■メッセージ■

王文萱氏の著書「竹久夢二 Takehisa Yumeji」が台湾文化部による小中学校おすすめの課外読み物に選ばれました!台湾の小中学生に読まれるとは、心のこもったまなざしで子ども絵を描き続けた夢二にとっては本望でしょうし、台湾は彼の最後の旅の訪問地。来年は竹久夢二訪台90周年記念の年ということも縁深いことです。

▼王文萱氏の著書「竹久夢二 Takehisa Yumeji」と王文萱氏
王文萱的書表紙
177

 

83日、金沢湯涌夢二館で特別展「夢二の工芸―染色・刺繍、人形、竹工芸―」がスタートしました。機械による大量生産を嫌い、地方の風土を活かした手による産業を唱えた夢二。「榛名山美術研究所」の設立宣言後、榛名に戻ることを夢見て米欧の旅に出た夢二は、帰国後台湾に向かいましたが、その時のエッセイにも「日本人もまた本島人の住宅と衣服に就いて学ぶべきものがあると思ふ。ことに台湾に生活するときに於いて。つまり台湾の風土に適応するために、およそおかしきものは台湾に於ける女の学生の制服である。」と書いています。苦労して米欧の旅を終え、体調不良のまま台湾に行った夢二でしたが、その信念は変わっていなかったようです。

同館の展覧会内容説明をご紹介します。最近コロナ感染者の急増や悪天候に見舞われていますが、これが落ち着いたら夢二館を訪ね、金沢湯涌温泉で心を癒してください。

「竹久夢二(1884-1934)は、気持ちよく楽しい日常生活を願って、普段使いの工芸品を手がけました。機械や科学技術による大量生産よりも、地方の風土を尊重した「手仕事」による制作を重視しています。 夢二は、大正初期から、夢二式美人画の装いを具現化した半襟や浴衣地をデザインし、昭和初期になると、アマチュアの人形制作グループ「どんたく社」を結成して仲間とともに、抒情を立体化しました。さらに、「榛名山美術研究所」の設立宣言文を発表し、絵画・木工・陶工・染織などの「新鮮な素朴な日用品」を研究・制作しようと企画しました。その後、竹工芸の産地へ依頼して完成した夢二デザインの竹籠に、「どんたく籠」と名付けています。

 本展覧会では、工芸の街・金沢で、「染色・刺繍」「人形」「竹工芸」をテーマに、夢二の遺品等から成る「竹久家コレクション」の浴衣地類、東京国立近代美術館の人形、新潟県阿賀野市の二瓶武爾コレクションの竹工芸関連作品を中心に、夢二が携わった工芸作品や資料を展示します。絵画の平面世界を越えて生活空間に広がり、情緒に訴えかける、、夢二の多彩な芸術をお楽しみください。」

kougeiomote
kougeiura


 

■竹久夢二の素顔■

夢二と時を共にした人々の証言から夢二の素顔に迫ろうという企画。今回は、「芸術・哲学」です。このテーマは恩地孝四郎等の考えが多数の著書に見られますが、これは別途とりまとめる予定です。今回はまず、「竹久夢二という生き方」(石川桂子著)からご紹介します。

【4 夢二の芸術・哲学】

●有本芳水(「夢二と私」『本の手帖』19674

旅を好むふたりは、連れ立って旅をした。潮来、志摩の鳥羽など、昔栄えて今はさびれた港を探し求めて旅をした。ふたりはそこに絵を求め、詩を求めるのであった。

●恩地孝四郎(「夢二の芸術・その人」『書窓』19368

彼はいつも濡れたような感情を愛した。人情のこまやかさに生きることを欲した。

●高島平三郎(「無題」『書窓』19368

女から女へ移って行くのは、純粋の道徳から云うと悪い事かも知れませんが、夢二は全く情の人である。感情と云うものは変わっていく来るのが当たり前だ。変わって来るのが感情で、変わらなければ感情ではない。極端から極端に行く人です。

●濱本 浩(「若き日の夢二」『書窓』1936.8

夢二さんは、生活的には良き意味のリアリストであり、芸術的には優れたロマンチストであった――夢二さんは精神的にはロマンチストで、実際的にはリアリストだとも云える。夢二さんは勇敢にリアルを見つめ、リアルに失望する。

●正木不如丘(『高原療養所』1942.6

「死ぬことは何とも思わない。人生は時間だから。」と云った事があった。死生を超越するなどと云う逞しい精神の燃焼は夢二にはないのである。

●有本芳水(「夢二と私」『本の手帖』1967.4

挿絵画家として、明治、大正、昭和を通じて第一人者と言われたが、その夢二にも人知れぬ悩みがあった。挿絵画家として一生を終わりたくない、本格的な絵をかいて、後の世までも名を残したいということであった。

●有島生馬(「ボヘミヤン夢二」『夢二』1940.6

夢二のことを思い浮かべると、風貌からも風俗からも日常生活からも、道念からも、恋愛からも、嗜好からも、ボヘミヤン的といふ言葉が一番よくあてはまる―――彼が鉛筆とスケッチ・ブックを手からはなしたのをみた事がない。どんなものでも描いた。どんなものでも画の参考になるものは集めて置いた。彼のスケッチ・ブックには寝乱れた女の姿がどの位無数にあるか知れない。愛人が寝入っている時、彼はそつと床を抜け出て、冷やかな画人として、必ずスケッチに熱中したものであろう、この画狂人的態度が世間の諸てを忘却せしめた。彼のボヘミヤンであるという真因はそこにある。画に熱中して来れば世間のことは諸てはどうでもよくなった。時には義理人情も忘れた。金銭衣食のことも忘れた、ましてや粉々たる毀誉褒貶の如きは全く眼中になかった。

*:毀誉褒貶(きよほうへん):ほめたりけなしたりすること

●安田徳太郎(『思い出す人々』1975.6

荷物をほどいて、本棚に本をならべたとき、その本が当時丸善や伊東屋で売っていた、豪華版のドイツ語のキンダーブーフーや英語の絵入童話集であってそれが何十冊もあった。わたくしは夢二さんはたいへんな勉強家だとつくづく感心した。

●西村伊作(「夢二の道徳」『書窓』1936.8

夢二氏は子供とはそう云う関係でなくて、或時はもう非常な友達である。で親子と云う関係を忘れた友達、対等の人間としての友達であることが出来て、或時には実際心の底から自分の適役見たいな気も持ったことがあるようである。

 79f9c912 (2)


■夢二の台湾旅行(復習編)■

これまで長期にわたり追ってきた夢二の台湾旅行の概要と着目点などについてまとめていきます。

●第4回 「夢二、台湾に着く」

昭和8年(19331023日、夢二と河瀬蘇北を乗せた大和丸は横浜港を出港しました。

この出港日に関しては、1024日という説が一般的でしたが、夢二研究会会員高橋邦明氏の日本郵船等への調査で、1日前に出港するスケジュールとなっていることがつい最近判明。また、当時の日本郵船㈱の資料によると、基隆港の税関に近いバースは改築工事中だったようで、同船は湾口に近くに設置したバースに停泊したと思われます。鉄道が湾口の方まで伸びていていて、夢二たちもここから汽車に乗って台北に向かったと思われます。これは、日本統治下の台湾の様子(1931年)を克明に描いた台湾映画「KANO1931 海の向こうの甲子園」(永瀬正敏主演、馬志翔監督)の中で、着港した大型船のバースを蒸気機関車が走るシーンがありますが、当時の様子がうかがわれます。

港では例によって記者たちが夢二を待ち構えていたようで、早速インタビューが行われましたが、注目されたのは展覧会よりも夢二の欧州からの帰国についてでした。つまり、記者たちが関心があったのは、夢二はヒットラーに追い出されたのではないかということでした。これに対し夢二は、翌日に台湾日日新報に掲載された記事によると、自分がナチスに追われたことは否定し、技術、芸術家のユダヤ人が人種的迫害を受けたためにドイツの技術に見込がなくなったことを理由としてあげています。その中で、「例外として金融資本家のユダヤ人はなんら排斥を受けていないのは資本主義時代の一つの矛盾を示している」、「西洋人の複雑した感情はどうも私共にはよくわかりません」と資本主義に対抗する姿勢を見せる一方、西洋人の考え方が理解できないとしてこの部分の意見を留保。また、ナチスの芸術に対する方法については発展性が認められないことから、現実的な問題として音楽を取り上げているところも興味深いと思います。

際には、彼が日本語を教えていたイッテン・シューレは彼が辞職した翌日にナチスの攻撃を受けて壊滅させられており、また、ベルリン滞在中には、ひしひしとナチスの横暴の度が増してくることを日記に記載しているのですが、これに関する詳細については触れなかったようです。

ここに夢二のインタビュー記事を紹介して、次回、鉄道にて台北鐡道ホテルに到着する夢二の行動に進みます。

「私はナチスから追はれたと云ふことはありません。例のユダヤ人の排斥で技術、芸術家のユダヤ人が人種的迫害を受けた結果、ドイツの技術も見込がなくなったので帰つてきました。日本人排斥と云ふことなどありませんが、事実をゆがめて通信をやつたと云ふのでこうした目にあった例があるそうです。

ユダヤ人には技術、芸術家など頭のよいのが沢山おりますが、これらは漸次迫害されて国外退去をしてゐますけれど、例外として金融資本家のユダヤ人はなんら排斥を受けていないのは資本主義時代の一つの矛盾を示している様です。西洋人の複雑した感情はどうも私共にはよくわかりません。ナチスの芸術は今後だんだん希薄になつて行きますが、美術は彼等の生活に大した影響はなくとも、音楽が聞けなくなると云ふことは一番の苦しみだらうと思ひます。」(つづく)

▼1930年当時の基隆港(秋恵文庫より)
【風景(基隆港)1930】2

▼イッテン・シューレ(ベルリン)の授業風景(1930年)
授業風景(イッテンシューレ)

 

■夢二の世界■

PART 3 KAWAIIの世界」(「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より)

36 メイクと着こなし

夢二が描く大正時代の乙女の姿に近づきたい!そんなあなたにメイクと着こなしのポイントをレクチャーしましょう。

●メイク

・桃色の頬紅をほんのりつける

・唇は紅を塗って、小さくすぼめたおちょぼ口で

・顔から首筋、襟足も色白に

・つけぼくろをして、ちょっとミステリアスに

●着こなし

・肩の力を抜いて着物をゆるやかに装う

・襟は少し開ける

・帯は胸のあたりに高く締める

・肌の露出は多くせずに着物の場合は時折、袖や裾から自然に手足を見せる

メイクは薄く控えめにしつつ、可憐な表情を浮かべましょう。そして着こなしを含めて姿形は、ゆったりとした雰囲気を醸し出すことが大切です。

次回、服装について夢二が残した文章をご紹介します。

▼竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より
本「かわいい手帖」メイクと着こなし (2)

 

■夢二の言葉■

●こころゆくばかり 泣けないなら、 せめて 泪の出るほど 笑ってみたい。

(無題/『夢二画集 春の巻』(1909年))

●どうせ短い世だ そう、くよくよ、思うなよ。 どうせみんな死ぬんだ。

(岸他万喜への手紙より/1911年夏~1912年秋頃)

●涙で絵の具をとけ そうすることによってはじめて 技巧も生きるのだ。

(笠井彦乃宛の手紙より/191731日)

 

■夢二情報■

各地で夢二展が開かれています。

●「竹久夢二展 ~憧れの欧米への旅~」(石川県立美術館)

金沢湯涌夢二館太田館長のトークも予定されています。

https://www.ishibi.pref.ishikawa.jp/exhibition/11897/

yumeji_omote

●特別展「グラフィック黎明(れいめい)期の抒情(リリスム)と詩情(ポエジー)」(北海道立帯広美術館)

憂いを帯びた女性を抒情性ゆたかに描いた竹久夢二と、絵葉書や絵封筒をモダンなデザインで表現した小林かいち。大正期を中心に花開いた二人の表現世界をお楽しみください。

https://artmuseum.pref.hokkaido.lg.jp/obj/exhibition/program/47

144_yk_flyer_omote
144_yk_flyer_ura