■メッセージ■
横浜の山下公園に博物館として公開されている氷川丸は、1930 年にシアトル航路用に建造した貨客船。 1960年に引退するまで太平洋を254回横断しました。これは夢二がアメリカに行った1931年の1年前にできた船。当時最新鋭の貨客船だったので、夢二の乗った船とは格段の差があったでしょうが、それでも、船内を巡り歩くと、当時の船旅の雰囲気を味わうことが出来ました。
▼氷川丸
▼船内はまさに1930年当時の雰囲気いっぱい。
■タイワンショット■
●台湾新幹線
近年、NHKのドラマで放映された「路」(吉田修一原作)で一躍脚光を浴びた台湾新幹線。
台北市・南港駅から高雄市・左営駅までの345kmを最高速度300km/h、ノンストップ便では所要時間約1時間30分で結ぶ台湾高速鉄道(たいわんこうそくてつどう、中国語:台灣高速鐵路、英語: Taiwan High Speed Rail, THSR)です。
当初の開業は2007年1月5日、板橋 - 左営間で行われました。当初の開業予定は2005年10月でしたが、欧州理事の介入、韓国ゼネコン(現代建設)の手抜き工事の露見、
日欧混合としたシステムの混乱などが工期の遅れや相次ぐトラブルにより、2006年10月31日に延期されたという経緯があります。その後も最終審査の遅れや安全上の理由で急遽2007年1月へ再三に渡り延期されるという“生みの苦しみ”を経験しました。
台湾高速鉄道は、日本の新幹線技術の初の海外への輸出案件ということで、三菱重工業、東芝、川崎重工業、三井物産、三菱商事、丸紅、住友商事の日本連合7社により、台湾新幹線株式会社が設立されるという大プロジェクトが組まれ、台湾新幹線株式会社には、一般社団法人海外鉄道技術協力協会を通じて、JR東海、JR西日本、日本鉄道建設公団(現 鉄道建設・運輸施設整備支援機構)のスタッフが技術支援を行いました。鉄道車輌も日本の新幹線技術(JR東海・JR西日本共同)を投入したことにより、車両が東海道・山陽新幹線の700系改良型の700T型である点など日本人に親しみのある形となっています。
決められた開業予定にあわせるため土木構造物などを先行して着手しましたが、当初は欧州システムを基準に進められていたことから、分岐器はドイツ製、列車無線はフランス製、車輌などは日本製という、日欧混在システムの前代未聞の新幹線が台湾で誕生することになりました。
“生みの苦しみ”の概要は、ドラマや原作本でも紹介されていますが、実際に乗ってると、なんだか親近感があります。ベースとなった日本の新幹線の雰囲気が日台友好を表しているような感じがしました。
Wikipediaを参考に少し長めにご紹介しましたが、日本生れの“台湾新幹線“(「高鐵」)。コロナが明けたらぜひ体感したいところですね。
▼台湾新幹線
■週刊エッセイ■
「夢二と台湾との出会い」その18
“夢二、台湾へ(9)”
さて、いよいよ夢二が台湾で書いた唯一のエッセイ「臺灣の印象ーグロな女学生服」の登場です。これは昭和8年(1933)11月11日付で書いたものが同月14日に「台湾日日新報」に掲載されたものです。夢二が台湾を去るにあたり、何を考え、何を訴えようとしたのかを考えることは非常に興味深いことです。これが2年以上にわたる米欧の旅の経験、あるいはそれ以前の夢二の歩いてきた人生のすべてにつながるようなものがあるのではないでしょうか。
このエッセイを読むに先立ち、夢二がこれを記載した日に起こったことと、夢二が思ったことを簡単にご紹介しますので、それからエッセイをお読みください。
昭和8年(1933)11月11日、夢二は予定通りホテルを出て、1925年式のシボレーに乗って基隆港に向かいます。台北から基隆まで行くには山越えをすることになりますが、時速40マイル(64キロ)を出して頑張っていたこの自動車が山中でエンコしてしまいます。乗るべき「扶桑丸」の出航まで8分もありません。同乗者が「丘の上に行くと煙くらい見えるよ」と言うので、夢二はあわてて小高い丘の上に登り、台北の方を見たり扶桑丸が煙を上げて出港する姿を見送ったりしました。
ここで夢二は山の形や岬の方を見ないように心がけています。なぜなら、基隆港は重要な要塞港で、絵描きである彼は制服を着た人間(警官や軍隊)を恐れたからです。
ここで夢二は考えます。「私は何しに台北へ来たか。私は台北で何を見たか、私は台北においてなんであったか、或は無かったか。」といった肝心な問題について次の船が出航する日まで考える時間ができたからです。
夢二が台湾について知っていたのは、「台湾には生蛮人と制服を着た日本人が居る」ということでした。そのほかに誰がいるのか別に知る必要もなかったので気にしていなかったのです。実は「本島人」という存在があることに気づいていなかったのです。多くの日本人は、台湾領有開始以来、いつの間にか、本島人の存在を忘れてしまっているのではないか、ということに夢二は疑問を持ちました。
そうなってきた理由は定かではありませんが、まるで「本島人」が急に山の中からでも出てきたように言う人がいる。そして、よく見ると「本島人」同様、制服を着た人間も随分いることに夢二は驚かされます。明治31年(1898)から8年間民生長官をした後藤新平が主張した「統治は生物学の法則に従う」、つまり、「人々の慣習を重んずる」という「台湾の慣習を重んじる」という考え方が、その後成功しているのかどうかはまだ何とも言えないと思いました。
そして、「本島人」は、台湾が日本領になったために日本語を相当勉強しなければならないことは理解できても、日本人も「本島人」の住宅と衣服(現地の生活方法)について学ぶことがあるのではないかと考えました。台湾で生活するのに台湾の風土に合わせる必要があるのではないか、というわけです。そして、「およそおかしきものは台湾に於ける女の学生の制服」とします。「ああいふ帽子はーさうだあらゆるグロテスクな俗悪醜悪な形容詞をつめこんでもまだ一杯にならないであらう。」と手厳しく女学生の制服を嫌悪する表現をしています。これが比喩であることは想像がつきますね。新聞には検閲があるからです。
最後に、鉄道の立て札についての異論を述べ、「優秀な人種だと考へることのできる人種だけが優秀なのである。」と締めます。さらに、「私はまた少し眠くなった。」という不思議な終わり方をしているのが印象的です。
以上、このエッセイの要約をやや細かめに書きましたが、これがどのような夢二の「台湾の印象」であったのかということについての考察は、次回に送ることにします。
それでは、新聞掲載された記事をご覧ください。(つづく)
(新聞掲載されたエッセイ「臺灣の印象ーグロな女学生服」)
「二十五年シボレイは呼吸をきらし切らし四十哩を出したが、基隆の裏山まできてへたばって終わった。四時八分前!わが乗るべき扶桑丸はもう八分を待たずして出帆するのである。吾々の自動車は「もうどうにも走れない」といふのである。丘の上までゆけば扶桑丸の煙が見えるであらうといふ。
私は、この小高き丘の上で、友人に挨拶する間もなく倉皇と立ってまた台北の方を望み、また遺憾なる煙を上げてゆく扶桑丸を眺めやる。しかし私は山の形や岬の方は見ない事にする。そこはやかましい要塞地帯で、私が絵かきだから、制服を着た人間に心配掛けないためである。
(編者注:倉皇と:あわてふためいて、制服を着た人間:警察官、軍人)
私はこの丘の上で思ふ。何故なれば、次の船の出る日まで充分思ふ間があるからである。私は何しに台北へ来たか。私は台北で何を見たか、私は台北においてなんであったか、或は無かったか。かういふ主要な問題をやっと考へる時間を持った。
「台湾には生蛮人と制服を着た日本人が居る」さういふのが私の台湾に対する人文地理学であった。その他に何があるのか、私は知る必要もなかったから、考へても見なかった。つまりこちらでいふ本島人がゐることに気がつかなかったのだ。しかしこれは笑へない。多くの日本人はいつの間にか、本島人の居ない台湾を知るに過ぎなかったのではないか。
(本島人…清朝時代の中国渡来の人。漢人)
その寄ってくるところはその政策のためか、感情か、私は知らない。急に本島人が山の中からでも出てきた見たいに言ふ人があるが、なるほど、来てみると本島人も居るが、制服を着た人間もずいぶん居るのには驚いた。
後藤新平の予言が果たして卓見になるかどうか、次の船までに解るものではない。
(注:卓見…優れた意見)
本島人はせっせと日本語を勉強せねばならないだらうが、日本人もまた本島人の住宅と衣服に就いて学ぶべきものがあると思ふ。ことに台湾に生活するときに於いて。つまり台湾の風土に適応するために、およそおかしきものは台湾に於ける女の学生の制服である。ああいふ帽子はーさうだあらゆるグロテスクな俗悪醜悪な形容詞をつめこんでもまだ一杯にならないであらう。
「汽車に注意すべし」といふ立札の(に)を(も)書き換えて「汽車も注意すべし」とあった。この浅いおかしみが、この無邪気な作者に理解されてゐたのではない。
* * *
優秀な人種だと考へることのできる人種だけが優秀なのである。私はまた少し眠くなった。(八年十一月十一日)」
■夢二の世界■
PART 3 「KAWAIIの世界」(「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より)
25 飾り枠
桜草・鈴蘭・サフランなど身近な植物をモチーフにして、夢二はその花びら、茎、葉などにみる曲線の形状を活かしながら、アール・ヌーヴォー調の飾り枠をデザインしました。夢二が得意としたのは植物図案を画面の左右に飾り枠として配するスタイルでした。
この飾り枠は、とくに詩や挿絵を装飾する際によく描かれ、画面に彩を添えました。少女や子供を対象にした雑誌や書籍で効果的に用いられることが多く、やわらかな印象の夢二による飾り枠は、年少の読者にも広く親しまれていました。
■夢二の言葉■
●可愛い子だと初めは思い 好きな娘と或る時思い 今はなかなか憎らしい
(『日記』(大正9年5月25日))
●多くの女を 弄ぶものは つひに一人の 女をも心をも 知らず。
(自筆の書より)
※出典:「竹久夢二 恋の言葉」(石川桂子著)
■夢二情報■
●夢二研究会、会合300回を突破!
2022年5月14日、夢二研究会は300回を迎えました。1995年9月1日(夢二の命日・夢二忌)に発足した夢二研究会は、夢二と親交のあった故望月百合子氏の呼びかけで、故笠井千代氏(笠井彦乃の妹)、「ギャラリーゆめじ」の前オーナ藤原利親氏が発起人となって発足。これまで27年間に渡って活動を続けてきました。
望月百合子氏は、友人だった夢二が、ゴシップ記事の影響で女性遍歴を重ねた美人画家とだけしか伝わらないことを残念に思い、正しい夢二を伝えたいとの思いでこの会の発足を呼びかけました。その思いに賛同し、夢二の著作の輪読等を重ね、2019年には夢二が1933年に訪れた台湾を訪問視察、翌年には夢二最愛の女性笠井彦乃の没後100年記念シンポジウムを開催する等の活動を展開。また、初の海外会員・王文萱さんは、2021年に台湾初の夢二解説書を出版。今年にかけて北投文物館で夢二展を
開催するなど、夢二研究のグローバル化を目指しています。
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