■メッセージ■

竹久夢二美術館に行ってきました。企画展「夢二をとりまく人間関係」がすごかった。展示場に詰め込まれた50人が夢二ワールドの凄さを感じました。ちょうど、夢二に対する「証言」に注力しているので、とても勉強になりました。それにしても、萩原朔太郎が夢二ファンで、部屋に夢二画を飾り、妹に夢二柄の半襟を買ってやったとは。。。2000年から2年間群馬県の伊勢崎境郵便局に赴任していた時に、前橋の萩原朔太郎記念前橋文学館に何度も行き、朔太郎の本も読みました。広瀬川のほとりに佇む素敵な文学館でした。

竹久夢二美術館併設のカフェ「港や」では、朔太郎の詩集『月に吠える』に着想を得た、オレンジ風味のホットショコラが楽しめる。いまなら朔太郎の詩入り特製しおりが付いてきます。石川桂子学芸員さんの手作りだそうです。なくならないうちに行ってみましょう。

ちなみに、石川学芸員さんはこの「夢二と台湾」プロジェクトの強力な応援者。来年112日の台湾での講演会が本決まりになった報告もさせていただきました。

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二展「夢二をとりまく人間関係」ポスター


 

■竹久夢二の素顔■

●恩地孝四郎(3)(『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房指新社)の「夢二の芸術・その人」より)

(注)本文は恩地孝四郎主宰・編集の趣味雑誌『書窓』第三巻第三号(昭和11年(193611月・アオイ書房)に掲載されたもので、夢二との出会いから別れまでの日々を総合的に語ったものです。

「彼(夢二)は、夢二画集以前に、当時の唯一の社会主義雑誌たる、週刊であったか、月二回であったかの平民新聞に画をのせていた頃の心持の名残りであり、又本来夢二君の裡にあったものなのである。その頃の画は髑髏のサインがしてあり、画材も女ばかりでなく、社会風刺的なるものがあった。その頃の社会主義は一種の新精神愛好的な色を持ってい、新時代的感情に殉ずることにむしろ一般的な欣仰者(きんぎようしゃ)の喜びがあったものであって、貧乏のなかで思うことなせざる一青年夢二君が之に牽引されたという程度であったものと思う。社会主義理論には興味はなかったのである。だから後年警察の看視を受けるに至った頃その煩に堪えず、之を捨て去ったのであった。だが、反逆児的感情は常に彼の心裡に去来していた。世間一般に対する嫌悪感は常に彼の生活のなかに充満してい、(世間なれた)「四十男は悪漢なり」と画にかいたり、「人間わずか五十円ほどの月給をとりたかりし」といわしたり、当時、画家の常道を無視して展覧会出会をしなかったり、当時の官展、「文展」(いまはそれに逆戻りのていであるが)を甚だしく軽蔑したり、後年までも此の気持は続いて、編輯者や出版者と衝突したり、一出版者の「夢二さんは狂だから」という言を私もきいたが、そういった何等かの事件を齎(もたら)している。又、満天下の夢二鑽迎者(さんぎょうしゃ)を擁し乍ら、その得意の他面に、甚だしき嫌忌と、又自嘲を持たしめた、それらの感情は、蓋(けだ)し、彼の甚だ傷(きずつ)き易い純情のためであるのである。後年辛酸が玉にしてくれて世間慣れのした彼悪漢であると云った四十男になってさえ、この純情はやはり蔵されていたのである。ただ青年時代のようにこれを生かすことを廃止したにすぎない。馬鹿々々しく思ったからである。彼の製作は生計のためが主だとかいた。彼は実にこれを果(はか)なんでいた。がしかし思うに、彼が生計のために描くことを要しない境遇だったとしたら、恐らくあれだけの多数の画をかくことはしなかったろう。徳川時代の浮世絵師等が巷にあって金のために画いたことを、いつも彼は、同情と喜びとにて感じていた。一絵師が、金のために版元にどなり込んだ話をきいて、それを喜んで話した彼であった。金のために、描きにかいた芸術のためという御題目は彼にとっては時々のはかない島影の程度にしか動かない。彼は描くことが生きることだと屢々(しばしば)いった。(つづく)

※欣仰(きんぎょう):喜び仰ぐ

※鑽迎(さんぎょう):徳を仰ぎ尊ぶ

※「後年警察の看視を受けるに至った頃その煩に堪えず、之を捨て去った」:夢二は、早稲田実業学校在学時から平民社との関わりを持ち、週刊『平民新聞』と『新紀元』を除く当社の機関紙にコマ絵を描いていた。平民社は「社会主義の両親」といわれた安部磯雄や当校の教師をしていた片山潜、あるいは木下尚江や西川光次郎らの早稲田校出身者で成り立っていた。同校内に社会主義気質というものがあり、夢二が少なからず影響を受けたと考えられ、また当時のインテリの活動に心を惹かれたとも察せられる。またこの時期に夢二は、荒畑寒村と岡栄次郎とともに雑司ヶ谷で共同生活を行っていた。

荒畑寒村は、夢二の画稿を堺利彦に推挙した人物である。後に『寒村自伝』の中で、「(夢二は)金に困ると(絵を)売りに歩く商売気があった」「荒畑くん、これをひとつ堺先生に見せて『直言』に載せてもらえるように頼んでもらえないか」と夢二に絵の推薦を依頼されたことを述べている。またその絵を堺が「絵はまだ稚いんだが意匠はなかなか面白い」と評したことを追記している。

夢二のコマ絵が平民社の機関紙に初めて掲載されたのは、明治 38 年(1905)6月 18 日発行の週刊『直言』であり、以降に発行された日刊『平民新聞』では、ほぼ毎号にコマ絵を描いている。

日刊『平民新聞』の絵のテーマについて、須山計一は、「A.青春の感傷もの、B.生死などを象徴的にあつかったもの、C.貧乏人と富者とを対比させたもの、D.政治的諷刺の強いもの、E.単なるスケッチ的なもの」と分類している。この分類について細野正信は、「A・Bが主になってゆくことは、大逆事件を契機に、夢二が政治風刺の筆を断ったことを意味している。しかし、政治風刺といっても、日刊『平民新聞』にのる夢二の作は、いずれも社会風刺に近く」と述べている。

筆者は、須山によって分類された「A . 青春の感傷もの」について「夢二式」の憂いを含んだ女性に通じるものであり、また細野の述べるように社会風刺画を断絶したとは言い難く、この後も度々モチーフとして表現していると考える。

この「夢二式」といわれる形態が確立する以前に夢二は、『法律新聞』あるいは『読売新聞』に「足尾問題」に関するコマ絵を描いており、このことは労働問題といった社会事件に強い関心を示すものであると思われる。

(論文「竹久夢二と民主化運動」西恭子著、東洋大学人間科学総合研究所紀要第10号(2009) 93-110

※官展:文展,帝展,日展など政府が主催した展覧会の総称。文展は文部省美術展覧会の略称で,1907年から 18年まで 12回開かれ,日本画,洋画,彫刻の3部制をとった。 19年新たに帝国美術院規定が制定され,文展を帝国美術展覧会 (帝展) と改称,34年まで 15回行われた。その間 27年から美術工芸部門が設置され,32年から創作版画が加えられた。 35年に帝国美術院改組,帝国美術院官制制定などによって美術界が紛糾し,帝展は行われず,翌年春に改組第1回帝展 (新帝展) が開かれたが1回限りで廃止,同年秋文部省美術展覧会が開催された。 37年新たに帝国芸術院官制が公布され,あらためて第1回文部省美術展覧会 (新文展) が開かれた。新文展は 43年まで6回続き,翌年,文部省主催の戦時特別美術展が催された。第2次世界大戦後は,46年春に文部省主催の第1回日本美術展覧会 (日展) が開かれた。日展は以来毎年1回行われ,57年まで 13回続いた。その間,47年帝国芸術院は日本芸術院と改称,翌年から日展は日本芸術院主催となり,49年には日展運営会が組織され,第513回日展は日本芸術院と日展運営会が共催。 58年日展は日本芸術院と分離して社団法人日展となり,完全な在野団体として官展の性格を脱皮し,現在にいたっている。(「ブリタニカ国際大百科事典」より)

※「文展」:明治末期から昭和戦前期にかけて存在した官設公募美術展。フランスで毎年開催されたサロンに倣って生まれたもので、1907年に文部省美術展覧会(通称・文展)として始まった。19年に文部省管轄下の帝国美術院展覧会(帝展)に改まった。文展の設立には、先行して活動していた白馬会など、諸美術団体を国家主導のもとに統合する意図があった。文展発足時には日本画、西洋画、彫刻の三部門からなり、27年に美術工芸部門が新設されるまで工芸が排除されていた。35年には文部大臣松田源治が、在野の諸美術団体から有力画家を帝展審査員に加え、美術の国家統制を強化しようとして多くの紛糾を招く事態にもなった(松田改組と呼ばれる)。37年には帝展から文部省が主催する展覧会(新文展)となり、40年の紀元二千六百年奉祝展を挟み、44年には戦時特別文展が開催された。戦後、45年の秋には開催されなかったが、46年に日本美術展覧会(日展)として再出発し、現在に至る。文展・帝展のあり方は、つねに美術の制度への問いかけに晒されていた。結果的には、文展・帝展は、戦前までの日本において最も注目を集める美術展として、美術の大衆への普及に大きな役割を果たした。また一方で、そうした権威の存在は、14年に結成された二科会をはじめとする、反文展・反帝展を掲げた在野の諸美術団体やさまざまな美術運動が生まれる契機になったといえる。(足立元著「artscape」)

▼「平民新聞」掲載の夢二画
「直言」
  

■夢二の台湾旅行(復習編)■

これまで長期にわたり追ってきた夢二の台湾旅行の概要と着目点などについてまとめていきます。

●第13回 「昭和初期の台湾の状況(1)」

前回、昭和初期の日本と世界の状況を見てきました。満州国の建設により日本が緊迫した世界情勢の中心的役割を果たすようになり、そこに夢二も居合わせていたことが分かりました。その点では、夢二は当時の世界における日本の立場やヨーロッパのナチス台頭の状況などをかなり肌で感じていたと思われます。そのような状況下で帰国し、ひと月余りでまた台湾の地に身を置くこととなった夢二は、果たしてどの程度台湾について理解していたのでしょうか。

彼が「台湾日日新聞」に寄した「臺灣の印象」では、台湾にしばらくいてようやく本島人(明治28年(1895)に日本統治が始まる前に中国本土から台湾に移住してきていた中国人)の存在を知ったと書いていますから、当時の台湾の歴史や現状についての知識はあまりなく、周囲の人も「日本領」だということで、さほど言及していなかったのかもしれません。ただ、台湾に東方文化協会の支部を作り、夢二に同行を勧めた河瀬蘇北はさすがに熟知していたと思われますが、それをどの程度夢二に話したのかは判然としません。

しかし、台湾で行動不明な日数が10日以上と多く、また、台湾に行ってからは河瀬蘇北以外の在台の日本人や日本語を話す“本島人”が関わっている可能性が高いことから、ここでまず、当時の台湾の様子を見てみることにします。

夢二の訪台の2年前の昭和6年(1931)には、八田與一が10年かあけて烏山頭ダム(嘉南大圳)を完成させ、多毛作の大増産を実現しました。サトウキビから米作に転向する農家が激増し、その後の砂糖と米が二大輸出品となって戦後台湾の経済を支えることとなりました。八田與一は今でも台湾でとても尊敬されています。そしてこの年、嘉義農林高校が甲子園で想定外の準優勝となったことも話題になっています。

また、元秋田鉱山専門学校校長工学博士・横堀浩三郎が台湾全島の埋蔵金脈・砂金の総量が40億円を超えるという発表をして騒然となりましたが、どうも海外投資家の注意を弾くためだけだったという妙な事件も起きています。結局、金脈はいまだに見つかっていません。しかし、ゴールドラッシュは起こりませんでしたが、ウッドラッシュともいえる現象が起こりました。台湾の山岳地帯での資源は非常に豊富で、特に阿里山ヒノキは、戦艦長門の甲板や明治神宮の巨大鳥居に使用されるほどでした。当時活躍した阿里山鉄道は今も観光で大活躍しています。また、クスノキから取れる樟脳も台湾総督府の重要な輸出品となって湾経済の振興に貢献しました。

こうして経済力をつけてきた台湾ですが、その底力となったのが「本島人」と呼ばれる、日本統治以前に中国の福建省や広東省から移住してきていた人々でした。日本人の移住には限界があったことから、日本統治下の台湾で大活躍していたのは、実は人数的にも圧倒的に多い彼らだったのです。夢二は滞在中にこのことを知ったのだと思われます。


ところで、時はややさかのぼりますが、大正12年(192347日、皇太子(後の昭和天皇)が突然訪台(行啓)したことで台湾中がお出迎えに騒然となりました。そして、その年の91日、関東大震災が発生。台湾では、混乱した内地と通信がうまくとれず、「富士山が大噴火」とか「帝都が全滅」、「秩父連山、「槍ヶ岳も噴火」などと噂が飛び交い、再び騒然となりましたが、島民のリアクションはかなり素早かったようです。震災翌日には官民協議の上、1日1円以上の義捐金を募集。930日までに20万円(現在の1億円以上)以上を集めて大阪へ物資とともに送ったとのこと。これが1週間後には70万円、最終的に170万円ほどになりました。同じ植民地だった朝鮮では、人口が台湾の5倍近くもある上財閥が多いにも関わらず義捐金は190万円弱。大企業もなく、低所得の本島人が大部分の台湾では、現金収入の少ない原住民までが義捐金を出し、内地同様節約生活を始めたというから驚いてしまいます。台南では内地人が義捐金を渋ったという話もあり、かなりの部分を日本人でない「本島人」が供与したようで、つい東日本大震災で250億円もの義捐金が台湾から届いたという話を思い出してしまいました。(つづく)


※八田與一像:烏山頭ダム完成後には、近隣の農民が感謝の印にこの計画を進めた八田與一の銅像をつくりたいと申し出たのですが、八田は断ったため、農民たちは八田に黙って銅像をつくり感謝の気持ちを表したのです。八田は戦中の 1942 年、フィリピン視察途上の船中、米軍の潜水艦攻撃に会い戦死しますが、この銅像は残り、戦後、蒋介石の命令で日本統治色のあるものは全て消去するよう指示された結果、消え去る運命にありました。しかし、水利組合の農民たちはこれをひた隠しに隠しこの銅像を

守り、1981 年以降ようやく政治的圧力が消えたとして陽の目を見るようになりました。今ではもとの烏山頭ダムのほとりに設置され、ダム全景を見つめています。

ところが台湾人にも日本人にも大切なこの銅像が 2017 4 11 日、台湾の心ない者の手で首を落とされるという事件が発生しました。犯人は台湾の親日傾向を嫌う右翼思想の持ち主で夜中の 2 時頃切断しそのまま胴体部分に乗せておいたと言うのですが 16 日には無くなっていたと言い、17 日に警察に出頭し逮捕されました。

この事件を受け頼清徳台南市長はすぐさま行動を起こし、銅像の修復にかかり 5 8 日の八田與一慰霊祭の記念日前日には元の状態に復することが出来ました。5 8 日の慰霊祭には例年より 100 人も多い約 250 人を集めた慰霊祭が行われ、市長を始め、八田與一のお孫さんの八田修一氏や八田氏の故郷である金沢市長も来台され、お祝いの言葉を述べられ、今年はいつもの慰霊祭を上回る意義の深い集りになり、八田氏への感謝を改めて顕彰する慰霊祭になりました。事件がより深く八田氏との関係を深め日台関係の深さと絆を改めて考え直す1日になったようです。(「ひろしま産業振興機構(2017.6)より)
※映画「KANO ~海の向こうの甲子園~」(2014年):日本統治下の1931年、台湾代表として全国高校野球選手権に出場し、準優勝を果たした嘉義農林学校(通称:嘉農=かのう)野球部の実話を描いた台湾映画。「海角七号 君想う、国境の南」や「セデック・バレ」2部作など、日本統治時代の台湾を舞台にした作品で大ヒットを生み出してきたウェイ・ダーション監督が製作、「セデック・バレ」にも出演した俳優マー・ジーシアンが初監督を務めた。1929年、嘉義農林学校の弱小野球部に、日本人の監督・近藤兵太郎がやってくる。甲子園進出を目指すという近藤の下、厳しい練習に励む部員たちは、次第に勝利への強い思いを抱くようになる。そして31年、台湾予選大会で大躍進し、常勝校を打ち負かして台湾代表チームとして甲子園へ遠征した嘉農野球部は、決してあきらめないプレイスタイルで日本中の注目を集める。野球部監督・近藤役で永瀬正敏が主演し、大沢たかお、坂井真紀ら日本人キャストも多数出演している。
ちなみに、選手たちのほとんどは実在した人物です。ピッチャーの呉明捷はその後早稲田に進学し、6大学野球での年間通算7本のホームラン記録は、長嶋茂雄の登場まで約20年間破られなかったそうです。2番バッター、蘇正生は卒業後、横浜専門学校(現・神奈川大学)野球部を経て、台湾野球界で活躍しました。

※1円の価値:大正2年は4000円、昭和2年は636円に相当。(三菱UFJ信託銀行のサイトより)

▼映画「KANO ~海の向こうの甲子園~」(年)
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▼烏山頭ダムにある八田與一像。妻の外代樹は與一の死後、終戦となった際、烏山頭に身を投げた。
八田與一像

▼皇太子(後の昭和天皇)の訪台(行啓)(大正12年(192347日)
昭和皇太子台湾行啓2

 

■夢二の世界■

PART 3 KAWAIIの世界」(「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より)

45 お気に入りの“かわいい”を発見! 「抒情画 大正ロマンの可憐な少女像」

<抒情画(じょじょうが)>は、大正後期から昭和初期にかけて流行した、少女のためのイラストレーションです。少女雑誌の表紙や口絵ページを飾り、その可憐ではかない少女像は、読者の少女たちの憧れでした。

特徴として、少女の敏感な心情に呼応したセンチメンタルな趣を多分に含むこと、そして実際の描写においては、流麗な線描や淡彩によって表されていることが挙げられます。

抒情画の少女たちは、この時代特有のスタイルで描かれています。窓辺や炬燵にもたれるしぐさとともに、遠くをみつめる、はにかむように微笑む表情や、どこか寂しげな面持ちが描き表され甘くやるせない雰囲気に包まれています。

その画風には、当時の社会事情が投影されていました。少女たちは良妻賢母になることを求められ、女性の生き方に制約が多かった時代に、抒情画に描かれた少女像に読者(女学生が多数)は共感し、親しみを覚えました。これを裏づけるように夢二のファンだった歌人・中原綾子は「当時の若い女の子たちの気持ち、夢や憧れや哀愁、といったものが実に良くとらえられ、好もしく描かれていて、その絵がまるで自分自身のものででもあるような錯覚を抱かせられた」(「夢二さんの思い出」より『本の手帖』1962年(昭和371月号)と回想しています。

また読者の少女たちは、描かれたファッションにも注目していました。抒情画のページはカラーで紹介されることが多く、装いや着こなしのお手本としても活用されていました。

※中原綾子:1898217 - 1969824日。旧柳河藩士であった曽我祐保の次女として、父の任地・長崎に生まれる。父の転任に従って大阪・神戸・朝鮮へと移るが、主として東京に在住する。1915年(大正4年)に東洋高等女学校を卒業後、作歌を始めていたが1918年(大正7年)から与謝野晶子に師事し、新詩社同人としてその歌を『明星』に発表するようになる[1]。同じく『明星』に参加していた高村光太郎と親交があり、妻の智恵子の精神病を悲しむ内容の手紙を受け取ったことがある。

1929年(昭和4年)6月、吉井勇・秦豊吉らとともに文芸誌『相聞』(後に『スバル』と改称)を公刊、詩や戯曲を発表する。1931年(昭和6年)8月には歌誌『いずかし』を主宰して発行した。1947年(昭和22年)3月、第3期『明星』に参加し顧問となる。1950年(昭和25年)2月には第73期『スバル』を創刊主宰。同じ年の3月にはロマンス社から『定本与謝野晶子全集』の刊行のため湯淺光雄とともに編輯し始めるが、ロマンス社の経営難と紛糾のため第1巻で中絶している。(wikipediaより)

▼「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より
本「かわいい手帖」抒情画

 

■夢二の言葉■

●十字架を負わない人間は 一人だってありゃしない。 みんなかあいそうだ。 みんなにんげんはあわれみ合わねばならない。

(笠井彦乃宛の手紙より/1917528日)

●親のその時の感情で 子供の運命をきめるのはいかにもそらおそろしい。

(『夢二日記』191712301日)

●金さえあれば誰にも何もいわれず、誰とも交際せずにしずかに安心していられる。金のないために、世の中の女がどれだけ不幸になるか、おまえも見もしききもしたはず。

(お葉宛の手紙より/1921818日)

 

■夢二情報■

●越前和紙に刷られた竹久夢二の作品展 越前市紙の文化博物館(NHK NEWS WEB 福井)

大正から昭和にかけて活躍した画家、竹久夢二の作品のうち、越前和紙に刷られた美人画などを紹介する作品展が越前市で開かれています。

作品展は越前市の紙の文化博物館で、12月19日まで開かれています。

https://www3.nhk.or.jp/lnews/fukui/20221005/3050012658.html