■メッセージ■

延期になっていた夢二研究会海外会員・王文萱氏の夢二展「竹久夢二」(74日~8日)が、日本台湾交流協会と北投文物館の共催により交流協会の文化ホール開催されることになりました。開催前日の記念講演では、聴講数45名のところ既に130人以上の申し込みが殺到しているとか。台湾での夢二ブームが浸透してきているようです。日本台湾交流協会(東京)には過日私も訪問し、「夢二と台湾」をアピールしてきたところ。竹久夢二訪台90周年記念となる来年がどんどん近づいてきています。なお、同館では現在、王文萱氏による夢二展「竹久夢二的視界」が開催されています。

「竹久夢二」(日台交流協会)202207
▼「竹久夢二的視界」で講演する王文萱氏
夢二展「竹久夢二的視界」台湾11 (2)
 

■タイワンショット■

●紀州庵

台北市中正区同安街にある「紀州庵文学森林」というところです。「紀州庵」は、和歌山県から台湾に渡った平松徳松が1897年に台北の西門町の近くに開業した日本料亭で、店名は平松の故郷に由来しています。料亭はとても繁盛し、1917年には新店渓のほとりに支店を開きました。

紀州庵支店(以降「紀州庵」)は、当初は木造茅葺屋根の2階建てで、後に3階建てに改装し、別館、離れを増築、屋形船も所有していたそうです。

終戦後、しばらくは日本人の臨時居住施設でしたが、1947年に国民政府に接収され、公務員宿舎になりますた。90年代には火災に見舞われ、離れの一部を遺すのみとなりましたが、2002年に台湾大学城郷研究所の大学院生・林育群らが授業でこの地域を調査し、建物の一部を見つけました。文学好きの林は、近所のお年寄りから、かつては日本料亭で、王という作家が住んでいたと聞き、王文興の作品の舞台であることを突き止めました。紀州庵の保護活動はこうして始まり、2004年には、台北市文化財の指定を受け、「紀州庵文学森林」と名付けられたのです。

王文興は、1939年に中国の福建省で生まれ、1946年に台湾に渡りました。元紀州庵の公務員宿舎に、8歳から27歳まで暮らしたそうです。王は、台湾大学外文系の教授も務めながら、創作活動を行い、60年代の台湾の闇が実験的な語りで精緻に描き込まれた小説『家変』(1973年)では、「紀州庵」は、“ぼろぼろで汚くて友だちを呼べない宿舎”として登場します。(サイト「みんなの台湾修学旅行ナビ」より)

▼紀州庵の離れの一部とカフェ・書店のある建物(2018年)
DSCN5743
DSCN5738 (2)
▼紀州庵の室内展示(2018年)
DSCN5785 (2)DSCN5754 (2)
▼「文学森林」というだけあって、書店も充実しています。(2018年)
DSCN5812 (2)

■週刊エッセイ■

「富士見高原療養所の夢二」その3

夢二は、3月になっても病状は変わらず、熱もあったようです。次のように、日記の中に物語風のものが入り、過去の女性たちが実名で現れています。

「今日きのふ熱が七度を上る、うつとりと耳が厚く寝てさへ居ゐれば極楽へゆけさうな気分だ。何の熱か、この二日は仕事もしないし心配もしない。」(314日 「夢二日記」)

「すかんぽに父と母とを思ひけり かげらふやうやくなじむ薬の香 あけ方、とろとろとしながらおもいうかぶ。

                        〇

溜息をつく。しみじみ深くため息をつく。 夢  街をゆく。どこにも水出でゆけず、女連れなり、馬を見出す。引返せば女あり、ある男、この辺に娘がゐて栗おこし釜をつくるといふ。女は彦乃なり。オメシのキモノの下に白きものきたり。

                        〇

小石川戸崎町あたりか深川本所あたりの裏通りである。そろそろ日暮れになつてkちえ心細く、家へ急ぐのである。ゆく先き先きに水が出て、通りは腰を濡らす覚悟でないと通れない、知らぬ道を曲がったり引返したりして途方にくれた(中略)

この時一人の男が綱をもつてきて馬に今一重たづなをつけて口を引いてゆく 女の方へゆかず近所の酒造家とも見える構への家を指し ここはわしの友達の家だ 娘もゐるが、栗おこしをつくるのに釜がある、その釜を見て来やうといふのだ。私は、馬の上から女のゐる方を顧るとその女は おしのである。例のお召の袷をきて 裾の方に何か白いものが見える。長襦袢か下着かわからない。 そこで目がさめた。(後略)」(325日 「夢二日記」)

そしてやはり気になるのは女性のこと。過去と現在が入り混じって記載されていきます。

「誰かに手紙をかきたいのだが、誰かがわからない。やはり女だが、さてつと考へて 出すやうな人もないのだ。 

                        〇

さあちゃんのもし肌が今少し滑かだつたら遠くに細君にしてゐたとおもふ。

その他の点では、今考へても、おしい女だつたとおもふ。今でももしほしくて、要用ならば来るであらうが、私はほしくもないとおもふ。

                        〇

上州伊香保の麓の村から一少女が梅の花を封じた手紙をくれた。若い心持になつてうれしい。」(326日 「夢二日記」)

4月になると、いよいよ体調が悪くなってきたようで、かなり精神的に衰弱している様子がわかります。しかし、次男の不二彦は仕事で中国大陸の青島に行き、夢二の看病はしていません。4月から5月への夢二日記は悲壮感と怒りが入り混じっています。そして5月にはヘルペスのため、とうとう右手の自由が失われてしまうのでした。(つづく・次回最終回)

▼富士見高原療養所で夢二を最後まで看護した元看護婦長遠藤(旧姓平林)みさをさん(右)
と笠井彦乃の妹笠井千代さん。(夢二研究会・坂原冨美代代表提供)
DSCN8436 (2)

 

■夢二の世界■

PART 3 KAWAIIの世界」(「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より)

31 和&洋の装い

少女や婦人を対象にした雑誌のイラストにおいて、夢二は大正末~昭和初期に、和服姿と洋服姿の2人の女性を組み合わせて描くこともよくありました。この頃は着物を装う女性がまだ多い時期でしたが、職業婦人以外にも洋服を着用する女性が登場したことを反映し、夢二は当時の風俗を象徴するようにな女性の姿と、それぞれのスタイルに合う髪形や服飾小物を描き表しました。

▼「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より

 本「かわいい手帖」和&洋 (2)

 

■夢二の言葉■

●自分の仕事を心から愛して毎日、 それをしとげてゆくことが、 仕事にも人生にも、 愛を持つ所以だと考えられる。

(笠井彦乃宛の手紙/191735日(ガラスをつくる男))

●これが新しいのだと 考えてやることは、 すでに古くなっていることだ。 迷って迷っていたい

(渡辺英一宛の手紙/1910911日)

●第一流のものが甘必ずしも好きにはなれません。二流三流或いは時代から全くかけはなれたものの中に――文学でも美術でもそうです、傍流の中に我々の生活に最も近い、親しみの深い、しみじみと身も魂も打込めて流れるものを感ずることのあるものは、誰もが曾て経験したことだと思います。

(西京雑信/『新演芸』19178月号)

※出典:「竹久夢二という生き方」(石川桂子著・春陽堂書店)

 

■夢二情報■

●夢二や彦乃がデートで訪れた麟祥院。ここには徳川三代将軍家光の乳母・春日局の菩提寺で墓もあります。「大奥」の基礎を作ったと言われる春日局、その墓はまん中に穴が空いている。これは、春日局が、「死後も江戸の政治を見守れる墓」を作って欲しいという遺言に従って作られたものだそうです。

徳川家康から家光までの三代で、日比谷や浅草が浜辺だった江戸の町を今の大東京につなげる基礎を作ったというのも感慨深く感じられます。

DSCN4489 (2)
DSCN4486 (2)
DSCN4516 (2)