■メッセージ■
昨日は、夢二研究会300回記念祝賀会が開催されました。藤原利親さん(ギャラリーゆめじの会長・夢二研究会創設者の一人、野口孝一さん(中央区教育委員会、彦乃展を開催。映画作成)、石川桂子竹久夢二美術館学芸員、鈴木愛子さん(「合同会社きよみず」社長、女優)、秋葉由美子さん(同副社長、演出家)らのゲストを迎え、総勢15名が参集し、コロナ禍による支障のある中でも地道に活動を続けて今に至ったことへの喜びを分かち合いました。また、記念作品として制作された「夢二研究会プロモーションビデオ」(音声制作:合同会社きよみず、編集:林 健志、制作:夢二研究会)の上映も行われ、榛名山をバックにした「夢二を探る、夢二を伝える」のキャッチフレーズで、提案者である望月百合子さんの「本当の夢二を伝える」という言葉をフィーチャーしました。
これは林立富氏、楊臻氏による英語・中国語(繁体字)字幕付で7月中旬にYouTube公開される予定です。
■タイワンショット■
●ユニークなホテル「Citzen M」
コロナ禍になる前、ネットでタイムセールをやっていて格安だったので泊まりました。台北郵局の隣にある黒いノッポのビルでした。調べてみると、ここはオランダに拠点を多くホテルチェーンで、米欧にはいくつもありますが、アジアでは台北だけ。そういえば、初めって行った時、2016年頃はこんなビルはなく、今も行われている台北駅前の再開発に合わせて出店したと思われます。何だか分からずに行ってみたら衝撃的なことがたくさん。もっとも仰天したのは日本語が一切ないホテルということ。おそらく台湾で唯一でしょう。チェックインした時の模様を実況してみますと―
黒色を基調としたしゃれた玄関を入ると、パソコンがずらり。フロントはない。数人の若い観光客がいるだけで誰もいないのかと思いきや、20代のこれも黒のカジュアルなユニフォーム姿の女性がにこやかに恐ろしくきれいな発音で”Hello”とやってきました。「ネットでチェックインしました?」「はい」「支払ったクレジットカードありますか?」「はい」「じゃ、それでチェックインしてください」とパソコンを示す。チェックインはこれだけ。全部セルフサービスだが、英語の指示を読むのも面倒くさいので結局いろいろ聞きながらカードをスキャンしたりしてチェックインが終了。カードキーが渡されて
“Thank you. Have a nice day!”
チェックインしている間、耳を澄ますと周囲の観光客若い男女、女性が多い。欧米人より中国、韓国が目立つ。中国語で話していないところを見ると中国人ではないらしい。みんな係員と英語で話していて、台湾にいるような雰囲気ではありません。ヨーロッパに行ったときのことを思い出しました。不思議なところがあるものです。
部屋に入ると簡易テーブルの上にタブレットが1台。電源を入れて見ると、部屋の温度からテレビ操作、ブラインドの上げ下げまで全部これ1台でコントロールするようになっています。その説明を読むのが結構大変で、あちこちテストを繰り返し、1時間たってもテレビの見たいチャンネルが見られないという状況に陥りクタクタ。
どうせテレビがあってもいつもCNNくらいしか見ないのでほったらかし(外国に行くとCNNに出るくらいの大事件でもない限り日本のニュースには関心がなくなります)、今度はバスルームを覗いてみるとバスタブはないとしても、ちゃんとアメニティもあるしまあいいかということになりました。ベッドもふかふかだし、窓からの景色は最高。
ところが夕方になって問題が発生しました。チェックインの時に、2階になかなかいい感じのレストランがあるのを見かけていたので、まずはここで夕食をと思って、勇んで行ったのですが―
「台湾料理だとどんなのがある?」「すいません、台湾料理はありません」「え?」
「どうして?」と聞く力もなくなり、にこりと笑って、「じゃあ、外で食べます」と立ち上がりました。
台北の中心地で日本語と台湾料理がなく、部屋の中は全てタブレット操作をしないと自由にならないという不思議なホテル。非常に珍しいと言えば珍しいが、なんだかヨーロッパ製のロボットホテルのユニットをそのまま持ってきたような感じがぬぐえませんでした。ただ、ディスカウントは結構激しいので、その後、ここは安い時に泊まって外食するというパターンとなり、何度かと待って結構楽しめました。
▼台北駅前にそびえたつノッポなホテル
▼玄関も部屋もおしゃれで簡素
▼眺望も抜群
■週刊エッセイ■
「富士見高原療養所の夢二」その4(最終回)
1934年4月になり、夢二の日記には、その時その時の気分を表した言葉が短く書きつけられるようになります。長いですが、最終回なので夢二の言葉を体感してみてください。
「死期が近づいてゐるらしい。しかし死期といふやつはどうも虫がすかぬ。 何もかもおしまひの時、もうこれつきりの時、何もかも費ひ果たした時、さういふ時がきたやうにおもはれる。 これから生きる日があつても何もすることがなく 人生に香味が全くあるまいと思はれる。 療治などせずに 死んだ方が好いのだ 医者もさう思つても さうは出来ぬところに 患者と医者の黙契した辛さがある。つまらない社会制度だ、へまな道徳だ。一思ひに死ねる方法を患者がとる外 道はない。
◇
枕下へ手紙をおかれる音は、注射に来られた時よりも、心に重い。誰からもどこからもたよりのないのが上々だ。
◇
新聞をやめたが これは度々実行したことで、良い経験を持つてゐる。やめたのが好いのではない 新聞なんか読続けることは悪いことだ。
◇
最初壁の絵『長崎の女』の情熱がすこしうるさく、まけるのが辛く、壁から下した。
◇
枕辺にづしりおかるる郵便に心おもたく眼をとぢにけり 忘られてあるを嬉しと思はねどはがきも今はよむに辛らかり 人と人の心をつなぐものゆゑによかれあしかれ手紙はうるさし」(4月18日「夢二日記」)
画家の有島生馬がこの頃から日記に登場します。彼は夢二の墓石に「竹久夢二を埋む」と揮毫した画家。夢二の信頼は非常に厚かったようです。東京と復興記念館にある関東大震災発生後の巨大な絵は有名ですが、ここに自動車のボンネット上で必死にスケッチする夢二の姿が描かれています。
「有島氏より京のハガキ。菜の花の中ゆく紺日傘も心引かず。さて、いかに処理すべきわが身ぞも、生きたくはなし。」(4月26日「夢二日記」)
「一一シタツテユク」アリシマ とは けふ新宿発の時間である。 三時にきた わざわざ見舞にきたと知り涙が出る
セル、ヒトエ物 菓子等々。」
ここで昭和11年に発行された「竹久夢二遺作集」の「臨終日記」(限定100部、青木正美著)を覗いてみましょう。右手がヘルペスで思うように動かないまま、遺言まがいの記述が続きます。これを見ると、夢二の人生の断片や思いが走馬灯のように現れては消えていくようです。(5月17日「夢二日記」)
「ボクは死にたい。 そんなことはない。 何のための養生か分からぬ。
生きんすべてのものと友情をも失つたる今、 こんな友情がまだ 地上にあつたのか。 それでさへ生きてどうする?
死に隣る眠薬や蛙なく
としのせいだね、なんにもおもしろくないよと生馬さんがいふ。此頃小説なんかたのみに来るが書く気がてんでしない、金をとるだけだ。昔小説を書いた気がしれない。
ぼくは、もう仕事にも、友達にも、人間にも、友情を失つてしまつた。 なんのためにくすりをのんでるのだろ。
◇
いつ死ぬと、きめてないが、どうも自殺せねばおさまらぬやうだ。それにしてもうごけぬ病人に死の方法は少ない。
〇
岡山の星島にベルリンで借りた五百圓、生島さんに 二百圓。これが現金借金だ。 あとは地主だけだ。
×
手許にある現金が、凡てだ、病院と葬式と何とかよろしく。葬式など、どうでもよし。やいて粉にしてふきとばし八つが岳へでも墓をたてて、いや何もいらぬ。
院長へ、すべての絵。 ふく院長、燭台。 若い先生に、蛇のネクタイ。
×
今EnglandにゐるViciに、ボエミヤのキモノを送つて下さい。Viciの手紙があります。 アトハドウトモヨキヨウ。
東京牛込外山町二十九栗山安兵衛、松香、松香は私の姉で最も私を愛してます。彼女を悲しませるのは辛い。だがみんな辛いよ。
知らせる人―それだけ。他に一人アリシマ。
×
不二彦ナドハ物ニモ事ミモ関セザレ! 不二彦ノゴトキハ絶対ニ私の子である権利を与へず。 マタギムモナシ。
イサントテナシ。五個ノトランク、行李籠等。これは栗山氏に一任す。他は小生の図案もの著作等につき有島氏に相談ありたし。
×
著書に就いては志摩鳥羽、岩田準一がとても詳しい、日本一の夢二通。
×
男に会いたい人なし。 女はぜつたいいうるさし。 ただひとめ逢ひたい なぞもなきことそよけれ。 金もらひて絵かかぬ おいめも御免なさんし。
ゆかた一重さへ 心におもたし。
今日はすこし手の痛みが少いので天国へゆく気がゆるむ。 生島さんときた甲府の記者に話したすまない話の主人公渡辺義三(嗣)夫妻の見舞をうく。
ありがたさを、ことばにしてはうそらしい、ただ友情に合掌する。 まだ神経痛、いま峠を越したらしい。何はとまれ、生きる気になつています。
行光君のこと知らなかった、お互ひに辛い。
のぶ子様、よろしく、
あゝ窓は全く助かつた。(窓へ貼る蚊帳有島氏より届きたる事か。以上左手文字にて甚だ乱筆なり。)」(5月17日 「夢二日記」)
「死なんでよくなりたるか。
生きてあり、左の手へももしこの神経来らば死ぬべかりしか。 今初めて右の手を書くに用ゆ、十分なり。絵はどんなものか、
〇
六月七月長い臥床であつた。」(7月下旬「夢二日記」)
「絵はどんなものか」(8月「夢二日記」)(既出「臨終日記」より)
(次ページに)
「日ひけ日にけかつこうの啼く音ききにけりかつこうの啼くはおほかた哀し」
こうして、大正期に一世を風靡した画家・詩人である竹久夢二は、昭和9年(1934)9月1日、奇しくも関東大震災の発生した日に正木医師ほか看護婦たちに囲まれ、「ありがとう」この言葉を残してこの世を去りました。
夢二を待っていた群馬県の榛名山・榛名湖を見晴らすアトリエ。主のいなくなったアトリエには、夢二が昭和6年(1931)に外遊に出る際置いていった一冊の芳名帖が置いてあったといいます。その表紙には夢二の自筆で、「千九百三十一年五月 山の家 芳名帖」と書かれてありました。その芳名帖は今どこにあるのでしょうか。伊香保記念館にあるのでしょうか。何が書かれていたのでしょうか。。。夢二は亡くなりましたが、私たちの夢二を追う旅はまだまだ続きます。(おわり)
*「夢二と台湾」を考えるにあたり、大正14年にお葉が去った後、群馬での榛名山との出会いから、米欧の旅、そして台湾の旅を経て、信州の富士見高原療養所での末期までを長い時間をかけて辿ってきました。最後の療養所部分はほぼ全てを『夢二日記』を引用することにより、リアルに夢二の心の動きを体感できるようにしました。
本施策の「夢二と台湾」については、昭和時代の夢二を総括することで、台湾に行ったときの夢二の心を推察しようと試みました。まだ見るべきところは数多くありますが、これをもとに劇画動画「夢二 台湾客中」の制作が進められることになります。
なお、次回は「週報」が50回目を迎えることもあり、これを特集として、以降、新たな趣向、新たな構成で当初予定の残り50回を進めていきたいと思います。今後ともよろしくお願いいたします。
■夢二の世界■
PART 3 「KAWAIIの世界」(「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より)
32 服飾小物×和 ― 帯
帯は、着物の上から腰のあたりに巻いて結びつける細長い布で、装飾も兼ねています。帯は結び方にバリエーションも多く、後ろ姿を華やかに演出します。
夢二が描く帯に注目すると、黒繻子(くろしゅす)で無地のものもありますが、椿や梅などの花柄をはじめ、水玉、格子、オリジナルの幾何学模様も見受けられます。
また帯を結ぶ際は、平打ちの紐にとおして帯の前面に珊瑚・瑪瑙(めのう)・宝石などが飾られた帯留(おびどめ)や、解(ほど)けないように帯の上から締める紐である帯締(おびじめ)が、着物の装いには欠かせないおしゃれなアイテムでした。
帯締を描く際夢二は、色遣いに配慮して帯とバランスをとり、紐を斜めに通すことを、おしゃれのアクセントとして好んでいたようでした。
■夢二の言葉■
●私は結論へ到達したくない。 いつもプロセスにいたい。 結論へ来るとき私は公衆が 「拍手喝采」してくれないと 辛いから。
(『夢二日記』(1910年11月21日)
●身のまわりの衣服調度は、なるべく自分で工夫して 気持ちよく便利にそして、 簡素にしてゆきたいと思います。 流行を追うこということは、 自分で自分の生活を 工夫することの出来ない人か、 物を所有していることを見得にする人のことです。
(「手提袋と本挟」より(『新少女』1915年6月号)
※出典:「竹久夢二という生き方」(石川桂子著・春陽堂書店)
■夢二情報■
●知らなかったのは私だけかも?
月見草は”宵待草”だから黄色だと思ってたらピンクだった!なんて今頃気づきました。月見草は、咲き始めは白でも萎むときはピンクなんですね。
調べてみたら、月見草はメキシコから江戸時代に持ち込まれたけど、同時期に米大陸から持ち込まれたマツヨイグサとの生存競争に敗れ、マツヨイグサが月見草と呼ばれるようになったんだそうです。マツヨイグサは夕方に咲くので、夢二の宵待草が月見草だと説明され、それが黄色く描かれている理由はここにあったのでしたが、みなさんご存知だったかもしれませんね。失礼しました。僕としては大発見でした。(^^♪
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