■メッセージ■
9月16日の夢二の誕生日は快晴。葛西臨海公園に行って優雅に浅瀬を歩くアオサギやダイサギを撮影しました。
といころが、どういうわけか急に動悸・息切れがしはじめ、歩くのもハアハアするような状況となりベンチで休憩。ぼーっとしたアタマでやっとのことで帰宅しました。それ以降二つの連休は全滅というありさまでした。
呼吸しづらくなるなど初めての経験で相当焦りましたが、人生何が起こるかわからないといういい勉強になりました。運動不足が原因なのかもしれませんが、改めて健康管理を再度見直すことにしました。
▼はあはあしている僕を見て「落ち着けよ」と笑っていたかもしれないダイサギ
■竹久夢二の素顔■
●恩地孝四郎(1)(『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房指新社)の「夢二の芸術・その人」より)
(注)本文は恩地孝四郎主宰・編集の趣味雑誌『書窓』第三巻第三号(昭和11年(1936)11月・アオイ書房)に掲載されたもので、夢二との出会いから別れまでの日々を総合的に語ったものです。
「夢二を語るということは僕にとっては何かと心重たいものがある。個人的ではその末期、実に疎遠なりしこと新宿駅頭彼のいった「秋まで療養していれば出て来られる」との言葉をそのまま、わりに元気に見かけた物ごしから、死命を制されているとも知らず別れたまま、界を異にして了ったこと。(編者注:昭和9年(1934))
「夢二」の字を見るだけで既に私の胸は重圧を覚えるのである。すまない気が一杯になる。たとい後には想念を異にしたとはいえ、僕の少年時代に潤を与え、私をして画を志すの知られざる誘因となっていたその人に対するの道ではなかったことのかえらぬ悔のためである。だが私情は茲(ここ)に避けるべきだ。
夢二君と言っては僕の気持に来ない。夢さんといったものであるが、その夢二君を初めて訪ねたのは、夢二画集春の巻出刊(編者注:明治42年(1909)12月)直後、僕の送った手紙(それは夏の巻に収められていまは赤面の種であるが、思いがけない人に、旧知を名のられるもとをなしている)が、夢二君の喜ぶところとなり、当時の住居「麹町土手三番町、倉島ふじ方」にその生きた夢二氏を目のあたりにしたのである。明治四十ニ年十二月半(なかば)に夢二画集初巻が上梓されているから、僕の中学卒業の年、上級学校受験準備中の僕であった。僕が画家に接した最初の人であったといっていいい。そして幼少から画ばかりかいていた僕だったが、決して画かきになるつもりのなかった僕が忽(たちま)ち、次年春、美術学校を受ける熱意にまで到達したというのは即ち夢二氏がそれをすすめたのではない。夢二はそういうおせっかいを決してする人ではなかった。美校生の服を着た僕を爾来(じらい)甚(はなは)だに屡々(しばしば)夢二君の家に発見するのである。そして私は本科に入れずに追われた。むろん成績不良だったからだ。そうしたことを再三重ねたというのは、学校より夢二学校の方を勉強したからである。」(つづく)
※爾来(じらい)甚(はなは)だに:「それ以来たいへん」といった意
※恩地孝四郎の生涯: 明治24年(1891)7月2日 - 昭和30年(1955)6月3日)。東京府南豊島郡淀橋町出身の版画家・装幀家・写真家・詩人。父親の希望した医者になるべく獨逸学協会学校中等部に進学したが、第一高等学校入試に失敗。翌年の明治43年(1910)、父親に背いて東京美術学校予備科西洋画科志願に入学し、同時期に白馬会原町洋画研究所に通い始め、池内三郎、田中恭吉、藤森静雄などと出会った。
明治44年(1911)には東京美術学校予備科彫刻科塑像部志望に入学し、6月には竹久夢二らとともに『都會スケッチ』を刊行。7月には現在確認できる恩地の初めての装幀本である西川光二郎の『悪人研究』が刊行され、夢二の主宰雑誌『櫻さく國 白風の巻』に絵と詩を発表した。大正元年(1912)に東京美術学校予備科西洋画科志望に再入学し、『少年界』『密室』などに油彩画やペン画など様々な作品を発表した。
大正3年(1914)1月には恩地家に寄宿していた女子美術学校の学生(のぶ(1894年山梨県石和市生まれ、のち絵画制作者))と婚約。同年3月、日比谷美術館で開催された木版画展でワシリー・カンディンスキーらドイツ表現主義作家の抽象版画に深く共鳴し、この頃に版画の創作を始めたと思われる。春から夏にかけて田中・藤森とともに同人誌『月映(つくはえ)』(私輯)を6輯まで発行し、9月には洛陽堂から自画自刻の木版画と詩歌の雑誌『月映(つくはえ)』(公輯)を刊行。この頃から北原白秋や室生犀星や萩原朔太郎との交友が始まった。
大正5年(1916)にのぶと結婚。翌年には萩原の第一詩集『月に吠える』の装幀を担当した。1918年には山本鼎、織田一磨らの日本創作版画協会発起に協力し、1919年1月の展覧会開催に尽力した。昭和2年(1927)には帝国美術院展(帝展、現在の日展)が版画の受理を初めて認め、同年に『幼女浴後』が初入選。夢二が米欧旅行に旅立った昭和6年(1931)には日本版画協会の常任委員に就任し、昭和11年(1936)には国画会版画部の会員に推挙された。その後は海外で開催された日本の版画展への出品が続き、作品はパリ、ジュネーブ、サンフランシスコ、ロサンゼルス、シカゴ、フィラデルフィア、ニューヨーク、ロンドン、リヨン、ワルシャワ、ベルリンと巡回した。
戦後は抽象版画に傾倒し、『イマージュ』『アレゴリー』『フォルム』などのシリーズを同時進行的に製作。これらの抽象作品は日本人より先に、日本に駐留するアメリカ人に評価され、多数の作品がアメリカに持ち帰られた。1953年6月には国際版画協会の初代理事長に選出され、同じ頃には岡本太郎や村井正誠、植村鷹千代とともに国際アートクラブ日本支部を発足させた。昭和30年(1955)に心身の不調を訴え、6月3日に死去。享年64歳。墓所は品川区上大崎の高福院。
創作版画の先駆者のひとり、また、日本の抽象絵画の創始者とされている。前衛的な表現を用いて、日本において版画というジャンルを芸術として認知させるに至った功績は高く評価されている。(wikipediaを要約)
▼「夢二生誕130周年記念「竹久夢二 大正ロマンの画家、知られざる素顔」(2014年、竹久夢二美術館監修)
▼恩地孝四郎(1952年)
■夢二の台湾旅行(復習編)■
これまで長期にわたり追ってきた夢二の台湾旅行の概要と着目点などについてまとめていきます。
●第11回 「講演会」
「夢二 異国への旅」(袖井林二郎著)によると、この日の夜、東方文化協会台湾支部設立の記念事業として台北市内の「台湾医専」で講演会が開かれました。
まず、この会場となった「台湾医専」を知るため、台湾大学の医学部(正式名称「國立臺灣大學醫學院」)の歴史を見てみることにしましょう。
明治28年(1895)6月に台湾総督府により台湾統治の開始式典である「始政式」が執り行われましたが、その4日後、「台北大稲埕大日本台湾病院」が設置されました。ここには、日本から医師10名、薬剤師9名、看護師20名が派遣されました。明治30年(1897)4月には台湾での医師養成を目的として病院内に医学講習所が設置され、翌年3月に、第4代台湾総督児玉源太郎と民政局長後藤新平による児玉・後藤政治下で、「台湾総督府医学校」が設立されました。
医学校の就学年限は4年。これとは別に予科1年が設けられ、第一期は70名の学生が募集されました。当初は、本島人(台湾人)のみを対象としました。これは、一般的に植民地教育は原住者の初等教育よりも高等教育を重視することが通例で、統治の助手を養成すると同時に、一般庶民を教育から遠ざけ、統治のための便宜を図るためでした。このため、本医学校は、本島人(台湾人)を対象とする唯一の高等教育機関でした。
この学校は、大正8年(1919)に「台湾総督府医学専門学校」、大正11年(1922)にさらに「台湾総督府台北医学専門学校」と改称されました。
また、台北帝国大学は昭和3年(1928)に設立されたが、医学部の開設は昭和11年(1936)である。翌年には「台湾総督府台北医学専門学校」の校地(台北市東門町)を使用するようになり、昭和13年(1938)に帝大自身の附属病院が成立するという過程をたどりました。一方医専の方は1936年に台北帝国大学付属医学専門部と改称しました。
終戦後、台北帝国大学付属医学専門部は廃止となり、中華民国となって、現在の「国立台湾大学医学院」となります。
ちなみに国立台湾大学構内の壁面には台湾の衛生や医学の発展に貢献した先人たちのパネルが展示されていますが、この中の一人は第3代の医学部長を務めた森於菟(もりおと)は、森鴎外のご子息とのこと。森鴎外自身も日本が台湾を領有した際には軍医として同行し、北白川宮能久親王の最期を看取ったとのことです。
このように長く複雑な歴史をたどっていますが、講演会が開催された場所は、大正11年(1922)に改称された「台湾総督府台北医学専門学校」であり、これは「台湾医専」(「台北医専」という説もあり)と呼ばれる台北市東門町にあり、建物は現在の台湾大医学院2号館で、ここには講堂があったようです。
ここで、河瀬蘇北と夢二の講演会が行われました。
講演会では、まず、「台湾日日新報」主筆(編者注:台湾総督府文教局 台湾総督府資料編纂委員会 台湾日日新報漢文部主任)の尾崎秀真(ほづま)が開会の挨拶を行いました。この人は、この後ゾルゲ・スパイ事件で死刑となる尾崎秀実(ほづみ)の父でもあります。夢二がソーテル(1920年ころから日系人が移住したロサンゼルスの町。「リトルオーサカ」とも呼ばれた。当時から続く商店などが、今も街に点在)で親交を結んだ沖縄出身の画家・宮城與徳(よとく)も、これより少し前にこのスパイ団に参加するために半ば公然と日本に入国していました。もちろん、このことは尾崎も夢二も知りません。
この講演会では、夢二が「東西女雑観」を講演しました。あまり講演が好きでない夢二ですが、洋行帰り第1回目の正式公演は台湾で行われたことになります。題材はいかにも夢二らしいものですが、内容に関する資料はないので、夢二のヨーロッパでの日記などから類推するしかありませんが、ドイツやオーストリア、スイスでの女性のスケッチや詳しい記述が記録されているので参考になるかもしれません。河瀬蘇北は「東方文化の時代」と、東方文化協会の趣旨を台湾支部開設にからめて述べたものと思われます。
以上、「夢二 異国への旅」(袖井林二郎著)を基に、特に会場となった「台湾医専」について調べた結果をご紹介しました。台湾大学医学院の歴史に関しては、後述のとおり、様々な論文やブログ等を参考に記載しました。
なお、論文「日治時期の台湾におけるエリート ―生理学専門の日本人を中心に―」銘傳大学応用日本語学科教授 王敏東著、台湾日本語文學會「台湾日本語文學報」25(2009.6)に日本が台湾での医学部設置を進めた理由が書いてありますので引用しておきます。この自然環境であったことを夢二は知らなかったと思われるうえ、昭和11年(1936)の医学部設置前に訪台した夢二は、明らかに健康に良くない環境の台湾に行ったことになると言えます。
「台湾の自然状況から見ると、その必要性(編者注:同面積の九州は台湾の5倍(6500人)の医師がおり、帝大に医学部新設の要求が必然であること)もあった。医学部設備の少ないのはその他の健康地たることを示すのであれば、台湾は健康に恵まれた地ではない。気候の点から言っても気温は高く湿度も高いために人体の新陳代謝は敏活に行われず、疲労し易く、従って病気に対する抵抗力も弱く、(中略)死亡率にも影響し、1925年人口1000人に付き死亡率は台湾24.1人、朝鮮20.6人、内地20.3人であり、全国において筆頭の地位を占めていた。」(銘傳大学応用日本語学科教授 王敏東)(つづく)
(編者注1)前段はwikipediaから採用したが、大正8年(1919)以降は次の論文が詳細に書かれているため次の該当部分を採用した。
・論文「日治時期の台湾におけるエリートー生理学専門の日本人を中心にー」銘傳大学応用日本語学科教授 王敏東著、台湾日本語文學會「台湾日本語文學報」25(2009.6)
「医学教育は、1899年に台湾総督府医学校で開始された。それは医学校創立者である山口秀高が、沖縄での経験に基づき、現地の人を対象に医学教育を施せば現地の医学に直接利用できると主張したことにより始められた。この学校は、1919年に台湾総督府医学専門学校、1922年にさらに台湾総督府台北医学専門学校と改称された。また、台北帝国大学は1928年に設立されたが、医学部の開設は1936年である。翌年には台湾総督府台北医学専門学校の校地を使用するようになり、1938年に帝大自身の附属病院が成立するという過程をたどった。一方医専の方は1936年に台北帝国大学付属医学専門部と改称した。」
(編者注2)「現在の台湾大医学院2号館。昭和11年の台北帝大医学部設置に伴い台北帝大附属医学専門部として統合された。医学部と医専は当時の台北市東門町に併置され、この建物は講堂及び生化学・医化学教室に用いられた。」(ブログ「華麗なる旧制高校巡礼」)
(編者注3)「 台湾大学医学院(旧 台湾総督府医学専門学校)は、中山南路一段と仁愛路の交差点・北東角(東門=景福門のある交差点)にあります。中山南路一段を挟んで西側の建物は台北賓館です。また仁愛路を挟んで南側には、以前
国民党本部が入っていたビルがあります。
現在この建物は、医学院の2号館として利用されているようです。右隣にある立派なビルが本館であると思われます。後方(北)にあるのが台大医院の新館です。
市定古蹟、竣工:1907年(明治40年)、設計者:不明」(ブログ「台湾ing」)
▼旧台湾医専(現・台湾大医学院2号館)
▼台湾医学専門学校(1930年代)
※(参考引用)尾崎秀真(ほづま・ほつま?)に関する記述
●「漢詩や篆刻が育んだ尾崎秀真と台湾人の友情」(台湾研究家 森 美根子著 2019.02.09)
・台湾近代美術史に数々の業績を残した尾崎秀真
台湾で発行された近代美術史の本を見ると、尾崎秀真(ほつま)の名前がたびたび登場し、台湾に残した彼の業績の数々が発表されている。そもそも尾崎秀真と台湾との縁は、1901年4月、彼が、医師で政治家も務めた後藤新平の招きで台湾日日新報社の記者になったことに始まる。籾山衣洲(もみやま・いしょう)の後任として同紙の漢文版主筆となったのはそれから3年後のことだったが、総督府台湾史料編さん事業に携わった1922年以降、史跡名勝天然記念物調査会の調査委員や台湾博物館協会の理事を務めるなど、在台45年、ジャーナリストとしてだけではなく、歴史、考古学の分野でも多くの業績を残している。
これらは台湾の研究者の間では周知の事実となっているが、肝心の日本では秀真はゾルゲ事件(ソ連のスパイ事件、1941-42)に関与した尾崎秀実(ほつみ)の父として知られている程度で、研究者でも彼の台湾における業績、ましてや彼が詩書画にも精通し、篆刻(てんこく)の分野でもさまざまな活動をしていたという事実を知っている人は極めて少ない。
秀真は18歳のとき、親の期待に応えるべく故郷の美濃(現在の岐阜県)から上京、東京の病院に薬局生として住み込み、私立の医学校、済生学舎に通っている。その後、『医界時報』という医者向けの新聞の編集に携わるようになって、当時内務省衛生局長だった後藤と交わるが、この出会いが後に彼の人生を大きく左右することになる。
日清戦争で『医界時報』が休刊になると、小学生の頃から漢詩漢文に親しみ、もともと文学に強い憧れを抱いていた秀真の詩作への思いが再燃した。親の期待を知りつつも医学の道を中途で捨て、1896年に創刊された雑誌『新少年』の編集部に入り、作家・鹿島桜巷(おうこう)らと共に選者の一人となった。この頃の秀真は、依田学海(がっかい)に漢詩を、渡辺重石丸(いかりまろ)に国学を、高崎正風(まさかぜ)に和歌をそれぞれ学び、ひたすら文学の世界にふけったと伝えられている。
1897年3月、秀真は『新少年』の編集主幹となり「白水」と号したが、篆刻の世界に足を踏み入れたのも、どうやらこの頃のようだ。篆刻印は、書画の完成に際してサインとして用いるが、漢詩人であった彼がその魅力に引かれていったのは、むしろ当然の成り行きだったのかもしれない。
・篆刻にのめり込み、同好会を結成
経営難で『新少年』が廃刊になると、秀真は北隆館の『少国民』の編集者を経て、報知新聞の記者となった。彼が台湾に赴任するようになったのは、『医界時報』時代に知遇を得た後藤の強い要請による。後藤は台湾総督府民生長官として台湾に渡るに当たり、台湾日日新報創刊のため、福建省からの移民が多い台湾の実情を考慮し、漢文ができるものを採用したい、との強い意向を持っていた。
秀真は当初、単身で台湾に渡り、その後家族を呼び寄せ、台湾日日新報漢文部の先輩・籾山が仮住まいをしていた児玉源太郎の別邸「南菜園」に留守番係として移り住んだ。日曜日ごとに従卒一人を連れ、畑仕事に精を出す児玉の野菜作りの手伝いや詩会の世話など、何かと多忙な日々を送る秀真の下に、後藤が早朝から妻を伴い、その頃台湾に2、3台しかなかった自転車に乗り、稽古と称して「南菜園」を終点にし、たびたび立ち寄っていたという。
台湾日日新報社の漢文版主筆となった秀真は、1906年9月「南菜園」の近くに新居を構えると、自ら「古村」と号し、自宅を「讀古村荘」と命名、同紙の記者で、書画や印材に造詣が深かった村木虎之助(鬼空)らと篆刻を研究する同好会「水竹印社」を結成した。
この頃、秀真は「白水」「古村」のペンネームで台湾日日新報に連載『田園日記』を発表するが、そこには「水竹印社」同人との交流の様子、当時の著名な篆刻家、足達疇村(ちゅうそん)の弟子にして漢文版の先輩である小泉盗泉(号・愁魔王)と篆刻について熱く語り合った話など、日々篆刻にのめり込む当時の秀真の姿がありありと描かれている。
秀真は事あるごとに篆刻家たちを「讀古村荘」に招いているが、そんな彼の下に11年春、篆刻家の西樵仙(さいしょうせん)、南画家の新井洞巖(どうげん)、総督府高等女学校教諭の須賀蓬城(ほうじょう)の3人の日本人が訪れた。西は、長崎で政治家・教育者として名を馳せた西道仙の子で、書、篆刻、茶をよくした人だったが、秀真を含む4人はここで七言絶句の漢詩一首を詠み、その記念として「古邨小集」という篆刻印を遺している。
その後の秀真は、須賀蓬城らと自作の印章を披露する「観印会」を催したり、日本から篆刻家を招いて篆書の揮毫(きごう)を求めたりと、篆刻の研究熱は高まる一方だった。芸術愛好家の仲間を募り、さらなる発表の場を求め彼が動き出すのはさして時間を要しなかった。
・台湾だからこそ開花した芸術的資質
1929年秋、台湾日日新報社常任監査役にして、石章、古硯(こけん)、印譜のコレクターとして名高い石原幸作(号・西涯、三癖老人)と「趣味の会」を、さらには1935年夏には石原幸作、嶺謙也(号・竹軒、台北市新起町郵便局局長)らと「玉山印社」を、それぞれ組織している。
ちなみに「趣味の会」の発会式は北投の温泉旅館、桔梗屋で開かれたが、秀真をはじめ台北の書画家や篆刻家が三十数名集まり、温泉に浸かった後、大広間で素焼きの陶器に揮毫したり、土器に篆刻したりしたと伝えられている。
秀真は台湾日日新報に、篆刻家たちの作品を紹介する連載『古邨讀餘印存』や篆刻の心得や品評を述べた連載『讀古荘清談』を次々に発表しているが、あるとき、石についても記者の取材に次のように答えている。
石に対する道楽は支那でも非常に古くからあったもので(中略)、支那人は石の堅いこと及びそれと共に苔のついた石の柔らかさ、水に浸っている潤いなどを非常に愛したもので、これほど芸術味豊かなものはなく、実に東洋芸術の粋であります。東洋芸術でも草花より盆栽に進み、骨董のうち書画刀剣よりさらに進んで、最終的には石に到達し、石を愛するに至って、初めて東洋芸術の蘊蓄(うんちく)を究めることになります。(中略)私の主義たる自然石を拾ってきて集めるということからいえば、すなわちこれは乞食であり、乞食にならねば駄目である。お金をかけて趣味のコレクションをなしている間はまだまだ初歩であり芸術の中途にあるものです。(中略)石は死物ですけれども、こうして石を蒐集(しょうしゅう)し愛することを「石をかう」とか「石を養う」すなわち「養石」とかの言葉が用いられ、死物に対する無量の芸術味を鑑賞するのです。(台湾日日新報、1931年7月20日、3面)
秀真は、台湾美術展覧会の評議員や書道展の審査員を務めた時も、有識者による台湾の歴史文を語る座談会に出席した時も、一貫して詩書画一体(篆刻含む)によって成立する東洋芸術を重視するよう求め、台湾の文化を語るにはまず台湾の生い立ちを知らなければならないと説いている。
幼い頃より目覚めた文学への憧れはやがて篆刻の世界で実を結ぶことになるが、彼本来の芸術的資質は、当時まだ清朝時代の伝統文化が多く残った台湾であったが故に深められたといっても過言ではない。ともすれば明治の知識人・エリートは政府が推進した欧化主義により伝統文化と背馳(はいち)せざるを得なかったが、その一方で秀真のように東洋芸術の神髄を究めようとする日本人がいたことも忘れてはならないと思うのである。
*参考文献:葉碧苓著『日治時期推動臺灣篆刻的領軍人物:尾崎秀眞(1874-1949)』臺灣美術學刊No.112 2018
*「nippon.com」より https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g00643/
*尾崎秀真の名の読み方:袖井林二郎氏は「ほづま」、森美根子氏、徳富蘆花記念館及びwikipediaは「ほつま」としている。
■夢二の世界■
PART 3 「KAWAIIの世界」(「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より)
43 子供の世界 ノスタルジック&モダン(2)
夢二自身、子供服にはこだわりがありました。大正4年(1915)、次男・不二彦の外套をあつらえるため東京麹町の婦人洋服店・八木屋に、夢二はフランスの高級モード雑誌「ガゼット・デュ・ボン・トン」を持参してオーダーをしました。後年この出来事を振り返り、このようにしてまで「子供服をつくる人はなかった」(日記より昭和7年(1932)3月20日)と回想しました。
※雑誌「ガゼット・デュ・ボン・トン」:リュシアン・ヴォージェルの編集のもと1912に創刊されたフランスの高級モード雑誌。第一次大戦により15年に休刊となるが、20年に復刊し、25年まで続いた後、『ヴォーグ』誌に吸収された。誌面は、テキストと挿絵を大胆に組み合わせたデザイン性の高いレイアウトで構成されていた。また毎号、付録としてファッション・プレートと呼ばれる版画が10枚ほど収められ、ポール・ポワレやジャンヌ・ランバン、マドレーヌ・ヴィオネ、ジャック・ドゥーセなど、オートクチュールを代表するメゾンの最新の衣装が、ジョルジュ・バルビエやシャルル・マルタン、エドゥアルド・ベニート、ジョルジュ・ルパップなど、当時人気のイラストレーターたちの手によって精彩豊かに描き出された。上質な手漉き紙に型を使って手作業で色を重ねていくポショワールの技法でイラストに彩色が施されたこの雑誌は、「上品で美しい雑誌」を意味するタイトルにふさわしい芸術性の高い作りを誇った。しかし、贅沢なポショワール刷りのモード雑誌は、次第に時代に馴染まなくなり、29年の世界恐慌の陰でいつしか姿を消していくこととなった。以後、モード雑誌の中心は写真に移るが、『ガゼット・デュ・ボン・トン』は写真製版の時代が本格的に幕を開ける直前に、ファッション・イラストレーションという分野に輝かしい一時代をもたらし、今日なお「20世紀最大のモード雑誌」と称されている。(著者: 朝倉三枝)
▼「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より
▼雑誌「ガゼット・デュ・ボン・トン」
■夢二の言葉■
●三十七にもなって ボヘミアンネキタイをして 詩を書いている私を 実業に従事している人間は 笑うだろうか。 だが一体 諸君はどこへゆきつくつもりだろう。 何のための人生だか 誰に確答出来るだろう。
(『夢二日記』1932年4月※日付不明)*ロサンゼルス滞在中。
●欧州の人は各々孤独なり、 子供さえ独りになれ、 一人工夫し、一人世に出づるなり、 一人生きぬく工夫が まず最初にして最後なり。 夫婦も情人も逢うた時のもの、 愛し合うことの大切なる所以なり。 味のこまかさ人情のこまかさ 時にうれしとおもえど時にうるさし、 この孤独こそ人間本来の姿とおもう。
(『夢二日記』1933年3月10日)*ドイツ滞在中
●ある小説の主人公のように 冒険や経験をするために私は旅行をしない、 どうかして かん素に生活し みずからを単純化して 過去を忘れる企てであった。 むろん旅立つことは死をまたぐことであった。
(『夢二日記』1933年12月7日)*11月に台湾から戻り病身で少年山荘にいたころ。
■夢二情報■
●異国や江戸の趣を感じられる作品展開催(夢二郷土美術館(岡山))
詩人画家・竹久夢二(1884~1934)が活躍した大正時代は、外国から入ってきた新しい文化と伝統的な日本文化が織りなす和洋折衷の時代だった。文学の世界でも、作家たちは南蛮趣味など異国の文物に関心を寄せたり、江戸文化に対する憧憬を作品で表現したりした。
大正浪漫の旗手である夢二は文芸誌や文学作品の装幀を数多く手がけ、作家たちとも親しく交流するなど文学と深いつながりがあった。異国や江戸の趣を感じられる作品も数多く制作しており、エキゾチックなモチーフの描写や歌舞伎などを題材とした江戸情緒あふれる芝居絵からは、夢二が持つ遠い世界への憧れが感じられる。
本展では「異国趣味」や「江戸趣味」を表現した夢二作品を紹介するとともに、夢二と同時代の文学者との交流にも焦点をあて、ブックデザインの世界でも活躍した夢二のデザイナーとしての仕事も展覧する。
https://yumeji-art-museum.com/
●「竹久夢二の音語り 〜生誕138年記念 ⻑月のうたげ〜」ランチ&ディナーショー情報。古民家で奏でる二胡の音色と夢二の世界。
https://fukuokano.net/art/yumeji-otogatari-2022.html
●竹久夢二・小林かいち・中原淳一「大正ロマン・昭和モダン
ポップアート展」太宰府館の開催情報。3つのイベントも同時開催。
https://fukuokano.net/art/taisho-roman-2022.html
●
東京駅八重洲北口を出ると目の前に現れる、スモールラグジュアリーホテル「ホテル龍名館東京」。ここは、2012年から9年連続ミシュランガイドで2つ星を獲得し、日経トレンディ「2012年ホテルランキング」のビジネスクラス部類では全国1位を受賞している。
1899年(明治32年)、淡路町から神田駿河台の観音坂を上りきった日本橋室町に、江戸時代から続いた旧名倉屋旅館の分店「旅館龍名館本店」として開業したのがはじまり。当時、竹久夢二や川村曼舟、伊東深水など、著名な文人や芸術家たちが定宿として利用しており、作家幸田文の名著「流れる」にも描かれている。しかし、空襲によって呉服橋支店と本家の名倉旅館が焼失し、名倉旅館は廃業するが、龍名館は戦後に再起を果たす。
本店は1976年にビルへ建替え(現在は「ホテル龍名館お茶の水本店」)、「ホテル八重洲龍名館」は2009年に135室の「ホテル龍名館東京」へ建替えている。
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