■メッセージ■
新宿伊勢丹に「台南林百貨店」のコーナーが出来たので行ってきました。
2020年の通信文化協会の旅行企画で察先をこれまでの台北から台南に変更し、2月末に現地調査に行く準備をしていたところでコロナ騒動が発生。結局、調査旅行延期のまま今に至っています。行くはずだった「台南林百貨店」も遠い存在となり、通販でグッズを買ったりしていましたが、今回、日本にやってきました。
□2022年8月17日(水)~8月30日(火):伊勢丹新宿店 本館1階
□2022年9月14日(水)~9月27日(火):銀座三越 本館3階
展示商品の種類は少ないですが、中華郵政公司の赤と緑のポストをあしらったハンカチもあり、大喜び。赤と緑の郵便ポストの可愛らしいデザインです。(^^♪
▼中華郵政公司の赤緑ポストハンカチ
昭和10年(1935)当時の「林百貨店」とその周辺(台湾の日本統治関係投稿写真より)
■竹久夢二の素顔■
●恩地孝四郎(2)(『夢二スケッチ帖』復刻版(未来社)の編者解説「夢二のスケッチ帖」より)
(注)本書は恩地孝四郎主宰・編集の趣味雑誌『書窓』第六巻第六号の特別号として昭和13年(1938)11月アオイ書房から発行されたもので、1000部もしくは600~700部と言われる。(復刻版「復刻にあたって」(高木護)より)
今まで全く塡(うずも)れてゐた彼のスケッチ画を画帖から直接上版刊行し得たことは、誠に刊行者の個人に對する熱愛の故であつて此れが世に上されることは、彼の正しい理解のためにも喜びに堪へないし、又この時代の驕兒の藝術の核心を示すことの出来たのは画に携るものとして又遺された友として欣び深いものである。彼の身がそこに置かれてゐたその時代をその姿を丹念に又執拗に、追及していつたな生の記録である之らのスケッチは、一に時代の記念としても、ただそれだけでも立派に存置させられるべきだ。此の又さうした成心なく描きとめられた之らのものにこそ更に的確な、如實な記録がなされてゐるのである。その内容が、その範圍が何であるかは茲(ここ)に云ふまでもない。画自身が最も正確に之を語るであらう。思へば泰西文化の吸収が蓄積されて、繁華な姿を成してゐた明治文化、折から世紀末のデカダニズムを引きつつ而も、新らしい世界への暁望に薀醸(うんじょう)しつつあつた明治末から、改元新らしき世紀の具体化に揺曳(ようえい)してゐた大正初年の気運のうちに行為されてゐた生活相は、日本の文化史の上からも貴重である。ペンいささか岐路に奔つたが、いまかうして夥しい數の夢二のスケッチ画をみてゐると、彼の畫のうまさが泌々感ぜられる。ロダンの、かのモデルから殆ど目を離さずにかいたといふ流動的なスケッチに似た生気も見られるし、瞬時よく捉へた姿態の美しさも自由に示されてゐる。女容を描いて實にその神髄を傳へてゐるものである。命名ずきな世間は、夢二を捉へて大正の歌麿といつた。もし時、往時の錦繪全盛時代の如く、錦繪が行はれてゐたら、誠にその如く多くの女態の傑作を残したであらうに、雑誌等の舞台に踊らされ後世散逸して了つたのは、やはり無念である。が、茲(ここ)にその精髄であるスケッチ集を遺しうるということは、その遺憾を償うて余りあるものだ。夢二の繪が、夢二の詩が、夢二の物語がさうである如く、スケッチにあつてもその題材の範圍は廣くはない。何物も究めようとするリアリストの態度は彼にない。一つの憧るるものを取り出すロマンチストの姿が、スケッチにも示される。彼の數多いスケッチ帖を飜(ママ)いて驚くことは、二十數年に亙(わた)ってその題材が殆ど同一(原文は旧字使用)な、五六種類に限られてゐることである。女態にしてそれが云へる。同じ原文は旧字使用)姿態が何遍も現はれる。蓋しこの撰まれた姿態を追ふために、對象の種類が限られ狭斜(きょうしゃ)の巷の女に劃られた(ママ)のではないのかと思はれる位である。つくろはれたる形は殆どない。風景にあつては、荒涼さや、廣漠さを示すやうなそれ、街景にあつては、好んで裏街や路地が丁度油畫の故佐伯氏が夢二に似てゐるとはれた位にである。大川端や渡し場、浅草などについては別記したが、それらは年を隔てて猶(なお)全く同一(原文は旧字使用)の所から描かれてゐること廔々(ろうろう)である。此内あさくさについては特に云はねばならない。(つづく)
*狭斜(きょうしゃ):色街、劃(かく)する:限る、廔々(ろうろう):度々・しょっちゅう
▼『書窓』第六巻第六号・特別号(昭和13年(1938)11月、アオイ書房)
■夢二の台湾旅行(復習編)■
これまで長期にわたり追ってきた夢二の台湾旅行の概要と着目点などについてまとめていきます。
●第7回 「夢二、藤島武二と再会する(2)」
昭和8年(1933)10月26日、鐡道ホテルで偶然同宿となった夢二と藤島武二の面談。前回は藤島武二の生涯を確認しましたが、ひろたまさき氏の論文「夢二最後の旅」で紹介されている『書窓』の「夢二追憶特集」(昭和11年(1936))での武二の言葉をみると、夢二と武二の関係は意外にクールだったような感じです。
他万喜との結婚が破局を迎えた明治42年(1909)12月、夢二はそれまでに描いた絵等を集めて構成した「春の巻」を刊行しましたが、これが大ヒットして夢二は一躍有名になりました。その1か月ほど後、武二は4年間にわたる文部省のフランス、イタリア留学から帰国しました。何たる偶然でしょう。出国する前は上京したばかりで武二の画法に憧れて白馬会に通っていた夢二が豹変する瞬間に立ち会うことになったのです。
翌年5月、武二は学校教授に就任しますが、夢二はその前月に「夏の巻」を刊行。その後「旅の巻」、「秋の巻」、「冬の巻」、「さよなら」、「子供の国」と6冊をその年のうちに刊行することになります。夢二ブームが巻き起こり、「夢二式美人」が社会に浸透していくのを武二は目の当たりにすることになりました。夢二の浮世絵の手法や海外の新潮流を活用して独自の画と文を組み合わせた新スタイルによるこの社会現象は、当然のように画壇のウケが悪く、自らも画壇と一線を画していた夢二は本格的な独走態勢に入っていきました。当然のように武二の夢二評は芳しくはなかったと思われます。
このようなことが根底にあることから、夢二の追悼文で武二が「何のため来たかと言うと展覧会か何かをやろうと思って来たのだと言うことでありました。所が大分時代も移って居りまして、殊に辺ぴな台湾のことでございますし、其頃夢二式の絵に憧れているという婦人も殆ど見当たりませんでした。反響が少し薄いような傾きであった。さういった次第で展覧会も余りいい成績じゃなかったと思います。」と、いう辛辣な言い方をしているのではないかと思われます。「台湾で出会った当時は、もう時代が変わってしまっていて夢二はもう過去の人となっていた」というわけです。夢二の時代は終わったというわけなのでしょう。覧会も不調だったと結論つけています。
そこには、大正9年(1920)に友人の紹介で夢二のモデルとなりすぐに菊富士ホテルで同棲を始めたお葉(佐々木カネヨ)が、それ以前は武二のモデルだったといことや、お葉が夢二と喧嘩をした際に武二の所に身を寄せていたことなどの俗人的な関係の影響もないとはいえないでしょう。そういう意味でも武二と夢二の関係は根の深いものとであったと考えられます。それが果たして恋愛感情からだったからか道徳上の意識の違いだったのかは分かりませんが、お葉をモデルにした武二と夢二の絵を見ると、複雑な男女間の感情も感じないわけにはいきません。
武二はさらに追悼文の中で、夢二をホテルの前にある美人座に連れて行った話もしています。鐡道ホテルの斜め前の十字路の所に確かに「美人座」という大きなカフェーがあるのが確認できます。実は、この2年後に「台湾博覧会」が台湾博物館を中心として大々的に開催され、多くの資料が残っていて、地図にその名が明記されています。鐡道ホテルは現在の新光三越デパートがある台北駅前の一等地ですから、このカフェーもなかなか立派なものであったと推測できます。王文萱氏提供による写真を見てもそれがうなずけるようなものでした。おそらく裕福な武二は夢二の訪台以前に訪れていて、気づまりなホテルの部屋での会話から逃れたのではないでしょうか。
そして、ここでハプニングが起こりました。夢二ファンの女給がいたのです。しかし、武二の言い方はここでも辛辣でした。
「やっと夢二なんだというがわかって非常に喜び、夢二がハンケチに歌をかいてやったら大変喜んだ」と「夢二は過去の人」ということをさらに念押しするような言い方をし、さらに、「余り予期された程の結果を得られず非常に憂うつな顔をして居て、何故自分は台湾に来たのだろうと言って居た」と夢二の当時の姿をネガティブに表現しています。そして最後に「ファンが台湾に迄居るかと言って非常に喜びました」と締めています。実際には本土の雑誌等が台湾でも販売されていて、台湾からの投稿もたくさん掲載されているのですが、武二は台湾の辺地感をあえて強調することで皮肉の色を消していません。
以上のことから考えると、二人の会話は、ホテルでは話が弾まず、「美人座」に場を変えて話をしたものの、例えば絵について話そうというなどという意識が生まれるような状況ではなく、むしろ女給が夢二ファンだったことが中心の会話で終わったのではないかと思われます。しかも、武二は夜行で台南に向かうことになっていたということあり、長居はしなかったのではないでしょうか。
いみじくも同じ時にスタート切った、欧州留学から戻り美術大学の教授として画壇の道を歩み始めた武二と、「春の巻」が大ヒットして流行の寵児の階段を上り始めた夢二。この二人は、台湾での再開に於いて、「その差と結末」を十分理解していたと思いますし、すでに生き方の違いを十分認識していたはずです。武二は「榛名山美術研究所」などで夢二の活動への支援者として名を連ねていますが、それはおそらく有島生馬や恩地孝四郎等の仲介役が存在したから現実化しただけだったのでしょう。
というわけで、夢二と藤島武二の面談模様を考えてみると、袖井林二郎氏の著書「夢二 異国への旅」にある記述が要点を明記していると思われるので、これを引用してみることにします。
「よく生きて帰ってきたな」と藤島は言ったかもしれない。夢二は「先生の訪台は何の御用で?」と聞いただろう。藤島は今上天皇の即位を祝う絵を皇太后より下命され、「日の出」をテーマにしたのはいいが、気に入った景勝の地が見つからず、日本各地を訪ねたあと、台湾にやってきた。「水平線にできるだけ近い新しい赤い太陽でなければならないのだよ」と語った。夢二は心の中で、先生は日の出のように昇り、俺は落日のように沈むのかとつぶやいたにちがいない。藤島の努力はやがて内蒙古の砂漠に昇る太陽を描く『旭日照六合』に結実するが、それは1937年のことで夢二が生きてそれを見ることはなかった。
「ところで僕の来台を記念して夕食会があるんだが、君も出ないかね。陪席は、君も知っている梅原龍三郎君だよ」と藤島は夢二を励ます表に誘った。しかしパリで修業し、いま朝日の昇る勢いの梅原と同じ席に座る気分にはなれなかった。」
*梅原龍三郎(1888~1986)は、日本の洋画家。京都府生まれ。ヨーロッパで学んだ油彩画に、桃山美術・琳派・南画といった日本の伝統的な美術を自由奔放に取り入れ、絢爛な色彩と豪放なタッチが織り成す装飾的な世界を展開。昭和の一時代を通じて日本洋画界の重鎮として君臨した。
以上が2度訪台するなどして詳しい調査を重ねた袖井氏の面談模様ですが、確かに、武二は「台展」での審査員のほかに皇室がらみの大役を担っていたわけですから、自分がなぜ台湾に来ているかも含めた自分の現状を説明するのに話したとは思われます。そのことで頭がいっぱいだったかもしれません。一方、夢二の方が米欧の旅のことを積極的に話したかというと、訪台時も体調も万全ではなかったでしょうから、とても旅の思い出を語ったとは思えません。ただ、「(夢二は)非常に憂うつな顔をして居て、何故自分は台湾に来たのだろうと言って居た」と言っていることから、後に新聞掲載されたエッセイにもあるとおり、「なぜ台湾に来たのか」といったことは口にした可能性があります。それで当時の夢二の印象として武二の心に強く残ったのではないかと思われます。
このように、既に発表された記述の力を借りて夢二と武二の面談について考えを進めてきましたが、実際の夢二の心情をどの程度読み取るかは、彼が訪台直前にした2年にわたる米欧旅行時の行動や考えたことをさらに深読みして推測するしかないと思われます。昭和8年(1933)に日記の記載を再開してから翌年9月に亡くなるまでの記述を見ても台湾のことが全く出て来ないというのも気になるところではあります。もし夢二がドイツ滞在中に日記を書くのを止めていなければ、訪台時の夢二の考えや行動がわかるのですが、実に残念なことです。日記ではなくても、メモやスケッチは間違いなくしたと思われるのですが、いずれ意外なところから出てくることを祈らずにはいられません。(つづく)
▼二人が行ったと思われる鐡道ホテルの斜め前にあった美人座。(王文萱氏提供)
▼美人座があった場所の現在の様子。(「NET」のビル)(2019年)
▼お葉がモデルとなった藤島武二の絵「芳恵」(1926年)
■夢二の世界■
PART 3 「KAWAIIの世界」(「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より)
39 大正女性のファッションスタイル ― 女給
女給は、“女子給仕人”の略称で、カフェーで来客の接待や給仕をする仕事に従事しました。年若い女性が長い袂の着物に白いエプロンをかけ、その紐を後ろで大きく蝶結びにしたスタイルは大正4年(1915)から見られるようになり、店内に華を添えました。また職業婦人の先端として注目を浴び、昭和初期には流行歌にも歌われるようになりました。
彼女たちが働くカフェーは西洋文化を輸入する形で、日本では明治44年(1911)、銀座に<カフェー・プランタン>、<カフェー・ライオン>が開店しました。プランタンは文化人や知識人が洋酒・洋食を楽しむサロンの雰囲気を、ライオンは美人女給を席に着かせるサービスを売り物にしていました。
大正13年(1924)に同じく銀座に開店した<カフェー・タイガー>は、新聞記者だった松崎天民が著書『銀座』に「美人女給を有することに於て、東京一」で、「最もモダンガール的の情趣に富んで居る」と記した話題の店でした。
▼銀座の歴史を詳細に明記した中央区郷土天文館の野口孝一氏の著書
「銀座物語」(中公新書)と「銀座、祝祭と騒乱」(平凡社)*他に関係書多数
■夢二の言葉■
●藤のつるが空へむいてのびている、 のびてのびてたよるところがなくて、 自分自身にからまっている。 寂しいものが自分にあまえて、 センチメンタルになる心持のやうに。
(『夢二日記』1925年8月31日)
●泣けるときは泣くがいい もうたくさんだというほどお泣き。 笑えるときは笑うがいい もう笑えないというほどお笑い。 青春がだんだん過ぎると 泣くことも笑うことも出来なくなるときがくる。
(「春ゆかば」/『春のおくりもの』1928年(あかいあきつ)
■夢二情報■
●「社会派」夢二 大震災ルポ 東京新聞の前身紙で連載(中日新聞より)
「石川県立美術館(金沢市)で開催中の「竹久夢二展〜憧れの欧米への旅〜」(北陸中日新聞など主催、9月4日まで)では、1923(大正12)年の関東大震災発生直後、夢二が焦土と化した帝都と被災した人々の姿を新聞でルポした絵の一部も紹介している。モダンな美人画とともに、社会派・夢二の作品にも目を向けたい。」とのことです。
https://www.chunichi.co.jp/article/533357
●10月からの竹久夢二美術館は夢二の人間関係に迫ります。お楽しみに。
https://www.yayoi-yumeji-museum.jp/yumeji/exhibition/next.html
コメント