■メッセージ■
2023年(令和5年)、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
いよいよ竹久夢二の訪台90周年の年になりました。
2020年のコロナ禍発生から約3年。試行錯誤の中、プロジェクト「夢二と台湾2023」を継続してきましたが、いよいよ本年11月に記念講演会「夢二と台湾2023」を台湾大学で開催する運びとなりました。
この「週報」でも何度もお伝えしているとおり、夢二の訪台に関しては非常に資料が少なく、わずかな関係書籍や関係論文を頼りに調査を続けてまいりましたが、特段大きな発見には至っておりません。今回の講演会は、夢二が台湾に行ったという事実とそれにまつわる諸先生型の研究をとりまとめたものにわずかな新情報を加えたものとなりますが、これをまず台湾の日本文化に関心のある方々に紹介して夢二の所業についてまず関心を持っていただくことにしました。そこで、夢二の多分野にわたる大きな魅力については、昨年台湾初の夢二専門書を著し、大々的な夢二展覧会を企画・実施した王文萱さんに中国語でお話しいただくこととしています。
というわけで、今回の講演の内容は、夢二の台湾訪問という大きなテーマに対してはごく基本的なものとはなりますが、これを契機として、日台で協力して新たな事実や推測が生まれることを大いに期待しています。
なお、講演中に上映を予定している夢二の訪台に関する短編動画の製作を行うことにしていますが、夢二研究会とも関わりの深い「合同会社きよみず」(鈴木愛子社長)の演出家秋葉由美子さまに協力いただくことで進めています。
また、講演会全体の監修については下記のとおりとなっていますが、講演内容等については、竹久夢二美術館(服部聖子館長、石川桂子学芸員)、女子美術短期大学講師西恭子先生、岩島美月・井村恵美学芸員(郵政博物館)、夢二研究会会員など多くの皆様に多大なるご協力をいただいています。
コロナに阻まれ、長い間計画変更を繰り返していた私のライフワーク・プロジェクトですが、多くの皆様のご協力により、いよいよ本格始動します。
何卒よろしくお願いいたします。林 健志
【講演会「夢二と台湾2023」(「夢二與台灣2023」演講會)】 (予定)
◆期日:2023年11月 ◆場所:国立台湾大学 ◆講演者: 林健志・王文萱
◆演題:1933年に訪台した夢二の足跡と夢二の魅力(講題:1933年夢二訪台足跡與夢二的魅力)
◆監修:田世民(台湾大学副教授)・王文萱(京都大学博士・夢二研究会会員)・坂原冨美代(夢二研究会代表)
◆動画制作協力:秋葉由美子(演出)・鈴木愛子(出演)・合同会社きよみず
◆企画:JASMINe Project International(林健志・林立富・蔡嘉陽・楊臻)
■竹久夢二の素顔■
●蕗谷虹児(1)(『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房指新社)の「蕗谷虹児 夢二さんの画室」より)
(注)本文は、蕗谷虹児が雑誌『令女界』に連載した、挿絵入り自伝小説「乙女妻」(1937年(昭和12)1月号~同年12月号11回目第一六巻第一Ⅰ号(宝文館)に掲載されたものです。東京・本郷の“菊富士ホテル”に暮す夢二を訪ねた一夫(虹児)のエピソードが綴られ、夢二の恋人お蔦(お葉)も文中に登場しています。
実際の蕗谷虹児の訪問模様については、次回、「蕗谷虹児 先輩 竹久夢二」でご紹介します。
(そうだ、挿絵で身を立てると言う方法もあったのだな……)
一夫は、こう思い立つと、急に夢二さんに逢いたくなった。
(その頃、氏は本郷の菊富士ホテルにおられた。)
久しぶりに訪ねて行くと、
「来たね。」と氏は、静かに秋風のように笑った。
卓上には、楽譜の表紙のためらしい描きかけの絵が載っていた。
「春になったね。」
「ええ、僕は、春になると夢二さんに逢いたくなるんですよ。」
「なぜだい?」
煙草に火をつけて氏は椅子に凭(もた)れた。
「なぜだか、わかんないけど」
「なぜだか、わかんないけど―――かハハハ」
氏は、天井を仰いで煙草の煙を吹いた。
(夢二さんはいつ逢っても、一風変わった風態をしていられたが、この日は、紫紺(しこん)の袋頭巾のようなもので長髪を押えて、くち綿の、渋い八端(はったん)らしい地の丹前を着ていた。。)
そこへ、お蔦さんが出て来た。
荒い派手やかな黄縞のお召に、繻子の昼夜帯を締めて、夢二さんが描く絵からそのまま抜け出して来たようなお蔦さんだった。
(こんな美しい人と一緒にいるので、夢二さんの絵はいつでも若いのだな……)
一夫は、お蔦さんの顔を見るたびにそう思った。
夢二さんは、絨毯の上へ描きかけの絵を置いて、そこへ胡坐(あぐら)をかいて描き始めた。
一夫は、椅子に腰を掛けたままその絵の仕上るのを見ていたが、見ているうちに、その画ペンの動きに魅せられて、甘やかな洋酒の酔心地のようなものを感じた。
敷じき物も窓掛けも、本棚も、卓子も椅子も、何処を見ても夢二式ならざるはないその部屋だった。
(夢二さんは、こんな綺麗(きれい)な部屋で、こんな綺麗な人と一緒に暮して、こんな綺麗な絵を描いている――倖(しあわせ)だな。)
一夫は、自分より二十年も齢上の夢二さんが、羨ましくなって来た。
「僕なんかにも描けるかしら――」
一夫が思わず言うと、
「挿絵をかい?描いてみたらどうだい。」
「描けるかしら――」
「好きなら描けるさ、――別にそううまい挿絵家も日本にはいないじゃないか――」
氏は、こう言って一夫に勇気をつけてくれた。
この二三日後に、一夫は、日米図案社の午休みの時間を利用して、T雑誌社を訪問してみた。
「何か御用ですか?」
編集長のT氏が、幸いに逢ってくれた。
「夢二さんが行って見よと言うので来たのですが、僕も挿絵を描きたいと思いまして――」
「ああ、そうですか、いままでどこかに描いた経験があるのですか?」
「ないのですが――」
「では、見本と言うようなものを持って来ましたか?」
「ええ。」
一夫が差し出したのをT氏は老眼鏡らしいその眼鏡越しで、一枚一枚、味わうように見てゆく――。
一夫は、その前の椅子にかしこまって、T氏の顎のところで、さっきから生物のように揺(ゆらめ)いている大きな瘤(こぶ)を、凝(じ)っと見つめていた。(完)
■夢二の台湾旅行(復習編)■最終回
●第18回 「夢二の『台湾の印象』(その4)」
<記事3>(新聞掲載されたエッセイ「臺灣の印象―グロな女学生服」)
本島人はせっせと日本語を勉強せねばならないだらうが、日本人もまた本島人の住宅と衣服に就いて学ぶべきものがあると思ふ。ことに台湾に生活するときに於いて。つまり台湾の風土に適応するために、およそおかしきものは台湾に於ける女の学生の制服である。ああいふ帽子は―さうだあらゆるグロテスクな俗悪醜悪な形容詞をつめこんでもまだ一杯にならないであらう。
「汽車に注意すべし」といふ立札の(に)を(も)書き換えて「汽車も注意すべし」とあった。この浅いおかしみが、この無邪気な作者に理解されてゐたのではない。
* * *
優秀な人種だと考へることのできる人種だけが優秀なのである。私はまた少し眠くなった。(八年十一月十一日)」(完)
<解説3>
「本島人」は、台湾が日本領になったために日本語を相当勉強しなければなりませんでした。当時日本は、台湾人に対して教育制度を徹底し、日本語教育に力を入れていました。当初は実務的に年長者を対象に力を入れましたが、台湾人対象に公学校ができると、次第に年少者が対象になり、また、教授方式も台湾語・中国語からの対訳方式から日本語による教育が主体となったようです。日本人が驚くほど自然に日本語を話す秀逸な台湾人が多数現われたことから、夢二の訪台した1933年頃は夢二が「本島人」の存在に気づかなかったのかもしれません。そのため、「本島人」の存在に気づいた夢二は、台湾人が“せっせと”一生懸命努力して日本語を勉強ているに違いないと思ったのではないでしょうか。
そこで、“服装はその土地に合ったものであるべき”という夢二の持論が登場します。日本人も「本島人」の住宅と衣服(現地の生活方法)について学ぶことがある、というのは、押し付けの大嫌いな夢二らしい考え方です。日本領となっている台湾でこれを公言するのも中々大胆で、小気味よい気がします。
この「押しつけ」の象徴的なもののひとつが「制服」です。現在でもいまだに学校で制服論争がくりひろげられていますが、「制服」は「自由」の反対語のような性格です。ここで夢二は「台湾で生活するのに台湾の風土に合わせる必要があるのではないか」と言います。下段の「夢二の自論」にも制服について言及している部分がありますので、よろしかったらご参照ください。夢二の制服へのこだわりが見えます。
その後の展開にある「およそおかしきものは台湾に於ける女の学生の制服」とは、基隆の丘に立って要塞などのある方向に目を向けないとした“配慮”と似たようなものがあります。夢二と言えば女学生、という世間のつけたレッテルをうまく活用して、話の焦点をそらしてるようです。
続けて「ああいふ帽子はーさうだあらゆるグロテスクな俗悪醜悪な形容詞をつめこんでもまだ一杯にならないであらう。」と手厳しく女学生の制服を嫌悪する表現をしていますが、この帽子も気になりますね。何の帽子を指しているんでしょうか。ナチスの帽子でしょうか。日本の警察や軍の帽子でしょうか。この比喩はかなりきついと思われましたが、台湾の検閲は本土に比べるとかなり甘かった、ということが当時の新聞の漫画を扱った本に書かれていましたが、そのままうまく掲載されたのはそのせいかもしれません。編集長が児玉源太郎総督の台湾別荘を管理している尾崎秀真だったらかもしれません。コマ絵がついていなかったのは残念ですが、夢二が思ったままコマ絵を描いたら、ひょっとするとその方が危なかったかもしれませんね。この辺はまだ想像して模索している段階です。すいません。
そして最後に、鉄道の立て札について述べています。この立て札に書いてある文句は、ちょうど「歩行者のことを考えて車を運転しろ」といった現代の考え方と似ています。たまたま街中を歩き回っているうちにこれを見つけたのでしょうが、「汽車も注意すべし」というのは「弱者のことも考えろ」ということであり、こんないたずら書きのウィットに富んだ真意が“あさいおかしみ”と表現されているところは随分粋な感じがします。画家より詩人になりたかった夢二の視点とセンスがよく表れているようです。どの程度の教養をもとに書いたのかわからない、ということでありながら、実に当たっている、ということなのでしょう。そこで「優秀な人種だと考へることのできる人種だけが優秀なのである。」と締めています。
これは名言ですね。今の人種問題にも通じる鋭い指摘です。優秀か優秀でないかについて普遍的に語っているように感じられます。この辺はこれからさらに深堀りしていくとよいので、もう少し考えていきたいと思っています。
いずれにしても、夢二は、東京に出てきて社会主義を学び、やがて人道主義的な考えで生きるようになってそれに基づいた絵を描いてきました。その中で、後幅広い分野での人の交流や創作をしながら、哀愁を帯びた「夢二式美人」とともに「夢二式の生き方」も創り上げていったのではないかと思います。しかし、念願であった米欧の旅でアメリカで急進する機械化の波に直面し、チャップリン同様、心の通わない物品の大量生産に危惧を感じ、欧州では貧しくも人間的な流浪の旅の末、ドイツで日本画の教育に携わるようになりましたが、ヒトラーの台頭によりユダヤ人差別を目の当たりにして帰国を余儀なくされました。
その後に訪れた台湾。彼の見た日本の警察や軍の「制服」がどんな意味をなしたのか、彼に何を思い起こさせたのか、まだまだ考えることはたくさんあります。
「私はまた少し眠くなった。」という終わり方も含め、夢二と一緒に寝ないように頑張ってさらに深堀をしていきたいと思います。不完全な解説で失礼しました。さらに内容を深めてまいります。(完)
次回からは、夢二訪台に関する著書「夢二 異国への旅」をご紹介します。夢二の訪台に関し、著者の袖井林二郎氏が2度の訪台調査を重ねて著した関係書籍の代表作品です。ご期待ください。
■夢二の世界■
PART 3 「KAWAIIの世界」(「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より)
51 コラム「“かわいい”恋人によせて ①岸他万喜(きしたまき)」
「おっ母さん(他万喜)も剛情なけれど可愛い児だったのだよ。」(日記より 1910年(明治43)5月17日)
日記を書いた日に、夢二は他万喜の生まれ故郷・金沢に滞在しており、この言葉を長男・虹之助に語るような形式で記しました。
他万喜の子どもの頃を創造し、夢二は幼くて愛らしい魅力を思い浮かべ、“可愛い”と言い表しました。当時の2人は協議離婚をしていましたが、日記を書いた4か月前に、席は戻さないものの復縁していました。2歳年上で気の強かった他万喜は、夢二と喧嘩が絶えませんでしたが、別居と同棲を繰り返し、出会いから完全な別れまで、2人は約10年の月日にわたり関係を持ちました。
1914(大正3)年に夢二は自身でデザインした商品を販売する「港屋絵草紙店」を開店し、他万喜をここの女主人にして店を任せますが、別れた妻の自立を促すという事情も込められていました。のちにこの店に現れた笠井彦乃の存在により、他万喜と夢二の関係は修復不可能となりました。
※岸他万喜寿:1882年(明治15)~1945年(昭和20)石川県金沢生れ。最初の結婚で夫と死別し、夢二と再婚する。兄から任された絵草紙店で働いていた折に夢二と出会い、1907年(明治40)に結婚。1909年(明治42)には協議離婚に周が、2人の関係は約10年間続いた。夢二と唯一結婚した女性で、虹之助(こうのすけ)・不二彦(ふじひこ)・草一(そういち)の三男児をもうけた。
■夢二の言葉■
●「恋愛秘話」より/『苦楽』(1924年7月号)
口にはノンと言っていても、彼女の体がイエスのSの字になっているのを見逃してはならぬ。
●「思い出さねばこそ」より/『東京』(1924年11月号)
忘却することが出来なかったら、男は発狂するか、自殺するかの(ほか)はあるまいとおもう。その人の生活が真剣であればあるほど、忘却が必要であろうとおもわれる。
恋愛生活に於てことにその感が深い。
●「日記より(1929年11月10日)
まだ九時十五分まえ。10時から10時までいっしょに過ごすとして12時間ある。
話をするには十分な時間だ。
しかしだまって抱き合っているには短い時間だ。
■夢二の自論■
数々の冊子、書物に掲載された夢二の自論。夢二式の考え方、書きぶり、表現の面白さなどを楽しみましょう。
今回は、夢二の着物へのこだわりがよく分かる部分です。
1 女性論(『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房指新社)より) )
(2)「女の浴衣姿」(その1)(『中央公論』第二五巻第九号 1920年(大正9年)8月)
貴社から与えられた題目をきいた時、其筋(そのすじ)から法度の布令でも出たのかと思ったのです。思想統一を考えている有司諸君が、生活改善かなんかで女の制服でも考案しかねないこの程の慌(あわ)て方から推して、必ずしもそれは途方もない空想や戯談ではありません。天和年間には鹿革の下駄の緒までに禁令が出そうにものの本にあるから、おかみの権力でなろうことならエレキの力で大資本で製造する当今の染めの不深切な、図柄の西洋臭い、(これは野蛮と言った方が適切な)仕上げの粗悪な、一つだって工人の創意のひそまないデパートメントストアーや飾窓や街頭にひけらかして否でも応でも買わせて着せるような仕組に出来た呉服物、そういう呉服物を一切禁じて、夏のキモノは本所の中形、冬は尾州の縞(しま)物と決めたらどうだろう。
が、そんなことはどうでもいい。弁慶橋が壊されようが不忍が埋められようが、そんなことはどうでも好い。橋や池や浴衣は我々にとって、もはや古い趣味にしか過ぎない。
「世の中は金と女は仇なり、どうか仇にめぐり逢たい」とウィットに富んだ昔の街の詩人が言ったが、当の仇の女が今の我々にとって何であるかを考えるのが先決問題ではないのでしょうか。
南米出稼の女が三十年振りで二重橋を見物しているような格好をした新進夫人が婦人参政権を高唱している世の中です。大黒頭巾を被って六部のような洋服を着た新しい職業婦人のできた世の中です。
夏の陽が傾いて、三等理髪の出窓の金魚が動き出し、ギヤマンの風鈴が、プラタナの無風にさそわれて鳴り出す街の片影を、銀杏型の髪かきで髪をあげ、襟白粉(えりおしろい)をくっきりつけた娘が、蓮葉な足どりで、横丁の柳湯から出てくるのを見ると、または大坂格子の店先きへ、蘭の鉢植をのせた竹の床几(しょうぎ)に、水髪のおさふねを結った、眉の青い、紙緒のゲボウ下駄をはいた女房を見ると、着ている浴衣に、商売柄ちょっと興味と注意が引くけれど、今の私には、あるがままに女も浴衣も一つの美しい物質の塊(マツス)として眺める自然主義者にもなれないし、歌麿のようにあらゆる女を永遠の童貞のように取扱って、キモノの持っている線条の詩のような憧憬をよせることも出来ない。(つづく)
※「天和年間には鹿革の下駄の緒までに禁令が出そう」:生類憐みの令のこと。将軍就任当初より綱吉は儒学や仏教の教えによる人心教化を意図し、天和2年(1682)5月、諸国に立てた高札で、忠孝を奨励し、夫婦兄弟仲良く、召し使いなどを憐むよう命じた。その後対象が犬となり、1695年(元禄8)には江戸郊外の中野に16万坪の土地を囲って野犬を収容し、その数は最高時4万2000頭に達し、費用も年間3万6000両、これは江戸や関東の村々の負担となった。また、対象となる動物の範囲も広がり、違反者には厳しい刑罰があった。1709年(宝永6)綱吉死去に際し、この令のみは死後も遵守せよと遺言したが、6代将軍家宣 (いえのぶ)はこれを廃止した。
※夏のキモノは本所の中形、冬は尾州の縞(しま)物:「長板中形」は江戸中期から伝承される高度な型染めの技法。尾州とは、愛知県一宮市を中心とした一帯に広がる毛織物の産地で、江戸時代、日本の繊維産業の中心である尾州で生まれた「尾張縞」という技術を利用した毛織物で有名。
※大黒頭巾を被って六部のような洋服を着た新しい職業婦人のできた世の中です。:六部とは、法華経を66回書写して、一部ずつを66か所の霊場に納めて歩いた巡礼者。室町時代に始まるという。また、江戸時代に、仏像を入れた厨子ずしを背負って鉦かねや鈴を鳴らして米銭を請い歩いた者。六十六部。
※ギヤマンの風鈴:(彫刻をほどこしたガラス製品を「ギヤマン彫り」と呼んだところから) ガラス製品一般をさす。ビードロ。玻璃(はり)。
※大坂格子:木、竹、金属などを直角に碁盤目(ごばんめ)に組んだものを格子と言い、組格子ともいう。近世になって種類が増え、横桟の間に取り外せる小格子を入れたものを大阪格子という。
※床几(しょうぎ):肘掛けのない坐具。平安時代には胡床 (あぐら)
,床子 (しょうじ) と呼ばれ,公事に際して官人が用いた。戦国時代には,軍陣や狩場などで休息のために用いられる床几が案出された。4本の脚を互いに打違えに組み,坐部に革または布を張り,折りたたんで携帯に便利なようにした。一名摺畳椅 (すりたたみあぐら) ともいう。
※水髪のおさふねを結った:水髪は水だけでなでつけた髪。長船(おさふね)は江戸時代後期から結われるようになった日本髪の一種。丸髷に似た中央部とその両側に輪がある髷で、三つ輪と同系。妾が結うことが多かったとされる。
※紙緒のゲボウ下駄:紙緒は紙の鼻緒。ゲボウは深海魚名か?
※物質の塊(マツス): 「マッス」は「塊」の意。絵画・彫刻・建築作品において、全体の中で一つのまとまりとして把握される部分。また、空間の中でひとかたまりとして把握される全体。(「デジタル大辞典」)
■夢二情報■
●企画展「夢二が描いた 心ときめく花と暮らし」開催!(竹久夢二美術館)1月6日(金)~3月26日(日)
日本では古くから、四季折々の花が生活に喜びや潤いを与え、芸術作品の主題として扱われてきました。
画家・詩人として活躍した竹久夢二(1884-1934)も、暮らしの中の花から着想を得て、絵画やデザイン、詩歌などにおいて幅広く表現しました。夢二が描いた花は可憐な姿で鑑賞者を癒してくれます。さらに自身の心情と花の印象が結びついて生まれた詩は、時には香りや触感までも思い出させ、花にまつわる記憶を呼び起こしてくれます。また図案化された花は日用品を装飾して暮らしを彩り、その洗練されたデザインは現代でも高い評価を得ています。
本展では、花をテーマにした夢二作品に加え、明治後期~昭和初期の雑誌より、花を楽しむ文化を展示紹介します。
https://www.yayoi-yumeji-museum.jp/yumeji/exhibition/next.html
●日比谷図書文化館で竹久 夢二の企画展を開催「龍星閣がつないだ夢二の心―「出版屋」から生まれた夢二ブームの原点―」(千代田区)
1 担当学芸員によるギャラリートーク各回約30分程度
・日時:1月13日(金)午後6時30分、1月21日(土)午後1時、2月4日(土)午後1時、2月10日(金)午後6時30分
・場所:日比谷図書文化館 1階特別展示室
2 企画展関連講座
(1)夢二が表現した“かわいい”と出会う ~龍星閣旧蔵竹久 夢二コレクションより~
・日時:1月21日(土曜日)午後2時
・会場:日比谷図書文化館4階 スタジオプラス
・講師:石川 桂子さん(竹久 夢二美術館学芸員)
・参加費:500円 (注意) 事前申込抽選制(定員40名)
申込はこちら⇒ https://www.edo-chiyoda.jp/tenji_koza_kodomotaikenkyoshitsu/koza_kodomotaikenkyoshitsu/205.html
令和4年度企画展「龍星閣がつないだ夢二の心~「出版屋」から生まれた夢二ブームの原点」/千代田区文化財サイト
(edo-chiyoda.jp)
●竹久夢二展特別イベント「緒川たまきさんトークショー」 1月8日 聴講者募集(Web「さがから」より)
2023年1月2日から佐賀市の県立美術館で開幕する新春特別展「竹久夢二展~佐賀で巡り合う大正浪漫の世界~」に関連し、竹久夢二をテーマにしたトークショーを開催します。参加無料、定員250人で聴講者を募集しています。
登壇者は、俳優の緒川たまきさんと竹久夢二研究家の安達敏昭さん。緒川さんは、芸名「たまき」を竹久夢二の妻の名からとっているほどの夢二ファン。トークショーでは、夢二と出会うきっかけやエピソード、好きな作品など夢二について熱く語っていただきます。
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/964506
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