■メッセージ■

「夢二郷土美術館 本館」と「夢二生家記念館・少年山荘」が、人気イラストレーターで、藤井風のグッズのイラストでも話題を集めるマツオヒロミ氏と竹久夢二作品のコラボレーションをテーマにした企画展を開催しています。夢二の作品は、時代を越えて今もアーティストやデザイナーに大きな影響を与えており、岡山で活動するマツオヒロミさん(1980-)もその一人。子どもの頃に夢二の作品に出会ったことがきっかけでイラストレーターになり、夢二に影響を受けた女性像が人気を博し著作本の執筆、書籍の装画など活動の幅を広げているとのことです。

同館本館ではマツオヒロミがイラストレーターという視点で選んだ夢二作品を多数展示。マツオヒロミ作品からは夢二の「セノオ楽譜〈蘭燈〉」からインスピレーションを受けて描き下ろした新作《FANTASIA》を含め、初公開作品を多数展示しています。「もしマツオヒロミが夢二の開店した港屋絵草紙店店主だったら」というコンセプトで夢二作品を展示するコーナーもあるそうで、ちょっと覗いてみたいですね。(「山陽新聞Digital」より)

https://www.sanyonews.jp/photo/detail/1281569

マツオヒロミ1
 

■竹久夢二の素顔■

夢二と時を共にした人々の証言から夢二の素顔に迫ろうという企画。第2回目は、性格です。これは賛否両論に分かれ、議論にもなるところで様々な見方がありますが、「竹久夢二という生き方」(石川桂子著)でも相当量の掲載があるので、2回にわたってご紹介します。

寡黙で遠慮がちに見える一方芯が強いところが垣間見えます。次男の不二彦氏、夢二と親交のあった望月百合子氏の言が鋭いですね。

【2 夢二の性格】

●中原綾子(「夢二さんの想い出」『本の手帖』1962.1

ただ神経質に鋭いばかりでなくて、何処やらぼうっと抜けた処のあるのがあたたかく、親しみ易い感じでした。

●河村幸次郎(「夢二に会った頃」『竹久夢二展』川村幸次郎コレクション1988

不二彦君が云うように寡黙だった。しかし絵のことになるとよく話した

●佐々木正一郎(「松沢村当時の夢二」『竹久夢二展』1971

夢二は口数が少なく、物静かで余り自分を主体にして話すこともなく、寧ろ遠慮勝ちなところがあった。

●西沢てる(『新しい天地』1989

初めて逢う未見の手紙の主は、痩せて、色の黒い、鋭い眼光を持った極端に無口な人間で、彼は、常識的な初対面の挨拶などは一切抜きに、まず画家らしい無遠慮さで、じろじろ私の顔を眺め廻し、徐むろに口を開くと、低い小さな声で、「僕は、竹久夢二です。僕は生活のために絵を描いています」と言っただけであった。

●花奴(花奴談、竹久夢二美術館員による聞き取りより1994.2

夢二は毎晩のように来ましたが、無口な人で、ただ黙って静かにお酒を飲んで帰りました。

●濱本 浩(「若き日の夢二」『書窓』19368

夢二さんは友人を紹介する場合に限らず、何につけても説明が嫌いだった。だから弁解の必要な場合でも苦笑して済ますことが多かった。

●安田徳太郎(『思い出す人々』1975.6

無口であったが、いつもニコニコ微笑を浮かべて、たいへんよい人であった。

●柳原白蓮(「夢二さんのこと」『本の手帖』1962.1)

私がまだ九州に居た頃、一度、まだ小さかった男の子さんを連れて、九州への旅行がてらに訪ねて来て下すったことがありますが。それ以前にも、いくらか手紙のやりとりはしていましたし、夢二さんの文章や絵などはもちろん見ていて、好きだったのですが、さてその時、会ってみると、何だか気むずかしい、とっつきにくい人でした。文章や絵で想像していたのとは大変違う印象でしたね。

●望月百合子(「望月百合子氏インタビュー」文京CATV1991.9

笑ったのは、その薄笑いをいっぺん見ただけで、ずっとおつきあいをしていていっぺんも笑顔を見たことありません。あのひといつでも憂鬱な顔してましたよ。

●小沢武雄(「晩年の夢二と」『本の手帖』962.7)

サンフランシスコの安曇穂明(日本とアメリカ社社長)の家で、最後の夢二対翁の談判があって、私はその席に立会人みたいな形で居合わせたが、珍無類な別れ話で私はその時、この夢二という人物が、いかに超人的な駄々をこねる人かを知り、これは始末におえないと思った代わりに又その晩から私は夢二のファンにもなってしまった。

●竹久不二彦(「手づくりのデザイン」『別冊太陽 竹久夢二』1977

・いま考えれば気まぐれでしたね。子供を熱心に世話したかと思えば、放り出したりするのだから。

・人からのお仕着せが嫌いで、自分流儀な好きな夢二だったから、身のまわりなんでも自己流でおし通していた。

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■夢二の台湾旅行(復習編)■

これまで長期にわたり追ってきた夢二の台湾旅行の概要と着目点などについてまとめていきます。

●第2回 「台湾に行った理由」

昭和6年(19315月以来、夢二はハワイ、アメリカ西海岸、欧州各地と旅をつづけましたが、特に後半の欧州では無銭旅行に近い状態となり、パリの路上で倒れたりするなど苦しい経験をしました。さらに、最後の滞在地ドイツでは、ヒトラーの率いるナチスの隆盛により日本画の教授もままならなくなり、ついに昭和8年(1933918日、夢二は衰弱しきった様相で神戸港に到着しました。

帰宅後、夢二は眠ったり原稿を書いたりする生活をしていましたが、産業美術学校と手による産業に関する意識は大幅に変わったようで、「若草(11月号)」の「島へ帰り着く」に次のように書いています。

「『榛名山産業美術学校』の件だけは、いささか世間知らずの技術家気質のよさまずさを共に示している。もっとも、私の「手による産業」の提唱が全く新しい創意でないにしても、その実践を科学的に学びたいという熱意がその頃の私にはあった。(中略)また「何」を「如何」になすべきかに就いての私の旅に、多少の発見と発明がないではなかったが、三年の月日の間に私の心持ちも変わってくるし、日本の状態も変わってしまった。」と美術学校に対する考え方に変化が見える一方、絵画に対する意見は全く変わっていないようで、「技術家の立場から言えば、今も世界は単なる一枚の芸術的絵画など要求してはいない。人間の合理的近代生活に必要な建築或いは服装を込めた総合芸術の一細胞としてのみ絵画は存在するにすぎない。(中略)日本の如く、幾万人の画家が、貯金帳を持って清貧に安んじながら、およそ人間生活に縁の遠いこうとうむけいの作品を陳列し、市民は拝観料を払ったり、払わなかったりしてのたりのたりと上野の森に出向くという、こういう優美な国民は、ちょっと世界無比であろう。」ずいぶん手厳しく言い切っています。やはり夢二は、人間生活に役立つ美術のあり方に徹底的にこだわっています。

夢二が寝たり起きたりして日々をすごしているところへ、河瀬蘇北(本名龍雄)との再会がありました。夢二が外遊に出る前に本の装幀をした人物です。彼はアジア政策の研究家ですが、「東方文化協会」の理事長であり、台湾支部の新設に伴う夢二の講演会と展覧会の開催を提案してきたのです。夢二は長旅の疲労と長引く体調不良のため迷いましたが、星島儀兵衛などへの借金の返済のことも気になっていたこともあり、渡航を決心しました。

夢二が逆境を押して台湾渡航を決めたのは、米欧の旅でできた相当額の借金をしていた、というのが直接的原因だったといわれています。彼は、翌年結核とわかり信州の富士見高原療養所に入院しますが、その時も、外遊時や有島生馬に入院の際に借りた借金のことなどを日記に書くほど気にしています。安易に借金はするが義理堅い、というのが夢二の心情として見えています。

また、台湾に対する内地の日本人の感覚が国内と同じ感覚であった、ということも言えるような気がします。実際、台湾統治が始まったころ、「日本と同じような環境にする」という良くも悪くもとれるような強硬政策により(明治31年の児玉・後藤体制時は国家予算の1/4強をインフラ予算に計上したといわれる)、衛生状態、交通、福利厚生から教育に至るまで積極的な取り組みを行ってきたということがそうさせたのかもしれません。台湾へ移民した日本人の生活は、統治開始当初は相当大変だったようですが、夢二の行った頃になると、少なくとも物質的な環境整備は相当進んでおり、「気候が温暖で病気療養にはいいんじゃないの」といった助言があったのも、また夢二がそれを鵜呑みにしたのも頷けます。

私事ですが、大正3年生まれの亡母は戦前日本郵船と関わりがあったようで、「台湾からバナナをたくさん送ってもらったので助かった。台湾は暖かくていい所らしい」と話していたことがありました。少女雑誌にも台湾の読者からの寄稿も見られ、本土での台湾に対する感情はまさに“本土並み”だったのかもしれません。

米欧の旅で疲弊した夢二が台湾に行くことを決めたのは、このようなことから、台湾は暖かい静養地のようなところで、しかも個展で絵が売れる、ということから判断したのではないかと思われます。おそらく、かつてのように絵が売れるという胸算用もあったのではないでしょうか。

つまり、「台湾は日本本土と同じようなところ」という感覚による気安さから、54枚もの絵を携えて2日、3日もの船の旅をしてまで行こうということになったのでしょう。(今回はさすがに船中で描くことはなかったと思われます。)

実は、台湾北部の10月下旬から11月の気候は、本土と比べれば気温は高いものの、相当の降雨量のある10月に続き湿度が高く、蒸し暑さから肌寒さへの移行時期。11月半ばになると気温は高くても体感温度はグンと下がるといわれています。さらに、船の発着の基隆港は「雨都」「雨港」などとも呼ばれるほど雨が多いところで、おそらく雨に煙る港の行き来だったことと思われます。台湾が本土と違って亜熱帯だということも、病身の夢二にとってはあまりよくなかったと思われますね。(つづく)

▼基隆港(日本統治時代)夢二訪台時は主要桟橋が改修中で、地図右側の仮設に停泊した。
【絵地図(基隆港)】 (2)
 

■夢二の世界■

PART 3 KAWAIIの世界」(「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より)

34 服飾小物×洋 ― 帽子

大正14年(1925)頃より洋装化の波によって洋裁学校が次々と設立され、その頃より帽子もおしゃれアイテムとして注目されるようになりました。

帽子の形は、毛髪をすっぽり包み込むように深く被る大きな形が最初は主流で、丈の長いスカートとバランスがとれて美しい帽子姿を演出しました。それが昭和に入ると断髪が流行し、帽子も小さく軽快な形へ変化していきました。

昭和3年(1928)に、昭和天皇のご即位の際に参列した女性は洋装で、全員美しい帽子を被っていたことから、洋装には必ず帽子を被るという習慣が生まれたと伝えられています。

竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より
本「かわいい手帖」帽子 (2)
 

■夢二の言葉■

●人間はどんなに 文明人になっても 田舎の自然を わすれてはいけない。

(お葉宛の手紙より(1920920日))

●年のくれになるといつものことだが来年こそはと考え直す、考え直しているうちに年とって、死ぬまで人間は考え直すかもしれないのに、考え直すのは仕方のない、まあ好いことでしょうか、ね。

(大藤昇宛の手紙より(19211213日)

●芸術の技巧は時代と共に進歩に限りがない。科学はますます技巧を助けるだろう。      

ある絵のうまさには誰でも達しられる。だがもう一歩先きのもの、或は色の線の言葉のうちのものはその人のものでなくてはならぬ。

そこにある芸術の存在価値があり、その人にとって生きてゆく理由がある。

(『夢二日記』(19271011日)

 

■夢二情報■

●イベント「夢二と台湾2023」講演会を2023112日(木)に台湾大学で開催(入場予約制)することが、同大学日本語文学系所・田世民副教授との協議で決定しました。同講演会は林 健志(JASMINe Project International代表)と王文萱(京都大学博士・日本茶大使・夢二研究会会員)により実施、夢二の台湾旅行を解説する動画「夢二 台湾客中」(「合同会社 きよみず」制作協力)の上映が予定されています。なお、新型コロナ禍の状況により予定変更の可能性がありますことをご了承ください。

▼台湾大学日本語文学系所及び田世民副教授と王文萱氏(夢二研究会ツアー時前列中央)
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