■メッセージ■
まだ生きてます!!(^^)! 健康管理に気をつけているせいか、おかげさまで、今のところ快調に毎日を送っています。
来年11月の台湾大学で開催する講演会「夢二と台湾」について記載した年賀カードを海外へ発送しました。2020年のコロナ禍発生以来2年間の準備期間を経て、台湾との行き来が今年10月に解禁され、いよいよ「夢二と台湾」の本格的な活動が開始されます。ご支援をいただければ幸いです。
また、来年9月に完成予定の動画の製作もいよいよ本格化。秋葉由美子さん演出、鈴木愛子さん出演(合同会社きよみず)、坂原冨美代さん監修(夢二研究会代表・笠井彦乃の姪)、そして石川桂子さん(竹久夢二美術館学芸員)ほか多くの皆様の協力を得てシナリオ構成を開始します。
■竹久夢二の素顔■
●恩地孝四郎(8)(『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員監修、河出書房新社)の「夢二の芸術・その人」より)
(注)本文は恩地孝四郎主宰・編集の趣味雑誌『書窓』第三巻第三号(昭和11年(1936)11月・アオイ書房)に掲載されたもので、夢二との出会いから別れまでの日々を総合的に語ったものです。
彼の芸術は、之を三段に分って考えるのを便とする。こういう考え方などというものは恐らく夢二君の甚だしく嫌悪し蔑視するであろうが、黙認しても呉れよう。即ち初期の瑞々しさの憧憬的な情趣が中心となる所謂、夢二時代の作品、中頃は、その世間がつけた折り紙をひきずられるように行いた時代、そして晩期をそこを脱して、再び自主的にゆこうとした時代。
最初の時期はひとの知る通りである。この頃の夢二は、その制作は、殆ど彼が草画と名づけた筆描の一色画であってその頃、出版物の、それも主として雑誌類に挿入された一コマ絵と云われた小形の絵、それは挿絵ではなく一つの独立した創作的な小味な、多くの場合何等かの機智を有した境地の小画である。
それらの絵は、どうしたことか、はなはだ乾燥した味であった。又は妙に俳味がかったりした。若かりし小杉未醒氏などが最も活躍していた。太田三郎、石井拍亭、小川芋銭(うせん)、等の名が記憶にある。夢二君はその乾いた味を甚だ嫌った。もっと直接人生に没入した内容を主張した。夢二画集夏の巻にもそれに言及してある。「絵は内より画くものと、外より描くものと二種に分ちたい。内より画く絵というのは、自己内部生活の報告だ。」そして「内部感傷の発想」としての云う所の無声詩を以て、それらに拮抗したのであった。ただ若き感傷をのみ主題として余りに永く、その世間のつけたレッテルを慣用しすぎたために後年はその内部生活の報告である事実を失って了った所に、かれのこの素晴らしき意図は自滅せざるを得なかったが、当時その発祥に於ては誠に時弊を衝いた新らしき精神の現われであった。この精神は徒にリアリテをのみ唯一無二として遵奉している現在の画壇に持ち来ってやはり意義ある精神でなくてはならないし、当時の青少年の心を忽ち捉え去ったということも、強ち(あながち)その主材の感傷主義のためとのみ云うべきではないのである。彼の意気は、彼の情操の老境に向かうと共に、その表現の自由さを失って制作に力を欠かしめたが、彼の初期の作は現在に会っても相当高く評価されてもいいものである。しかし彼の、画面情熱は大正二年の「昼夜帯」を結びとして、順次下降し中期に於ては、徒に世間が彼の手をかって画かしめているに過ぎない。その画は自主的意力に欠け、あの筋束のように生々と柔軟性に富んだ線までが失われて了ったのである。彼のように身を以てかいた作者は、裸身を露出しているような作者は、十分強靭なる自識に立たなければよく世間の無数の目に対抗できるものではない。自分のものを街でみるときは実にいやになると屢々(しばしば)いった彼、余りに赤裸なる自己露出の道をゆくものとしてこれは当然荷うべき十字架である。が、この頃からその関心は文学の方へ向けられている。彼は画をかいても詩をかいた。画というものよりも詩の内容であった。これが文学へ移ることは何の不思議もない。が、彼はやはり人情の世界を愛した。人情を克服してさらに大きい人情に向かうことを欲しなかった。その結果として彼の文学もまた殉情の範囲を出なかった。(つづく)
■夢二の台湾旅行(復習編)■
都合により今回はお休みいたします。
■夢二の世界■
PART 3 「KAWAIIの世界」(「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より)
49 コラム「美しくなりたい!夢二式美人の世界」
夢二作品といえば、美人画というイメージが強いですが、そもそも美人画とは、「女性の美しさを主眼にした絵。特に日本画で、浮世絵やその伝統を受け継いだ作品」(『大辞林』より)です。
実在の女性をモデルにして、夢二は制作を手がけることもありましたが、「空想から生まれた美しい娘」を表現することに心を傾け、自身の美人画の結晶となる理想の女性像「夢二式美人」を描き表しました。
女性描写の特徴として、顔つきは少し眼を伏したうつむきがちな表情が多いこと、さらに髪型、服装、小物にみる装飾、加えてしぐさに至るまで、夢二の趣味が随所にちりばめられました。また着物姿の場合は着物の袖口、裾から覗く手や足を大きく表しましたが、手足というのは人間の感情を語るからという、夢二独特の思想が反映されています。加えて全体のシルエットはゆるやかなS字型の曲線を描き、女性の曲線美と内面を映し出すようなセンチメンタルで頽廃的な雰囲気を表現しました。
「夢二式美人」は、明治~大正時代を生きた女性や少女、さらに男性にとっても憧れの存在で、当時「夢二が描いたような人」という言葉は、美人を指す代表的な形容でした。夢二の絵から姿形や立ち居振る舞いを模倣し、しだいに夢二が描くような外見や雰囲気を感じさせる女性も出現したほど、「夢二式美人」は強い影響を及ぼしました。
■夢二の言葉■
●「夢二日記」(1917年6月14日)
いつもフレッシュな心持ちでいることが愛だ。
●「夢二日記」(1917年7月12日)
ほんとに 何もかも忘れて愛したい。 こんなに愛することを 二人とも手をひろげて 願っているのだ。
ほんとに愛したい、愛したい。 おぼれるほど。
●「夢二日記」(1917年10月14日)
愛には馴れるし、欠点はだんだん 目につくようになる
●「夢二日記」(1919年1月3日)
生活のない人間に愛を語る資格はない。
■夢二の自論■
数々の冊子、書物に掲載された夢二の自論。夢二式の考え方、書きぶり、表現の面白さなどを楽しみましょう。
今回は、夢二の着物へのこだわりがよく分かる部分です。
1 女性論(『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房指新社)より) )
(1)「京都の女 東京の女」(その4)(『新家庭』第四巻第一号 1919年(大正8年)1月)
河上博士の「貧乏物語」という論文が大阪朝日に出ていた頃、私は何という皮肉だろうと思っていました。
京都の女は皆それぞれに市価を持っていることは、恐るべき進化かあるいは羨(うらや)むべき退化です。古代ブリトン人の婚姻制度よりも徹底的に優秀な習慣を持っている。祇園の女で千や二千の貯金のない舞妓はないと聞いています普通の家庭の女でも、自分の所有に属する着物を男に作らせるとか、良人(おっと)に内密で金を貯えておくことは、ごく普通のことになっているらしい。(編者注:2文ありますが原著のまま記載しています。)私が使っていた京都生まれの女が「私も身売りをしようかしら」とある時都踊りを見せての帰り路で、真面目に言ったのを聞いて驚いたことがあります。
食うに困るからというのではない、どうかしてより多くの着物を、より美しい帯をしたい。またより多くのお金を貯金したい欲望が唯一の目的なんです。
京都の舞妓はマインドを持っていない。
祇園小説で有名なM君のものに「京都の舞妓は客をつかず離れず実に快く遊ばせる方法を知っている、例えば、舟遊びをしても、月夜の風流を解し、決して客の歓楽を妨げるような騒ぎをしない」とあった。「それに引換えて、東京の女はすぐに客の歓楽の中へ飛び込んで来てうるさい」というような意味が書いてあった。それが京都の女はマインドを持っていないように見えたり、意志生活のない女たる証拠だといえる。またその本に「京の女は無知」だともあった。これもやはりマインドを持たない一つのあらわれだと言えると思う。
実際、京都の女は、功利的な実際生活を徹底的に体現しているようです。恐らく京都の女は人間に惚れたら、男を愛することを知らないように見える。彼らの同棲や婚姻はまさしく一種の商取引なんです。
ある祇園の名妓が、自分の世話になっている男の仕事が本願寺の坊であったということを三年間知らずに過したというような事は、いかに、彼らが人間の心の問題に無関心で、単純に肉体の上の域は物質の上の取引だけに満足して生きてきたかとうことを、明らかに語っているかがわかるのである。
※M君:おそらく長田幹彦のこと。長田幹彦(ながたみきひこ、1887―1964)
小説家。東京・麹町(こうじまち)生まれ。兄秀雄(ひでお)の影響で新詩社に入るが、脱退して『スバル』に参加して文筆活動を開始。早稲田(わせだ)大学在学中、北海道を放浪、そのときの旅役者生活に取材した『澪(みお)』(1911~12)、『零落(れいらく)』(1912)で一躍新進作家として文壇の花形となった。そのころ1年ほど谷崎潤一郎とともに京阪に滞在、のちに、『祇園(ぎおん)夜話』(1915)など祇園物とよばれる作品群を執筆、潤一郎と並称される耽美(たんび)派の代表的作家となる。(約300の長編と約600の短編に亘る多量の作品を書いたという。)しかし赤木桁平(こうへい)の『遊蕩(ゆうとう)文学の撲滅』(1916)論で打撃を受け、情話物の流行にのって読者をひきつけはしたが、作品は通俗化していった。昭和初期からいわゆる歌謡曲の作詞家として『祇園小唄(こうた)』『島の娘』など多数の作品を残し、第二次世界大戦後は『青春時代』(1952)などの回想記や通俗小説を執筆するかたわら心霊学の著作なども残した。(『日本大百科全書(ニッポニカ)』)
夢二が数多くの作品の装幀をしている。また、「祇園小唄」の作詞者でもある。
★「祇園小唄」(作詞:長田幹彦、作曲:佐々紅華)
1 月はおぼろに東山 霞む夜毎のかがり火に 夢もいざよう紅桜 しのぶ思いを振袖に 祇園恋しや だらりの帯よ
2 夏は河原の夕涼み 白い襟あしぼんぼりに かくす涙の口紅も 燃えて身をやく大文字 祇園恋しや だらりの帯よ
3 鴨の河原の水やせて 咽(むせ)ぶ瀬音に鐘の声 枯れた柳に秋風が 泣くよ今宵も夜もすがら 祇園恋しや だらりの帯よ
4 雪はしとしとまる窓に つもる逢うせの差向(さしむか)い 灯影(ほかげ)つめたく小夜(さよ)ふけて もやい枕に川千鳥 祇園恋しや だらりの帯よ
(注)『祇園小唄』の歌詞で締めに繰り返される「だらりの帯」とは、京都の舞妓が着る振袖のだらり結びにした帯を指す。見習い期間に姐さん芸妓と茶屋で修業する際は、半分の長さの「半だらり」の帯となる。舞妓の初期における髪型は「割れしのぶ」。店出しから間もない年少の舞妓が結う髷(まげ)で、「ありまち鹿の子」や「鹿の子留め」など特徴的な髪飾りが目を引く華やかで愛らしい髪型。『祇園小唄』の歌詞で「しのぶ思いを振袖に」とあるが、この舞妓の髪型の名称と無関係ではないだろう。(以上、サイト「世界の民謡/童謡」より https://www.worldfolksong.com/index.html)
■夢二情報■
●2023年1月21日(土)、竹久夢二美術館・石川桂子学芸員の講演があります!
企画展「龍星閣がつないだ夢二の心―『出版屋』から生まれた夢二ブームの原点―」(日比谷図書文化館、2023年1月7日~2月28日)で、2023年1月21日(土)に竹久夢二美術館・石川桂子学芸員の講演があります。演題は「夢二が表現した“かわいい”と出会う~龍星閣旧蔵竹久夢二コレクションより~」
きっと、世界に広がった「KAWAII」の原点が見えますよ。
令和4年度企画展 「龍星閣がつないだ夢二の心」のご案内/千代田区文化財サイト (edo-chiyoda.jp)
●夢二生家記念館・少年山荘 2022年冬の企画展「夢二生家 ふるさとの冬」、夢二生家正月の催し(NEW TOPICS 2022.12.13 両備ホールディングス株式会社)
夢二郷土美術館(所在地:岡山県岡山市中区浜2-1-32、館長:小嶋光信、運営:公益財団法人両備文化振興財団)では、別館の夢二生家記念館・少年山荘(岡山県瀬戸内市邑久町本庄2000-1)にて、2022年12月13日(火)より、「夢二生家 ふるさとの冬」と題した企画展を開催いたします。
本展では、初舞台をひかえた初々しい舞妓が描かれた《初芝居》を特別展示し、また1月3日からの「正月の催し」では地元の方による邑久(おく)伝統の正月飾りで新年を祝い、福笑いやコマ回しなど、昔ながらの正月遊びもご用意しております。
・会期:2022年12月13日(火)~2023年2月26日(日)
・概要:竹久夢二が生まれ16歳までを過ごした築約250年の茅葺屋根の「夢二生家記念館」では夢二のこども時代の部屋を公開し、また蔵を改装した展示室では夢二のふるさとをテーマに季節に合わせて当館所蔵の夢二の肉筆作品をご覧いただけます。
夢二自ら設計したアトリエ兼住居を復元した「少年山荘」では人生、デザイン、音楽をテーマにセノオ楽譜をその楽曲を聴きながら鑑賞したり、「婦人グラフ」などデザイナーとしての夢二の作品や、夢二の人となりを写真や遺品を通してご覧いただけ、トートバッグ作りなどの体験コーナーもお楽しみいただけます。
夢二のふるさとで夢二芸術の原点をご体感いただき滞在をお楽しみください。岡山市中区の本館とともに周遊していただくのがおすすめです。
https://crea.bunshun.jp/ud/pressrelease/6397e0b0760b0692f7000010
コメント