X・MAS」、 2集が「正月」、3集が「動物園」をテーマにした絵本シリーズ。紙面に文章は一切なく、イラストだけで構成されています。
ページをめくると、各集のテーマに沿ったイラストが見開きで1枚の絵として現れます。画面の余白を活かしながら、少ない色遣いで子どもや動物、玩具等を夢二はシンプルに描き、個性あふれる絵本を制作しました。
(編者注)「どんたく」は、大正2年(1913)に夢二が刊行した絵入り小唄でこれとは別の著書。同著の中の一節に今も歌い継がれる『宵待草』を三行詩で発表しています。
▼「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より
【夢二情報】
「私は詩人になりたいと思った。」「私は、文字の代わりに繪の形式で詩を畫いて見た。」と述べています。夢二が描くコマ絵同様に詩歌や文章は「郷愁」や「憧憬」を表わすものが多くあります。あるいは読み手と共感し、様々な想像を促してくれます。このことも夢二画の特質と同様であるといってよいのではないでしょうか。」(第3巻「まえがき」より)
全ページ解説なしのコマ絵だけの本。本を開くと夢二のコマ絵が大量にあふれ出します。しかも3巻物。夢二の多彩な画法や文字との組合わせ方など、ひとつひとつの絵を見てじっくり考えながら読み進んでいくと、発表当時の読者の心境を疑似体験することができます。発表年が記載されているので、その当時の社会情勢や流行、世相などを考え併せて読み進むと、完全に夢二の世界に没入!することができます。古くて新しい大発見があるかもしれません。ぜひご購読を。
●竹久夢二美術館の石川桂子学芸員が次のとおりテレビ出演します。ぜひご覧ください。(^^♪
○『じゅん散歩』4/20(水)9:55~ テレビ朝日
○『猫旅俳句』4/23(土)18:30~21:00 BS松竹東急(260ch) ←4/1に開局!
・俳優・小倉一郎さんが来館されました。当館は20時頃に放送予定です
・選局はリモコンの「BS」ボタンを押し、画面に「BS松竹東急」(260ch)が表示されるまで、リモコンの「上下」
ボタンを操作してください。
コメント