■メッセージ■

横浜に行ったら昼食時。近くのレストランはどこもいっぱいで、山下公園のベンチにすわってパンを食べていたら、飛鳥Ⅱが目の前をゆっくり横切って出航していきました。停泊しているときよりずっと優雅に見えたのは気のせいでしょうか。40数年前に「青年の船」で東京・クウェイトを往復し、2か月にわたる船旅を経験しましたが、何日も海しか見えない生活に時間が止まったような気がしたものでした。思えば貴重な経験をしたものです。

ちなみに飛鳥Ⅱは50,000トンで乗客定員872名。私の乗った「にっぽん丸」(旧型))は10,000トンで400人近く乗っていましたからずいぶんの差です。係留されている氷川丸は11, 000トン、1912年の処女航海で沈んだタイタニックは46,000トンの巨大船でした。飛鳥Ⅱとタイタニックが似たような大きさだというのも意外でした。

▼出港する飛鳥Ⅱ
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▼青年の船で乗った「にっぽん丸」(旧型)img724

▼博物館となっている「氷川丸」

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▼タイタニックの資料(氷川丸船内で複製を公開)

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■タイワンショット■

●猴猫村(ホウトン猫村)(その2)

前回、猫が放し飼い状態になっている猫村(ホウトン猫村)をご紹介しましたが、駅の反対側の出口に行くと様相が一変します。実は、日本統治時代、この村は炭鉱業で栄えていて、その頃の展示室・廃墟跡・炭坑跡などが残されているのです。ビジターセンターがあり、炭坑の歴史をジオラマで確認した後炭鉱の遺構の方へ向かいました。

炭坑で採掘された石炭の仕分け作業などを行っていたらしい廃屋となった建物は、怖ろしいほど切り立った渓谷の崖の上にあって、そこから対岸まで橋が架かっています。これが、炭坑から運ばれる石炭を運ぶためにつくられた「瑞三運媒橋」です。

建物の前で昇るべきかどうか躊躇していると、一人旅らしき女性が建物の階段をすたすたと登って行きました。ちょっと安心して、私も登って行ったのですが、橋のたもとに出たとたん凍りついてしまいました。橋の上を対岸まで線路がつづいているのですが、吊り橋なので崖が視界に入ってきます。件の女性は慣れているのか、すたすたと対岸の方に歩いて行ってしまいました。

高所恐怖症の私は、建物の出口から一歩も進めなくなりました。橋を渡り切ると「ホウトン坑」というトロッコ列車専用のトンネルと停車場があるらしいのですが、夕暮れも近づいてきていて恐怖感は最高潮に達し、ホウホウのていで階段を降り、駅に戻りました。

駅に戻る途中、箱がいくつも置いてあるのが目に入りました。猫のアパートのようなものなのでしょうか。これでほっとした私は、ようやく気持ちが落ち着きました。

中途半端な旅日記のようになってしまいましたが、当時はこのような熾烈な環境の中に石炭生産設備を作って生産していたという事実を身をもって知ることができました。夢二が訪台した時も稼働していました。炭鉱やこの作業場で働いていた人たちは随分苦しい時を過ごしていたのだろうと思いつつ、驚くほど正確な時刻に到着した台北行きの列車に身を委ねました。

▼猴駅前の風景

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▼渓谷に係る鉄橋
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▼資料館の全景模型
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▼勇気ある?女性に続いて登ってはみたが。。。
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▼猫のアパート。住人はまだ外出中。外の方がいいらしいが結構危ない所で寝ていた。

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■週刊エッセイ■

「夢二と台湾との出会い」その19

“夢二、台湾へ(10)”

夢二が台湾で書いた唯一のエッセイ「臺灣の印象ーグロな女学生服」の後半部分に入ります。まずは原文からご紹介します。

「台湾には生蛮人と制服を着た日本人が居る」さういふのが私の台湾に対する人文地理学であった。その他に何があるのか、私は知る必要もなかったから、考へても見なかった。つまりこちらでいふ本島人がゐることに気がつかなかったのだ。しかしこれは笑へない。多くの日本人はいつの間にか、本島人の居ない台湾を知るに過ぎなかったのではないか。

(本島人…清朝時代の中国渡来の人。漢人)

その寄ってくるところはその政策のためか、感情か、私は知らない。急に本島人が山の中からでも出てきた見たいに言ふ人があるが、なるほど、来てみると本島人も居るが、制服を着た人間もずいぶん居るのには驚いた。

後藤新平の予言が果たして卓見になるかどうか、次の船までに解るものではない。

(注:卓見…優れた意見)

本島人はせっせと日本語を勉強せねばならないだらうが、日本人もまた本島人の住宅と衣服に就いて学ぶべきものがあると思ふ。ことに台湾に生活するときに於いて。つまり台湾の風土に適応するために、およそおかしきものは台湾に於ける女の学生の制服である。ああいふ帽子はーさうだあらゆるグロテスクな俗悪醜悪な形容詞をつめこんでもまだ一杯にならないであらう。

 「汽車に注意すべし」といふ立札の(に)を(も)書き換えて「汽車も注意すべし」とあった。この浅いおかしみが、この無邪気な作者に理解されてゐたのではない。

*     *     *

 優秀な人種だと考へることのできる人種だけが優秀なのである。私はまた少し眠くなった。

(八年十一月十一日)

 

基隆港へ行く山中で車がエンコしてしまい、夢二は丘の上から出ていく船を見送る羽目になってしまいました。台北と基隆の間には大きな山があり、当時は山越えする必要がありました。夢二は自動車で往復したようですが、実は、台北と基隆間には鉄道も敷設されていました。台湾の鉄道について見てみると、日本統治前に活躍した清朝の劉銘傳という人物に行き当たります。

劉銘傳は、中国、清朝の軍人、官僚。1854年ごろから、太平天国軍に対する地主層の自衛武装集団である団練(だんれん)で頭角を現し、1961年末に功績を挙げて勇将として名をあげました。その後、清仏戦争の際は「巡撫(じゅんぶ)」(清代には総督と同等の資格をもち、皇帝に直属)として台湾防衛に従事。フランス軍の侵略に激しく抵抗し、1985年の台湾省新設と同時に台湾巡撫となりました。日ごろから鉄道の国防的意義を重視した劉は基隆・新竹間に鉄道を敷設したほか、軍備増強、鉱山開発、租税制度の整備など、一連の洋務事業をおこし、台湾の防衛と産業の発展に大きく貢献しました。特に鉄道については、早くも1887 年から工事に着手しています。日本が台湾領有を決める 8 年も前のことでした。

劉銘傳の唱えた鉄道敷設の利点は次のとおりで、国防の観点から非常に優れたものとなっていました。

1 台湾島の南北にある基隆と安平は防備は整っているが、それ以外は全くの無防備なため、鉄道により軍隊の移動が容易になる。

2 中央に台湾省の省城を造るために、資材運搬に便利である。(台湾省の首府を台中にする案)

3 台湾は河川が多く、季節による流水量の変化が大きいため、これを渡る不便を解消できる。

この実利的な案は採用され、1887 年大稲埕に「全台鉄路商務総局」が創設。ドイツ人技師ベッケルを招聘しました。これは、清朝で理不尽な振舞いを繰り返すイギリスを嫌い、清仏戦争でフランスに苦汁をなめさせられた結果というのも時代を象徴していると思われます。

また、この時に走った蒸気機関車が国立台湾博物館前に展示されているというのも興味深いことです。ここには2両の機関車があり、「騰雲(とううん)」号と 「第九号機関車」と呼ばれています。騰雲号は 1887 年、劉銘傳が鉄道建設に着手した際、ドイツのデュッセルドルフに本社のあるホーヘンツォレルン社から輸入したもの。基隆・台北間が開通した当年から使用されており、1895 年に日本軍が接収した後は「第 1 号機関車」と呼ばれていました。「騰雲」の命名は劉銘傳によるもの。また、隣にある「第九号機関車」は明治5年に日本を最初に走った蒸気機関車。いずれも国の鉄道の歴史を開いた蒸気機関車なのです。

こうして、台北・基隆・新竹間の台湾初の鉄道が 1893 10 30 日に開業したのです。開業時、劉銘傳はすでに台湾巡撫の地位を離れており、新竹開業時には世を去っていました。そして、劉銘傳が描いた理想は日本人に受け継がれていく格好となり、基隆・高雄を結ぶ縦貫鉄道は、劉銘傳の路線に修正を加えながら明治41年(1908)年に完成し、鉄道はその後の台湾の発展に大きく寄与していきました。(以上、片倉佳史「片倉佳史の台湾歴史紀行 第十九回」を参考に編集)

夢二が台湾を訪れた時は、帰路に自動車を使用しているところをみると、おそらく夢二を誘った河瀬蘇北の力で往復自動車を手配し、鉄道を使わなかったと思われます。しかし、エッセイの後半に「汽車に注意すべし」と書かれた立札について記していることから、夢二も走る蒸気機関車を目にした可能性が全くないとは言えないでしょう。

以上、夢二が乗らなかった台湾の鉄道についてみてきましたが、エッセイの内容に戻ります。

「台湾には生蛮人と制服を着た日本人が居る」と夢二は思っていたようですが、「生蛮人」というのは先住民族の蔑称。「蕃人」(当時先住民族はこう呼ばれた)のこと。統治開始当初、日本の植民地政策に大きく抵抗したことから当時の日本人はそう呼んでいたようです。人口増加、不況等の影響で台湾への移住は多く、日本人中心の社会を作るためにこのような言い方をしており、台湾に行く予定もなかった夢二は教えられたことをそのまま鵜呑みにしていたのでしょう。しかし、二は日本人と厳重民族のほかに「本島人」がいることに気づいてしまいました。「本島人」とは、清朝時代に中国大陸の福建省や広東省から台湾に移住していた中国人のこと。日本人は台湾の漢族系住民をこのように呼んでいました。当時、「内地人」(当時日本人をこう呼んだ)を頂点とし、次いで「本島人」、「蕃人」という順で階層秩序を作っていたのです。この差別的な階級社会において、「本島人」という呼称は、「大日本帝国」の「二等臣民」というステータスを象徴しているものでもありました。

「本島人」は早くから日本語教育を受け、様々なかたちで社会的に活動していました。したがって、当然夢二も当然世話になっていましたが、夢二が彼らを蕃人(夢二の言う「生蛮人」)と思っていたか、日本人と思っていたかはわかりませんが、少なくとも日本語を話す中国人が大量に身の回りにいるとには気づかなかったのかもしれません。台湾での本島人の人口比率は圧倒的に多く、台湾では領有初年から日本語教育を開始し、数年で台湾人の小学校教育を開始していることから、多くの知識人の養成にもつながりました。

夢二は「本島人」がいることについて、「しかしこれは笑へない。多くの日本人はいつの間にか、本島人の居ない台湾を知るに過ぎなかったのではないか。」と、台湾の現状を知っている本土の日本人(「内地人」)はいないのではないかと危惧を感じてます。台湾の実情を知らせないことが国の政策的なことなのかは別としても、実際にその事実があるということは笑い事ではないと断言しています。さらに、夢二は「制服を着た官憲」の多いことにも言及し、かつて地域に合った施政方針を打ち出した後藤新平民生長官の政策が本当にうまくいっているのかどうかと疑問を持ち始めています。

また、夢二が後藤新平に関心を持っていたということから、国立台湾博物館を訪れたのではないかという推測が成り立ちます。同館は、宿泊していた台北鐡道ホテルや展覧会の行われた警察会館から徒いて5分程のところにあり、後藤新平の立像が収蔵・展示されているからです。夢二の日記やスケッチがあればと悔しく思うばかりです。

「本島人はせっせと日本語を勉強せねばならないだらうが」と夢二は言います。李登輝前総統の履歴を見ると、公学校に入学した後、父の転勤に伴い6歳から12歳まで汐止公学校、南港公学校、三芝公学校、淡水公学校と4度の転校を繰り返し、淡水公学校卒業後は私立台北国民中学(現在の大同高級中学)に入学。1年後の昭和13年(1938)に淡江中学校へ転校し、ここを首席で卒業し、台北高等学校を経て京都帝国大学に進みました。(wikipediaより)
夢二の訪台した頃は李登輝前総統はまだ公学校の生徒でした。公学校とは、本島人の子弟に日本語を主とする普通教育を施した学校ですが、公学校の義務教育を実施してから昭和19年(1944)までの間に、台湾籍児童数は876,000人に達し、就学率は71.17%と、当時の先進国並みの水準となったとのことで、李登輝前総統が「難しいことは日本語で考える」と公言し、中華民国籍取得後も訪日時には日本語を使用していたということからも、夢二の周囲には日本語を流ちょうに話す本島人がかなりいたのではないかと推測されます。

このような環境の中で、夢二は、「日本人もまた本島人の住宅と衣服に就いて学ぶべきものがあると思ふ。ことに台湾に生活するときに於いて。つまり台湾の風土に適応するために、およそおかしきものは台湾に於ける女の学生の制服である。」と続けます。ここで「(各々の地方で地理的に風土なものの)手による産業」(「日本の同胞へ寄す」(1932年))につながると思われる言が登場します。「女の学生」はエッセイを夢二の書き物らしくするためのカモフラージュでしょう。確かに当時の日本人の女子は本土(内地)と同じ制服を着ており、台北が亜熱帯であること、南部は熱帯であることを考慮しているかどうかということになると、女学生の服も本土と同じ夏服でいいのか、冬服が必要なのかといろいろ気にはなってきますが、あくまでも夢二は「女学生」にポイントを置いているとは思えません。それは、その後続けた「ああいふ帽子はーさうだあらゆるグロテスクな俗悪醜悪な形容詞をつめこんでもまだ一杯にならないであらう。」の帽子への言及でわかります。ドイツで見たナチスの鉄兜のことなのか、そのへんははっきりしませんが、あらゆるグロテスクな俗悪醜悪な形容詞でも言い表せないほどひどいとなれば、これがまさか女学生の帽子の形容にしては度が外れているとしか思えません。また、帽子を被った女学生の当時の写真もほとんど見当たりません。やはりタイトルにあるとおり、夢二は「女学生」でなく「制服」にこだわっているのでしょう。当時の台湾で日本の制服組が幅を利かせている、というのは、警察会館で展覧会を開催し、官憲や役人に顔の利く河瀬蘇北によって好待遇を受けて台湾訪問をしたということで、より強い印象となったのではないでしょうか。

「汽車に注意すべし」といふ立札の(に)を(も)書き換えて「汽車も注意すべし」― おそらく夢二は実際にこのような標識を見たのでしょう。後藤新平の論じた平等性が本島人と日本人との間にも存在していない現状を夢二は垣間見たのかもしれません。台湾の高校が甲子園で活躍する映画「KANO 海の向こうの甲子園」でも、日本人が台湾チームを小馬鹿にするシーンがありましたが、夢二はこの立札のことを取り上げ、当時の事実に無頓着な日本人のお粗末なところを皮肉ったようです。「この浅いおかしみが、この無邪気な作者に理解されてゐたのではない。」と夢二はこの皮肉ないたずらが何気ないものであったことを理解しつつも、これが当時の日本にとって大きな問題であることを示唆していると思われます。

そして、「優秀な人種だと考へることのできる人種だけが優秀なのである。」

「自分を優秀だと思える人種だけが優秀だ」ということは、自己満足的な人種、即ち日本人を大いに皮肉った言葉としてとらえることができるような気がします。この言葉は時代を超えて今の私たちにも訴えかけるものがあるようです。

最後の「私はまた少し眠くなった。」は、エッセイの締めとしてはとても奇異なものですが、「眠くなった」という気持ちの中に、ドイツで見てきたナチスの台頭と同じような動きが日本にも出てきていることを台湾でも垣間見てしまったことによる憂鬱感が見られなくもありません。夢二のため息が聞こえてきそうです。

台湾では、夢二の直言の資料がこのエッセイしかないため、これを軸に夢二の見た台湾を追ってきましたが、やはり資料が非常に少ないため、夢二が洋行の後どのような気持ちの変化があったのかを正確に見ることが出来ず、推測の域を出なかったことを残念ですが、今後の研究のたたき台にでもなればと思っています。

本章では、資料の残っている夢二の行動、当時の台湾の社会状況などをご紹介してきましたが、これを訪台までの夢二の考えや行動と組み合わせて総合的に考察していくことが、今の時点での台湾での夢二を知ることができる唯一の方法であると考え、これからも勉強を続けていく所存です。

数多くの文献からの引用があり、心苦しい限りですが、ご了承願いたいと思います。

これで夢二の台湾の旅に関する章は終わりです。夢二得意の日記やスケッチが紛失したことで、推測部分が非常に多くありますが、当時の事情と夢二の体調などを考え合わせると、行動不明時の夢二の行動はあまり大きくなかったのではないかと思われます。病気でほとんどホテルで寝ていたか、東方文化協会の配慮で小旅行程度はしていたか、推測の幅は大きくなる一方です。本土に戻ってから1年弱の間、夢二は日記を始め書き物を残していますが、台湾のことは全く書かれていません。

竹久夢二訪台90周年記念プロジェクト「夢二と台湾2023」では、来年秋の完成を目指して動画「夢二 台湾客中」(仮題)の制作を本格始動しました。秋葉由美子氏の演出により、同氏が副社長を務める「合同会社きよみず」(鈴木愛子社長)の協力を得て、夢二が台湾に着いた日に藤島武二に誘われて行ったカフェ「美人座」を再訪した時の夢二の姿を描きます。ご期待ください。

次回は台湾から戻った夢二を追います。(つづく)

▼国立台湾博物館(ツアー「夢二の見た台湾」2019年)
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▼「騰雲号」(国立台湾博物館)
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▼後藤新平像(左)(国立台湾博物館)
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▼本島人の家族(1930年)
1930年ころの本島人一族
▼日本統治時代の女学生
【写真(女学生)日本統治時代】3 (2)

【写真(女学生)日本統治時代】4 (2)

■夢二の世界■

PART 3 KAWAIIの世界」(「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より)

27 レタリング

視覚的効果を考えてデザインした文字を“レタリング”といいますが、夢二は文字を図案化することにも才能を発揮しました。

書籍や雑誌、ポスターからの仕事等で、美的に画面を構成するために、夢二は自身でデザインした文字を活用しました。

ひらがな・カタカナ・漢字・アルファベットのつくりに応じ、画線の太さや色遣いにも工夫を施し、さまざま表情を文字にもたせながら、夢二は新鮮で個性あふれる書体を数多くデザインしました。

夢二のレタリングは、活字書体にはない手書きのあたたかみに加えて、遊び心が感じられて絵画的な趣に満ちています。

▼「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より
本「かわいい手帖」レタリング (2)

 

 

■夢二の言葉■

●女は信じさせようとする。 男は、それを信じようとする。それより外に平和に暮す道はない。  

昔の男は、欺されようとした。 今の男は、欺されまいとする。  

女は、恋愛に就いて笑ふ。猿のやうに。

(『恋愛秘話』(大正13年)

●二人の愛人

わたしに遠いあの人は カンバス台のうしろから だいじな時に笑ひかけ わたしの仕事の邪魔をする。

わたしに近いこの人は 靴下をあみお茶をいれ わたしの世話をやきながら わたしの仕事の邪魔をする

(『恋愛秘話』大正13年)

※出典:「竹久夢二 恋の言葉」(石川桂子著)

 

■夢二情報■

●島根県立石見美術館で夢二展

 島根県益田市の県立石見美術館で、夢二の幅広い仕事を紹介する企画展「竹久夢二と乙女たち あこがれの美人、ときめきのモダンライフ」がこの530日で終了します。

 企画展では、楽譜の表紙や詩集などといった夢二が手がけた多数の作品のほか、夢二に憧れた画家たちの作品など計約400点を展示。

川西由里・専門学芸員は「多彩な顔を持っていた夢二は『どのような作品を発信したら喜ばれるか』がわかっていた。夢二の視点が広かったことを知ってもらえたら」と話しています。(読売新聞より)

https://www.grandtoit.jp/museum/

2022年4月岩見美術館バナー