【メッセージ】

先週日曜日に雨の浅草に行ってみました。小雨とあって閑散としているかと思いきや、お寺も周辺も若い人でいっぱい。着物姿の女性も「雨ニモマケズ」と頑張っています。参道をちょっと曲がったところに「大正ロマン館」というお店を発見。お客さんがあふれています。夢二も浅草へよく行ったようですが、まさか「大正ロマン館」などというものが出来てクレープを売るようになるとは想像しなかったでしょうね。

▼若い人でにぎわう浅草
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▼「大正ロマン館」

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【タイワンショット】

■台湾とバイク

台湾で一番目につくのがバイク。とにかく多い。ヘルメットのファッションも面白い。

台湾人がバイクに乗る理由は、「台湾ZiNE」によると、「1 駐車しやすい、2 渋滞しない、3超便利、 4買いやすい、 5 免許を取りやすい」とのこと。

容易に駐車でき、渋滞には影響されないし、路側に専用駐車場があるなど駐車できるところも多い。価格は車より安いし若いうちから免許が取れるということです。

実際見てみると確かに縦横無尽に走っています。朝などおばあちゃんが孫を学校に送迎するのどかでぞっとするような風景も見られます。

しかし事故も多い。筆者も何度か轢かれそうになったことがあります。特に右側通行なので注意する方向が慣れないと非常に危険。旅行に行った際は気をつけましょう。

▼とにかくバイク!
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【週刊エッセイ】

「夢二と台湾との出会い」その16

“夢二、台湾へ(7)” 

夢二展覧会は昭和8年(1933113日から3日間警察会館で開催されましたが、大きな販売成果もなく閉幕となりました。この後出発予定日の1111日までの間、夢二の行動で記録が残っているのは、11日に「台湾日日新報」に寄稿したエッセイだけ。それまでの6日間の記録がありません。夢二は一体どんな環境で1週間近くを台湾で過ごしたのでしょう。ここで当時の台湾の様子を見てみることにしてみます。

夢二の訪台の2年前の昭和6年(1931)には、八田與一が10年かけて烏山頭ダム(嘉南大圳)を完成させ、多毛作の大増産を実現しました。サトウキビから米作に転向する農家が激増し、その後の砂糖と米が二大輸出品となって戦後台湾の経済を支えることとなりました。八田與一は今でも台湾でとても尊敬されています。そしてこの年、嘉義農林高校が甲子園で想定外の準優勝となったことも話題になっています。

また、元秋田鉱山専門学校校長工学博士・横堀浩三郎が台湾全島の埋蔵金脈・砂金の総量が40億円を超えるという発表をして騒然となりましたが、どうも海外投資家の注意を弾くためだけだったという妙な事件も起きています。結局、金脈はいまだに見つかっていません。しかし、ゴールドラッシュは起こりませんでしたが、“ウッドラッシュ”ともいえる現象が起こりました。台湾の山岳地帯での資源は非常に豊富で、特に阿里山ヒノキは、戦艦長門の甲板や明治神宮の巨大鳥居に使用されるほどでした。当時活躍した阿里山鉄道は今も観光で大活躍しています。また、クスノキから取れる樟脳も台湾総督府の重要な輸出品となって台湾経済の振興に貢献しました。

こうして経済力をつけてきた台湾ですが、その底力となったのが「本島人」と呼ばれる、日本統治以前に中国の福建省や広東省から移住してきていた人々でした。日本人の移住には限界があったことから、日本統治下の台湾で大活躍していたのは、実は人数的にも圧倒的に多い彼らだったのです。

▼大正7年(1918)に日本人企業が創業した唯一の民営だった林田山林場。
関係者のために建てられた日本家屋群跡が残されている。(花蓮市「林田山」)
※写真は管理説明員夫妻、Woodyと親戚と筆者(2018年)
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ところで、大正12年(192347日、皇太子(後の昭和天皇)が突然訪台(行啓)し、台湾中がお出迎えに騒然となりましたが、その年の91日、関東大震災が発生しました。台湾では、混乱した内地と通信がうまくとれず、「富士山が大噴火」とか「帝都が全滅」、「秩父連山、「槍ヶ岳も噴火」などと噂が飛び交い、再び騒然となりましたが、島民のリアクションはかなり素早かったようです。震災翌日には官民協議の上、1日1円以上の義捐金を募集。930日までに20万円(現在の1億円以上)以上を集めて大阪へ物資とともに送ったとのこと。これが1週間後には70万円、最終的に170万円ほどになりました。同じ植民地だった朝鮮では、人口が台湾の5倍近くもある上財閥が多いにも関わらず義捐金は190万円弱。大企業もなく、低所得の本島人が大部分の台湾では、現金収入の少ない原住民までが義捐金を出し、内地同様節約生活を始めたというから驚いてしまいます。台南では内地人が義捐金を渋ったという話もあり、かなりの部分を日本人でない「本島人」が供与したようで、つい東日本大震災で250億円もの義捐金が台湾から届いたという話を思い出してしまいました。

※1円の価値:大正2年は4000円、昭和2年は636円に相当。(三菱UFJ信託銀行のサイトより)

▼関東大震災(東京都復興記念館)
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さて、当時の様子を風刺画で見て見ると、台湾は日本と違う亜熱帯と熱帯気候ということもあり、台湾でなければ見られない服装があったようです。例えば、男性は冬用の袴に着物、夏用の襦袢と帽子と、上に行くほど夏になるといった具合。逆に女性は帽子が冬、ショールを巻いてワンピースは夏物と下へ行くほど夏になる。10月の服装がこのような具合ということで、その10月に台湾に行った夢二はどう感じたのでしょうか。また、冬になるとカップルは火鉢に当たりながら上から扇風機を回しているというのもあるようです。台北の冬は意外に寒いのですね。

▼風刺画(国島水馬画(「台湾日日新報」))
本「日本統治下の台湾(風刺画) (3)

台北の町中に出てみると、今も見られるのが、歩行路を確保して軒先を2階以上の建物部分を張り出しながらアーケードとし、隣接する建物とつなげた「亭仔脚」(「騎楼」のこと。迪化街の問屋街が有名)です。雨が多く日差しの強い台湾での利便性と衛生面の向上を狙って後藤新平が設置を義務付けたものだそうです。これによって市内では天候にあまり左右されずに往来がしやすい環境が整えられていたのでしょう。

▼亭仔脚(迪化街の問屋街)
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交通路は、明治41年(1908)に基隆・高雄間の縦貫鉄道が完成したのち大きく網を広げていき、道路網の整備の方が遅れたようです。また、線路の上の台車を人が押す「手押し台車」という安価な軽便鉄道というのがあったようで、昭和初期の最盛期には50以上の路線、総延長距離は約1300キロに及んでいたそうです。かなりのスピードが出るのにブレーキは木の棒1本だけで、断崖を走る時は命がけだったという話です。なお、台北には市電を走らせる計画があったのです、これはついに実現せずに終わってしまいました。

風刺画(国島水馬画(「台湾日日新報」))
本「日本統治下の台湾(風刺画) (4)
当時の台湾の様子は次回に続きます。夢二の台湾最後のエッセイ「臺灣の印象―グロな女学生服―」(1114日「台湾日日新報」掲載)は、当時の台湾と国際情勢を踏まえて読むと、夢二の見た台湾の様子がよりよく見えてくると思います。 (つづく)

*本稿は『風刺漫画で読み解く 日本統治下の台湾』(坂野徳隆著、平凡社刊)を参考に記載しています。非常にユニークな本なので、当時の台湾の状況を詳しくお知りになりたい方はぜひご購読ください。


【夢二の世界】

PART 3 KAWAIIの世界」(「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より)

23 夢二画手本  

表紙に「クレイヨン練習帳」と記されているように、クレヨンの使用を目的とした夢二による絵の描き方の手本帳で、シリーズで4冊刊行されました。植物・人物・建築物・日用品等の身近なモチーフが簡素な線でやさしく描き出され、絵の初心者にも模写しやすいように配慮されています。

子どもたちの絵の手本帳という目的以外にも、素朴な線描の魅力があふれた夢二の画集としても、楽しく眺められます。

▼「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より
本「かわいい手帖」夢二画手本 (2)

【夢二の言葉】

●はじめ男は恋を恋ふ。終に女を恋する。女ははじめ男を恋する、それから終に恋を恋する。(『日記』(大正4年))

●いづれそれは男の苦労のたねに違いなひが 彼女の数万言のことばのなかから 嘘を探し出さうとするよりは 

嘘だらけの中から真実を拾ふ方が早道ですよ。(『恋愛秘話』(大正13年(1924))

※出典:「竹久夢二 恋の言葉」(石川桂子著)

 

【夢二情報】

●「1932年の大日本帝国」(アンドレ・ヴィオリス著、大橋尚泰訳・解説、草思社刊) 

1933年に訪台した夢二の周辺環境を知るのに格好の書籍。満州事変の翌年に日本を取材するために来日した「ル・プチ・パリジャン」紙の特派員である著者が、当時若手将校から崇拝の的になっていた荒木貞夫陸軍大臣のほか、平沼騏一郎、安部磯雄らと対面し、そのやり取りを含む日本人の肉声を記録したルポで、1933年に刊行したものです。上海で上海事変に遭遇した後来日し、臨時議会を傍聴、新宿御苑の観櫻会に招待され、靖国神社への天皇皇后の行啓への立会い、天長節の観兵式への出席などを行ったうえ、五・一五事件にも遭遇するなど、短い滞日期間中に数多くの経験をした著者は、当時の日本や日本人に関する様々な面を鋭い視点で活写しています。また、著者がフランス人であることもあり、日本が国際連盟脱退に至った経緯やナチスの台頭に対する国際社会の対応なども日本人の視点とは異なった形で語られていて、日本の国際連盟への対応やナチスの所業などを経験した夢二の心理を立体的に推測する格好の資料となります。現在、今後の「週報」で要所のまとめの掲載を検討しています。

本「1932年の大日本帝国」表紙 (2)