■メッセージ■
先週号ではお騒がせしましたが、なんとか落ち着いてきました。どうも動脈硬化が原因であるようで、これからは本誌が途中で途切れないよう、十分気をつけて行きたいと思います。
おりしも、1020年3月以来入国制限をしていた台湾が、コロナ禍で停止していた観光目的の外国人旅行者の受入れを9月29日から再開し、10月13日をめどにこの措置を撤廃すると発表しています。
ようやく台湾への道が再開することになりますが、制限撤廃直後と年末年始の観光シーズン直後は何となく不安が残るので、状況を見つつ、ますます健康管理をしっかりして来年のイベント実施に備えたいと思います。
ところで、東京都墨田区の公式年間施策「隅田川森羅万象墨に夢2022」の施策が始まりました。今日は、墨田区京島UNTITLED spaceで開催中の、ファインアート・ドキュメンタリー写真家写真家ユーリア・スコーゴレワの写真展を訪れました。彼女は、葛飾北斎と応為の父娘関係への関心から、日本在住の5人の女性クリエイターの父娘関係のストーリーに追った写真インスタレーションを展開しています。古びたアトリエに並ぶモノクロームの写真が印象的でした。
ユーリアさんはロシア生まれ。モスクワ国立大学で日本語を専攻し、日本の舞踏ダンサ ーの通訳をしていたことがきっかけで、ダンサーの写真を撮り始め、国際および日本の複数の写真賞を受賞しています。在日歴10年で日本語、英語もこなす才媛です。
キューレーターは、会場2階にアトリエを持つ在日歴8年のポーランド生まれの画家エウエリナ・スコウロヌスカさんが務めています。彼女は洗練された滑らかなグラデーションを持つ美しい絵を描いています。会場の2階にある画家のエウエリナさんのアトリエを訪問して面白い話が出てきました。彼女の絵は滑らかなグラデーションを基調としたもので、それが東郷青児の画風と似ていたので青児の説明をしてスマホで絵を見せたところとても興味を持ち、話が夢二に進んできたので、ポーランドにマンガ館がある(主に浮世絵の展示研究をしている。北斎美術館とも関係があり数年前学芸員が訪問している)ことに話が及んだ所で、マンガと夢二のコマ絵との関係、夢二の欧州旅行や北斎漫画などについて話をしました。あまり日本語を話さないエウエリナさんとは英語での会話だったので詳細な話は当方のボキャブラリー不足でできませんでしたが、人と人の間には国境なんてないことを改めて実感することができました。
▼写真家のユーリアさん(中央)と画家のエウエリナさんと
■竹久夢二の素顔■
●恩地孝四郎(1)(『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房指新社)の「夢二の芸術・その人」より)
(注)本文は恩地孝四郎主宰・編集の趣味雑誌『書窓』第三巻第三号(昭和11年(1936)11月・アオイ書房)に掲載されたもので、夢二との出会いから別れまでの日々を総合的に語ったものです。
「所で夢二君の所での半日乃至(ないし)一日というものは、何をするというのもない。画を談ずるのではむろんない。蓋(けだ)し、相手のない恋情を意識せずに満たしていたものに違いない。夢二氏は、多く黙っている。その頃の日本によくあったドイツの通俗芸術誌「ユウゲンド」なんかをひっくりかえし乍(なが)ら、そこはかとなく座っていたに過ぎない。両方ともがだ。時には、そこに夢二讃仰(さんぎょう)の青少年たちが同居した。美術生では亡久本信男、亡万代つねし、宮武辰夫、文学生では浜本浩などがそれである。久本、宮武は「都会スケッチ」に一緒にかいている。これの包紙が都会の会の略字が合に見え、都合スケッチだと夢二君が笑った。誠に都合スケッチだと云ったが如く、彼の多くの画集も亦、生計のための都合である所の実に急遽(きゅうきょ)なる作製であった。彼は彼の強い、そして繊弱(せんじゃく)な感受性のために、触目(しょくもく)甚だ心身を楽しませ、生活そのものは常に美の実感にあふれつつあったに係らず、美への奉仕者としての制作はむしろ第二義的であった。この態度は即ち、彼をドンファンとして世が見るに至らしめた素因を成すものである。そうしてかかれた画であった。しかもその画が、あの情熱あふるる態をなす所以は、彼が常に対象に、といっても彼の好きな、撰ばれた範囲のであるが、そこに常に美を感じ、それを陶酔し、これを内面に収めていたからである。それが彼の画に、水の如き味を持つ殉情的な線を生ましめるのであったのだ。夢二画集の出版社、洛陽堂主河本亀之助氏は、初め無論ああした売行(うれゆき)を期待したわけではなかった。夢二君が丹念に集めた版木があったし、出版に大して費用がかからなかったし、そうして持ち込まれた版木を生かして出したのである。画集の何の巻までが持込版木によったものかは知らないが、少なくとも初巻はそれが大部分であったと思うし夏の巻の出たあとにもそうした版木がたくさんあったものと思う。秋冬まい(秋冬の巻?編集部)に挟る「花」と「旅」或はそのためにかいたものかとも思える。そうして集められた集だからその内容は雑然としている。しかも一貫した統一が保たれて雑然さが目立たぬというものは、彼の感情が一律に画面を支配しているからである。が、併(しか)し、夢二画集中にも既に二つのはっきりした流れがある。一つは純情なる抒情詩風なもの、他は、嘲笑的なものである。この後者は世間一般の夢二には存在されなかったものだが、これは彼の人柄を知るために見のがせぬものだ。(つづく)
※『ユウゲンド(ユーゲント(青春))』: 1896年にミュンヘンで創刊された雑誌。これにちなんでアール・ヌーヴォーのドイツでの呼称「ユーゲント・シュティール」が命名された。ドイツでは、イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動の影響下に工房や連合が設立され、そこを中核として、新しい時代に相応しい普遍的な造形が探求された。フランスのアール・ヌーヴォーと比べると、ドイツでは装飾性よりも合目的性や構造が重視される傾向にあった。ユーゲントシュティールには、数か所の中心地がある。ミュンヘンでは98年に、H・オブリスト、R・リーマーシュミット、P・ベーレンスらが、手工業芸術連合工房を設立、ドレスデンではユーゲントシュティールの理論的指導者ヴァン・ド・ヴェルドの展覧会も開かれる。もうひとつの中心地、ダルムシュタットでは、99年に大公の援助で「芸術家村」が開設、ウィーン分離派の建築家J・M・オルブリヒやベーレンスが招かれた。ヴァイマールでは、ヴァン・ド・ヴェルドが芸術顧問として招待され、1906-14年にかけて工芸学校の校長を務めた。(竹内有子氏著)
※ユーゲント・シュティール (Jugendstil):1896年に刊行された雑誌『ユーゲント』(Die Jugend) に代表されるドイツ語圏の世紀末美術の傾向を指す。ユーゲントは若さ、シュティールは様式を意味するドイツ語で、アール・ヌーヴォーと意を同じくし、「青春様式」と表記されることもある。19世紀末から20世紀の初頭にかけて展開し、絵画や彫刻のほかにも、建築、室内装飾、家具デザイン、織物、印刷物から文学・音楽などに取り入れられた。
ユーゲント・シュティールは、「構成と装飾の一致」を理念とし、美や快楽と実用性を融合させることを主たる目的としていた。美術・工芸デザインに見られるユーゲント・シュティールは、動植物や女性のシルエットなどをモチーフとし、柔らかい曲線美を特徴とする。
一方、直線平面を強調し、やや左右非対称の幾何学的な模様を使用する傾向がある。ユーゲント・シュティールの建築は、簡潔で機能を重視した形体が重んじられる一方、一度限りの芸術性、唯一無二のデザインが尊重される。そのため、「装飾過多」「貴族主義」などの批判を受けることがある。
ユーゲント・シュティールへの影響としては、日本の浮世絵やフランスの後期印象派があげられる。また、イギリスの新しい工芸運動「アーツ・アンド・クラフツ」の動きからも強い影響を受けている。(Wikipediaより)
※ヴァン・ド・ヴェルド/アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ(Henry
van de Velde, 1863年4月3日 - 1957年10月25日):
ベルギー生まれの建築家。世紀末美術に大きな影響を与え、ユーゲント・シュティールは別名ベルギー様式、ヴェルデ風とも呼ばれた。ヴァン・デ・ヴェルデがヴァイマルに設立した美術学校は後にバウハウスになった。(Wikipediaより)
※バウハウス:世界で初めて「モダン」なデザインの枠組みを確立した美術学校である。学校として存在し得たのは、ナチスにより1933年に閉校されるまでの14年間であるが、当時他に類を見ない先進的な活動は、現代美術に大きな影響を与えた(「モダニズム建築」「20世紀美術」の項を参照)。19世紀までの装飾性に富んだ歴史主義建築などとは異なり、バウハウスの芸術家が生み出したデザインは極めて合理的かつシンプルなデザインであるため、機械的な大量生産に適していた。そして、産業革命により20世紀初頭に巻き起こった、製品の合理性を追求するモダニズムの流れの中で、バウハウスのデザイン手法も派生を繰り返しながら爆発的な拡がりを見せて行った。抄録
バウハウスを退職した後、ヨハネス・イッテンは、独自の造形美術学校イッテン・シューレ(1926-1934)をベルリンに創設。同校の教師陣には、日本人画家・水越松南、竹久夢二がおり、小原図芳は水越の授業を見学した。また、自由学園からの二人の留学生(山室光子・笹川[当時旧姓今井]和子)が同校で学んだ。(Wikipediaより)
※触目(しょくもく):目につく
※『夢二画集』:明治43年(1910)12月に「春の巻」を刊行。翌年、「夏の巻」、「花の巻」、「旅の巻」、「秋の巻」、「冬の巻」を11月まで連続刊行し、さらにその翌年2月に「野に山に」を刊行したのち、6月に「都会スケッチ」を刊行した。
※『都会スケッチ』:明治45年(1912)6月に刊行。恩地、久本信雄(久本DON)、宮武辰夫、田中順之介の共同制作による。
▼『ユウゲンド(ユーゲント(青春))』表紙
▼『ユウゲンド(ユーゲント(青春))』イラスト
▼ユーゲント・シュティールポスター
■夢二の台湾旅行(復習編)■
これまで長期にわたり追ってきた夢二の台湾旅行の概要と着目点などについてまとめていきます。
●第12回 「昭和初期の日本及び世界の状況と夢二」
※台湾の成り立ちにつながることから、満州事変について詳細に記述しています。
夢二展覧会は昭和8年(1933)11月3日から3日間警察会館で開催されましたが、大きな販売成果もなく閉幕となりました。この後出発予定日の11月11日までの間、夢二の行動で記録が残っているのは、11日に「台湾日日新報」に寄稿したエッセイだけ。それまでの6日間の記録がありません。夢二は一体どんな環境で1週間近くを台湾で過ごしたのでしょう。ここではまず、背景として昭和初期の日本と世界の状況と夢二への関りを見ていくことにします。
大正12年(1923)に発生した関東大震災による傷跡がさらなる経済恐慌を生み出し、不景気の中での昭和の幕開け(1926年)となりました。昭和初期、日本経済は低迷を続け、国民の生活に深刻な打撃を与えました
。昭和恐慌です。景気が悪くなると、政府の協調外交路線に対する軍部などからの批判が高まってきました。政府は中国に対してもこの政策を貫いていましたが、中国では、辛亥革命によって1912年(中華民国暦(略して民国)元年。大正元年に当たる)正月に孫文を臨時大総統として南京を首都に中華民国が成立。しかし、北京(当時は北平)には袁世凱が実権を握っており、中国は分裂状態となりました。1913年、孫文らを弾圧した袁世凱が北京で正式な中華民国初代大総統に就任しましたが、袁世凱の死去後も北京には軍閥政権(北京政府)が継続して力を持っていました。
これに対して孫文(中華革命党)は、1917年9月10日に広東軍政府を組織して抵抗しましたが、広東軍政府は広東とその周辺の地域軍閥の寄せ集めだったことから内部抗争が表面化し、孫文は敗れて広州から上海に逃れました。
1919年の五・四運動(1915年の日本の中国に対する二十一か条の要求に反対して中華民国の北京から全国に広がった抗日、反帝国主義を掲げる学生運動、大衆運動。 5月4日に発生したのでこの名で呼ばれる)の後、孫文は「中国国民党」を結成。新たな中華民国の政治勢力が誕生しました。
しかし、1921年にはマルクス主義政党の中国共産党が成立し、この両者は北京軍閥政府と帝国主義の侵略に対抗するため、1924年の「中国国民党一全大会」で第1次“国共合作”を実現させ、協力体制をとることになりました。この軍閥政府を倒し中国統一をめざす運動を、国民政府は「国民革命」と意義づけています。
この時点で、孫文は武力による革命を進めるようになってきており、その意を体した蔣介石が登場することになります。(蒋介石は後に台湾に敗走するも、戦後台湾の統治に困難を生じました。)
1925年の孫文死去後、上海でも反帝国主義、民族主義の運動が高まったことから、同年、中国国民党広州で「広州国民政府」(広東政府、広東国民政府ともいう)を樹立しました。これが最初の「国民政府」を名乗る政府です。これにより、中華民国には北京の軍閥政府と広州の国民政府の二つの政権が併存する形となり、翌年、広州国民政府は、蔣介石を司令官として北京軍閥政府を打倒するための北伐を開始しました
このため、日本軍は、日本人居留民保護を名目に山東出兵を開始。満州の実力者で親日派の張作霖(ちょうさくりん)を利用して、満州の利権の保守・拡大をもくろんだのですが、張が協力的でなかったことから、昭和3年(1928)、奉天市(現・中華人民共和国遼寧省瀋陽市)近郊において、関東軍が極秘裏に張の乗る列車を爆殺してしまいました。「張作霖爆殺事件(別名「奉天事件」)」です。関東軍はこれを国民革命軍の仕業に見せかけ、それを口実に南満洲に進行し占領しようと画策したため、終戦となるまで事件の犯人が公表されずにいました。
この後、張作霖の子の張学良(ちょうがくりょう)が国民政府に忠誠を誓ったことから、満州はその勢力下に入りましたが、日本政府は関税自主権を容認する等、相変わらず中国との協調外交を継続していました。しかし、軍部を無視してロンドン海軍軍縮条約に調印したことから、統帥権を侵すものだと軍がこれを強く非難。これ以降、政府の協調外交は軍部の独走によって崩壊していきます。
こうして、中国では「国民政府」が台頭し、日本軍大尉の殺害などの事件が発生するなど満州の雰囲気が緊迫してきたことから、昭和6年(1931)9月18日、中国東北部に駐屯していた旧日本軍が奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で南満州鉄道の一部を爆破。同年11月から翌年2月までにチチハル・錦州・ハルビンなど満州各地を占領してしまいました。こうして関東軍は満州より張学良政権を排除し、昭和7年(1932)3月1日、清朝最後の皇帝(宣統帝)であった愛新覚羅溥儀を執政にすえて「満州国」の建国を宣言しました。当時の犬養内閣は満州国の承認には応じない構えでしたが、同年5月の五・一五事件で犬養首相が暗殺された結果、強引に内閣の承認を得ることになります。
これに対し、中華民国は満州国の設立を日本の侵略であるとして即座に国際連盟に提訴し、これを受けてイギリスのリットン伯爵を団長とする「リットン調査団」が日本と中国に派遣されました。同年10月にその報告書が提出され、日本の軍事行動を自衛とは認められないという結論に至ります。
夢二は、満州国が設立された昭和7年(1932)3月、ロサンゼルスに滞在中でした。そして、UCLA、オリンピックホテルで開催した個展も振るわず、同年9月にアメリカを発ち、タコマ号でヨーロッパに向かったのです。これはまさに、日本が巻き起こした世界情勢の大異変の中心地に夢二が飛び込んで行くという彼の運命を表しているようでもありました。同年11月、夢二はジュネーブに赴いています。「聯盟総会を見る。日清談判破れつした頃と格段の相違、物々しくない、事務的で、きびきびしてゐる。」と11月28日の日記にあるとおり、彼は日本を非難する臨時総会の開会を決定する国際連盟理事会にも居合わせており、簡単なスケッチが残されています。
そして、翌年2月24日にスイス・ジュネーブで行われた国際連盟総会では、中国の統治権を承認し、日本軍の撤退を求める報告案に対して、「賛成42、反対1、棄権1」という形で各国の意思が示され、反対票を投じた松岡洋右ほか日本代表団は議場から退場する事態に発展します。この頃夢二はドイツの画学校イッテン・シューレで日本画を教え始めていますが、ヒトラーが首相に就任しており、6月には同校がゲシュタポの襲撃を受けてしまい、学校は廃止、夢二は帰国を余儀なくされることになります。(つづく)

■夢二の世界■
PART 3 「KAWAIIの世界」(「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より)
44 お気に入りの“かわいい”を発見! 「少女・女性雑誌表紙イラストレーション」
現代では、少女・女性向けの雑誌表紙は、流行の衣服を身に着けたファッションモデルや芸能人によるグラビアが主流ですが、明治末~昭和初期の雑誌では、画家が筆をとった絵画作品やイラストが多く起用されていました。
夢二が描く女性絵は高い人気を誇り、少女・女性雑誌の表紙絵を次々と飾りました。雑誌の多くは月刊で出版されていたため、表紙絵に四季折々の花や風物をあしらい、さらにその季節のファッションに身を包んだ女性を、夢二は鮮やかに描きました。
当時の少女・女性雑誌は、詩や小説などの文芸ページを中心に、学校や家庭で役に立ちそうな実用的な記事も掲載しながら、全体的には良妻賢母志向に沿った誌面づくりがされていましたが、大正13年(1924)に創刊された「婦人グラフ」はファッション記事にも力を入れ、外国の流行なども写真とともに掲載していました。
▼「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より
▼雑誌「婦人グラフ」(竹久夢二美術館)
■夢二の言葉■
●『夢二日記』明治43年(1910)8月21日付
子供が石につまづいてころんだ時、 私は子供をいたわらないで、 石が鳴いているよ、と言う、
そうすると子供は、 石を可愛がって自分のイタいのを 忘れている、
自然に人格をつけて 考えさせることは好いと思う、
自然に親しみ、自然に同情出来るようで好い。
●『夢二日記』明治43年(1910)9月9日付
人間というものは なぜ物を言うのだろう、 黙っていればよいではないか、
それでお互に わかるんだもの。 来客に何故、茶を出すのだろう。 なぜ人に名があるんだろう。 年があるんだろう。 つまらないとおもう。
●『夢二日記』大正5年(1916)8月21日付
どこへ来ても自分がかわらない以上 心持がかわるわけはない。
■夢二情報■
●「夢二をとりまく人間関係 ―交流から生まれた美と言の葉―」(10月1日から、竹久夢二美術館にて)
大正ロマンを象徴する画家・竹久夢二(1884~1934)の人間関係に眼を向けると、夢二と同時代に活躍した人々との交流が浮かび上がり、大正文化に彩りを添えた。
本展では夢二と関わった文学者、画家、音楽家、出版人及び恋人を紹介し、各人ゆかりの作品や資料展示を通じて、夢二の交流から生じた美と言葉をクローズアップする。あわせてこれらの人々が知るエピソードから、夢二の素顔に迫る。(美術展ナビ)
https://artexhibition.jp/exhibitions/20220922-AEJ1002527/

●マガジン アート 大正ロマン・竹久夢二が表現した異国文化などにスポットを当てた企画展「夢二と大正時代の文学」開催(Japaaan編集部)
https://mag.japaaan.com/archives/185581
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