■メッセージ■
週報「夢二と台湾2023」が後半戦に入りました。あと50回、よろしくお付き合いをお願いします。
去る7月11日、岡山の夢二生家に「恋ポスト」が誕生したという記事が山陽新聞に掲載されました。大正ロマンを代表する画家竹久夢二(1884~1934年)が少年時代を過ごした夢二郷土美術館夢二生家記念館(瀬戸内市邑久町本庄)に、恋人や家族に手紙を出せる「夢二恋ポスト」なんだそうです。使われたポストは庇付ポスト。明治45年から製造され、鉄が不足しコンクリート製の代替ポストへの変更を余儀なくされた太平洋戦争末期まで使われていたポストです。
夢二の生家で買った夢二の絵はがきが世界中に届けられるといいですね。
https://www.sanyonews.jp/article/1283229
これにヒントを得た「回転式ポスト」関するエッセイを末尾に掲載しました。
■竹久夢二の素顔■
今回から連載開始です。夢二と時を共にした人々の証言から夢二の素顔に迫ろうという企画。
はじめは「竹久夢二という生き方」(石川桂子著)に抜粋された夢二評を紹介し、後段はいろいろな資料から自力で抜き出していきます。様々な「顔」を持つ夢二。多くの人々の印象の中にある共通点、そしてシャープな洞察力のある指摘の中で、果たしてどんな夢二像が得られるでしょうか。
1 夢二の容貌
●宇留河泰呂(「断片数片」『本の手帖』1967.4)
背の低い、色黒の、チャップリン髭に近いのを生やして、紫色の毛糸のシャッポをあみだにかぶった夢二は、笑う時目じりにめだつしわをよせて、そのあたり何ともいえず柔和だった。
●神近市子(「私が知ってる夢二」『本の手帖』1967.4)
夢二は後年少し太られたようであるが、私が知っている限りは痩せ型の方で、多い髪をやや長めにのばし、中肉中背のおしゃれな人だった。ただひとつ記憶にのこるのは、その手であった。爪をのばしておられたように思うが、指の長い全心をうけて動く特種の手できれいであった。
●中原綾子(「夢二さんの想い出」『本の手帖』1962.1)
中肉中背、少し痩せ気味の方で、お色は白くはありませんでしたがよいお顔でした。
●河村幸次郎(「夢二に会った頃」『竹久夢二展』川村幸次郎コレクション1988)
夢二は稍背が低く色が浅黒かったが、顔立ちは立派であった。
●西沢てる(『新しい天地』1989)
初めて逢う未見の手紙の主は、痩せて、色の黒い、鋭い眼光を持った極端に無口な人間。
●安田徳太郎(『思い出す人々』1975.6)
夢二さんは色が黒くて、無口であった。
■夢二の台湾旅行(復習編)■
これまで長期にわたり追ってきた夢二の台湾旅行の概要と着目点などについてまとめていきます。
●第1回 「夢二の台湾日程」
現在分かっている台湾での夢二の行動は、大要次のとおりです。日記、メモ、スケッチの類が全く残っていないため、個人的な行動の記録は皆無に近い状態です。
この内容をもとに、次回から項目別に夢二の台湾旅行についてわかっていること、推測できることなどを項目別に記載していきます。
昭和8年(1933) |
行事等 |
10月23日 |
▪横浜港から大和丸にて出港。(夢二の同行者は河瀬蘇北のみ。) |
10月26日 |
▪基隆港に到着。 ・入港時に台湾日日新報からインタビュー。 ・鐵道ホテルで同宿の藤島武二と面談。 |
10月27日 |
★「臺灣日日新報」にインタビュー記事が掲載。 |
11月2日 |
▪「東方文化協會臺灣支部發會式(大稲埕蓬莱閣) |
11月3日 |
▪「竹久夢二滞欧作品展覧会」(警察会館) ▪「東方文化協会台湾支部設立記念講演会」(臺灣医専講堂) ・演題は「東西女雑観」。 |
11月4日 |
▪「竹久夢二滞欧作品展覧会」(警察会館) |
11月5日 |
▪「竹久夢二滞欧作品展覧会」(警察会館) ★「臺灣日日新報」に批評が掲載。 |
11月11日 |
▪自動車の故障により秩父丸に乗り遅れる。 ・「台湾の印象」の原稿を台湾日日新報に提出。 |
11月14日 |
★「臺灣日日新報」に「台湾の印象」が掲載。 |
11月15日 |
▪基隆港から靖国丸にて出港。 |
11月17日 |
▪神戸港に入港。 |
■夢二の世界■
PART 3 「KAWAIIの世界」(「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より)
33 服飾小物×和 ― パラソル
洋風の女性用の日傘であるパラソルは、すでに明治時代より、春から夏にかけて夫人の外出における必需品でした。色白が美徳とされた思想とおしゃれの面から、パラソルは女性の必須アイテムとして用いられました。
大正期のパラソルの流行を振り返ると、生地だけでなく、持ち手のハンドルや柄の部分、また傘を張る骨の本数にもこだわりがありました。年による流行としては、大正4(1915)は濃厚な色彩が好まれ、大正5年(1916)には黒地が全盛、派手な色の刺繍が入れられました。
大正9年(1920)は黒琥珀、緑青繻子(しゅす)地などが好まれました。大正10年(1921)頃には水色、藤色等の薄色の地に友禅加工を施したもの、柄は木彫りの曲げものなどが見られます。大正時代最後の15年(1926)には生地と縁の色違いのものが登場し、レモンオレンジの明るい新作が好まれたようです。
■夢二の言葉■
●東京に住んでいると、 自然の推移や、 気候の移り変わりを 殆んど気付かずに過すことが多い。
私どものように 少年時代を田舎に過したものには、 忘れていた信仰のように、 山が恋しくなる時がある。
(「上方の女と江戸の女」より/『新小説』1919年3月号)
●生活は常に流れていねばいけない 人間は体の組織が 常に流れ代わっている如く 拘泥(こだわ)ってはいけない
(『夢二日記』1920年5月30日)
※出典:「竹久夢二という生き方」(石川桂子著・春陽堂書店)
■夢二情報■
●銚子浪漫ぷろじぇくとが夢二碑周辺の美化!
去る7月10日(日)、「銚子浪漫ぷろじぇくと」の企画で、銚子市海鹿島の竹久夢二碑周辺の草刈りが行われました。毎年同会のメンバーで行っていたものですが、今年は夢二ファンの皆さんと交流を兼ねての草刈りとなりました。終了後は、夢二所縁の海鹿島ミニ散歩。海鹿島海岸向かいの石井丸さんで、干物や鮪の佃煮など、ショッピングタイムもあり、楽しいひと時を過ごしました。
「銚子ろまんぷろじぇくと」代表の関根真弓さんは、6月に神栖市の長照寺で行われた「神栖亭落語会」で「権助魚」を演じたばかり。落語の勢いが夢二まで届きました。参加されたみなさん、お疲れさまでした。夢二も雑草の藪の中から抜け出して、おしまさんとの思い出を新たにしていることでしょう。
●夢二画でわかった「回転式ポスト」の顔装飾
初めて日本に赤い鉄製の筒型のポストが登場したのは明治34年(1901)。俵谷高七という発明家が製作した日本初の赤色鉄製の円筒形ポスト(郵政博物館の入口に複製があります)で、試験的に日本橋郵便局に設置しました。その後、明治41年(1908)になって設置されたのが「回転式ポスト」です。ポストの“顔”の部分が回転するようになっていて、突起したツマミを持って回すと差入口が現れ、手を離すと自動的に元に戻って差入口がふさがるというもので、雨除けには最適の画期的なポストでした。
ところが、この回転盤には短所もあり、冬の朝など凍り付いて回転しないことがあったり、子どもが差入口に指を挟んだりしたことで、改良の必要性が生じてしまいました。
そこでさらに改良を重ね、4年後の明治45年(1912)に「庇付(ひさしつき)ポスト」が登場しました。これは、今よく見かける丸型ポスト(郵便差出箱1号丸型)と同様、庇がついて差入口が開きっぱなしのものです。ただ、ここに至る間に、「回転式ポスト」の回転盤を固定して動かないようにし、庇だけを取り付けたものなど過渡的なものがいくつか存在しています。(現存している庇付ポストでも、差入口が湾曲したものと真直ぐなものがあります。)
ところで、JASMINe Project Internationalのロゴに使用している夢二画「都より」に描かれているポストですが、これに庇がなく、顔の中央上部にツマミがあることから、「回転式ポスト」と思われます。しかし、夢二画のポストの“顔”は全面金色で、郵政博物館に展示されている唯一している資料とはずいぶん違います。展示品のものは全体が赤色で「〒」だけが金色です。
竹久夢二美術館の石川桂子学芸員によると、この夢二画は明治44年(1911)11月に刊行された『少女の友』第4巻第13号の口絵とのこと。すでに庇付ポストへの変更が決定し、製造が始まっていたかもしれません。ですから、夢二の描いた回転式ポストの製造はもう中止となっていたのかもしれません。
いずれにしても、この夢二画で一つ分かったことは、当時の回転式ポストの“顔”は全面金色に装飾されていたと思われることです。それは、その後の庇付ポストの“顔”が全面金色であることからもわかると思います。詳細な経緯はまだわかりませんが、夢二画が丸型ポストの歴史解明の小さな一歩になったかもしれません。
ちなみに、逓信協会雑誌(通信文化協会の前身が発行していた雑誌)によれば、明治41年(1908)、「ポストの色について部下から問われた当時の逓信大臣後藤新平が『赤色にしたらいい』と言った」という記事がありました。理由は目立つことと、世の中が明るくなるということだったようです。後藤新平は8年間にわたる台湾での民生長官の仕事を終え、南満州鉄道総裁を2年務めた後に帰国し、この年に逓信大臣になっています。まさに「回転式ポスト」が誕生した年です。つまり、日本での鉄製丸型ポストの正式使用は後藤新平の時に始まったのですね。台湾で夢二が書いた唯一のエッセイ「台湾の印象」で言及した後藤新平との関りがこんなところにもあったというのも不思議な縁と言えるでしょう。
▼回転式ポスト(実物、郵政博物館)差入口を稼働させたところ
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