■メッセージ■

自然の意地悪が続いています。コロナ禍に加え、円安、値上げ、自然災害。安倍元首相殺害事件後の政治の混乱と延々と続くウクライナ戦争、台湾海峡での中国の軍事演習。閉塞感は募るばかりです。

それを打ち破った如く大人気なのがトム・クルーズ主演の映画「トップ・ガン マーヴェリック」。先週の上映館は満席が相次いだそうで、30回以上も観に行った人や前回のものを観て“予習”までして観に行った人までいるらしい。理由はスカッとしたという意見が多い一方、CGを使用していない戦闘機の飛行シーンがふんだんに登場し、パイロットの疑似体感までできるということもあるようです。前作はなんと36年前。トム・クルーズがめちゃくちゃ若いこの映画も本物の迫力は十分伝えています。最近はCG多用の映画が氾濫し、当初CGは夢の具現化と考えられていましたが、嘘はやっぱり嘘。氾濫すれば飽きられていくのも当然のような気がします。夢やファンタジーについて再考するときにきているのかもしれません。
夢や憧れは夢二の得意分野でした。ノスタルジーと純愛に生きた夢二の言葉や絵を改めて見てみると、彼が夢と現実の境目を上手に表現していることがわかるような気がします。

Top-Gun-Maverick-F14-Tomcat-Trailer
 

■竹久夢二の素顔■

夢二と時を共にした人々の証言から夢二の素顔に迫ろうという企画。今回からは独自に引用したものをご紹介します。まずは、恩地孝四郎から。夢二初の著作「春の巻」への投稿から夢二ファンとなり、「港屋」に出入りするうちに、家族ぐるみのつき合いをするまでになりました。彼はまた、前衛的な表現を用い、日本で版画というジャンルを芸術として認知させ功績が高く評価されている創作版画の先駆者のひとりとなり、日本の抽象絵画の創始者といわれるようになりました。

長いので何回かに分けて紹介しますが、在りし日の夢二の姿をほうふつとさせるような表現が数多く見られます。やや読みづらいですが、原文でどうぞ。

●恩地孝四郎(1)(『夢二スケッチ帖抄』復刻版(未来社)の編者解説「夢二のスケッチ帖」より)

(注)本書は恩地孝四郎主宰・編集の趣味雑誌『書窓』第六巻第六号の特別号として昭和13年(193811月アオイ書房から発行されたもので、1000部もしくは600700部と言われる。(復刻版「復刻にあたって」(高木護)より)

「玆(ここ)に収められた故夢二のスケッチは、いま有島生馬氏に保管されてゐる五百に余るスケッチ帖、手帖のなかから撰み輯したものである。この一山のスケッチ帖、併しこの外に尚幾多散逸したものがあることは推せられる。が、幸にもよくも保存せられたものと思ふ。夢二は之らを大切にしてゐた、ほとんど初期の明治四二年のものからあり、彼の頻々たりし轉住にもよく散逸しなかつたものである。彼はしばしば放恣な生活者のやうに輕傳されたゐたがこの一事をみてもそれが皮相の即断なることが知れやう。彼は常にスケッチ帖を懐中してゐた。ポケットからその結び紐のたれてゐた姿をいまも懐ひ出す。画材にあふや、それが電車内でも途上でも、素人裡でも忽ち鉛筆を走らす彼であつた。スケッチすることが恰も呼吸するが如きである。後年にはこの外でのスケッチは稀になつたが、それでも懐中の手帖が、必要時には画帖となるのであつた。その最も盛なりしは、明治四四年頃であり、丁度画集が四季出きつて彼の名が青年子女を咳関してゐた頃であり、著、野に山に、都會の巻が出、翌年にかけて、櫻さく島、櫻さく國、が出た頃、それから二三年に亙(わた)る。繪は自分にとつては内部生活の報告だといつた彼、強ひて画くには當たらない、美しいものを感じてゐるだけで満足だといつた彼、繪と生活とが不可分に考へられてゐた彼にとつて、對象に興を得るた忽ち寫すのスケッチは誠に彼の感情そのものであり、生活そのものであり、皮膚であり肉であるのである。數多い画集の仕事の終わつた後の彼の画作は、それが誌上のものでも又画布ものでさへ、常に屢々(しばしば)強ひられた繪であり、パンのための止むなき書作であつたが、スケッチだけは常に純粋に彼の喜びであつた。そこには彼を束縛する何もない。ただありとすれば時間的な制限である。だがこれは却って彼の走筆を充實させ、いろいろな座右念を拂ひ落し、画を彼そのものとして純粋にする、彼にとつての最上の状態であるといふべきだ。かれの画には、スケッチでない繪には強ひて加へた拗態や、誇張にすぎる過剰な情緒がある。だがスケッチではその余地がない。しかもそこに自ら表はれる憂婉さは、彼の装はれざる面目の現はれであり、眞の彼そのものである。夢二の藝術にその誇張された殉情味を又それを表はす拗形を嫌ふ人も、これらのスケッチ画をみるときには自ら、彼の優れたものを率直に感ずるであらう。勿論彼の画の、そして人の本質は、英雄でもなければ國士でもない。一市井人としての、又一個の人間としての素朴な感情の表出であつて、決して偉大型ではない。が人間生活に於いて、之も又偉大なるものの一つであることは忘れられてならないのである。」(つづく)

DSC_1767 (2)
DSC_1769 (2)
DSC_1770 (2)
DSC_1771 (2)
 

■夢二の台湾旅行(復習編)■

これまで長期にわたり追ってきた夢二の台湾旅行の概要と着目点などについてまとめていきます。

●第6回 「夢二、藤島武二と再会する」

昭和8年(19331026日、宿泊先の鐡道ホテルで夢二を待っていた人がいました。画家の藤島武二です。

夢二が明治34年(1901)に単身上京し、早稲田で共同生活をしながら通った「白馬会洋画研究所」の創設者の一人で、藤島の画風を好んでいた夢二は、自分の名前に武二の「二」を付けてもいました。また、大正8年(1919)に友人から紹介されたお葉は、当時武二のモデルだったり、同居後お葉が夢二とのいさかいの後に武二のところに駆け込んだりしたこともあり、関係はかなり複雑だったようです。しかし、有島生馬などの夢二の理解者たちが橋渡しをしたこともあり、夢二の発案した「榛名山美術研究所」建設案に武二が賛同者として加わっているなど、表面上は良い関係となっていました。

さて、藤島武二がこの時台湾にいた理由ですが、これは、同じ頃に台湾における新人美術家の登竜門とされていた「台展」の審査員として呼ばれていたからでした。またこの頃、武二は今上天皇の即位を祝う絵を皇太后より下命され、「日の出」をテーマにした絵を描こうとして日本各地を訪ねていたのですが、なかなか気に入った風景の場所が見つかずにいたこともあり、台湾でも意向に会った地を探すつもりもあったようで、実際にこのテーマで絵を描いています。このことがあってか、826日、即ち夢二の台湾到着の日に台南に向かう予定だったようです。

これについて、台湾日日新報に次のように書かれています。

「臺湾展審査員として来臺した藤島武二氏は二十六日夜行にて臺北発、二十九日臺南を一巡し帰国の筈」

 

このような経緯を経て、疲弊して洋行から戻った夢二がホテルの藤島の部屋に赴き、どんな話をしたのかは興味のあるところですが、二人の台湾での面談模様について進む前にまず、藤島武二の略歴を見てみることにします。

これについては、ひろたまさき氏が論文「夢二最後の旅」の中での記述が夢二との対比で書かれていて、参考になるので引用することにします。

「竹久夢二と藤島武二の関係は古くさかのぼる。夢二が上京した1901年よりも前から武二はすでに有名であった。1891年、明治美術会第3回展に出品した『無惨』が森鴎外に激賞されて以来世間の注目を集めた彼は、1896年に東京美術学校・西洋学科・主任教授の黒田清輝の推薦で同校の助教授に任命されたし、それ以来黒田らが結成した白馬会の展覧会には毎回、意欲的な作品を出して評価を高めていた。しかし、上京した夢二がまず魅せられたのは、その年から一条成美の死後を継いで武二が描くこととなった雑誌『明星』の表紙絵や挿絵であった。ロマンチックなアールヌーボー風の絵画、なかでもその美人画であったと思われる。夢二は独学で画法を習得していたのだが、まだそれを職業にすると決意していない時期から、武二の絵に出会ったのであり、夢二が魅せられてそれを手本に勉強し始めたのである。夢二が描いた絵を始めて世間に示したのは、190564日の『読売新聞』での「可愛いお友達」というコマ絵であるが、続いて『平民新聞』の継続紙『直言』に戦争批判のコマ絵『勝利の悲哀』などを載せる。同じく『中学世界』に投書してコマ絵「筒井筒」が一等に当選したのが同年620日号であったが、そこで初めてペンネームに「夢二」を使ったのである。それは藤島武二の名に似せたとされるが、それだけ武二に魅せられ尊敬していたと言えよう。武二主宰の白馬会研究所に通ってアカデミックな画法を学ぼうとしたのがこの頃のことである。台北のホテルで、夢二が武二を「先生」と呼ぶのは自然のことだったであろう。

しかし武二が1905年から1910年までパリに留学生として政府から派遣されたこともあって、白馬会研究所へは行かなくなる。研究所で武二とどのように接する機会があったかわからないが、武二のロマン主義に大きな影響を受けたことは間違いない。しかし、武二の留学以降は、その画風から影響を受けることもなくなったのではないかと思われる。武二帰国の前年、1909年に『夢二画集・春の巻』が出版されて、爆発的な人気を呼び、夢二は自己流の画法でやっていく自信を持ったのである。もちろん彼はその後も絵画制作の研鑽に務めているが、岡田三郎助から、君の絵はもう完成しているというようなことを言われたことも自信になっただろう。武二に学ぶ必要はなくなったのである。もっとも、武二の弟子たち、ことに恩地孝四郎や有島生馬らとの交流があったから、夢二には武二の存在がつねに意識されていただろうが、それはもう世界の違うところにいる偉い先生という意識以上のものではなかったのではないかと思われる。1924年に同棲していたお葉が喧嘩で家出して武二宅へ逃げ込んだ事件が武二の回想に暴露されているが、そこでは「さう云ふ事件で度々私はお目にかかった。さうして私はさう深く交際をして居なかったのでありますが、夢二君の純な心持と云ふものは、能く諒解して居た一人であると思ひます。あゝ云ふ非常にフアンの多かった事も故ある哉と考へて居ります」と、夢二追討の場にもかかわらず、かれの画業には一切触れず「斯う云ふ席上で、お話して宜しい事か、どうか分かりませんけれども何かの参考になるんじゃないかと思ひまして」と断りながら、からかい気味に喋っている。「純な心持」というのもとってつけたような言いぶりである。この追悼文(スピーチ)にはもう一つエピソードが紹介されていて、それが台北での出会いである。」

として、夢二の追悼文の武二の言葉に進みます。

「『何のため来たかと言うと展覧会か何かをやろうと思って来たのだと言うことでありました。所が大分時代も移って居りまして、殊に辺ぴな台湾のことでございますし、其頃夢二式の絵に憧れているという婦人も殆ど見当たりませんでした。反響が少し薄いような傾きであった。さういった次第で展覧会も余りいい成績じゃなかったと思います。』ホテルの前に美人座というバーがあって、そこの女給に熱心な夢二ファンがいて、夢二先生が来ているならぜひ会いたいというので、藤島は夢二をそのバーに呼んで彼女に会わせたが、彼女は夢二の顔をしきりと眺めて、なかなか彼を夢二であると信じなかった。やっと夢二なんだということがわかって非常に喜び、夢二がハンケチに歌をかいてやったら大変喜んだという。」

そしてさらに、「夢二先生は台湾に来られたが、余り予期された程の結果を得られず非常に憂うつな顔をして居て、何故自分は台湾に来たのだろうと言って居た時ですからさういうファンが台湾に迄居るかと言って非常に喜びました」と書いているというのです。

大分長く引用しましたが、これを夢二と藤島武二との面談状況を推測する基礎情報として、次回、二人の面談模様に進めていくことにします。(つづく)

▼藤島武二

藤島武二
▼藤島武二の画(1901-1906)(ひろしま美術館より)
※夢二が上京したのが1901年です。夢二が後に描き出した画と比べてみてください。
画(藤島武二)広島美術館
 

■夢二の世界■

PART 3 KAWAIIの世界」(「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より)

38 大正女性のファッションスタイル ― 女学生

大正期における女学生は、高等女学校に学ぶ1217歳の少女たちでした。

女学生の装いは、着物に袴スタイルが多くみられました。この際に着用された袴は行燈袴(あんどんばかま)と呼ばれ、股の部分は仕切りがなくスカート状になっていて、着物の裾の乱れを気にせずに機能的で、大きな帯を締めることから解放されたことより、女学生の通学服として広まっていきました。

通学服もしだいに洋装化の波を受け、東京・山脇高等女学校は大正8年(1919)に、日本で初めてワンピース型の洋装制服となりました。またセーラー服を大正9年(1920)に京都・平安女学院、大正10年(1921)に福岡女学校が導入しました。

また、ヘアスタイルの面では、大きなリボンをつけて、女学生は個性を演出しました。

▼「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より
本「かわいい手帖」女学生

 

■夢二の言葉■

●私は過ぎた日を忘れようとは思わない。過ぎた日は過ぎた日として負い目を果たす時があるでしょう。

(『夢二日記』1920531日)

●神よ、人間はよわいものです。よわく生まれ、よわく育ったものは、何もしらずに、とりかえしのつかないことをしたり、考えなしによこみちを歩いています。

神はいちどでもそれをとめてはくれない。ただあとで悔いさせるばかりだ。人間は自分を信じ、自分を自分で助けるよりみちはない。自分を正しくすることが、みんなを正しくすることだ。

(お葉への手紙/192128日)

 

■夢二情報■

●実業家の福富太郎さんが収集した絵画作品展 県水墨美術館(「富山 NEWS WEB」より)

キャバレー王の異名を持つ実業家が収集した明治から昭和の絵画作品の展覧会が、富山市の県水墨美術館で開かれています。

北野恒富の「道行」、満谷国四郎の「軍人の妻」のほか、鏑木清方や竹久夢二の作品も展示されています。

https://www3.nhk.or.jp/lnews/toyama/20220818/3060011168.html

 

●弥生美術館・竹久夢二美術館が初の夜間開館 夏季の金曜限定で(「文教経済新聞」より) 

弥生美術館・竹久夢二美術館が毎週金曜に夜間開館を行っています。

夏季の金曜限定で行う延長開館。通常17時の閉館時間を、期間中の金曜は20時まで延長(最終入館は1930分まで)。

同館が夜間開館を行うのは、1984(昭和59)年の開館以来、初めてだそうです。

同館学芸員の内田静枝さんによれば、「弥生美術館で展示中の村上先生には5060歳代の男性ファンが多いため、仕事帰りに立ち寄っていただければと考え、夜間開館に踏み切った。中学生らしき男の子が、お仕事帰りのお父さまと受付で待ち合わせて来館される姿も見られた。お父さまは7080年代、息子さんは2000年代と、親子でそれぞれお気に入りの原画を楽しまれる様子は、長いキャリアを持つ村上先生ならではのほほ笑ましい光景」とのこと。

https://bunkyo.keizai.biz/headline/802/