■メッセージ■
昨年8月1日に100号完結を目指して発行開始した「週報 夢二と台湾2023」は、おかげさまで、折返点を迎えることが出来ました。これまでのご支援に深く感謝いたします。一般的にあまり知られていない昭和になってからの夢二。華やかなたまき、彦乃、お葉との恋愛ドラマの嵐が過ぎ、その後米欧、台湾の旅を経て遠くへ行ってしまった夢二ですが、「台湾に行った夢二が何を考えたかを推測するには、彼の生涯の後半7年間を見るしかない」と判断し、本ブログで追い続けてきました。群馬での夢二、米欧での夢二、そして台湾での夢二を知るため、みやま文庫「群馬と夢二」、夢二研究会顧問の袖井林二郎著「夢二 異国への旅」等、長田幹雄編「夢二外遊記」、鶴谷壽著「夢二の見たアメリカ」、栗田藤平著「おお、白銀のチロル」、青木正美著「夢二 ヨーロッパ素描帖」など数々の関連著書のほか、ひろたまさき氏、女子美術短期大学西恭子講師の夢二の台湾での行動に関する論文等を参考にして書き綴ってきました。
また、竹久夢二美術館石川学芸員の多くの著書の引用をさせていただき、「かわいい文化」の創始者と言える夢二を理解するための基本的な情報を毎号書き続けてまいりました。前号まででひととおりの夢二の生涯の流れについて書き終えることが出来ましたのは、多くの皆様のご支援の賜物と思っています。おかげさまで私も夢二に関する多くのことを学びました。
この50週にわたる貴重な経験を基として、残り50週の連載を続けた後、来年11月に予定している台北での「夢二と台湾2023」のイベントに臨む覚悟ですが、イベント時に上映する挿絵的動画「夢二 台湾客中」の制作(8月完成予定)も本格化してきています。これから1年間の準備期間、コロナ禍と闘いながら頑張って進めていく所存ですので、今後ともご支援・ご協力のほど、よろしくお願いいたします。
■エッセイ■
昨日、恒例の「七夕古書大入札会」に行きました。今回は「欧米台湾 竹久夢二スケッチ帖3冊、台湾での夢二展覧会資料・葉書などが出品されているという情報が入ったからです。中でも「台湾大平山水墨画」と案内が出ているので興味津々でした。
この入札会は明治古典会が毎年主催しているもので、最大の魅力は実物資料を手に取って見られること。「これ見せてください」と言うと鍵を開けて「はい、どうぞ」と手渡してくれます。私は博物館にいた経験もあり、手袋をしてないとどうも気が咎めるのですが、ここの慣例に従って、そっとつまむようにて見始めました。
手渡された3冊には全て、夢二の最期をみとった正木不如丘医師が書いたと思われる「正木不如丘蔵」と裏に手書きしてあります。日付の書いてあるスケッチや書付けなどを探しながら30分ほどじっくり独占して閲覧することが出来ました。
スケッチ帖の1冊はトレーシングペーパー状のつるつるの紙で、切り取りのための穴の開いているB4縦くらいの大きさのものでした。「1931年」の日付のあるものがありアメリカで描かれた絵のようでしたが、欧州のものも混じっていました。2冊目は小ぶりでA4縦くらい。こちらは全部ヨーロッパのもので、「1932年11月」の日付のあるものがありました。夢二のスケッチ関係で出版されている本にある絵はダイアリーに書きつけたものなどさまざまのようですが、ここに展示されていたもののうち2冊は、ノートなどではなくスケッチ帖でした。
夢二は、1931年5月に横浜港を出港し、ハワイ、サンフランシスコと旅を続け、同年冬にロサンゼルスへ。1932年秋には単身欧州に渡り、ドイツ、チェコ、オーストリア、フランス、スイスを経て1933年にドイツに渡ります。ドイツの美術学校で日本画を教えていましたが、ヒットラーの台頭に伴い、同年9月に帰国。10月下旬から展覧会開催のため3週間ほどに台湾に行きましたが、病状が悪化。翌年長野の富士見高原療養所で正木不如丘の治療を受けたものの、9月1日に亡くなっています。2冊目のスケッチには、「1933年11月」の日付や「インスブルック」の文字が認められました。
3冊目はボール紙1枚を表裏表紙とした紙紐で綴じた大きなものでしたが、中身は薄いトレーシングペーパーのような紙に水墨画調の絵がペンで描かれているものが何枚も綴られているもので、大きさが一定しておらず、大きさの異なる紙をボール紙でファイリングした、という感じでした。表紙に「大平山〇〇(判読不可)」と書かれていて、これがどうも「大平山水墨画」と入札会の案内に書かれた原因であるようです。絵は切り立った岩山の風景がほとんどで、場所が台湾かどうかはわかりませんし、夢二の筆によるものかもよくわかりませんでした。(しばらく話をした某書店の方もよくわからないと言ってました。)殆んどの絵に「青山圖」(圖は図のこと)など「〇〇山圖」と記されていましたが、「大平山」という文字はありませんでした。
最も気になったのは3冊目の表紙が読めないことで、これが大きな課題となりました。「1933年」の文字は読めます。これが欧州か、台湾か?はたまた日本か?同年、夢二はこの3か所に滞在していましたから。これをいつ何のために作ったのかがカギになりそうですが。。。(入札会提供の写真には表紙の写真が入っていないことを失念していて、メモを取り損ねました。”(-“”-)”)
また、台湾での展覧会のチラシをきれいな状態で手に取ってみることが出来ましたが、実物の重みを感じました(実際はとても軽い紙でしたが)。スケッチ帖に至っては、夢二が実際に何度も手にしたものを、90年近く経って、いま自分が触れていることにある種の不思議な感動を覚えました。どんな展覧会に行ってもこの経験はよほどのことがない限り得られないもの。夢二がとても身近に感じられた瞬間ではありました。入札最低価格400万円の札が恨めしく思われました。
■夢二研究会のあゆみ■
このほど、動画「夢二研究会のあゆみ」(8分30秒)が完成いたしました。同会の歴史を簡潔に説明しています。その内容を文と写真でもお知らせいたします。趣旨、活動内容をご理解の上、ご支援のほど、よろしくお願いいたします。(ビデオをご覧になりたい方は、同会あてお申し込みください。限定公開用URLをお送りします。)
平成7年(1995)9月1日、夢二の命日にあたるこの日に「夢二研究会」が発足しました。
呼びかけたのは、竹久夢二と親交のあった、評論家、翻訳家そして社会運動家でもある望月百合子さんです。その思いは、友人だった夢二が、ゴシップ記事などによって「女性遍歴を重ねた美人画の画家」としか伝わっていないことを残念に思い正しい夢二の姿を伝えたいということでした。
発起人となったのは、望月百合子さんに加え夢二最愛の女性と言われる笠井彦乃の妹、笠井千代さんと、ギャラリーゆめじ」の当時のオーナー藤原利親さんでした。
取り上げたのは、長田幹雄さんが苦心してまとめあげた『夢二日記』。4巻にもわたる夢二の日記を、2010年まで15年かけてすべて読み終えました。
また、夢二が通り過ぎた何人かの女性の中で、笠井彦乃に対する深い愛が浮き彫りとなり、夢二という人間への理解と共感が一段と深まってきたのです。
竹久夢二は、美人画ばかりではなく、子供絵、デザイン、雑誌の挿絵、本の装丁、詩、小説、俳句、短歌のほか、着物や帯、半襟、浴衣のデザインをするなど、幅広い分野で活躍しました。
その自著装幀本は57点にのぼり、約280点ものセノオ楽譜の表紙絵を描くなど、夢二の多彩な才能がうかがえるものが数多く残っています。


▼袖井林二郎さん(前列左端)


毎月の「夢二研究会」会合では、輪読のほか、講師をお招きして講演会を開催したり、会員の研究発表や映画鑑賞、情報交換などを行っています。
また、独自調査・研究やイベントへの参加などの活動も積極的に行ってきました。
2020年9月には、笠井彦乃没後100周年を記念してシンポジウムを開催。、竹久夢二美術館・石川桂子学芸員、女子美術短期大学講師・西恭子先生に記念講演をしていただき、会場では夢二の絵や夢二デザインの浴衣の展示などを行い、多くの皆さんに夢二を楽しんでいただきました。

▼金沢湯涌夢二館太田昌子館長講演

▼竹久夢二美術館・石川桂子学芸員(左端)女子美術短期大学・西恭子講師(右端)


台湾大学、中華郵政公司、台湾国立博物館などの協力で、夢二の台湾旅行を体感することができました。
おりしも、北師美術館で大正ロマンを扱った「美少女の美術史」展が開催中で、館長への表敬を行うこともできました。
この展覧会には、2016年まで日本に滞在していた会員の王文萱さんが大きく貢献しています。王さんは、台湾に戻っても夢二研究を続け、2021年には台湾初の夢二の解説書を出版。台湾の美術部門で期間売上げトップという好成績をあげました。さらに、台湾での日本文化の殿堂ともいえる「北投文物館」で展覧会を開催いたしました。
会の創設提案者である望月百合子さんの「正しい夢二の姿を伝える」という思いを大切に、私たちは、これからもグローバルな「夢二研究会」を目指して活動してまいります。
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■夢二研究会■
毎月一回、集って楽しく交流。お試し参加される場合は事前連絡をお願いします。
・開催日時: 原則 毎月第一土曜日 13時半~16時半頃
・会費: 7,000円/年 ・詳しくはこちら: https://www.yumejisociety.org/
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