■メッセージ■
私事ですが、8月12日午前3時、孫娘が3500gで誕生。8月13日午後2時帰宅。ハワイの産科では病気の人しか入院させないようです。本人はまた痛いと言ってますが。。。アメリカ本土でも「ハーイ!自分で運転してさっさと帰っていいよ~」っていう感じだったと友人から聞きました。一方台湾では産婦と赤ちゃんに手厚くて、病院を出ると赤ちゃんと二人でホテルに移動して3食昼寝付きの1か月を過ごすとか。みんな同じ苦労して出産しているのに違いが激しいのに驚きました。文化の違いは実に興味深いですね。
■竹久夢二の素顔■
夢二と時を共にした人々の証言から夢二の素顔に迫ろうという企画。今回は、「人気」です。このテーマも様々な著述が見られますが、今回は「竹久夢二という生き方」(石川桂子著)にあるもののほか、様々な資料からの書き抜いたものをご紹介します。
【5 夢二の人気】
●中原綾子「夢二さんの思い出」
私たちの女学生の頃、竹久夢二さんの人気というものはまことに大へんなものでした。いまとちがい、歌手とか映画俳優とか、運動選手とか、人気の対象になる存在がなかったせいもありましょうが、当時若い女の子たちの気もち、夢やあこがれや哀愁。といったものがじつによくとらえられ、好もしく描かれていて、その絵がまるで自分自身のものででもあるような錯覚を抱かせられたということが愛好された第一の原因だったかと思われます。中のよいお友達へ出す便りには夢二描くところの絵葉書をもってするのが何よりのこととされていました。
※中原綾子(1898-1969):長崎市生まれ。1918年から与謝野晶子に師事し、新詩社同人としてその歌を『明星』に発表]。同じく『明星』に参加していた高村光太郎と親交があり、妻の智恵子の精神病を悲しむ内容の手紙を受け取ったことがある。1929年(昭和4年)6月、吉井勇・秦豊吉らとともに文芸誌『相聞』(後に『スバル』と改称)を公刊、詩や戯曲を発表する。
●藤森静雄「夢二さんの思い出」
大正3年プラタナスの街路樹が少し色づく頃、夢さんの港屋が出来た。恩地君と私はその開店準備の手伝に、毎日呉服橋に通った。店は間口二間に奥行二間ぐらいで呉服橋から南へ三四軒左側にあった。開店の前夜はついに赤電車を失したので二階の三畳に丸くなって寝た。店は小さかったけれど、気持ちよく、夢さんと恩地君の繊細な感覚で飾られた。前の街路樹には小鳥籠をさげることを忘れなかった。店にはマダムたまきさんが老舗らしく、眉をおとしまげ美しく絵のように坐っていた。
※藤森静雄(1891-1943):久留米市生まれ。白馬会原町洋画研究所に入り、東京美術学校予備科西洋画科志望に入学後、1914年に田中恭吉や恩地孝四郎とともに版画誌『月映』を刊行。東京美術学校卒業後、福岡で中学校の教師を務めた。1922年に『詩と版画』の同人となり、1937年から日本版画協会の常任理事・事務を担当した。
●柳原白蓮(秋山清「竹久夢二」の引用文より)
港屋は、その開店の前年、夢二は自分が海外旅行に出ることを思い立ち,たまきの生計のために企画した。(中略)夢二の海外旅行は中止されたが港屋は夢二の描いたノレンとともに繁盛した。港屋についての記憶を、処女歌集『踏絵』の装幀をした柳原白蓮は次のように語っている。
「私が夢二さんの詩や絵を通して、夢二さん、というものを知るようになったのは、私が三十一、二の頃(大正5、6年)でしたか、その頃、夢二さんは売れ出した、大変な評判でした。
私は九州に居りましたけれど、東京にはしょっちゅう往ったり来たりしていたので、その間、例えばあの、極府馬氏に会った、夢二さんの店――愛人だか奥さん高にやらせて居らした、”港屋“というのにも、幾度も物を買いに寄ったものですが、あれは、よく売れて評判に居りましたよ。夢二さんの意匠になる、手拭だの、浴衣だの、帯だの――それには、ほら、例の綺麗な姿かたちの”心中もの“などが染められたりして。
私は、夢二さんから、羽子板に、紙屋治兵衛のお芝居--小春との道行きの段の、あれを絵に描いて貰って、とても大事にしていましたが、哀しいことに、戦争中、暮らしに困っていた時に、売ってしまいました。
夢二さんのものは、歌でも詩でも(絵はもちろんのこと)いろんな意匠で、えはがきなどにもなって、よく売れて居りましたねえ。私のように、その頃もう大人になっていた者の間にも、ファンが大勢居たのです。」
※柳原白蓮(1885-1967):東京生まれ。本名は柳原燁子(あきこ)。大正三美人の1人。白蓮事件で知られる。父は柳原前光(さきみつ)伯爵、母は妾の1人で柳橋の芸妓となっていた没落士族出身のりょう。前光は大正天皇の生母・柳原愛子(なるこ)の兄で、燁子は大正天皇の従妹に当たる。94年、遠縁に当たる子爵・北小路隨光(よりみつ)の養女となる。98年、華族女学校に入学。1900年に、15歳で北小路家の長男資武(すけたけ)と結婚させられ、その後、妊娠により女学校を退学。長男・功光(いさみつ)を出産するも、05年、功光を北小路家に残して離婚し、実家に戻る。
当時、離婚した娘は恥とされて柳原家本邸に入ることができず、前光の正妻・初子の隠居所で読書や短歌をなぐさめとして暮らす。08年、東京・麻布のカナダ系ミッションスクール、東洋英和女学校に寄宿生として編入。8歳年下の村岡花子と出会い「腹心の友」となる。
10年、25歳年上で九州の炭鉱王、伊藤伝右衛門と見合いし、翌年、後妻として嫁ぐが、伯爵家と炭鉱王の政略結婚として世間を騒がせ、東京日日新聞では連載で大きく報じられた。花子はこのニュースにショックを受け、燁子と絶交。
再婚後は「筑紫の女王」と呼ばれたが、生きがいを感じられずに花子に心情を吐露する手紙を書き、親交が再開。孤独や苦しみを短歌に詠み、竹柏会の機関誌「心の花」に発表し続けた。この頃から、白蓮の号を用いる。
21年、社会主義者の宮崎龍介と駆け落ち。いわゆる「白蓮事件」である。当時は姦通罪が存在し、旧刑法では2年以下の懲役となる行為であった。燁子は伊藤家に対して大阪朝日新聞紙上で絶縁状を発表し、その2日後には大阪毎日新聞紙上に伝右衛門の抗議文が掲載されるなどして、センセーショナルな事件となる。22年に長男・香織を出産するも、義父が抱える多額の負債もあって、生活は苦しく、龍介が結核に倒れた時期は、文筆で生計を支えた。25年、長女・蕗苳(ふき)が誕生。35年以降、歌誌「ことたま」を主宰する。45年、学徒出陣していた香織を米軍による空爆で亡くす。その経験から、「国際悲母の会」を立ち上げ、各地で平和を訴える活動を起こす。緑内障で視力を失いながらも、歌を詠む穏やかな晩年を過ごし、67年、81歳で死去。主な作品に、歌集『踏絵』、『幻の華』、詩集『几帳のかげ』など。(コトバンクより抜粋)
■夢二の台湾旅行(復習編)■
これまで長期にわたり追ってきた夢二の台湾旅行の概要と着目点などについてまとめていきます。
●第5回 「夢二、台北に着く」
基隆港に着いた夢二は待ち構えていた記者に囲まれ、最大の関心事だったのであろう帰国の理由について問われますが、ヒトラーに追い出されわけではなく、ドイツの芸術の発展性に魅力をなくしたと答えました。帰国については、他に様々な直接的原因がありましたが、金欠のことにも、体調不良のことにも言及することはありませんでした。この状況から見ると、帰国後夢二は正式な会見や発表はしていなかったようです。実際、次男の不二彦の手記にも、寝たり起きたり、ときどき寄稿したりしていたといった帰国後の夢二が描かれています。夢二は何度か外地から寄稿はしていましたが、そこには外地の印象がほとんどで、外遊の積極的な成果の記載は見当たらず、榛名山の美術研究所建設のこともあいまいになった状態でした。台湾の新聞社の記者たちの関心の的が帰国の原因に集中したのも、この情報不足の中でヒトラーの動きが当時世界的な問題となっていたからなのでしょう。
基隆港から台北までは、今では高速道路で40分、電車で1時間ほどで行けますが、この当時は台北・基隆間の鉄道を使うか山越えの道路を自動車で行くしかありませんでした。夢二がいずれの方法で移動したかを確定するのはなかなか難しい状況です。波止場まで鉄道の線路が伸びていたので、そのまま列車に乗れば、自動車で山越えするよりもずっと早く台北に行かれると思うのですが、東方文化協会の会長である河瀬蘇北が来るということになると、当然台湾支部長かその代理が自動車で迎えに来ている可能性も否定できません。山越えをするため時間はかかっても、接遇としてはこの方が慣習上可能性が高いように思われます。また、帰りに基隆に行く時にシボレーで基隆に向かったことも考え合わせると、迎えの自動車で台北に向かったという説の方が有力でしょう。
さて、台北市に着くと、夢二は大きな駅前広場に面した「鐡道ホテル」に投宿します。ここは、明治41年(1908)10月に落成した台湾総督府鉄道部直営のホテル。実はこの年、明治32年(1899)年に建設を開始した台湾の南北縦貫鉄道が10年余の時を経て貫通しています。台湾のインフラ作りの重要な基礎が出来上がった年でした。これを主導した後藤新平民生長官は、この2年前までここに8年間務め、その後新設の南満州鉄道の初代総裁を2年務めた後、帰国して逓信大臣に就任しました。逓信省は通信、鉄道、道路と重要なインフラを一手に所掌する官庁です。ちなみに、その4年後の大正12年(1912)に関東大震災が発生した時は、後藤が東京市長を辞した直後のことでしたが、これらの豊富なインフラ作りの経験が彼の東京復興戦略に大きく貢献したことはまちがいないでしょう。彼が東京復興の図面を提示したのは震災発生のわずか5日後だったと言われています。
さて、夢二の宿泊した「鐡道ホテル」について見てみると、南北縦貫鉄道開業に合わせて開業したということもあり、台湾で最高級かつ唯一の“西洋式ホテル”でした。赤レンガ造りのドイツ風建築で、高天井のロビー、シャンデリアを備え、レストランのナイフ、フォークから客室の磁器製トイレに至るまで、イギリスからの輸入品が多く使われていたそうです。ここには、台湾総督府鉄道主催の台湾縦貫鉄道全通式に参加のため閑院宮載仁親王も宿泊しており、台湾を訪れた皇族、財界人等が多く利用したということです。
この老舗ホテル、客室は全30部屋あり、宿泊費は部屋のランクによって1泊3円から27円といずれも比較的高額(1円=現在の2500円)とのことですが、夢二がどのレベルの部屋に泊まったのかははっきりしていません。おそらく夢二を誘った河瀬蘇北の「東方文化協会」が手配したと思われますが、同協会の支部発足式のゲストであり、台湾総督府台北医学専門学校で講演会を開催したり、築1年という真新しい警察会館で展覧会を開催しているところを見ると、かなり良い部屋に泊まったのではないかと思われます。手持ちの金は少なかったかもしれませんが、皮肉なことに、夢二としては米欧ではできなかった優雅な西洋式ホテル滞在が台湾で初めてできた、ということになります。
ところが、ホテルに到着して休む間もなく、夢二は思わぬ再会をすることになりました。33年前に上京した時の憧れの師・藤島武二が同じホテルに泊まっていたのです。同時期に「台湾展覧会」が開催されており、審査員として武二が台湾に来ていたのでした。単身上京後に武二の創設した「白馬会研究所」に通って絵を学び、武二のモデルだったお葉と暮らし、「榛名山美術研究所」の建設案についても武二に賛同してもらった夢二。喧嘩したあとお葉が武二の家に逃げて行ったということもありました。何というめぐりあわせでしょうか。この日の夜に武二は台南に向かうことになっていて、夢二は武二の部屋を訪れることになります。(つづく)
■夢二の世界■
PART 3 「KAWAIIの世界」(「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より)
37 メイクと着こなし
今回は、服装について夢二が残した文章をご紹介します。「調子のとれた形」にこだわる夢二が大切にしていたのはバランスだったようです。文面を見るとかなり厳しいことを言っていますが、最後に“これは私自身に言っている”としているところも面白いですね。
「正装した少女よりは、さっぱりした常着の少女の方が気持が好いのは、心の上にも姿の上にも調子がとれているからであろう。たいへん立派な着物をきて反って品の下った卑しい感じのする少女がある。服装がどんなにその人の心持を支配する力を持つかということを感じる。またその人の性格がどんなに服装の趣好のうちにあらわれるかということも感じる。平和に暮してゆく人はやはり調子のとれた生活した人であるように、調子のとれた服装をした人は気持の好いものです。黒い髪の持主が白く、赤い髪の持主が桃色の面をしていることも自然の巧みである。赤い髪の少女が深い紅色の花を挿した美しさを見たことがある。形のうえばかりでない、心持のうえにも調子のとれた生活をしたい。これはあなたがたにいうのではない、私自身に言うのである。」(竹久夢二「MEMOより」抜粋)
■夢二の言葉■
●強く生きてゆく自分を見出すことも出来ない。さりとて弱く溺れてゆくことも出来ない、中途半端な所にいる。毎日こうした倦怠をつづけている。
(『夢二日記』1917年5月21日)
●罪を犯した者は、罪をくいはしない、ただ罪のあらわれんことをおそれている。
あらわれさえしなければいつまでも 罪を犯していることは知らないのかもしれない。
(『夢二日記』1917年10月28日)
●自分に克てない俺だもの お前に勝てようはずがない
おまえに勝てないおれだもの 自分に克てようはずがない。
(「弱気」/『文章倶楽部』1920年2月号)
■夢二情報■
●8月10日の上毛新聞のコラム「三山春秋」に夢二が取り上げられました。
「大正ロマン漂う美人画で一世を風靡した竹久夢二は生涯、子どもに向けた仕事にも力を注いだ。絵雑誌『子供之友』は1914年の創刊号から挿絵を担当。」と夢二を紹介しています。続きは次をどうぞ。
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