■メッセージ■

「夢二研究会」会合が発足以来300回となったことを記念して、同会初のプロモーションビデオの製作を開始しました。坂原冨美代代表の監修を受けながら脚本を製作し、去る613日に池袋のスタジオ「NOAH」でナレーション録音が行われました。ナレーターを担当したのは「合同会社 きよみず」社長で女優でもある鈴木愛子さん。秋葉由美子さんの厳しい演出により何回もテイクを繰り返して、わずか7分程度の作品のナレーションを3時間かけて仕上げました。

現在、音楽とナレーション部分が編集され、画像処理と字幕作成に取り組んでいます。

中華郵政公司のWoody Lin(林立富)さんとChen Yang(楊臻)さんの協力により、英語と中国語(繁体字)の字幕を現在台湾で製作中で、完成後はYouTubeにアップされ、世界に夢二を送り出す「夢二研究会」の第一陣となります。

IMG_7570 (2)


 

■タイワンショット■

●国父史蹟館

台北駅の東側を歩いていくと監察院前のある大きな交差点に公園があります。ちょっと寂しげな感じの公園ですが、ここは「逸仙公園」といって、その名称は孫文の号、逸仙に由来するものなのだそうです。ここには、孫文が台湾を訪れた際に宿泊した旅館「梅屋敷」の一部が保存されていて、その由来で孫文の号である「逸仙」の名が採用されているのとのこと。

ここにある日本家屋は、現在、「国父史蹟館」と呼ばれています。

国父史蹟館は、日本統治時代、大和宗吉という人が営んでいた「梅屋敷」という高級旅館で、孫文が1913年の台湾滞在中に使いました。国父史蹟館として残っているのは応接室として使われていた建物で、建築年は1900年、第二次世界大戦後の1946年に「国父史蹟紀念館」となりました。

ここには、孫文がかつて梅屋敷旅館に滞在した時に使った机のほか、サンフランシスコで使っていた机や椅子なども展示され、床の間には孫文直筆の「博愛」としたためた書が額装されてかけられています。

DSCN8398 (2)
DSCN8403 (2)
DSCN8410 (2)
DSCN8414 (2)
DSCN8430 (2)


 

■週刊エッセイ■

「富士見高原療養所の夢二」その2

危うく死に損なったことを正木院長から聞いた夢二は、「死んでも好いとはおもふ。」と開き直り、退屈な療養生活を開始します。

2月初旬の「夢二日記」には、病状はあまりよくない様子が書かれていて、見舞品のまとめなど思いついても思うように動けないようでした。

「今日までに諸方からおくられたものを書きとめておかう。(中略)きのふは熱が三十九度に上った。金のことで興奮したとも思はないが。210日)

「こんなに長く熱がつづくと死んぢまう と 言ひながら院長が入つてきた。 手紙を書きすぎるんぢやないかナ。 手紙が原因になるなら ムスコへ書くとき 腹を立てるのがいけないかナ。 なんしろ静かに と言つて出てゆく。すこし不安だ。チコのために熱が上って死ぬなんて馬鹿な話。 生きるやうに考へやう。」

それにしても客観的ですね。夢二日記は人に見せるために書いた、という人もいますが、自分が主人公の小説を書いているような気分なのでしょうか。米欧での大変な時期も一部を除いては結構落ち着いているようにも見えて不思議です。ここで書いている「チコ」とは次男の不二彦のこと。3人の子どものうちただ一人京都へもつれて行くなど常に一緒にいましたが、ここへきて、どうも不二彦にも当たるようになってきています。療養所に来る前にもひと悶着あったようですから。実は不二彦は中国の青島に行ってしまい、9月の夢二の死に目に会えていません。親子の間は離れたままになってしまいました。

216日の日記を見ると、「院長『やつぱり秋までかゝる、もう一冬ここで越すかな』」 さういふ診断である。『それから長生きだ』と笑つて出てゆく。さういふことになるのかとおもふ。」このセリフ入りの淡々とした書きぶりが夢二らしいと思ってしまいます。

しかし、昭和6年(1931)にアメリカへ発つ前に群馬で「榛名山美術研究所」設立宣言をしてアトリエまで建ててもらったことは気になるらしく、こんなことを日記に描いています。

「榛名山の山荘附近をよき人ばかり寄りあつめてたのしき村をつくることを約束もし、また、自分もたのしみにして旅にたちたるなり。敷地、建築、様式等に就きても注意を怠らず居たりしが、いつの頃よりか三年の旅の間に、よき人とか、たのしき村の、地上にあるべからざるを知りて 仇な心を けなげに信じてゐた自分にも人にも気の毒におもふことだ。

3月に入ると外が春めいてきたせいもあり、それまで行った様々なところのことが脳裏に浮かぶのか「日記専用手帳(余白)」にこんなことを書いていたようです。

「約束しない春だけど 春は必ずやってくる 私は春に何とせふ

 青空は小鳥に、緑の野は子供たちに譲り、微笑と涙と溜息は、情深い娘たちにまかせ、この私はと言へば、高原の白い病舎の白い寝床の中で、およそ思ふことの半ばは食物のこと、と聞いて人々は笑ふであらうか。それにしても仕方がない。

 秋田のハタハタの寿司はもはや季節を過ぎたであろうか、京の大原の柴漬は今年はまだ漬かるまいか。春先きになれば瀬戸内海の鰆(さわら)ゆえに、生れ故郷がなつかしい。外国には、さういふ土地の特産といふべき食物がまことに貧しい。去年の春ベルリンで日本舶来の缶詰の竹の子から思ひついて、むつの子が切りに(仕切に?)食べたく、日本へ帰りたくなつたことだ。」

そして、山へのこだわりは強い。彦乃を「山」と呼んで秘密裏の文通をしたことは脳裏から離れないのでしょう。山にまつわるこんな詩も書きつけていました。

「山の彼方の空遠く 幸住むと人のいふ ああわれ人ととめゆきて 涙さしぐみ帰りきぬ 山の彼方のなほ遠く 幸い住むと人のいふ ―海潮音」

これに続いて、夢二はこう書いています。

「青空をかぎる国境の山々を見ていると、あの山の向ふにはどんな幸福な人生があるのかと、だれしも冒険的なあこがれを持たぬものはないであらう。昔から今へ、山里に住む夢多き若者が幾度国境の山を越えて行つたことか、そして幾人が涙を流して帰つて来たことであらう。

また、こんなエピソードもわざわざ日記に書いていた。彦乃のことが忘れられないのでしょう。

「『彦乃さん、あんたあ長生きができませんなあ。

『さうお あたし二十五まで生きりやたくさんなのよ。

『けへッけへッけへッ』大藤先生は額を押へて

『こりゃ好い度胸ぢや、それぢや侍医ももう免職ぢや

さう言つて笑つたことがあつた。」

このことは別にも記載があって、次のような書きぶりをしています。

『おしのさん あんたあ 長生きは出来けんぞな』

大藤先生がさう言はれる。

『さうお、あたし二十五まで生きりやたくさんなのよ』

先生ひたいを押へて

『ウエッ ヘッツヘッ さう度胸がよくちやこりや侍医は免職じや』 岡山にて」 

この時彦乃は21歳。彦乃の度胸はたしかに相当なものだったようです。(つづく)

▼本当は大変しっかり者だった笠井彦乃(坂原冨美代氏所蔵)
画像1

 

■夢二の世界■

PART 3 KAWAIIの世界」(「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より)

30 洋服

洋服は、西洋で起こり発達した衣服のことで、かつては西洋服と呼ばれていました。日本における女性の洋服着用は、明治期以降に一部の上流階級と職業婦人に見られるようになりましたが、一般の女性が洋服を着る大きな契機となったのは、大正12年(1923)の関東大震災でした。震災に遭遇し、和服は行動に不便であることが認識され、洋服への関心が高まります。さらに女性の社会進出も活発化し、便利な洋服の普及が始まりました。

夢二が描く洋服の女性は、当初はワンピース姿が多くみられましたが、しだいにトップスとボトムスを分けて描くようになり、コーディネートに変化が見られます。しかし実際に洋服姿の女性を街で見かけることはまだ少なく、夢二はドイツの美術雑誌『ユーゲント』やフランスの高級モード雑誌『ガゼット・デュ・ポン』の誌面を参考に、洋服を描くこともありました。

洋服に伴うおしゃれとして帽子の着用、また断髪のヘアスアイルも採り入れられ、大正末から昭和初期にかけては、洋服を着こなして先端的な存在と注目された「モダンガール」と呼ばれる女性が登場しました。

▼「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より
本「かわいい手帖」洋服

▼モダンガールの代表者ともいえる望月百合子さんは「夢二研究会」の提案者・発起人です。
「断髪のモダンガール」表紙

 

■夢二の言葉■

●有用なれと社会は勧める。 我々は、真であれば好いのだ、 美であればよいのだ。

(無題『夢二画集 春の巻』1909年)

●人の世の普通のことのうちから あるものをぬき出すところに 天才の才能が要る、 そこに新しい芸術が生れるのだ。

※出典:「竹久夢二という生き方」(石川桂子著・春陽堂書店)

 

■夢二情報■

●「な~るほど・ザ・台湾」

台湾で夢二展を開催している王文萱さんから「展覧会の記事が出てるよ」と送られてきた「な~るほど・ザ・台湾」の4月号。A5判ながらしっかりした紙質の台湾情報誌。読んでみるとなかなか面白い。早速購読することにしました。

この雑誌は、「台湾の今」を知る情報誌の草分け的存在として、1987年、主に在台邦人の皆様向けに創刊されましたが、「台湾を伝える」のが最大の使命だったところ、大の台湾ブームになり、役割を終えたと2018年に休刊。しかし、台湾・日本間での未来を開拓していくという新たな役割を見出し、めでたく復刊となったものです。

コロナが明けるのを楽しみにしながらこれで心は台湾に飛ぶことが出来そうです。

6月号に「コロナ行ってほしい台湾旅行スポット」と題した記事がありましたが、ほんとうに早く行きたいものです。

発行人・編集人の太田久哉さんとメールのやり取りをしましたが、文面から“熱”が伝わってきました。頑張っていただきたいと思います。

「夢二と台湾2023」プロジェクトにも関心を持っていただきました。(^^

https://naruhodo.com.tw/

なーるほどザ台湾