■メッセージ■
公園の静かな池は、いま、カイツブリの鳥の親子でにぎやかです。親鳥は交代で子どもたちの面倒を見ていますが、子どもたちは餌を欲しがったり親の背中に乗っかろうとしたりでいつも大変な騒ぎ。中には2羽が親鳥の上に乗ろうとして蹴られている甘えん坊もいます。親鳥は一定時間すると両親が交代します。ものすごいスピードで交代が行われるので、子どもたちはあまり淋しくはないようですが、親が餌を取りに急に潜ってしまうと、子どもたちは一瞬きょとんとして顔を見合わせています。また、だ羽が整っていない子どもたちがバンザイするようにパタパタやって飛ぼうとしているのも可愛らしくて、ずいぶん大分長いこと観ていました。長時間の集中撮影は後でどっと疲れが来ますが、精神的にはさわやかです。
■タイワンショット■
●九份(その1)
台北近郊の旅で必ず登場するのが九份。基隆や十分などと組み合わせて、台北からの半日や1日ツアーがたくさん組まれています。九份は、台湾北部の新北市瑞芳区にある山間の町。日本統治時代に金鉱山として台湾有数の栄華を極めましたが、後に主要鉱物だった金と石炭の生産量が減り続けたため1971年に閉山となっています。
「九份」という変わった地名の由来は「開墾地を9人で分けたもの」という説があり、清代には居住者が9世帯ほどしかないほどの寂れた土地でした。また地名については、物売りがやってくるといつも「9つ分」と頼んでいたからこの名がついたという説もあるそうです。
この地に金鉱が発見されたのは1893年。日本統治の始まる2年前です。当時、台湾を統治していた日本から藤田組がやってきて金鉱採掘に取り組み、空前のゴールドラッシュが始まりました。その後、採掘権を引き継いだ台湾の顔家など財を成した人々が数多く登場し、活況を呈します。ちなみに台湾に関する著作も多い一青妙さんや、歌手の一青窈さんは、この顔家の出身だそうです。
ゴールドラッシュでこの地で働く人の数は3万人~5万人にのぼったともいわれ、1917年には金の産出量が最高となりました。アジア第一の金鉱山となり、九份には食堂や映画館などさまざまな建物がひしめきあい、この地は「小香港」とも呼ばれるほどになったといいます。その当時の建物が現存していることから、今でもノスタルジックな雰囲気が味わえるのでしょう。
こんな輝かしい歴史を持つ九份。旅行者にとっては、「基山街(ジーシャンジエ)」と呼ばれるマーケットのそぞろ歩きが一番の見所です。ここは古くは「暗街仔」と呼ばれ、1900年代初頭に豎崎路との交差点付近に数軒の商店が集まってきたのが始まり。1910年代になると魚菜市場が営業を始め、ゴールドラッシュ時は大層にぎわいをみせましたが、第二次世界大戦後には採掘できる金の量も減少し、ついに1971年には閉山となってしまいました。
その後は一時3、4軒まで店舗数が減るほどのさびれようでしたが、これが現在のとおり復活したのは、1989年に制作された台湾映画「非常城市(a city of sadness)」のロケ地として使用されたこと。九份ブームが訪れ、今や台湾を代表する観光地として超有名になっています。
また、日本にとっては、スタジオジブリ公式ではないものの、映画「千と千尋の神隠し」のモデルとなった街なのではと話題になり、台湾観光に拍車がかかりました。今では、幅3メートルにも満たない狭い小路のアーケードに土産物店や食堂、カフェ、茶芸館などがずらりと軒を連ね、コロナ禍前の観光シーズンや休日には外国人観光客がどっと押し寄せ、タイミングが悪いと観光客の団体と鉢合わせになり、大渋滞に巻き込まれることもあるほどとなりました。ある意味映画に助けられた街ともいえます。
次回は、夢二が訪台した頃にできた九份にある映画館のお話です。もちろん夢二は行っていませんが。 (つづく)
■週刊エッセイ■
「夢二と台湾との出会い」その20
“夢二、台湾から戻る”
昭和8年(1933)11月17日、夢二は「靖国丸」で神戸港に戻り、東京へ向かいました。
ここからは、夢二の生涯の総括にもなるので、できるだけ夢二や夢二の関係者の言葉を中心に紹介していくことにします。夢二の気持が日記に如実に表れています。
少年山荘に戻った夢二はほとんど活動がなかったようですが、夢二の晩年を親身になって支えた望月百合子氏に関する笠井千代氏の「望月百合子さんと私」(GJKブックレット8)に、台湾から戻った後の夢二の様子が丁寧に記載されています。
「欧米から疲れ切って帰国して、すぐ又11月に台湾の旅に出た夢二さんは、1ヶ月ほどでげっそりと痩せて帰国します。重い病を得ているように見えました。年末、少年山荘でぽつんと一人暮らす夢二さんを見かねて、毎日のように共学社の野菜を持ってたずねることになった百合子さんは、経済的にも逼迫していた夢二さんを一度ならず助けています。百合子さんを娘のようにかわいがってくれた徳富蘆花の未亡人愛子さんに夢二さんの窮状を話すと、蘆花の小説『不如帰』の絵はがきを描いて貰おうかということになり、美しい三枚組の絵はがきの原画が出来上がって、ご主人の時雄さんとなさっていたフランス書房からだされました。」
こんな中、台湾で紛失したか盗まれた絵等の荷物についてのことでしょうか、帰国5日後の11月22日に夢二はこんな日記を書いています。
「何故日記など書く気になつたものか、自分の記憶に、かういふ心持は近頃ないことだ。(中略)台北で一つの収穫があった。錦水といふ琵琶師がここでまねぢあに一杯食わされて帰ったという話。あの商人でさへ騙されることがあるのをせめてなぐさめとしやう。ゆふべ隣の静山が来て、「北米では男泣きに泣きましたよ」と言ったのは山県に数百金ナメラレタらしい口ぶりである。その話をたつ前に聞いておきたかった!それにしても、どつちでも好いやうなものだ。」
これを見ると、ドイツにいた夏頃からに日記がないのですが、どうやら夢二は台湾で日記を書いていなかったように思われます。そして、再開した日記には、台北で荷物を紛失した後、錦水という琵琶師が台北でマネージャーに騙されて帰った話を聞いたことや、隣家の静山の海外での失敗談について書いています。洋行に発つ前に聞きたかったと悔しさはありますが、体調の悪さからか、もうどうでもいいという投げやりな気分になっているようです。そして、「やっと金四円の毛布を買ってこれで欲しいとおもってゐた寝床はすつかり用意されたわけだ、さ いつでも寒さよ来い、死よ来い。」(12月7日『夢二日記』)と居直りつつも、「ある小説の主人公のやうに冒険や経験をするために私は旅行をしない、どうかして かん素に生活し 自らを単純化して 過去を忘れる企てであった。むろん旅立つことは死をまたぐことであった。
*
通つてきた世界中のどこで逢つた人にも御無沙汰だ。ロスアンゼルスなどでは、やかましいだらう。はがきの一本位ひ礼をよこしてもよからうなんて。だが日本人街で一番信用のおけるといふMが、私のたつ前に帖面をかくして三百弗ほどちよろまかした。それをよく私が知つてゐることを、彼が知つてゐるのに、何と御礼の手紙だ!おかしくてかけるかてんだ。しかしそれをまじめで通してゆくところに人生があるのだ。」とだまされたことへの憤りはなかなか消えません。
12月18日には「昨夜は八度二分熱があったが、今朝はすこし好い。」と体調のすぐれない様子で、12月27日の日記になるといよいよ人生の総括的な話が出てきます。
「三十七才で死んだ方がよかったと一度位ひ思ったことがあるかも知れないが、今は死ぬ時期などは考へてゐない。一体三十八才といふのは彦乃の死んだ年で、仮名序は女は長生きしたくない二十五才で死ぬと言ってゐた通りに、二十五の春死んだ。それをきくと、ぼくも四十男にはなりたくない一所に死ぬよと言ひ言ひしたが、先生は仕事があると言って私をおき去りに死んでいった。生きてゐてよかったとおもったことが一度位ひあるか知らないが思出さない。まづその後の年月は愚かにも慌しい痴情の出入りで思出したくもない。なんとしたことかつぎつぎと女の顔が重なりあって おもたくのしかかってくるのに堪へない。
だがさういふこともいつか忘れてしまつて、おおよそ此頃はなんにも考へはしない。むかしのことを考へても一向に感じが出て来ない。
第一送つてくる詩歌の雑誌など見てまだ世間には恋愛のうたがあるのだなと思ふほどだ。
恋愛に限らず心をひくに足るものはなくなった、あれほど熱をもつて出発したかずかずの心組みがみんなくづれて 今はひとつさへ仕事に熱がない。と言つてある方が好いと思ふのではない。ただなくなつた、つまり熱のなくなり方があんまり烈しく くつきりしてゐることを感じる。ただもういくらでも眠ることが出来るのだ。」
昭和8年(1933)の年の瀬は、夢二にとってはまるで「人生の総括」となったようです。
こうして夢二は年を越すことになりますが、新年を迎えて夢二は再び望月百合子氏の世話になることになります。前出の「望月百合子さんと私」にはこうあります。
「年が明け翌昭和9年のお正月早々、看病する人も訪ねる人もなく一人っきりで病床にあった夢二さんを発見し、驚いて春草会の岡田道一さんに連絡をしたのも百合子さんでした。岡田さんは自分の手には負えないと友人の富士見高原療養所所長、正木不如丘さんに援助を求め、すぐに高原療養所に入院となりました。」
危ういところでした。(つづく)
※笠井千代氏は、夢二最愛の女性である笠井彦乃の妹に当たる方で、夢二研究会代表の坂原冨美代氏のお母様です。
■夢二の世界■
PART 3 「KAWAIIの世界」(「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より)
28 着物
夢二が活躍した大正時代、日本人女性の日常着は、和服である着物でした。
着物を愛した夢二のこだわりは絵筆で表され、女性を美しく彩りました。夢二は長着をはじめ、帯、半襟、羽織などにみる衣服としての魅力はもちろんですが、着こなしやしぐさに至るまで、着物姿の女性美を余すことなく表現しました。
明治~大正期には、夢二が描く着物をお手本にして、おしゃれを楽しむ女性たちも多く存在しました。「此頃の若い婦人の中には、髪の形、リボンの附け方、簪(かんざし)のさし工合、衣服の着こなし等、総てを、所謂夢二式――に夢二さんの画に現はれた女に、似せようと苦心してゐる方があるやうです」(中澤弘光「夢二の絵と現代の婦人」より『女子文壇』第7巻第12号 1911年[明治44]10月号)という記事も登場したほどで、またある時には夢二の絵を、百貨店の三越に持ち込み、絵と同じように羽織を染めてほしいと注文した女性もあったそうです。
当時は印刷技術の事情から、カラーで写真が雑誌に掲載されることは珍しく、またファッション情報も現代と比較すると、かなり少ない状況でしたので、夢二が描く女性絵は服装面でも注目の的となり、ファッションリーダー的な存在でもありました。
■夢二の言葉■
●まてどくらせどこぬひとを 宵待草のやるせなさ こよひは月もでぬそうな
(『どんたく』(大正2年)
●古風な恋
あなたを忘れる手だてといへば
あなたに逢つてゐる時ばかり
逢へばなんでない日のやうに
静かな気持で居られるものを
(『週刊朝日』大正15年9月19日号)
※出典:「竹久夢二 恋の言葉」(石川桂子著)
■夢二情報■
●江戸川乱歩館の焼け跡から岩田準一慕った少年が描いた絵画88点がみつかる。(毎日新聞 2022/6/2)
「2021年秋に火災に遭った鳥羽市鳥羽2の「江戸川乱歩館~鳥羽みなとまち文学館」の焼け跡から、88点にのぼるスケッチや人物画などの絵画が見つかった。画家の竹久夢二の弟子と評された風俗研究家の岩田準一(1900~45年)が、絵画の才能を高く評価した鳥羽市と伊賀市の2人の少年が描いた絵だった。2人は共に10代で亡くなっており、鳥羽市の少年の親族は「若くして亡くなったとは聞いていたが、そんな才能があったと初めて知った」と驚いている。」(毎日新聞より)
https://mainichi.jp/articles/20220602/k00/00m/040/137000c
岩田準一は、次のとおり夢二や戸川乱歩の作品に貢献し、男色研究、民俗研究も行うという多彩な人物だったようです。
「三重県志摩郡鳥羽町(現・鳥羽市)にて宮瀬家の次男として誕生した岩田準一は、三重県立第四中学校卒業後、親の意志により神宮皇學館へ進むも肌に合わずに中退し、中学時代から親交のあった竹久夢二が教鞭を執る東京の文化学院絵画科へ転校し、夢二に師事。夢二の代作を務め、また夢二本人から「日本一の夢二通」と称される。『明星』を通して与謝野鉄幹・晶子夫妻とも交流があり、夫妻が監修した『日本古典全集』の編纂に参加。1920年(大正9年)12月に両親が離婚し、母方の姓である岩田を名乗るようになる。
文化学院を卒業後、故郷の鳥羽に戻り、丹念に資料を収集して緻密な考証を行う研究者になっていく。当時鳥羽に住んでいた江戸川乱歩と親交を結び、乱歩の作品『パノラマ島奇談』、『踊る一寸法師』、『鏡地獄』の挿絵を担当[7]。その美青年ぶりから乱歩の『孤島の鬼』の美青年・蓑浦金之助のモデルといわれ、同作の発想のヒントを乱歩に与えたのも岩田である。
ライフワークは日本の男色文献研究で、乱歩は同好の友でありライバルでもあった。また、民俗研究家として柳田國男主宰の『郷土研究』に寄稿、渋沢敬三主宰の民俗学会アチック・ミューゼアム(現・神奈川大学日本常民文化研究所)の会員にもなり、志摩地方の民俗採取に最初の鍬を入れた。これにより、東京と鳥羽を往復する日々となる。1945年(昭和20年)、渋沢敬三から近衛文麿の蔵書目録作成を依頼され上京するも、胃潰瘍による出血のため没。享年45。準一は、日本のいわば影の歴史に光を当てた先駆的存在といえる。」(wikipediaより)
▼「竹久夢二 その弟子 岩田準一 画文集 ―絵入万葉集―」岩田準一著(桜楓社)
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