■メッセージ■
今はもう初夏、鳥がほとんどいない池。。。という状態ですが、カイツブリが一生懸命抱卵している様子が見られるなど、楽しみなところもあります。先日三宝寺池でアオサギの赤ちゃんに出逢いました。1羽だと思っていたら次々に顔を出してきて3羽も。口を開けて親の来るのを待っています。今年の秋・冬は賑やかになりそうです。
■タイワンショット■
●林黙娘
媽祖(まそ)は、航海・漁業の守護神として、中国沿海部を中心に信仰を集める道教の女神。そして、媽祖は宋代に実在した官吏の娘、黙娘が神となったものであるとされています。黙娘は建隆元年(960年)、興化軍莆田県湄州島の都巡林愿の六女として生まれ、幼少の頃から才気煥発で信仰心も篤かったのですが、16歳の頃に神通力を得て村人の病を治すなどの奇跡を起こしたことで崇められることになりました。しかし28歳の時に父が海難に遭い行方知れずとなり、これに悲嘆した黙娘は旅立ち、その後、峨嵋山の山頂で仙人に誘われ神となった、あるいは父を探しに船を出し遭難したといった伝承が伝わっています。(wikipediaより)
この林默娘、現在では航海・漁業をはるかに超えてファッションや若者文化の神ともなったらしく、“台湾の原宿”の異名を持つ台北西門町のマスコットとしても大活躍しています。
■週刊エッセイ■
「夢二と台湾との出会い」その17
“夢二、台湾へ(8)”
前回、風刺画(国島水馬画(「台湾日日新聞」)により、夢二が訪台した昭和8年(1933)頃の台湾の様子を見てきましたが、夢二のおかれた環境をより正確に実感するため、もう少し話を進めます。
明治28年(1895)に台湾領有が開始されて以来、台湾総督は武官(軍人)が担っていましたが、大正7年(1918)に明石元二郎総督の時代にほぼインフラが完成すると、文官(官吏)に変更となりました。初代文官総督田健治郎からは、中央政府の官吏が総督となるようになったわけです。こうなると、中央政府で政権交代するたびに総督も交代となり、それまで勢い込んで進めてきた島内のプロジェクトが滞り、経済発展が停滞するようになってきました。しかし、社会面では、原敬首相が自由と民主の思想を重んじるようになったことから、内地延長主義による「内台融和」が急速に進んできました。
大正11年(1922)頃には、国内法の台湾への適用や、日台共学制度開始・大学の設置・日本語学習の整備など、文教面での平等化を目指す台湾教育令が発布されるなど立て続けに平等化策が施行されました。しかし、第一次大戦の影響による不況の影響もあり、一攫千金を夢見て本土から来た日本人は商売で成功している台湾人に対して不平等感を持つものも多かったことから、実際には台湾人の就学・就職機会、賃金は日本人より低く抑えられているなど実質上の不平等は残存しているような状況ではありました。
しかし、内地延長主義が様々な矛盾をはらんでいたとはいえ、学習機会の向上は台湾人にとって「植民地被支配階級」である「二等国民」からの脱出へのチャンスとなったことも確かで、戦後中華民国総統となった李登輝は、外地初の高等学校である台北高等学校を経て京都帝国大学へ進学しました。ちなみに昭和3年(1928)には、台湾帝国大学が設立されています。
昭和7年(1932)になると、共婚法が施行されたことから、内台結婚が促進され、「台湾のお雛様は生きている」と新聞に書かれるほどになりました。台湾の花嫁姿をかわいいお雛様にたとえたところが非常にユニークで、結婚式に参列した内地人が、それまであまり見出す機会すらなかった台湾人の魅力的な部分が見えてきたのでしょう。これがまさに、夢二が行ったときの台湾の状況だったのです。
▼「内台融和」新聞掲載風刺画(「日本統治下の台湾」(平凡社新書)より)
また、言語に関しては、台湾人は日本語を習い、日本語使用を奨励されましたが、当初は強制ではなかったようです。台湾人の日本語教育環境が整わなかったこともあり、台湾人と日本人がそれぞれの言葉と文化で共存する複合社会となっていました。これはこの後、昭和12年(1937)の日中戦争勃発後に強制的な日本化を図った「皇民化政策」が導入されると一気に変わってしまいましたが、夢二の訪台時はまだ穏健な状態であったようです。そのため、映画「KANO1931 海の向こうの甲子園」にあったような状況が見られたのだと思います。当時、日本語を流ちょうに話す台湾人は随分いたようですが、アクセントが標準語と少し違っていたようです。これは、台湾に赴任していた教師、警官、総督府官吏には四国や九州の出身者が多かったことによるものだそうで、語法も西日本のものが多いほか、台湾語文法まで混じりあっていたといわれています。
このような状況で「内台融和」が進み、台湾人と日本人が連れ立って、亜熱帯特有の「桃、梅、桜を同時に観る花見」に行ったり、北投温泉で湯に浸かったり、河原で一緒にバーベキューを楽しもことも多くなりました。宴会のお供のビールも、高砂麦酒株式会社が大正9年(1920)に販売を開始し、内地のビールと苦戦を続けながらも、昭和8年(1933)には総督府専売局の指定を受け、この頃は、地元の力が発揮されてきた時期でもあることがわかります。
▼「内台融和」新聞掲載風刺画(「日本統治下の台湾」(平凡社新書)より)
最後に当時の大きな国内ニュースをひとつ。昭和8年(1933)1月と2月、2名の女学生が同級生立ち合いのもとに大島三原山の河口に投身自殺するという事件が起こりました。これにより三原山火口は自殺の名所と化し、この年だけで未遂を含め900名以上が身を投げるという事態に発展してしまいました。台北の北投温泉にも影響しているのか、新聞にも風刺画が登場。前年の五・一五事件での犬養首相の暗殺に始まった軍部主導型の動きが社会不安を呼び、いよいよ大正デモクラシーの終焉が近づいてきているのがよくわかります。
北投温泉は日本領有数年前にドイツ人商人が発見したそうですが、昭和8年(1933)、そのドイツではヒットラーが首相となり、日本では満州国承認決議案が通過、日本は国際連盟を脱退。そのような状況の中、夢二はその一部を現地で経験するなどして帰国し、台湾にやってきました。ヒットラーに追われて帰国したのではない、としながらも、「ユダヤ人の排斥で技術、芸術家のユダヤ人が人種的迫害を受けた結果、ドイツの技術も見込がなくなった」とインタビューに答えた夢二。果たして台湾での心の中はどうだったのでしょうか。次回、台湾日日新報(11月14日)に掲載された台湾唯一のエッセイ「臺湾の印象ーグロな女学生服ー竹久夢生」に続きます。(つづく)
*本稿は『風刺漫画で読み解く 日本統治下の台湾』(坂野徳隆著、平凡社刊)を参考に記載しています。非常にユニークな本なので、当時の台湾の状況を詳しくお知りになりたい方はぜひご購読ください。
【夢二の世界】
PART 3 「KAWAIIの世界」(「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より)
24 『ハトポッポ』
子ども向けの詩集『ハトポッポ』(大手八郎・作)は、夢二が表紙絵と挿絵を手がけ、挿絵はすべてモノクロで48点掲載されています。丸みと歪みを帯びた中太な線で、夢二はおおらかに挿絵を描きました。作画は少年少女を中心に、ほのぼのとした雰囲気に満ちて心が和みます。
普段は怖い存在の「仁王様」・「かみなりさん」は、思わず笑みがこぼれるようなタッチで描かれ、子どもの落書きのような「かかし」・「ひかうき(ひこうき)」は、脱力感に満ちた画風で、ユーモアのある夢二の絵心が光っています。
■夢二の言葉■
わかきふたりは なにもせず なにもいはずに ためいきばかり。
逢ったらあれも聞きたい、これも言はう、と胸一杯に「つもる思ひ」を持ってゆくのに、さて逢って顔を見ると、もうなにもかにも心が充ちたりて、何も言ふことがないやうな気がして、手のおきどころに困りながらだまつてゐるといふのである。
(『文章倶楽部』「自画自賛」より(大正8年(1919))
※出典:「竹久夢二 恋の言葉」(石川桂子著)
■夢二情報■
●「猫の郵便局というお店」
先日神楽坂へ行った際、「猫の郵便局というお店」を偶然通りかかりました。手紙文化振興にまい進していた10年ほど前、噂を聞いて訪れたことのある店ですが、なんと店主はしっかりその時のことを覚えていてくれました。若い女性が大勢来ていてなかなかの人気と思いきや、彼女らは中国向けの通販をする“業者”(留学生等ですが)だそうで、最近は常連客になっているとか。ここで古切手を買っていってネット販売しているのだそうです。なかなか賢い。中国では使用済切手が若い人に売れているのでしょうか。彼女らは日本語はたどたどしく、コミュニケーションにはちょっと苦労しているようですが、それでもしっかり古切手等の山の前に陣取って“買付け”にいそしんでいました。
ところで、筆者も何かないかと探していると、出てきました。なつかしい大野隆司さんの宮城の絵葉書に交じって夢二画のはがき。聞けば10年ほど前に店主が夢二画を10枚ほど選んで印刷して販売したものとか。「僕も歩けば夢二に当たる」はここでも証明されました。(^^♪
いま、竹久夢二美術館で夢二式と華宵好みの着物が展示されています。さらに女学生やカフェーの女給も加わり、大正時代が立体化して迫ります。特別にここは撮影可能。ぜひ大正時代の女性を実感してみてください。
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