■メッセージ■

91日は夢二忌。今年も雑司が谷霊園に詣でました。

イベント「夢二と台湾2023」まであと1年となり、予算激減、円高、物価高騰、コロナ禍での行動制限という逆境の中、これ以外の活動を休止して計画を完遂する方針を立て、実行に移すことにしました。例外は極力認めず、夢二と台湾に専念する意向。最初が肝心なので今月は特に徹底させていきたいと思っています。

節目には必ず何かが起こる。ハワイで「宵待草」が発見され竹久夢二美術館で展示された2014年は夢二生誕130周年の年。来年は夢二訪台90周年。再来年は生誕140周年。なにかが起こるかもしれませんね。わくわくしてきます。

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▼有島生馬の筆で「竹久夢二を埋む」とある。

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■竹久夢二の素顔■

●恩地孝四郎(3)(『夢二スケッチ帖抄』復刻版(未来社)の編者解説「夢二のスケッチ帖」より)

(注)本書は恩地孝四郎主宰・編集の趣味雑誌『書窓』第六巻第六号の特別号として昭和13年(193811月アオイ書房から発行されたもので、1000部もしくは600700部と言われる。(復刻版「復刻にあたって」(高木護)より)

 

彼の公表作にも廔々見られてゐるが、之に關するスケッチは實に多い、當時―彼のスケッチの最盛期であつた明治末大正始頃の浅草は、東京の盛り場の最たるもので、唯一といつていい位の遊樂地であつた。

浅草寺観音堂を中心に仲見世には地方人の土産物を賣る小店が櫛比(しっぴ)し、六區公園隅には代表的な映畫館が立ち並び、但し當時は活動寫眞館といつていたが、いろいろな娯樂施設を用意したルナパークなどが隣接し、そして浅草をシンボルする十二階が聳えていた。外のはまづ現状大差ないが之れはもうない、その十二階したと呼んだ軒並の賣色(ばいしょく)の家には夜を鬻(ひさ)く(ママ)女たちが群れ、公園のベンチには、浮浪者たちが眠り、暗い小路などには不良兒が待ちかまへ、歓樂と悪行のるつぼであつた。青年夢二が、茲(ここ)をオアシスとし道場としたのは當然であつたであらう。

浅草のスケッチは幾帖かを成してゐる。鑑賞の自然さを思ってそれらはなるたけまとめたため年代が多少混戦してゐるが、とまれ彼の浅草は數年に亙つてゐる。之らの諸画が、遊冶(ゆうや)生活の所産だとするのは當らない。關係は蓋(けだ)しその逆であらう。彼にとつて女は美しければいい、又生活的には純情であればいい。だから彼の方向がそちら向になつただけなのである。カフエの女といふのが廔々(しばしば)現れる。當時、カフエは正にミルクホールに入れ變(かわ)つて新しい流行を來たさうとした頃である。今のカフエよりもつと素朴であり、明るい。今の喫茶店のやうにドライでもない。小レストランである。その女の子が廔々現はれるのである。活動の娘は和服の上に黒い上っ張り黒足袋で薄明のなかに顔と手を浮かしてゐた。おとなしき明治末大正始である。浅草では玉乗りがある。江川一座が常設されてゐた。祭の店ものも彼の長い題材だ。猿芝居は妙にいぢらしかつたのであらう。祭は彼のいい題材の一つである。ことに祭のすんだのちの落莫(らくばく)感情からよく描かれてゐるが、スケッチでは余りいいのが見當らなかつたので省いた。形としてはよくないためであらう。面白いのは田舎の人がよく描かれてゐること。これは彼の素朴な感情への共鳴と、何か無知な感へのいぢらしさであらうか。母子は廔々かかれてゐる。茲(ここ)に彼の見えざる母への思慕が現はれてゐるのだと思ふ。(つづく)

※櫛比(しっぴ):櫛 (くし) の歯のように、すきまなく並んでいること。

※賣色(ばいしょく):売春

遊冶(ゆうや):遊びにふけること

※落莫(らくばく):勢いが弱くなって、物寂しい様子
※十二階:東京の浅草凌雲閣は、浅草公園に建てられた12階建ての展望塔。1890年竣工。当時の日本で最も高い建築物であったが、1923年関東大震災で半壊し解体された。名称は「雲を凌ぐほど高い」ことを意味する。日本初の電動式エレベーターを備え、「浅草十二階」、あるいは単に「十二階」という名でも知られている。

▼『夢二スケッチ帖抄』復刻版(未来社)
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▼十二階「凌雲閣模型」(江戸東京博物館(現在新装工事休館中))
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■夢二の台湾旅行(復習編)■

これまで長期にわたり追ってきた夢二の台湾旅行の概要と着目点などについてまとめていきます。

●第8回 「東方文化協会設立式典と講演会(3)」

昭和8年(19331026日に基隆港に到着した夢二は、宿泊場所の高級ホテル「鐡道ホテル」で、恩師でありお葉との生活でも世話になった藤岡武二と面談し、ホテル近くの美人座でひと時を過ごしましたが、その後11月1日に行われた東方文化協会の発会式までの5日間は何をしていたのか記録がありません。まずは河瀬蘇北が夢二を連れて台湾総督府や警察関係者などの関係者への挨拶回りをしたことでしょうし、宴席もあったと思われます。それは台湾日日新聞に記載されている発会式の派手さを見てもよくわかります。夢二はさして興味はなかったでしょうが、蘇北の計画にはちゃんと夢二の役割があったに違いありません。また、東方文化協会の職員が夢二のアテンドに着いた可能性は濃厚で、2年後の台湾博覧会を待つ台北の盛り上がりようから、当時の景勝地を案内しなかったとは思えません。おそらく総督府や新公園(現228和平公園)、西門町、台湾神社を紹介し、北投温泉や淡水まで足を延ばしたかもしれません。ここで夢二が全くスケッチをしなかったということは考えにくいのですが、後述のとおり夢二の絵がすべて紛失したされています。どの時点で紛失(盗取)されたのかは後段に推察するとしても、スケッチ帖かスケッチをしたノート状のものが夢二の手荷物の中に入っていてもおかしくありません。無くなったとされている54枚の絵はともかくとして、手荷物として持ち帰ったスケッチはどこかにあるのではないかと期待しているところです。

とはいえ、夢二がつきあいや観光ばかりしていたはずはなく、展覧会場の警察会館では、絵が搬入され、展覧会の準備が業者によって進められていたはずですから、夢二がどの程度まで展示に関わったかはわかりませんが、展示会場での仕事もしていたと思われます。以前の夢二なら展示作業に大きく関わっていたでしょうが、急な展覧会でかなり寄せ集めの作品となっていてあまりまとまりがなかったでしょうし、武二が「(夢二は)非常に憂うつな顔をして居て、何故自分は台湾に来たのだろうと言って居た」と言っていることからも、体調も良好だったとも思えません。おそらく展示概要の指示と最後のチェック程度をしたのはないかと思われますが、夢二のことですから、自分で積極的に展示作業をしていたかもしれません。

夢二訪れた頃の台湾は、世界恐慌の世界恐慌が日本にも波及し不況が深刻化してきていましたが、昭和5年(1930)には八田與一が烏山頭ダムを完成、翌年には嘉儀農業高校(KANO)が甲子園で準優勝になるなどの活性事象が見られるほか、前述のとおり、昭和10年(1935)には、台湾統治開始以来40年目の「始政40周年記念行事」である「台湾博覧会」が予定されていたこともあり、市中はお祭りムードが高まってきているような状況であったと思われます。現にこの時期は基隆税関合同庁舎の竣工直前であり、夢二は入港の際、改装中のふ頭にそびえたつその姿を目にしていたはずです。

このような中で、展覧会開催の前日である11月1日に東方文化協会の発会式が大稲埕「蓬莱」で盛大に挙行されました。翌日の「台湾日日新報」によると、次のとおり盛大なパーティーが開催されました。(記事写真参照)

「東方文化協會臺灣支部の盛大な發會式 

昨夜大稲埕蓬莱閣で 東方文化協会臺灣支部の盛大な發會式は昨夜大稲埕蓬莱で挙行されたが、本部。。。。が出席、先づ川瀬理事長(ママ)より。。。旨を述べ、次いで数項決議を成し終わって午後五時過ぎより祝賀縁を開き盛會裡に午後八時散會したが。。。(後略)東方文化協會臺灣支部の設立を記念する為めの竹久夢二畫伯の作品展覧會は三日より五日まで三日間、警察會館で開催の筈であるが、出陳點数は五十余、屏風、額滞欧作品「海濱」「女」「旅人」等の外枕屏風中、「春夢幻想」「榛名山秋色」の一點は同畫伯の近況を物語るものであり、四尺二枚折屏風「舞姫」は、〇(判読不可)に有島生馬氏との合作にて「古き夢二式美人」を偲ぶものであるといふ。」

この「大稲埕(だいとうてい/ダーダオチェン)」というのは、台湾の歴史の重要な部分を担っている場所で、日本統治時代には富裕な台湾人が大きな商いをしていた大繁華街でした。ここは、現在は台北市大同区附近の名称となっている街区ですが、清末から日本統治時代にかけて、大稲埕は経済、社会、文化の中心地として台湾の発展の中心地であったばかりか、人文等の学術の中心地ともなり、現在では、往時の様子を伝える建造物等が散見できるノスタルジックな場所として有名な観光地として知られています。

歴史を振り返ってみると、19世紀末に2度にわたり英仏連合軍に敗れた清朝が1860年に淡水港を開港し、この開港の範囲に大稲埕が含まれていたことから、交易が活発に行われ、大型船が大稲埕に停泊するなど、台湾北部の商業、貿易の中心地となりました。そして、1865年には、イギリス人ジョン・ドッドが訪台して泉州安渓の茶苗を導入し、それを農家に貸与して茶葉を生産させて生産物を買い取るという事業を開始。台湾における茶葉栽培が始まりました。この時に生産された烏龍茶は、淹れると白、金、黃、緑、紅の色がついていたため、ヴィクトリア英女王に献上された後に、Oriental Beauty(東方美人)と命名されました。有名な「東方美人茶」の始まりです。これにより台湾茶葉の名声が高まり、イギリスやアメリカ向けに大量に輸出されるようになり、国際的な大稲埕茶市は日本統治時代まで隆盛を誇っていました。茶葉貿易の急速な拡大は、大稲埕に経済的な恩恵をもたらすこととなりました。

1885年、清仏間で講和条約が結ばれると、清朝は初代巡撫に劉銘伝を任命し、インフラの整備を積極的に推進。「台北火車票房」(大稲埕駅、現在の台北駅の前身)という鉄道駅を大稲埕南端に建設、付近の商業活動をさらに発展させました。この時期には、地方有力者がここに洋風店舗を建てて貸出しを開始したため、洋風建築を用いた商業活動が大々的に行なわれるようになりました。

明治28年(1895)年に日本による台湾統治が始まりましたが、大稲埕の茶葉貿易は依然として隆盛を誇っていましたが、日本は欧米資本の影響力を排除し、日本や東南アジア市場に主眼を置く経済活動に転換させようとしたため、大稲埕は伝統的な茶葉交易以外に、漢方薬、繊維を始め各種物産も扱うようになり、明治41年(1908)年に南北縦貫線が全線開通したことで、なお一層経済発展することとなりました。

しかし、日本統治時代が進むと、日本人によって建設された城内(現在の台北駅の周辺)が中心地として成長し、城外とされた大稲埕は台湾元来の街並みと生活様式を残した地区と変貌していきました。現在は、日本統治時代は台湾の各種雑貨と茶行を中心とした商業の中心地だった「迪化街(てきかがい、ディーホアジエ)」が観光地として非常に有名です。「からすみ」などの食料品店がずらりと並び、台北観光には必須の地となっています。(つづく)

▼大稲埕の街並み
台北市大稻埕1930年 (2)
▼東方文化協会発会式を掲載した「台湾日日新報」
台湾日日新報(昭和8年11月2日)

 

■夢二の世界■

PART 3 KAWAIIの世界」(「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より)

40 大正女性のファッションスタイル ― モダンガール

洋服を着こなし、切りそろえられた断髪、描き眉毛につけぼくろ、爪にはマニュキアを施した流行の先端を行く女性「モダンガール」が大正末期に登場し、略して「モガ」と呼ばれました。この名称は大正最後の年である、大正15年(1926)の流行語にもなり、彼女たちは、「モダンボーイ」(「モボ」)と銀座の街を闊歩し、都市風俗の象徴的存在となりました。時代は昭和に入って、モダンガールは幾分数が増えましたが、時代を先駆けしたスタイルを実践できた女性は限られていました。またモダンガールは恋愛や生活面で、これまでとは価値観が異なる先進的な女性ゆえに、新聞雑誌の話題として頻繁に取り上げられました。

あまり数は多くないものの夢二が描く女性にも、おしゃれで都会的なモダンガールが登場しました。

▼「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より
本「かわいい手帖」モガ

▼モガの代表選手である望月百合子
「断髪のモダンガール」表紙
▼モボとモガ(江戸東京博物館「大東京展」より)

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■夢二の言葉■

●この年になって こんなに涙もろく心が痛むとは おもいもよらなかった。 もう何もかも忘れようと試みるが そんなことは何にもならない。 忘れようとおもうことが 思出させる役に立つばかりだ。

(『夢二日記』1930327日)

●貧乏を恥じるものが ますます貧乏になり 貧乏を恐れるものが ますます富者になる。 貧乏に慣れたものもまた いつまでたっても貧乏だ。

(『夢二日記』1930123日)

●物と心とが益々食い違ってゆく。これが近代文明の特長である。女中が五十マルクで働く。金をためることだけしか考えない。他の人間も同様である。人間としての勉強をしない。人生の目的、知りもしない、知らないですんだ。さて、それで好いのか。

(『夢二日記』1933325日)

 

■夢二情報■

●夢二が関東大震災のスケッチを新聞連載した「東京災難画信」が金沢湯涌夢二館で展示されています。

https://www.chunichi.co.jp/article/533357

 なお、「東京災難画信」は東京都墨田区両国の東京都復興記念館で有島生馬の描いた震災画「大震記念」(被災地に夢二、児玉源太郎、柳原白蓮等を描く)とともに展示されています。

▼「大震記念」(有島生馬画)

 

●夢二見いだす 生活美 浴衣地など ― 金沢湯涌夢二館で130点が展示されています。

https://www.chunichi.co.jp/article/537236?rct=k_ishikawa