■メッセージ■

いよいよ今年最後の「週報」となりました。今年は晩秋に思わぬトラブルがありましたが、いまは完全復帰。夢二訪台90年目の2023年を迎える準備を鋭意進めています。

これまで70週間余の間、とまどいながらの夢二関係資料のとりまとめ発表におつきあいいただき、誠にありがとうございました。

初志貫徹!当初予定の100号まであと32週。来年11月の台湾大学講演会までのラストスパート、動画制作も頑張りますので、ぜひともご支援いただきますよう、よろしくお願いいたします。

皆様方におかれましては、安心安全、健康ですごせる新たな年をお迎えくださるよう、心よりお祈りしております。

▼JASMINe Project International 日台合同チーム
(林健志・林達富(Woody Lin)・蔡嘉陽(Andy Tsai)・楊臻(Jenny Yang)) 
[■]JPI 日台合同チーム

■竹久夢二の素顔■

●恩地孝四郎(9)(『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房指新社)の「夢二の芸術・その人」より)

(注)本文は恩地孝四郎主宰・編集の趣味雑誌『書窓』第三巻第三号(昭和11年(193611月・アオイ書房)に掲載されたもので、夢二との出会いから別れまでの日々を総合的に語ったものです。

併(しか)し乍(なが)らその範囲に於ては、誠に美しき数々を残したのである。美術の方ではこの中期に於て彼の装飾的才分が著しく動いた。港屋はその具体化の頂点であって、そこで作られ売出された、半襟、ゆかた、風呂敷、千代紙などは彼の装飾才能を物語るものであり、後年の「若草」の表紙などと共に評価さるべき筈のものである。岡田三郎助氏がその頃何かの誌上に夢二のその才能を挙げていた文章のあったのを憶えている。色の美しさについてであった。この芽は大正震災によって潰れて了ったドンタク図案社の企画となって伸び後年には榛名山美術研究所となって果(み)を結ぶべきであったが、遂にその事なくして終ったのは遺憾の極みである。晩期は、極めて短い。榛名山研究所の企画から外遊に及ぶ間であって従来出かかった新らしき展開の目の成果を見るべき道程であったが、遂に身と共に失われて了ったのである。初め女性への愛熱に起り、そこに新らしい表現を創造完成し乍ら、中途その力を失った彼、遂に人間を離れて、装飾美へ趨向(すうこう)し、又山懐を恋うに到った彼であった。しかも彼の慕った山は峻厳嶇崖(しゅんげんくがい)の山容ではない、若草山のような榛名、抱くが如き温容さをもつ山々である。晩年山ばかりかいた即興帖、そは彼の一度失われた情熱が穏やかに横たわる筈であった。客中(かくちゅう)、異郷の空にははるかに恋うた榛名、それを廔々(ろうろう)油画にし、墨画にし、山の下に折れたように仰臥している自分をかいた彼の心を思うとき、胸のせまる思いである。春奈の山はいまも穏やかに裾を引いている。彼の歌碑は徒にさみしい。「さだめなく鳥やゆくらむ青山のあをのさみしさ限りなければ」うまくない歌だ。しかし夢二の心持の実によく歌いこまれた歌である。かき来てはなはだ哀傷、かき来て甚だ哀傷、私事に亘るから書かんことにする。ただ一つかきそえたいことは、既に早く彼の全盛時代、死んだら遺作集を編んでくれますかと書きよこした彼の言を、滞米中、図案集の出版を云い寄せられ着手して思わぬ支障のため中絶して甚だ責を感じていたのが、曲りなりにもアオイ書房刊の遺作集の編輯にたずさわり得たことによって、何分かは果せたことをせめてもの詫びとしたい。僕は、夢二の画業を一部の人々程は素晴らしいものと思っていない。しかし、彼の余りに多い制作のなかからよきもののみを撰んで来るならば、それは決してまた多くの画人が思っている程低度のものではなく、立派に日本の美術作品に留むべきものであることを信ずるものである。だが、それらはどこへいって了ったか。碑銘のうたのように、知るよしもないのである。日本の美術のためにも、又誤られすぎた夢二君のためにも、之を明かにしたい責を感じるがこの責は果せそうもない。私一個としては甚だ苦痛である。

頭をあげたらもう窓に外は白みかかっている。(七月二日)(おわり)

(編者)9回にわたって、夢二ファンとして画の道に進み、日本の抽象表現の先駆者で、木版画近代化の立役者となった恩地孝四郎が夢二没後3年目に書いた夢二の生涯。専門家らしい鋭い見方に驚嘆しました。「夢二の画業を一部の人々程は素晴らしいものと思っていない」としながらも、「多くの画人が思っている程低度のものではなく、立派に日本の美術作品に留むべきものであることを信ずるものである。だが、それらはどこへいって了ったか。碑銘のうたのように、知るよしもないのである。日本の美術のためにも、又誤られすぎた夢二君のためにも、之を明かにしたい責を感じる」と最後の言葉にあるように、恩地孝四郎の思いは夢二への愛に満ちています。このような、有島生馬にもみられる夢二愛といったものが、画壇から離れて生涯を送った夢二をしっかりと支えていたことがわかるような気がします。

次回は、偶然菊富士ホテルに夢二を訪ね、夢二に出版社を紹介されたことで抒情画界で大活躍するようになった蕗谷虹児の文章をご紹介します。ちなみに私は郵政博物館開館時のこけらおとし(2014年)の展覧会に岩島美月学芸員の企画した「蕗谷虹児展」を採用したことがきっかけで夢二と出会い、その後いくつかの奇跡的な夢二資料との出会い等を経て今に至っています。岩島美月学芸員には本件でもご協力をいただいています。

※趨向(すうこう):物事がある方向・状態に向かうこと。また、その方向。(Weblio辞書)

※峻厳嶇崖(しゅんげんくがい):「峻厳(しゅんげん)」は非常にきびしいこと。また、そのさま。「嶇(く)」は、けわしい。 山道などのけわしいさま。

●恩地孝四郎写真
 

■夢二の台湾旅行(復習編)■

これまで長期にわたり追ってきた夢二の台湾旅行の概要と着目点などについてまとめていきます。

●第17回 「夢二の『台湾の印象』(その3)」

<記事2>(新聞掲載されたエッセイ「臺灣の印象ーグロな女学生服」)

私はこの丘の上で思ふ。何故なれば、次の船の出る日まで充分思ふ間があるからである。私は何しに台北へ来たか。私は台北で何を見たか、私は台北においてなんであったか、或は無かったか。かういふ主要な問題をやっと考へる時間を持った。

 「台湾には生蛮人と制服を着た日本人が居る」さういふのが私の台湾に対する人文地理学であった。その他に何があるのか、私は知る必要もなかったから、考へても見なかった。つまりこちらでいふ本島人がゐることに気がつかなかったのだ。しかしこれは笑へない。多くの日本人はいつの間にか、本島人の居ない台湾を知るに過ぎなかったのではないか。

(本島人…清朝時代の中国渡来の人。漢人)

その寄ってくるところはその政策のためか、感情か、私は知らない。急に本島人が山の中からでも出てきた見たいに言ふ人があるが、なるほど、来てみると本島人も居るが、制服を着た人間もずいぶん居るのには驚いた。

後藤新平の予言が果たして卓見になるかどうか、次の船までに解るものではない。

(注:卓見…優れた意見)

<解説2>

・状況:「私は何しに台北へ来たか。私は台北で何を見たか、私は台北においてなんであったか、或は無かったか。」と夢二は考えます。おそらく個展で米欧で負った借金の返済金を稼ごうという気持ちだけで来た台湾。そこでは彼の名は過去のものとなっており、警察会館での個展では絵も売れなかった。訪台を誘った河瀬蘇北は東方文化協会台湾支部を創設して華やかな会合や講演会を演じて意気揚々としていて、個展の状況とは大きな差が出てしまいました。さらに何の因果か、台湾に到着したその日に、夢二がかつて師と仰いだ藤島武二が鐡道ホテルに同宿していました。同時期に開催された台湾展覧会の審査員の役目とともに、皇太后より下命のあった、今上天皇の即位を祝う絵である「日の出」をテーマにした景勝の地を探す目的もあるなど大いに活躍していて、蘇北同様、意気揚々とした姿をみせていたと思われます。そこへきて帰国船にも乗り遅れという、まさに台湾に来て踏んだり蹴ったりの夢二でしたが、ここで「次の船が出航する日まで考える時間ができた」ということで、ここからが、「夢二が見た台湾」について述べられることになります

夢二が台湾について知っていたのは、「台湾には生蛮人と制服を着た日本人が居る」ということでした。そのほかに誰がいるのか別に知る必要もなかったので気にしていなかったのです。蘇北もこれについては特に問題視していたなかったのでしょうか。台湾で日本的教育を開始して40年近く経っているので、日本語も流ちょうな人も多かったでしょうから、それほど「本島人」という存在を気にしていないような状況であったことも考えられます。多くの日本人は、台湾領有開始以来、いつの間にか、本島人の存在を忘れてしまっているのではないか、ということに夢二は疑問を持ちました。「多くの日本人はいつの間にか、本島人の居ない台湾を知るに過ぎなかったのではないか」の「本島人の居ない台湾」とは、まるで台湾の文化を無視している日本人の姿を指しています。日本人入植者にたいして途方もなく多数の「本島人」を無視したような台湾の統治姿勢とともに気になったのが「制服」です。これは間違いなく警察と軍隊を指していることでしょう。この辺が夢二らしいところで、1901年に上京して東京で苦学して生活する中で見出した夢二の思想の原点となっているものと考えられます。

後藤新平について触れていますが、夢二は後藤新平を評価していました。関東大震災の後、荒れ果てた東京を整備するにあたって辣腕を振るった後藤新平が、日本橋にある一石橋近くに江戸時代に建てられた「迷子探しの告知石碑」を撤去しなかったことで夢二は後藤新平に礼状を書いていました。周知のとおり、後藤新平は、児玉源太郎台湾総督から民生長官の地位を得た際、「統治は生物学の法則に従う」として、台湾に合った施策を主に実施したとされています。このことがうまく台湾で実施されているのかどうか、夢二は疑問を持ったのでしょう。つまり、「人々の慣習を重んずる」という「台湾の慣習を重んじる」という考え方が、その後成功しているのかどうかはまだ何とも言えないということなのでしょう。

※迷子探しの告知石碑:江戸時代の日本橋~一石橋界隈は盛り場で、迷子や尋ね人が多かったようです。当時迷子は町内が責任を持つことになっており、安政4 年(1857)近隣の町名主等が世話人となり、一石橋に迷子探しの告知石碑が建立されました。正面に「満(ま)よひ子の志(し)るべ」、左側に「たづぬる方」、右側に「志(し)らす類(る)方」と刻まれています。両側の上部に方形の窪みがあり、左側の窪くぼみに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、心当たりがある人はその旨を書いて右側の窪くぼみに貼りました。いわば江戸庶民の告知板でした。湯島天神(現存) や浅草寺(復元)、両国橋等、往来の多い場所に同様のものがありました。(wikipedia

▼一石橋(現在)
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▼一石橋(初設置時)
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■夢二の世界■

PART 3 KAWAIIの世界」(「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より)

50 コラム「“かわいい”恋人によせて」

恋多き人生を歩み、理想の女性を追い求めた夢二ですが、なかでも岸他万喜(きしたまき)・笠井彦乃(かさいひこの)・佐々木カ子ヨ(ささきかねよ・お葉)の三人は、夢二と生活もともにし、日常生活や創作活動を通じて夢二に強く影響を及ぼしました。

他万喜・彦乃・お葉は夢二のモデルとなり、その美しさは日本画等に描き残され、さらに詩歌や小説の題材になり、夢二芸術を彩りました。

また夢二は恋人への思いを日記に綴り、時には手紙を送りましたが、その中で「可愛い」という言葉を記すこともありました。その文章からは愛情をもって相手を大切にしたい気持ちも伝わってきますが、他万喜・彦乃・お葉のいずれの女性とも、最終的には別離を迎えました。

しかしながら彼女たちへの思いは制作に結びつき、永遠の美となって、今なお色あせずに多くの人を魅了しています。

▼「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より

薔薇の戯れ(『令女界』第5巻第5号口絵)1926年(大正155

絵筆をとる男性の後ろに少女がたたずんでいるが、男性は夢二の姿のようであり、愛しい女性に制作を見守ってほしいという自身の理想を描き表したようである。
本「かわいい手帖」かわいい恋人 (2)
 

■夢二の言葉■

●「ある画家の手記」より(『中央文学』19204月号)

彼女の肉体の最初の男性になることは、もはや迷信に過ぎない。彼女の最後の恋人になることが、男を活かす一つの途(みち)だ。

●「ある画家の手記」より(『中央文学』19204月号)

苦しい時にも嬉しい時にも人はその恋の経験を他人に話すことを好むものだが、決して経験を そのままには話さないものだ。ずっとあっさりか、ずっと誇張してか――

●「時計」より(『恋愛秘話』1924年)

彼は初婚ではなかったし、彼女は一人娘であった。しかし、恋するものはそんな事情は考の外においた。いや、そういう世間的な事情が、却って二人の愛情をせつないものにして、一層寄添わせたのかもしれなかった。

 

■夢二の自論■

数々の冊子、書物に掲載された夢二の自論。夢二式の考え方、書きぶり、表現の面白さなどを楽しみましょう。

今回は、夢二の着物へのこだわりがよく分かる部分です。

1 女性論(『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房指新社)より) )

(1)「京都の女 東京の女」(その5 最終回)(『新家庭』第四巻第一号 1919年(大正8年)1月)

私は随分長く京都の女の抽象的な観察ばかりお話ししたようですからもはや東京の女のことを言う時間がなくなりました。今少し具体的な風俗についてお話しして、このつまらない話をやめましょう。

三年振りに東京へ帰って、一番目についたのは、若い女の人の髪の形です。束髪の前髪に毛たぼを入れないでずっと引つめて、後ろの方へ突き出した(と口で言っては、感じがわるいが)束髪を多く見たことです。これはミッション、スタイルでしょうが私が四年ほどまえにある少女雑誌へ、私の好きな髪として、出したことのある、ギリシャ巻という束髪です。私の好きな束髪が流行りだしたのを見て、私は実に嬉しい気がしたんです。実にあれが好きです。あの髪を結うと、すぐに私はギリシアン鼻(ノーズ)を持った、首の長い、眼窩(めくぼ)の低い美人を眼に描くことができます。そして、横顔がわけても一番センシアルな耳朶(みみたば)と襟足を露に惜しげもなく見せる点で、まことに美しい髪だと思います。

芝居で見たってそうでしょう。あのでこでこの毛たぼのあんころを入れた束髪で愛人の胸へ頬をよせる場面(シーン)を想像して御覧なさい。男の胸のとこで盛綱の首実検よりもかさばっちゃ次の白(せりふ)が出ようがないじゃありませんか。

京都の女の髪は一体に鬢(びん)を張って、その上帯をば、極めて、シンメトリーに大きくもっさりと結んで広げてありますから、釣合いは好いか知りませんが、気の利いたものじゃありませんね。その上、京都の女は脚に人体の重心の中心を置かないで、尻で歩いているように見えます。これは今少し科学的に研究して見たら面白いでしょうが、今はやめます。

要するに京都は趣味の町です。骨董的な町です。総ての行楽も芸能も、ある伝統的な趣味が出ないようです。舞妓が時雨(しぐれ)をきく風流も、時の鐘を数える風雅も、彼等には実感のない日常茶飯事にすぎないのです。

四条通の飾窓をみてあるくと、どこの飾窓にも半切画の一枚、色紙の一枚、盆石の一つはきっと出してあります。ある貴金属を商う家では、五千円のダイヤの指輪にならべて二円五十銭のほどのガラス入の金の指輪が出してある。つまり持っていないものは、切(せめ)てそれらしいものでも持っていないと恥しいという、需要者の心持が、ちゃんと表象してあるんです。

旅人が京都の町を歩く時、あなたは、青や黄や茶色のおそろしく原色の羽織をきた女やまた、たいへん質のいいものでありながら帯も着物も履物も、調和も統一も対照もないない上等な風俗を見るでしょう。また電車の停留場でのろい電車の来るのを、実に、何十分でも我慢して乗換切符を無駄にすまいと心掛けて、立ちつくしている御内儀を見出すでしょう。

また、夕方円山や清水坂の方を歩いていると、軒下から走り出て、「異人さん銭おくれ、銭がなければおまん(饅頭)おくれ」と呼(さけ)んで路をふさぐ、男の子でも縞の前垂れをした、いたいけな子供を見るでしょう。

山紫水明の京都へ遊ぶ旅人は、朝(あした)に清水の欄干に立ち、夕(ゆうべ)に黒谷の晩鐘をきいて、時雨に逢っても決して傘をお買になるな。(おわり)

(編者)まるで夢二が目の前で語っているような書きぶりですね。当時のものの言い方なども参考になります。また、夢二がどれほど鋭い眼と感覚で街の風俗を見ているかがよく分かる一編でした。これを読むと、夢二が京都で彦乃と暮らしながらも飾窓へ行っていたといのもわからないではありませんが、やはり、夢二にとって廓通いは一生涯の仕事だった、というのもわからないではありません。そうだとしても、やはり待つ身は辛いですよね。

次回は、「女性論」(『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修)から、夢二式美人の核心に迫る、「女の浴衣姿」(『中央公論』第二五巻第九号 1920年(大正8年)8月)をご紹介します。

 

※毛たぼ、毛たぼのあんころ:地毛の中に入れて、まとめ髪やヘアアレンジのボリュームアップを図るものです。そのためつけ毛ともいいます。また詰め物の意味でしょうか、「あんこ」ともいいます。盛り髪のためのかさ上げアイテムと言えますね。最近ではシニヨンの中に入れて髪の量を増やして見せるためなどに使われています。

本来、「たぼ」とは日本髪の後ろに張り出した部分のことです。(サイト「頭美人」より)

※眼窩(めくぼ):目のくぼみ

※センシアル:“センシュアル”のこと。官能的である、官能的なさまという意味を持つ言葉です。それ以外にも、肉感的という意味もあります。主に色気や外見的な特徴、ファッション、人間の内面性を表す言葉でもあります。セクシーとは似ているようで違います。(サイト「BELCY」)*現代の意味合いです。

※盛綱の首実検:浄瑠璃「近江源氏先陣館(おうみげんじせんじんやかた)」八段目で、主人時政から弟高綱の首実検を命じられた盛綱は、高綱の子小四郎の命をかけたけなげさに感じ入り、にせ首と知りながら高綱の首だと答える場面。(『精選版 日本国語大辞典』より)

※鬢(びん)を張る:江戸時代、婦人が鬢に張りを持たせるために、その内側に鬢張(びんはり)を入れた。鬢張は、鯨のひげ、針金などで作った。上方での称で、江戸では鬢差(びんさし)と呼んだ。(『精選版 日本国語大辞典』より)

※シンメトリー:上下・左右の対称(相称)

※盆石:盆上に雅致のある自然石を立て小石等を配して山水その他の風物を描写するもの。室町時代から置物として観賞されてきた。石州流,細川流,遠州流等の流派があり,それを作る(打つ)場合の態度,手順などの作法が定められている。(『百科事典マイペディア』より)

※御内儀(ごないぎ):貴人または相手の妻を敬っていう語。おないぎ。御内室。御内証。御内方ごないほう。(『デジタル大辞泉』)

※前垂れ(まえだれ):「前垂れ」は、おもに商人が和服の上にしめるもので、特に腰から下の前面部分に垂れ下げる布をいう。(『goo辞書』)

※山紫水明(さんしすいめい):日に映じて、山は紫に、澄んだ水は清くはっきりと見えること。山水の景色の清らかで美しいこと。(『精選版 日本国語大辞典』より)

 

■夢二情報■

●日比谷図書文化館で竹久 夢二の企画展を開催「龍星閣がつないだ夢二の心「出版屋」から生まれた夢二ブームの原点」(千代田区)

1 担当学芸員によるギャラリートーク各回約30分程度

・日時:

113日(金曜日)午後630分、24日(土曜日)午後1時、121日(土曜日)午後1時、210日(金曜日)午後630

・場所:日比谷図書文化館 1階特別展示室

2 企画展関連講座

(1)夢二が表現したかわいいと出会う ~龍星閣旧蔵竹久 夢二コレクションより~

・日時:121日(土曜日)午後2

・会場:日比谷図書文化館4階 スタジオプラス

・講師:石川 桂子さん(竹久 夢二美術館学芸員)

・参加費:500円 (注意) 事前申込抽選制(定員40名)

申込はこちら⇒ https://www.edo-chiyoda.jp/tenji_koza_kodomotaikenkyoshitsu/koza_kodomotaikenkyoshitsu/205.html
令和4年度企画展「龍星閣がつないだ夢二の心~「出版屋」から生まれた夢二ブームの原点」/千代田区文化財サイト (edo-chiyoda.jp)

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所定事項を書いて文化財事務室にメールでお送りください。

●竹久夢二、多彩な才能 新春特別展で初公開作品も 1月2日から佐賀市の県立美術館」(佐賀新聞)

夢二紹介文がなかなか熱を帯びて、すごい!

「大正ロマンを代表する詩人画家で、デザイナーとしても活躍した竹久夢二(18841934年)。来年12日から佐賀市の県立美術館で、初公開を含む代表作の数々とともに、その歩みを紹介する新春特別展(主催・佐賀新聞社)が開かれる。

 夢二が活躍した大正から昭和初期は、モダンな都市文化が花開いた時代。夢二デザインの粋な服飾や生活雑貨は、若い女性をとりこにした。特別展では、美人画や晩年の珍しい絵画のほか、今でも「レトロかわいい」と愛され続けている夢二デザインのグッズも数多くそろえる。

 岡山県生まれの夢二は、明治341901)年に上京し、早稲田実業学校に入学。本科を卒業し、専攻科に進んだが、同381905)年に中退。雑誌などのカットを担当するコマ絵画家として歩み始める。1907年には、夢二式美人のモデルとなった岸たまきと結婚した。伏し目がちな大きな瞳、憂いを帯びた表情、S字にくねる肢体-といった新たな美人画を生み出した。

 美人画で知られる夢二だが、グラフィックデザイナーの草分けでもあった。1914年に夢二が開いた「港屋絵草紙店」(東京・日本橋)では、日傘や浴衣、千代紙などの日常品にデザインを施した。港屋は東京の名所の一つに数えられ、若い女性を中心に人気を集め、夢二グッズは売れに売れた。

 富裕層向けの高級ファッション雑誌「婦人グラフ」でも、挿絵を長らく受け持った。夢二は流行の最先端を把握するために、海外雑誌を参考にした。叙情的な文章と絵を組み合わせたコーナーが読者の支持を集めた。

 児童画も得意とし、季節感ある背景に子どもや家族の団らんの様子を描いた作品を雑誌に発表し続けた。

 また、明治期に西洋から音楽が流入し、楽譜が普及すると、大正期には凝った装丁の楽譜が人気を集める。夢二はその中でも代表格の「セノオ楽譜」の表紙を270枚あまり手掛けた。

 作詞家として「宵待草」「別れし宵」などの楽曲の作詞も20曲以上行うなど、多才ぶりを発揮した。

 ファッション雑誌の表紙や本の装丁、百貨店の包装紙といった商業美術にも積極的で、ジャンルを問わず手掛けた夢二。大衆に美術の裾野を広げた第一人者でもあった。」(福本真理)

https://news.yahoo.co.jp/articles/24402399b0c73425a85bad324d2e9c6f4cd3c6ef

●「東北の温泉宿」人気ランキング! 「一人旅部門」の第1位は「蔵王温泉 おおみや旅館」(Yahoo!ニュース)

温泉地の活性化プロジェクトを行う「温泉総選挙」は、全国561の宿・ホテルの中から、「温泉宿・ホテル総選挙2022」公式サイトを経由した「Web投票」および「SNS投票」、宿・ホテルにて投票用紙を使用した「リアル投票」を行い、さまざまな部門のランキングを発表しました。

今回はその中から、東北エリアの「一人旅部門」のランキングを紹介します。東北エリアにおいて「一人旅にぴったり」と人気を集めたのはどの宿だったのか、さっそくランキングを見ていきましょう。(出典元:温泉宿・ホテル総選挙2022

★第1位:蔵王温泉 おおみや旅館

 第1位は、2位と同じく山形県山形市蔵王温泉にある「蔵王温泉 おおみや旅館」でした! 創業から1000年以上の歴史を誇る老舗旅館で、館内には竹久夢二の版画やレトロな家具などが置かれ、ノスタルジックな雰囲気を味わえます。また、館内の廊下や階段はすべて畳敷きで、素足で歩けるのも魅力のひとつです。

 お風呂では、乳白色の硫黄泉を100%源泉かけ流しで楽しめます。檜造りの湯船が玉子型になっている「玉子風呂」のほか、「源泉風呂・泡風呂」や冬以外の季節に楽しめる「源泉露天風呂」「足湯」を用意。時間を忘れてゆったりと温泉を楽しめる、一人旅にぴったりの宿となっています。

https://news.yahoo.co.jp/articles/a0e6e32407faa7eaaa900719a34c16a9f3771117

RKBオンライン「おしゃべり本棚」で夢二!(1224日放送しました。 担当:本庄麻里子)

「クリスマスの贈物」 竹久夢二

6歳のみっちゃんと、お友達の二郎さん。

クリスマスに、サンタクロースのおじいさんに持ってきてほしいものはいっぱいあって・・・

子どもとお母さんのやりとりがかわいらしい作品です。

RKBオンライン:福岡の民間放送局RKB毎日放送の公式WEBサイト