■メッセージ■
昨年9月から1年近くにわたり台北・北投文物館で開催してきた夢二展「竹久夢二的視界」の企画者・王文萱氏から、同展に引き続き日本台湾交流協会ホールで開催した夢二展での講演会の報告がありました。
「7月3日に日本台湾交流協会で講演をさせていただきました。場所の制限があるので、100名以上の応募者から抽選で50名ぐらいを選びました。また、会場には夢二の作品や龍星閣の版画、夢二研究会の会報、湯涌夢二館のチラシなどを展示いたしました。」
王文萱さんの講演会はいつも抽選漏れの人がたくさんいるようですが、何回か開催したら大変喜ばれるかもしれませんね。夢二もうれしいと思います。
■竹久夢二の素顔■
夢二と時を共にした人々の証言から夢二の素顔に迫ろうという企画。今回は、「性格」の2回目です。今回はかなり詳細なコメントもあります。「竹久夢二という生き方」(石川桂子著)からどうぞ。
【3 夢二の性格(2)】
●西原比呂志(談)
当時私も若かったですが(ニ十歳そこそこ)、夢二さんは口数少なく、優しい反面自我が強く、少しわがままなひとだった、と記憶します。
●正富汪洋(「夢二追憶」『書窓』1936.8)
一人の女と同棲していて又は関係を続けていて、他の女と、関係するというところに、彼の我儘を押し通す強さがある。
●正木不如丘(『高原療養所』1942.6)
夢二はどうしてあんなに若い女性から慕われたのであろうか。あの個性横溢する夢二の画への憧憬からばかりでは決してない。あの物静かな物言いの底にかくされて居るロマンチストの心の中が若い女性にも分かったのであろうか。
●福田蘭童(「夢二をめぐる娘たち」『本の手帖』1967.4)
夢二は嫉妬心がふかくて、男性に女性をとられるのを極度におそれていた風であった。
●上田龍耳(「無題」『書窓』1936.8)
私の知って居る夢二君は非常に義理固い人でした。
●西村伊作(「夢二の追憶」『書窓』1936.8)
友人に対する信頼の心と云うものが非常に強くて、信じた人に対する死ぬ迄のその親しみの心と云うもの、それは只利害から来たものでなく、普通の人の間の親しさ、利害関係が原因した親しさでなしに本当の親しみを持つと云ういい力を持っていたと思う。
●花奴(花奴談 竹久夢二美術館員による聞き取り 1994.2)
夢二という人は、女をたぶらかしたり騙したりするような人では決してなく、まじめで誠実な人でした。
●恩地孝四郎(「夢二の芸術・その人」『書窓』(1936.8)
私は余りに彼を悲壮に語りすぎている。が、この血みどろの裡にあって、又一方甚だユウモアに富んでいた。ゆとりのある心を失っていない。彼のこの心持ちは子供の世界に対する時に一番なだらかに自然に現れていた。彼の小供のための著作をみるときにそれは誰にも感じられよう。
●藤森静雄(「夢さんの思出」『書窓』1936.8)
家庭に於ける夢さんは、私の観る限りよきパパであった。彦君をよく可愛がった。すこし可愛がりすぎた。
●望月百合子(「夢二とユリボ」『婦人公論』1974.4)
夢二という人は女も家も山も木も凡てを自分好みに作り替える創造力みたいなところがある。
●望月百合子(「夢二とユリボ」『婦人公論』1974.4)
・ふと気がつくと私の犬がちょこんと私の右側に来て坐ってじっと夢二をみつめている――追い出し家中の戸をしめて又話しこんでいると、いつの間にか犬は又同じところに来ている。また追い出したがやはり同じことの繰り返し、夢二はとうとう笑い出して、「この犬、僕の弱い性格を見抜いていて、あんたを護ろうと一生けんめいなんだよ。偉い奴だ、いい犬だね」と言うと私の犬の頭をなでた。
●望月百合子(「望月百合子インタビュー」文京CATV 1991.9)
・<春草会にはいったいきさつより>私が父(石川三四郎)の娘だということがわかりましたから、夢二さんとても心配なさったんですね。これからの一生の間ね、どんな目に合うかわからないしということでね、父と同じような道を歩くに違いない、だれも保護者がいないですよね。そうすると東京の私を何かの時手助けしてくれる、守ってくれるそういう人がなきゃならないし、自分もそういう時はやっぱり絵描きだからあんまり力が弱いしね…
●竹久不二彦(「父としての夢二」『竹久夢二展』1977)
いま考えれば気まぐれでしたね。子供を熱心に世話したかと思えば、放り出したりするのだから。だからといって、子供の将来のことを考えていないといえばウソになります。小学校に入るころでした。自分の生活ぶりに不安があったのでしょう。私を金持ちの子弟しか入らない全寮制の小学校に入れようとしたこともありました。でも、夢二の日常生活が問題にされたのでしょうか、入学出来ませんでした。
●竹久不二彦(「父の思い出」『竹久夢二展』河村コレクション 1988)
いつでも父は誠実で、一緒に生活する者に優しく正直に対していた。ただそういう男女の自由で正直な表面的な交際が新聞や雑誌に取りざたされて、クラスメートたちに何かからかわれたりするようなことだけは、当時のわたしにとってはちょっとつらかった思い出ですが、それも父に非難めいた気持を抱いたlことはありませんでした。どんなときもわたしは正直な父を大好きでした。
●竹久不二彦(「父としての夢二」)
放任主義で、私が覚えているかぎり教訓めいたことはほとんどいわなかった。
■夢二の台湾旅行(復習編)■
これまで長期にわたり追ってきた夢二の台湾旅行の概要と着目点などについてまとめていきます。
●第3回 「台湾に誘った男―河瀬蘇北」
夢二を台湾に誘った人物―河瀬蘇北(本名龍雄)は「東方文化協会」の理事長で、大正から昭和初めにかけて十数冊の著書のあるアジア政策の研究家。夢二の帰国を待っていたかのように、「台湾支部の開設記念にで講演会と展覧会からなる記念事業を行いたい」と申し入れてきたのです。
実は、夢二は蘇北とは初対面ではありませんでした。昭和6年(1931)3月、アメリカに発つ直前に河瀬蘇北の著書「新満蒙論」(第一出版社)の装幀を行ったのです。夢二が洋行する話を聞いていた蘇北は、夢二が帰国したと知って、ちょうど良い機会と判断したのでしょうか。台湾での個展ということで、海外旅行疲れしていたであろう夢二も気安く“温かい所で静養する”程度の気分で承諾したと思われますし、何といっても、個展で入った収入でずっと気になっていた借金を返すあてが出来たという点が魅力だったと思われます。
ところで、夢二が装幀したという「新満蒙論」ですが、冒頭の「序にかへて」を読んでみると、蘇北は夢二と気の合いそうな部分が見えてきます。ただ装幀をした、というだけではなく、夢二と似たような考えの持ち主でもあったのかもしれません。特に、夢二も台湾での唯一のエッセイ「台湾の印象」で言っている服装に関する部分が非常に似通っている感じがします。前回(第34号(3月20日)では要所部分を全て記載しましたが、今回はこの部分に焦点を当てて見て見ると、次のようになります。
1 「私は往年、海外に遊んだとき、いたる處の都や港で、支那人の羽振りのよさを見せつけられました。我々日本人が日清日露の戦勝の結果、馬鹿に支那人を見くびつて、全然之を差別的に待遇して居た時に於て、――私自身又チャンチャン坊主と見くびる事に、何等の疑を挟まなかった時に於て、海外諸国に於ける支那人の、経済的には勿論社交的にも、その異常なる発展、根ばりの強さを見、更にまたいついかなる時に於ても、我々が劣等人の風俗として、茶番狂言によく之を採用した處の支那人獨特の風俗、お國振りのそれに始終して堂々たるのを、所在に発見した時に於て、私は支那人に對する、私の考へ方を變へねばならないと思ひました。」
⇒つまり中国人に対する見方、考え方を変えてその優れたところを活かすべきであり、今の日本人は学ぶべきところがある、といことです。
2 「往時日本の對支政策なるものは、帝国主義に終始して居ました。辰丸事件の無理押しに、猛烈なる排日問題を起したり、かの日支廿一條の強硬要求をやって、全支那の激烈なる反感を買ったりしてゐるのを見て、私はこれではいけないのではなからうか?と本氣に考へはじめて見たのです。また支那の革命運動にしても、拾年も出でないうちに八人の元首がかはり、兵亂相次ぐが為めに、その運動はものにならず、支那は國際管理か、または分立かなどと、僅かの歳月の間の動静のみを見て判断せんとする日本人の見方は、誤まつ(ママ)居るのではなからうか。我國の明治維新とて前後四五十年を要してはじめて完成し、仏蘭西革命にしても三拾年の騒擾(そうじょう)時代を経て居る事を思ひ合せて見て、支那の革命運動がしかく(ママ)簡単に片付けらる可きものでない事は明瞭だ。即ち見方の間違ひの為めに受くる處の損害の如何に大きいかを考へたとき、私は本当に支那を研究して見ねばならぬ、公正の立場に於て、捕らはれざる立場に於て之を研究することの、私自身の為めばかりでない事を思ふたのでした。」
⇒明治維新やフランス革命の話を取り上げるなどして、中国の現状を正視し、研究することが必要であるとして、帝国主義に終始する日本の在り方を批判しています。
3 実際に幾度も満州を訪れた結果をもとにして、「わが特殊地位を獲得してから后幾年間かの、本当にいきいきとして希望に燃えつゝあつた満州と、欧州文明を其儘に移し植えたやうなる最近の満州、而もそれは全く生氣を失ふて姿形のみただ整ふた満州とを比較して深く感ぜさせらるゝ處あつたのです。支那人なしでは、生きて行くことの出來ない満蒙の地に、日本をうち樹てんとすることの困難は、はじめより分かりきつた話です、然るに我々の國はその支那人を眼中に置かなくして、其處に日本をうち樹てんとしたのはなかつたでせうか。その誤りは今日に於いては、最早如何ともすることが出來ないのです。即ち其處に、(1)満州から支那人を追佛つて、日本を建設するか、満州を開放して、今の如き特殊地帯のみに共喰ひする愚をやめるか、の左右二つの議論の生れ出でねばらないことは、諸君には確かに判つて戴ける筈と思ひます。」
夢二は、台湾渡航を決めるまでの間、そして台湾に向かう船内でもこのような話を蘇北からたくさん聞いたことでしょう。病気と疲れから当初はあまり強い関心を持たなかったかもしれませんが、台湾に到着してからは、台湾について様々なことを見聞きする間に、蘇北の言っていたことも考えに反映されてきたのではないかと思われます。
また、後に帰国直前に書いた夢二のエッセイ中にある服装については、蘇北も語っています。その中には夢二がエッセイのタイトルに使った「グロテスク」という単語さえ見えています。
蘇北は夢二との同行する前に何度か訪台していて、この2か月前には、「台日」に8回にわたって、「台湾素描」を連載しています。これについて、ひろたまさき氏は論文「夢二―最後の旅」に次のように書いています。
「いわば彼の台湾紀行といったものだが、その観察は当時の植民地主義者のなかでも冷静な観察であり、台湾認識としては優れた部類に属すと言えよう。そこに『婦人の服装』という項目があって、『台湾婦人の服装の、著しく清潔となり明るさに富めることにビックリした。・・・・・・孰れも洋装に近いスカートの支那服で、その柄といひ、かく構(格好)と云ひ頗るスマートでした。……総督府で別に服装改良を提唱した譯でないと云ふから、全く自発的です。文化の低い台湾人、生活程度の低い彼等に自発的に而も夫人に、斯かる現象の興ったと云ふのは、抑も何か。台湾にいる内地人の多くは、その話をしても、はァさうですか、と誠に無関心だ。恰も台湾人の風俗などは、我々の問題外と云った態度だ。そして台湾の首府台北で見るところの、日本婦人の街頭進出風景は、丸髷にアッパッパ、さらにご丁寧に下駄と云ふ、生蛮人すらも眉をひそめそうなグロテスクなものです。彼我対照して一考の価値なきや否や』と問うている。大変率直で、台湾人の衣服を観察してほめるなど、日本の植民地主義者の無知と倣漫をいさめているのである。」
確かに、夢二のエッセイを読み解くにはキーになりそうな文章です。(つづく)

■夢二の世界■
PART 3 「KAWAIIの世界」(「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より)
35 ヘアスタイル
明治初期から流行した、夫人の西洋風の髪の結い方を、“束髪(そくはつ)”と称しますが、日本髪と比較して衛生的で簡便なために広まり、「揚げ巻」「イギリス巻」「マーガレット」「夜会巻」「S巻」「二百三高地」など種々のスタイルが登場しました。水油を使用し手軽に結うことができ、和装・洋装いずれにも似合うことから、明治後期から大正期にかけて広く行き渡りました。さらに定番の型だけでなく、個性を追求して自分に似合うアレンジも可能でした。
大正中期頃からは髪にウェーブをつけることが好まれ、さらに欧風に進化した束髪「耳かくし」も生まれて、昭和初期にかけて大流行しました。
少女の髪形に注目すると、「おさげ髪」が主流でした。「おさげ髪」は、現代では髪を左右に分けて結う「三つ編み」をさしますが、当時は前髪を額で切りそろえ、髪を後ろで一つに束ねて大きなリボンを結ぶスタイルで、特に女学生の髪形として人気でした。また髪飾りとして、幅広の大きなリボンをつけることが流行りました。時には上下2か所に結び、黒い髪にピンクや黄色のリボンが趣を添えました。
■夢二の言葉■
●新しいものを作ることは むつかしい、 いや新しく感じることが むつかしいのだ。
(「素描」より/『民謡歌人』(1928年3月号))
●過ぎ去るものは 忘れやすい。 近くにあるものだけが 魅力を持っている。 そして おもしろいものだけが おもしろい。
(「愛誦詩集」より/『若草』(1928年10月号)
●金儲けをしたい日本の商人諸君に告げる。 去年売れたものが今年売れると、考える時代は過ぎた。 今日の経験が明日の参考にはならない。
(「東京よりの旅人」より/『ニッポンとアメリカ』(1932年9月号)
■夢二情報■
●「第27回夢二忌俳句大会」が、夢二の命日に合わせ、9月1日に群馬県渋川市などで開かれます。大会実行委員会では、大会参加者と、同日表彰式を行う「第25回夢二俳句大賞」への投句を募っています。
この大会は新型コロナの影響で開催は3年ぶりで、夢二が親しんだ榛名湖周辺をバスで巡った後、伊香保温泉のホテル天坊で句会と俳句大賞の表彰式を開くことになっています。大会は参加費3000円(バス代は別途必要)で、当日参加も可能とのこと。(上毛新聞)
URL: https://www.jomo-news.co.jp/articles/-/150015
コメント