■メッセージ■
「先週号ではお騒がせしましたが、なんとか落ち着いてきました。どうも動脈硬化が原因であるようで、これからは気をつけて行きたいと思います。
特に、2020年3月以来入国制限をしていた台湾が、コロナ禍で停止していた観光目的の外国人旅行者の受入れを9月29日から再開し、10月13日をめどにこの措置を撤廃すると発表しています。
ようやく台湾への道が再開することになりますが、制限撤廃直後と年末年始の観光シーズン直後は何となく不安が残るので、状況を見つつ、ますます健康管理をしっかりして来年のイベント実施に備えたいと思います。」
というのが10月13日に書いた今号用の原稿でした。ところが、翌日精密検査したところ、動脈硬化どころではなく、「肺血栓症」(血栓症)と呼ばれる肺の血管が詰まってしまう病気であることが判明。重症と言われ、緊急入院となってしまいました。入院2週間、経過観察1週間で幸い血栓は予想外に激減し、完治とはいえないものの、「週報」を継続することができるようになりました。
今回の経験で教訓になったことがひとつあります。階段や坂道で動悸息切れが起こっているにも関わらず、血圧、心電図等通常の検査では正常値しか出ず、造影剤を使用したCT検査で初めて重症の血栓症ということが判明したということです。私は腎臓機能に問題があり、造影剤の使用には向かなかったことで、かなり慎重な検査となったのも診断が遅れた理由のようです。
落ち着いていればあまり自覚症状のない状態でも致命的な病気にかかることもあるんだと今回思い知らされました。もっとも、夢二のように結核になりながらも風邪を引いたと思い込んで最後まで行ってしまった人もいます。何かあったらしっかり検査して、健康管理に気をつけましょう。
そしてもうひとつ、不幸なことが起こりました。夢二の孫(虹之助の娘)の竹久みなみさんが10月28日にお亡くなりになりました。享年89歳。
山形県酒田市の「舞娘茶屋 相馬樓 竹久夢二美術館」の名誉館長をされていました。みなみさんとは、2016年に夢二が好きだった榛名山に一緒に調査旅行を行い、また、2017年には、私が演出を担当した「丸型ポストフェスティバルin 銚子」(銚子市海鹿島町で開催)に参加され、名曲「宵待草」のもとになった夢二のひと夏の恋人・長谷川カタの孫・太田暁子さんとの奇跡的な出会いも経験されました。残念なことに、私の退院する前日に旅立たれてしまい、二度とお目にかかれない運命となってしまいました。
■竹久夢二の素顔■
●恩地孝四郎(5)(『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房指新社)の「夢二の芸術・その人」より)
(注)本文は恩地孝四郎主宰・編集の趣味雑誌『書窓』第三巻第三号(昭和11年(1936)11月・アオイ書房)に掲載されたもので、夢二との出会いから別れまでの日々を総合的に語ったものです。
「蓋(けだ)し描くときに彼は他を忘れて楽しかったに違いない。而(しか)もこれは創作に従うものの誰もが持つ喜びであり、又それがせめてもの心やりででもあるのである。彼は必要に迫られてかく場合は徹夜に徹夜を重ねて夜も昼もかいた。三晩も四晩も徹夜して一つの展覧会を作り上げたこと再三である、後の画集など大部分そうである。だから彼の製作は早い、展覧会まえ、かき上げた絵の群のなかに浸かれた夢二君の座っているのをよく見もし、印銘(いんめい)されている。彼は屡々(しばしば)画にもかき、又口にもしたが、疲れに疲れた馬車馬、鞭打たれ鞭打たれつつあえぎ歩む馬車馬は、蓋し彼自身を観ずるものであったであろう。晩年、新らしい飛躍を志して渡欧し、無理に無理を重ねて客旅病に斃(たお)れるまで、この途は続いたのである。世間はこうして、一人の才分ある画人を石臼でひく様に磨りつぶして了った。彼のもっとも幸福な時代、思う女性を得て京都に住んだ時代、この時代を私は少しも知らないが、私の印象にあるものは、幻に描いた「家庭」に破れ、しばしば争いの場合に遭遇せざるを得なかった。出東京以前である。その場合も多く沈黙した彼であった。夢二君は語らぬ人である。話のない僕はしばしば無言の長座を久しくした。その僕の語り得ざるが好きな夢二君であった。初め頃に属するが歩き乍らの話、房州大正のどこからどこかまでゆく長いニ三時間の途を、同伴の友も無口の人で二人で黙ったまま歩いたということを、相当愉快な回顧として話した彼である。秘愛の言はかなり語ったであろう。彼であるが、言葉はつねに真実を伝えるものでないことを知っている彼なのである。(つづく)
※印銘(いんめい):刀剣用語。 金工師は自らの作品に、自作を証明する目的から銘や花押を記すと同様に印判を押したような形状の銘を刻した。「~する」ははっきり覚えているほどの意味か。
※「思う女性を得て京都に住んだ時代」:京都で待つ夢二の元へ彦乃が上洛した大正6年(1917)6月から、翌年8月、病身の彦乃を京都に残して夢二が不二彦と九州に旅立つまで。その後別府まで追いかけた彦乃は結核の症状が悪化し入院。彦乃の父親が現れ東京に連れ戻され、二人は容易に逢えないまま大正9年(1920)1月に彦乃は他界した。
■夢二の台湾旅行(復習編)■
これまで長期にわたり追ってきた夢二の台湾旅行の概要と着目点などについてまとめていきます。
●第14回 「昭和初期の台湾の状況(2)」
社会情勢を見るの有効手段として非常に分かりやすいのが風刺画ですが、台湾でもたくさん出ていました。
台湾では国島水馬(くにしますいば=本名・国島守)という「謎の画家。無名の画家と呼ばれる漫画家により初めて新聞風刺漫画が導入されました。この内容は、坂野徳隆著『風刺漫画で読み解く
日本統治下の台湾』(平凡社)に克明に記載されていますが、書評家・雨宮由希夫氏が分かりやすく執筆しているので、まずこれを紹介します。
「日本はかつて50年間、1895年(明治28)から1945年(昭和20)まで植民地として台湾を統治した。
大正・昭和初期の台湾で、1916年(大正5)から1934年(昭和9)までおよそ20年にわたって、日本統治下の台湾で発行された日刊紙『台湾日日新報』で新聞風刺漫画を描き続けた、国島水馬(くにしますいば=本名・国島守)という「謎の画家。無名の画家」がいた。
本書は国島水馬が描いた風刺漫画をもとに、日本統治下にあった台湾の実像を読み解こうとするものである。著者の坂野徳隆は1962年(昭和37)生まれ。英字新聞ジャパンタイムズ記者などを経て、2001年(平成13)より台湾などに居住しながら活躍しているノンフィクションライターである。
〈台湾を半世紀もの間領有した日本統治者の姿は、現在ではなかなか想像がつきにくい〉と感じ、〈国島水馬の到着した頃の台北にタイムトリップすることができたら〉と思いを馳せる著者の感覚は新鮮であり、好感が持てる。
本書ではまず、〈 国島が渡った頃の台湾は帝国政府の南進基地として内地からの移住が奨励される注目の新天地〉であったとし、水馬が、台湾を語呂合わせで、東シナ海に浮かぶ大きなお椀の船“大椀”(たいわん)に譬えた風刺漫画(『台湾日日新聞』大正14年1月11日掲載)が紹介されている。
この漫画には、「今迄浮いた浮いたの大椀(台湾)。沈む浮かぶ進退も、舵手の腕次第だけに、それこそ浮か浮かしていられない」との水馬自身のコメントが付けられているが、それに対して、著者の坂野は、「大椀(台湾)」が目指す水平線には新時代を告げる陽。舵を握る島民(子供)の横で支配者の「官」(大人)が感激の表情を向ける。と絵解きしている。
▼坂野徳隆著『風刺漫画で読み解く 日本統治下の台湾』(平凡社)
日本統治下の台湾の実像を探るということは、当時の台湾人庶民の生き方、考えを探るということに他ならない。
武官総督時代の「特別統治主義」(台湾独自の法制度を是とする考え方)であれ、文官総督時代の「内地延長主義」(日本本国の法律を台湾にも同じように施行する考え方)であれ、植民地統治ゆえに、経済的搾取、民族蔑視、差別待遇などがあったことの本質は変わることがない。植民地台湾(外地)において、日本人は政治的地位、経済活動、教育制度などあらゆる分野で優越的・特権的な立場にあり、台湾人は「大日本帝国」(内地)の「二等臣民」として劣位に置かれ、従属的で、きわめて貧しい権利状態に置かれた。
誰にとっての「最高」であったかはひとまず置くとして、満州事変の前年、1930年(昭和5)の霧社(むしゃ)事件は、台中州能高(のうこう)郡霧社で起きた、日本の植民地支配に対する台湾先住民タイアル族の大規模な武装蜂起であり、日本にとっては植民地統治50年の最も大きな汚点といえる。水馬の漫画でもこの霧社事件多くとり上げられており、坂野も全8章構成の本書において1章を割いて詳しく紹介している。」
〈台湾の底力は本島人の存在であった〉とする坂野の“注釈”がある。「本島人」とは日本統治時代の台湾人の別称であり、この“注釈”自体は間違いではないが、〈一度も直轄の政府を持たず、まとまりのなかった台湾〉との“注釈”は誤った歴史認識といわざるを得ない。
台湾は強固なまでに土着性の高い社会だが、本質的に移民社会である。台湾海峡の波濤を越えて移民した先祖を崇め、自ら開拓した土地で子々孫々300年間生活を営んできた人々が台湾人である。日本に植民地化される以前の台湾には、たしかに台湾人の政府はなかったが、すでに強固な漢民族社会が形成されていたのだ。ここを読み間違えてはならない。
日本の植民地的収奪に、台湾の人々は手をこまぬいていたわけではない。厳しい植民地統治の下で人並みの暮らしをするために懸命に努力し、どんなに時代の波に翻弄されようとも、人間としての尊厳を保ちながら生きてきたのが台湾人である。オランダの統治から国民党時代まで、この300年のなかで台湾に一貫して流れているのは植民地統治されてきた歴史という現実であるが、このことを日本人一般の多くは理解できない。」(つづく)
※霧社事件:1930年10月27日台湾の台中州霧社(現在は南投(なんとう)県仁愛(じんあい)郷)で起こった高山(こうざん)族の抗日蜂起(ほうき)事件。日本の植民地支配に対する原住民の不満が爆発したもので,モーナ・ルダオを指導者としてマヘボ社など6社約1500名が蜂起し日本人134名を殺害。台湾総督府は波及をおそれて飛行機・山砲等を動員,高山族1000余名を殺害して11月19日鎮定。また事件の終り頃には蜂起側の200余名が抗議の集団自決をするなど,生き残ったのは婦女子および15歳以下の男子約230名だけだった。(平凡社「百科事典マイペディア」より)
この事件をテーマにして、台湾映画史上最高額となる7億台湾元(約28億円)をかけ、「セデック・バレ」(2011年)が制作された。監督は「KANO ~海の向こうの甲子園~」のプロデューサーであるウェイ・ダーション。全2部作で、第1部は143分、第2部は131分という超長尺物。第48回金馬奨で「最優秀作品賞」「最優秀助演男優賞」「最優秀オリジナル音楽」「最優秀音響効果」「観客賞」の最多5部門を受賞した。
▼映画「セデック・バレ」
*『風刺漫画で読み解く 日本統治下の台湾』(坂野徳隆著、平凡社刊)は漫画満載の非常に読みやすいユニークな新書版の本です。ぜひご購読ください。
■夢二の世界■
PART 3 「KAWAIIの世界」(「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より)
46 お気に入りの“かわいい”を発見! 「少女詩に見るメッセージ」
<少女詩>とは作者自身が少女であり、少女としての感動をうたった詩、あるいは作者が少女でなくとも、少女のために少女の感動をうたった詩も、<少女詩>と定義されて、大正後期から昭和初期に流行しました。大正期の少女は文学を愛好し、さらに言語によって自身を表現することにも熱心でした。
そして<少女雑誌>では、読者の少女や詩人による<少女詩>が誌上を賑わせましたが、夢二も数多くの詩を残しました。
詩人としても活躍した夢二は<少女詩>も得意とし、優しく美しい言葉で紡いだ詩を、「ゆめ・たけひさ」というペンネームで数多く寄稿しました。思春期の少女の感傷的な心持ちや恋心を汲んで、夢二は繊細な乙女心を詠い、自身の美しい挿絵を添えて、詩画を融合した表現で少女たちにメッセージを送りました。
■夢二の言葉■
●「晩春感傷」より(『週刊朝日』(1926年4月13日号)
憎むことさも出来ない。 許すことはなおさら出来ない。
「ちきしょうどうしてみんなくれよう」
こんな風に下司な言葉で現わす方が 一番感情に直接でまた感じも出てくる。
●山田市蔵宛の手紙より(1927年4月12日)
人間はみんな もっと親しくうちとけて ほがらかに生きてゆかねばなりません
いつも競技に出る人のように 勝ち負けを考えていては あんまり寂しい
●『夢二日記』(1932年11月30日)
図にのると人間は なかなか愉快な仕事を 仕出かすものだ。
図にのる事の出来ない人間が だんだん少くなる。
<新企画>
■夢二の自論■
数々の冊子、書物に掲載された夢二の自論。夢二式の考え方、書きぶり、表現の面白さなどを楽しみましょう。
1 女性論((『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房指新社)より) )
美人画をはじめ、時代を象徴する女性像を描き続けた夢二。同時に恋多く、理想の女性を生涯求めてやまなかったその姿は、マスコミからも注目され、女性論や恋愛論について執筆を依頼されることも多々あった。自身の思いや体験から得たこと、また女性に対するメッセージを、夢二は的確な言葉で書き表した。そしてそれらの文章は、いつの時代にも通じる普遍的な内容も多く、時代を超えて心に響くものばかりである。
(1)「京都の女 東京の女」(その1)(『新家庭』第四巻第一号 1919年(大正8年)1月)
東京の女と京都の女と比較して話せって仰言(おっしゃ)るんですか。東男に京女って昔から言いますが、江戸の日本橋を振出しに東海道五十三次を三条大橋まで、俱利伽羅紋々(くりからもんもん)の籠屋が走ってた時分には――つまり禁裏様(きんりさま)が京の御所に御座った時分には京都も都だったのでしょうが、今じゃ京都は田舎の町ですね。そりゃね、中央政府が東京にあるからの、禁裏様が東京にお移りになったからっていう、外面的な理由からじゃないんです。
誰でも京都に少し住んだ人ならすぐ感じることですが、京都という町には地方色(ローカルカラー)はあるが、有機的な都会生活ってものがありませんね。あれで大阪は、大阪らしい文化と生活内容を持っています。この点では、東京と大阪という比較の方がおもしろいでしょう。早い話しが、京都の廓(くるわ)でも大部分は大阪、神戸の金が落ちるんだそうです。東山から南禅寺畔へかけての別荘や妾宅は大抵、大阪、神戸の紳士の持物だそうですからね。祇園一流の美妓(びぎ)が、昔ながらの赤前垂れの茶亭(ちゃてい)へゆくより、たとい小店でも、たんまりご祝儀の出る方を喜ぶって言いますものね。この間も京都で中沢さん(画伯)に逢った時の話ですが、「だん子も好きだったが、旦那が出来てひどく感じが下等になりましたね」と言っていました。あの狭い下河原の浮世小路を自動車で乗廻したり、日傘の代りに埃及(エジプト)模様の洋傘(こうもり)をふりまわしたり、毛のあるショールをかけて、まずい一品料理を食べに歩くようになったんですものね。私は必ずしも懐古的な古い物ばかりが好いって言うのじゃないんです。昔の話に、ある舞姫が台所の釜の火が燃出ていたのを女中に注意したら、舞姫がそんなことに気を付けるようじゃいけない、たとい家が焼けても平気でいるものだと、おっ母さんになる人に叱られたというが、そんな事を今時言う人間もあるまいか、また聞く人もあるまい。(つづく)
※「東男に京女」:男は、たくましく、意気な江戸の男がよく、女は、美しく、情のある京都の女がよい。また、この取り合わせは似合いである。(精選版 日本国語大辞典)
※「俱利伽羅紋々(くりからもんもん」:博徒など、やくざが背中に彫った倶利迦羅龍王のいれずみ。また、そのいれずみをした人。転じて、いれずみ。(精選版 日本国語大辞典)
※「禁裏様(きんりさま)」:天皇を敬っていう語。禁中様。禁廷様。きんりんさま。(精選版 日本国語大辞典)
※「祇園(ぎおん)」:京都市東山区の一地区。四条通が東山山麓の東大路に突当るところにある八坂神社の西門前から西は鴨川までの四条通南北一帯をさす。地名は八坂神社がかつて祇園社と呼ばれたことに由来。祇園社は貞観 18 (876) 年の創建と伝えられ,鎌倉時代に鳥居前町が発達したが,応仁の乱後衰退。江戸時代初期から再び祇園社や清水寺などの参詣者を相手に茶屋が並びはじめ,中期には遊里として認められ,以後歓楽街として発展。現在も茶屋,料亭,バーなどが多い。京都では八坂神社を「祇園さん」,茶屋町を「祇園町」と呼び分けることもある。大みそかの夜から元旦にかけて八坂神社に詣でる「おけら詣り」や,7月の祇園祭でにぎわう。(ブリタニカ国際大百科事典)
※「美妓(びぎ)」:美しい芸妓。美しい芸者。(精選版 日本国語大辞典)
※「赤前垂れ(あかまえだれ)」:赤い色の前垂れ。また、それを掛けた女。近世では、宿屋の女、茶屋女、遊女屋の遣手(やりて)などの風俗。(精選版 日本国語大辞典)
※中沢さん:中澤偉吉。日本画家・中澤霊泉のこと。長野県生まれで号を霊泉とした。京都高等工芸学校(現国立京都工芸繊維大学)図案科を卒業。夢二による大正12年(1923)5月の「どんたく図案社」結成の宣言の中に「同人」として中澤偉吉・久本信男・奥地孝四郎の名が見られる。
※「埃及(エジプト)模様」:古代エジプトの工芸品にみられる動植物などの幾何学的な模様。(精選版 日本国語大辞典)
■夢二情報■
●「夢二の楽譜 -大正・昭和初期の作詩曲と表紙絵-」(金沢湯涌夢二館)
竹久夢二(1884-1934)は、明治末期から昭和初期に活躍した詩人画家です。夢二が作詞した「宵待草」は、多忠亮(おおのただすけ)の作曲により大正7年(1918)に「セノオ楽譜」のシリーズから出版され、大正時代を代表し、今なお愛唱される流行歌となりました。この「宵待草」を現在の歌詞で掲載した夢二の処女詩集『どんたく』は大正2年に刊行され、2023年はその刊行から110年目となります。これを記念して、夢二の楽譜をテーマとした展覧会を開催します。
本展覧会では、夢二が表紙絵を手がけ、セノオ音楽出版社から発行された「新小唄」や「セノオ楽譜」を中心に、夢二の作詞曲や同時代の楽譜などもあわせて展示します。なお、妹尾
幸次郎筆 竹久夢二宛書簡(昭和9年)も当館初公開します。
企画展 | 金沢湯涌夢二館 (kanazawa-museum.jp)
会場には今春、人気テレビ番組で2,500万円の鑑定額で注目を浴びた夢二の油絵や肉筆画、版画など約270点を紹介する。会期は2月12日まで。
佐賀出身の洋画家岡田三郎助からの助言を機に、進むべき道を決める。その後に確立した独自の美人画は、明治から大正にかけて大いに流行した。女性たちを中心に人気を博した夢二は、書籍や広告、雑貨など幅広いデザインを手掛け、現在でもファンは多い。
展覧会では、今年1月にテレビの鑑定番組で高値が付いた油絵「ノスタルジア」も初お目見えする。夢二が生涯を通して描いた油絵は十数点しかなく貴重なもの。晩年、ロサンゼルスやスイスで描いた希少な作品も展示する。九州初公開の「南枝早春(なんしそうしゅん)」のほか、夢二がデザインに関わった挿絵、関連グッズなども数多く並べる。
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/945602
【特設サイト】https://tokushu.saga-s.co.jp/takehisa/
創作と愛に生きた「夢二の世界」
大正時代は西洋の文化や芸術が多く取り入れられるようになり、街では現代風の青年や若い女性が日々流行を追い求めていました。古い伝統と新しきもの、日本的なものと西洋的なもの、先取りの気質のものと退廃を好むもの、あらゆる物の狭間となり、大正時代には華やかな文化「大正ロマン」が花咲くこととなります。夢二は西洋の最先端のスタイルと日本古来の抒情性を強く掛け合わせた作品を次々と発表し、一躍時代の寵児(ちょうじ)となりました。
本展では復刻木版画を中心に、夢二が表紙や挿絵などを手がけた「婦人グラフ」や「セノオ楽譜」など、約40点を展示いたします。復刻木版画には、国産楮で漉いたふっくらとした紙肌と優美で洗練された風合いが特徴の越前生漉奉書を使用しています。木版画では200~300回もの刷りに耐えることができる強靭さが最高の評価を受けています。
https://www.echizenwashi.jp/event/1173/
●鷹見久太郎、創刊から100年 児童雑誌「コドモノクニ」に脚光 古河文学館が企画展を開催中(東京新聞WEB)
今から100年前に産声を上げ児童文学史に大きな足跡を残した雑誌「コドモノクニ」と、創刊者の鷹見久太郎(たかみ・きゅうたろう)(1875〜1945年)=茨城県古河市出身=に光を当てた企画展が、同市の古河文学館で開かれている。童話や童画、童謡をふんだんに盛り込んだ魅力あふれる絵雑誌の世界を紹介するとともに、子どもたちの健やかな成長を願って雑誌づくりに情熱を燃やした鷹見の生涯を振り返っている。(宮尾幹成)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/212845
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