■メッセージ■

大正4年(1915)の今日(522日)は、その前年末に日本橋呉服町に夢二が開店した「港屋絵草紙店」で出逢った夢二と彦乃が結ばれた日です。二人は彦乃の父親の反対にあい、駆け落ち同然に京都へ行き、金沢で至福の3週間をすごしましたが、彦乃が結核を発症し、239か月という短い人生を終えました。12歳も年が離れていることなどから当初身を引こうとしていた夢二にとって、この日は忘れられない日であったと思います。

ところで、この日は東京スカイツリーの開業日でもあります。そして、東京スカイツリータウンで開館した郵政博物館のこけら落としが「蕗谷虹児」展だったことから、館長であった私は、虹児が夢二に紹介されて抒情画家になったと知りました。こうして夢二のことを勉強し始め、いまこの原稿を書いているほど溺れてしまった、というのは、やはり単なる偶然でもなさそうな気がします。不思議な縁ですね。

▼笠井彦乃(没後100年記念シンポジウムポスター)【彦乃100】「笠井彦乃講演会」広告(延期決定版)200801
▼郵政博物館の開館を知らせる車内広告(2014年3月)
IMG_3570 (2)



■タイワンショット■

●猴猫村(ホウトン猫村)

今回は、台北から鉄道で1時間弱で行くことができる、猫が放し飼い状態になっている猫村(ホウトン猫村)をご紹介します。

夢二はさすがに行かなかったでしょうが、猫好きで猫の絵もたくさん描いている夢二ですから、行っていたらよろこんだでしょうね。この一帯は元々は炭鉱で、炭鉱の坑道の木製の梁や柱を食い荒らすネズミを駆除するために猫を飼っていたようです。もともと野良猫が生息していたこともあり、100匹以上の猫が生息するようになったとのことです。

この村が今のようになったのは、20091031日に始まった猫愛好家有志による「猫との共生で猴は最も美しい」をスローガンとする活動の結果だそうです。2013年にはCNNが「猫が観光名所を凌駕する5つの場所(5 places where cats outshine tourist attractions)」のひとつとして紹介しました。

そんなこともあって、観光客は年間で推定100万人に上るそうですが(コロナ発生前)、猫を捨てに来る人が後を絶たないとか、観光客が猫に触れたり餌を与えたりしないようにするなど、いろいろ手間もかかっているようです。私は2018年に基隆に行った帰りに強引に立ち寄ってみました。その当時の猫村の旅をどうぞ。

猫づくしの駅。
DSCN6374 (2)
DSCN5962 (2)

DSCN5952 (2)
▼駅の跨線橋にはなぜか日本の丸型ポストが!

DSCN6175 (2)

▼あちこちで気ままにくつろぐ猫。のぞき込んでもびくともしない。
DSCN6039 (2)
DSCN6043 (2)
▼にぎやかラッピングの電車どんどんやってくる。

DSCN6093 (2)
DSCN6126 (2)

 

■週刊エッセイ■

「夢二と台湾との出会い」その19

“夢二、台湾へ(10)”

それでは、夢二が台湾で書いた唯一のエッセイ「臺灣の印象ーグロな女学生服」のバックグラウンドとともにみていきましょう。

これは昭和8年(19331111日付で書いたものが同月14日に「台湾日日新報」に掲載されたものです。夢二が台湾を去るにあたり、何を考え、何を訴えたのか。まずは新聞掲載されたものの前半部分を紹介します。

「二十五年シボレイは呼吸をきらし切らし四十哩を出したが、基隆の裏山まできてへたばって終わった。四時八分前!わが乗るべき扶桑丸はもう八分を待たずして出帆するのである。吾々の自動車は「もうどうにも走れない」といふのである。丘の上までゆけば扶桑丸の煙が見えるであらうといふ。

私は、この小高き丘の上で、友人に挨拶する間もなく倉皇と立ってまた台北の方を望み、また遺憾なる煙を上げてゆく扶桑丸を眺めやる。しかし私は山の形や岬の方は見ない事にする。そこはやかましい要塞地帯で、私が絵かきだから、制服を着た人間に心配掛けないためである。

私はこの丘の上で思ふ。何故なれば、次の船の出る日まで充分思ふ間があるからである。私は何しに台北へ来たか。私は台北で何を見たか、私は台北においてなんであったか、或は無かったか。かういふ主要な問題をやっと考へる時間を持った。」

(編者注:倉皇と:あわてふためいて、制服を着た人間:警察官、軍人)

これがエッセイの前半です。記載日が「昭和8年(19331111日」(後半部分にあります)となっていますから、基隆港に着いた1026日から16日間が経っています。その間、到着日に恩師藤島武二とホテルで出逢い、112日に「東方文化協会台湾支部発会式」に出席。113日から5日まで展覧会が警察会館で開催されましたが、その初日夜、「東方文化協会台湾支部設立記念講演会」で「東西男女雑感」という講演をしました。展覧会ではどうもあまり売れ行きはよくなかったようだったと後日藤島武二が語っていますが、台湾展覧会と時期が一緒になったということもあって多分そのとおりでしょう。この点では、夢二の訪台の思惑は外れたことになります。

展覧会の終わった翌日の116日から帰国予定日前日の10日までの5日間は記録がないため、行動不明となっています。そもそも夢二日記は、ドイツ・ベルリンにいた6月以降、書かれていないのか紛失したのかわかりませんが、現在のところ存在が確認できません。

訪台時の夢二の体調についての記載を夢二日記に辿ってみると、同年2月からベルリンで美術学校「イッテン・シューレ」で日本画を教え始めていた夢二は、3月には体調がやや復調したものの、「せきやまず、煙草うまからず、食事進まず。かゝる時、うるかに茶漬とか、白粥に梅ぼしなどいう日本を、なつかしくおもう」と郷愁の念に駆られています。また、「青い麦のうえをわたる風は、いつも南から吹いた。『あなたの恋の季節が来ましたのね』とお葉は顔を見ながら言ったものだ。/青麦の青きをわけてはるばると逢いに来し子とおもえば哀しも しのは遠い山。」と『伯林客中記 望春』の中で昔の女性を思い出しています。2年あまりの放浪生活にも近かった海外の旅での疲労と病にさいなまれている様子がうかがわれます。

そして、3月下旬になると、「ウクライナのボルシュ(ボルシチのこと)をのみにいったがニマルク八十片とられる。猶太人の橄欖(かんらん)の葉を入れたボルシュもう食へない。――追われて店をしめていったのであろう。避雷針のついた――何を仕出かすか、日本といい、心がかりである。」と書かれ、ナチスの台頭に関する記述が現れます。こうして6月、イッテン・シューレはナチスの襲撃を受け、廃校となる運命をたどることになったのでした。

ところで、エッセイの冒頭部分にある夢二の乗っていた「25年型シボレー」は、大衆車ではあるものの、1925年に発売されたスペリア シリーズKK型)と思われますが、ワイパー付きのフロントウィンドウや、跳ね上げ式のステアリングホイールが採用されるなど、デラックスな印象を与えるモデルだったようです。敢えて「25年型」と書いたのはそれなりに意味があるのではないかと思われますが、これは東方文化協会の力、特に夢二を台湾に誘った会長の河瀬蘇北の力を表しているのかもしれません。宿泊場所が当時超一流の「台北鐡道ホテル」、展覧会の開催場所が「警察会館」という“上流の場所”であったのと一致するように見えます。

しかし、その高級車もさすがに“8年物”となり、夢二の訪台と同年に1933年型が登場しています。自動車開発活動の激しい時だったらしく、実は、1933年にトヨタが33年型シボレー乗用車を分解して部品をスケッチしてエンジン試作用図面をつくったとのこと。日本の自動車生産の黎明期だったのです。

そして、丘の上に立った夢二の行動について見てみると、基隆港が「やかましい要塞地帯」であることがわかってたため、怪しまれないように「制服を着た人間に心配掛けないため」にようにしたと思われますが、確かに基隆港は昔から要塞として機能していました。

基隆に砦を最初に築いたのは、17世紀に台湾島を占領していたスペインやオランダだとされています。光華古砲台や荷蘭城(オランダ城)などと呼ばれていたようで、清朝時代末期の清仏戦争時(1883-1885年)には沿岸砲を設置するための砲台として使われ始めました。その後、明治28年(1895)から大日本帝国が領有するようになると、基隆が澎湖島、高雄とともに台湾防衛上の要地であり、艦船修理、軍需品の補給や南進の基地としても重要であるとの理由で要塞が築造されることになりました。明治33年(1900)に外木山砲台が着工され、3年後には基隆要塞司令部が設置。その後軍備は整備され、夢二が行った頃には確かに“やかましい”のがよくわかる状態だったと思われます。ベルリンにいたころに夢二が書いた「避雷針のついた――何を仕出かすか、日本といい、心がかりである。」が、基隆でも確認されてしまいました。夢二が帰国する前年には五・一五事件もあり、きな臭い雰囲気を十分感じていた夢二だったようです。

そして夢二は考えます。「私は何しに台北へ来たか。私は台北で何を見たか、私は台北においてなんであったか、或は無かったか。」

それまでに台北に対して何の関心も持っていなかったような書き方です。

実は、このエッセイが1111日付で書かれており、基隆港で船に乗り遅れたのも同日。ということは、車の修理が出来たのか、それとも台北行きの車に便乗させてもらったのかわかりませんが、市内に戻ってその日のうちにエッセイを書き上げたということになります。夢二が台北に来たことについて落ち着いて考え、気づいたことを語る後半部分は、次回ご紹介します。(つづく)

▼当時の基隆港
DSCN0196 (2)
DSCN0183 (2)
25年型シボレー
シボレー25年式

33年型シボレー(ワイパーがついてる!)
33年型シボレー

▼基隆の砲台跡
白米甕砲台遠景

 

■夢二の世界■

PART 3 KAWAIIの世界」(「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より)

26 カット

カットは、印刷物に組み入れる小さな挿絵を意味しますが、とくに本文の内容とは関係のないイラストである場合が多数です。

余白を埋めて装飾を目的としながら、読者の眼を楽しませるこの小さなイラスト部分に、夢二は人物、動植物、幅広いモチーフで筆をとりました。夢二の作画は、モチーフを写実的にとらえたうえでシンプルに描写していることが特徴で、親しみやすく遊び心も感じられます。

とくにカットが多く掲載された雑誌『新少女』と『若草』より、その一部を紹介します。

▼「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より
本「かわいい手帖」カット (2)

 

 

■夢二の言葉■

●愛すべきものに執着してはいけない。 愛してゐないものについても同じ、 何故ならば愛するものを見ねば悩み、 愛してゐないものを見れば又悩む。

(『日記』(昭和666日))

●恋愛は「女性崇拝」に始り、 「女性崇拝」に終る。

(『恋愛秘話』大正13年)

※出典:「竹久夢二 恋の言葉」(石川桂子著)

 

■夢二情報■

●「夢二式美人のひみつ」(竹久夢二美術館HPより)

「夢二式」や「夢二式美人」の言葉は、竹久夢二の作品に見られる個性的な表現から生まれ、今では辞書にも載るものとなりました。しかし、人気画家として活躍する以前の明治40年、初めて「夢二式」の語が使われた記録では「旅行中の竹久氏大きな信玄袋(夢二式の妙な形)に材料を満載して帰社す」(1907<明治40>528日『読売新聞』編輯日誌より)と独創的で見慣れないものを意味し、作品や美人を表す言葉ではありませんでした。

後に夢二が名声を得るにつれ「夢二式」の意味も転じたと考えられますが、本展では夢二式美人の成り立ちを追いかけるとともに、大衆の心を掴んだ独特の表現に注目し、生涯を通して女性の美を探した夢二の理想に迫ります。同館コレクションから選りすぐりの「夢二好み」の美人たちをご鑑賞ください。

・開催期間 2022(令和4)年64日(土)~925日(日)

・開館時間 午前1000分~午後5時(入館は430分まで)

202206夢二美「夢二式美人のひみつ」