■メッセージ■
1月6日(金)、竹久夢二美術館「心ときめく花と暮らし」に行ってきました。
新年早々、またしても奇跡的なことが起こりました。
実はこれも偶然で、当日の朝になって急に不忍池のユリカモメに逢いたくなり、早く家を出たことが事の始まりでした。ユリカモメの方はなぜか激減していて、ほとんどいない状態でしたが、鵜の親子に出会ったりするなど、それなりに満足。昼食後は、いつもの本郷三丁目駅から東大構内を抜けて行くのとは違うルートで、不忍池から暗闇坂を上っていきました。
東大の池の端門の前になかなかいいものを置いている古書店があるのですが、久々にちょっとのぞいてみようかと店前のラックを見たとたん、夢二の絵らしき表紙の古い雑誌がありました。「淑女畫報」でした。博文社とあります。そこにあったのはまさしく、夢二の鳥が描かれた表紙の、1915年(大正4)4月号のホンモノでした。裏表紙がありませんが、私にとっては貴重品。早速店主に値段を聞いたところ、なんと、「裏表紙がないから300円でいいです。」と申し訳なさそうに言いました。謝謝!
というわけで、大喜びで“僕のお宝”をゲットして、夢二美術館に向かいました。
これは、ちょうど、金沢湯涌夢二館に行く途中で思い立ってバスを途中下車して宝円寺に詣でたら夢二直筆の芳名帳に出会ったのや、岡山に出張したついでに郷土美術館や少年山荘を観た帰りに思い立って夢二館に行きたくなり、金沢周りで帰京することにしたら、岡田孝子さんの講演会があり、そこで夢二研究会代表坂原冨美代さんと初めて出会ったというのと同じ、“思い立ったら夢二に出会う”の再来でした。
ところが、さらに驚いたことが。夢二美術館で石川学芸員にご挨拶してこの幸運な事件をお話ししたところ、「その雑誌、今回展示していますよ」と言われてまたびっくり。
確かにありました。私の300円のものとは大違いのきれいなものが展示されていました。
でも、私の本は中身が見られる大事な“お宝”。幸先の良い竹久夢二美術館詣でした。(^^♪


▼「女学校生活の思ひ出」に彦乃の通った女子美術学校が紹介されていた!
この雑誌の発行された1915年(大正4年)4月、夢二と愛し合いはじめ、5月に二人は結ばれています。

▼竹久夢二美術館
■特別エッセイ■
「切り口が斬新な夢二展 ――『心ときめく花と暮らし』(竹久夢二美術館)を訪れて」
いつも斬新な切り口で夢二を紹介している竹久夢二美術館。今回の企画展は、タイトルを見た時にどんな展覧会になるのか想像つかなかったのですが、「花」を切り口にしてあれだけできるのか!と圧倒されました。
最初にいきなり精密な夢二の植物のペン画を見て仰天。どうもこれまで夢二の植物画は鉛筆系でデッサンかスケッチのものばかり気にしていたので、衝撃は大きかったです。アールヌーヴォーにしっかりつながりました。
展示場では、「花」をテーマにして夢二画を並べてあるので、非常に面白く、夢二がいかに様々なジャンルの画を勉強して、その特徴を取り込んで自分のものにしているかがよくわかりました。多くの夢二関係書を著している秋山清が、夢二は自分がいいと思ったものをどんどん取り込んで自分のものにしている、といったようなことを書いていましたが、まさにそのとおり。大判の絵では、日本画調、水墨画調、線画などが肩を並べて展示してあるので、夢二の深さや幅の広さがよく分かりました。これが同じ人の画?という感じになる面白い比較展示です。
今回の企画展の場合、それは大判の絵に限らず、挿絵でも、雑誌や楽譜の表紙でも、ひとつひとつの展示品が横のつながりが「花」しかないことから、非常に興味深く、夢二の技量があふれ出てくるようです。来館者の様子を見ていると、一つのコーナーで足を止めて観ている時間が長いことに気づきました。流してみることができないからでしょう。似たような画がなく、そのひとつひとつが訴えてくるので、どうしても一つの絵の鑑賞に時間がかかってしまうのでしょう。「花」がどこに使われているのかチェックしているのかもしれませんが。夢二の多彩な魅力が大量に一か所で一気に楽しめますね。
“手紙魔”のような夢二ですが、今回は手紙関係のコーナーがありました。手紙、はがき、封筒と分けて画が展示されています。封筒も含め、手紙という書く通信手段の魅力、それにまつわるさまざまな光景が様々な形で現されているのは、私のように手紙大好き人間にとってはとても嬉しいことでした。
聞くところによれば、7回展示替えするとのこと。大量の資料があふれ出てくるわけですね。なかなかの勢いです。台湾での個展について、台湾日日新聞の編集長だった尾崎秀真が、「此の畫家が持つ昔ながらの「人間情熱」は、まだ作品の上にまざまざと活きている」と批評記事に書いていますが、「情熱」は大切です。展示替えも“情熱”の現われの一つです。2週間もしたら、また行って見ることにします。
■竹久夢二の素顔■
●蕗谷虹児(2)(『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房指新社)の「蕗谷虹児 先輩 竹久夢二」より)
(注)本文は、蕗谷虹児が『別冊週刊読売』第三巻第一号(1976年(昭和51)(読売新聞社)に掲載されたものです。
小学生時代から、絵が好きだったので、十五歳の時に私は、同窓の日本画の大家、尾竹竹坡(おたけちくは)先生の弟子にしてもらって、新潟から東京に出て来た。
当時は、文展の全盛時代で、文展に入選しさえすれば、食うや食わずの無名画家でも、写真入りで新聞雑誌に書きたてられて、生活が保障されたものだったので、私も大方の画学生同様に、文展に入選したいばかりに、大作の出品が習作と懸命に取り組んでいて、博物館の鎌倉時代の仏像の写生と、絵巻物の模写に励んでいた。好きで描く浮世絵や挿絵は、厳しい絵の勉強の合間の愉しみにしていたので、夢二の挿絵集の春の巻等は、日比谷図書館で私は見ていた。
竹坡先生は、文展に出品した「訪れ」で、文展の最高賞の金牌を授与されていたので、大変な羽振りであった。が、もう一度最高賞を撮れば、文展の審査員に昇格されるという大切な出品作を、なぜか落選させられたので、先生と、一門の弟子たちは前途の希望を失って、ちりばらばらになり、私も、父が新聞記者をしている樺太(からふと)へ落ちて行ったが、父の家には、私とうまくいかない父の後妻がいたので、私は父の家からも出て、樺太の村落から村落を、つたない絵を画いて売りながら、北へ北へと漂泊してゆき、国境から先には行けなかったから、四年間の放浪のはてに、東京へ引き返すべく、不凍港の久春内(くしゅんない)から小樽行きの船に乗ったが、大雪の小樽駅で、父の友人の、名寄(なよろ)の禅寺の和尚と村の人たちから餞別にもらった当分の間の学費を、掏摸(スリ)に掏られて、殆ど無一文の素寒貧(すかんぴん)になって東京に帰ってきた。
そんな私を止めてくれた彫刻家の戸田海笛(とだかいてき)と、遊びにきていた先輩の中沢霊泉(なかざわれいぜん)が、夢二さんと仲がよかったので、二人に連れられて、本郷の菊富士ホテルにいた夢二さんのところへ行ってみたのだが、夢二さんは「樺太帰りの熊」と呼ばれて誰れにも相手にされない私に同情して、樺太で描いた私のスケッチを見てくれた上で、東京社の編集長に紹介状を書いてくれたのだった。
当時の東京社からは、「婦人画報」と「少女画報」の他に二、三の雑誌が出ていたが、東京社は夢二さんの紹介なので、すぐ私に「少女画報」に挿絵を描かせてくれた。
それ以来私は、夢二さんの庇護のものとで挿絵を描いたので、夢二さんが亡くなったときには、挿絵を描く張りあいを失って、何度描くのをやめようとしたかしれなかった。夢二さんは亡くなってからも、無分別な私が、道を踏み違えないように、心配してくれた、と私は思っている。
――夢二さんと、お葉さんと三人で、渋谷の通りへ散歩に出たことがあった。その頃の道玄坂には、力車が行き来していたが、街燈の光りの輪には蝙蝠(コウモリ)が飛びかい、ラジオもテレビも無くて、音のない走馬燈のように、夜の渋谷の通りは静かであった。が、大きな月が舗道に映し出した私の影をステッキで指して、
「僕の若い頃を想い出すよ」と、夢二さんが言った。
夢二さんが三十六歳で私が二十二の時であった。
(参考)当時の蕗谷虹児の履歴(wikipediaより)
1919年 (大正8年)、竹坡門下の兄弟子の戸田海笛を頼って上京。戸田海笛の紹介で日米図案社に入社、図案家としてデザインの修行をする。
1920年 (大正9年)、22歳、竹久夢二を訪ねる。夢二に雑誌『少女画報』主筆の水谷まさるを紹介され、蕗谷紅児の筆名により同誌へ挿絵掲載のデビューを果たす。吉屋信子の少女向け小説『花物語』に描いた挿絵が評判になり、10月創刊の講談社『婦人倶楽部』のカットなど挿絵画家としての仕事が増え始める。
1921年 (大正10年)、竹久夢二の許可を取り、虹児に改名。朝日新聞に連載の吉屋信子の長編小説『海の極みまで』の挿絵に大抜擢され、全国的に名を知られるようになる。『少女画報』『令女界』『少女倶楽部』などの雑誌の表紙絵や挿絵が大評判で時代の寵児となり、夢二と並び称されるようになる。
2014年、蕗谷虹児記念館で夢二の原画展が開催された。同年3月1日開催の郵政博物館開館記念企画展「蕗谷虹児展」のため、同館から貸出資料要請を受けた際、蕗谷虹児に返送された封筒の中に誤って入れられた夢二の原画が見つかったのである。虹児が夢二を信奉していたからというわけではないだろうが、これも縁であろう。



■夢二の台湾旅行関係資料の紹介
●第1回 『夢二 異国への旅』(袖井林二郎著、ミネルヴァ書房)のうち「補章 行かなきゃよかった台北へ」(その1)」
・河瀬蘇北に誘われて
夢二は、世田谷の自宅でうつらうつらと眠っては、ときどき起き上がり旅で巡り合った数多くの女性について原稿を書いたりしていた。小沢武雄の『ニッポンとアメリカ』1933年10月号に夢二帰国の知らせが載った。おまけに自分で帰朝の挨拶まで出したので、訪ねてくる友人もいれば、手紙も舞い込む。その一通の差出人は河瀬蘇北。丸みを帯びた字に見覚えがあった。
そうだ、アメリカへ出発する1931年の3月に、東京の第一出版者から出た本の装丁をしてやった男だ。『新満蒙論』というタイトルは気に入らなかったが、とにかく金がほしかった。夢二は中身を読まないで装丁することがある、と長田幹雄は言っている(直話)。
台北で講演会をやるが、あわせて個展をやらんか、という申し入れだった。講演会はきらいだが、個展なら金が入るかもしれない。あときより今のほうがもっと金がほしい。ベルリンで星島から借りた五百円のことも気にかかるし。
なお、この『新満蒙論』は少なくとも私にはまぼろしの本だ。15年近く探しているが見つからない。内容だけなら大きな図書館で読める。「満州」と蒙古を独立させよ、という一種の開明的帝国主義なのだが、図書館ではカバーや箱を必ず捨ててしまう。ただ内扉に「竹久夢二装幀」とあるので、それとわかるだけである。ちなみにこの本は長田幹雄の「夢二の装幀本」(『夢二と私』所収、こつう豆本129)にも、三木永太の「夢二の装幀本」(『日本古書通信』998)にも、まったくふれられていない。したがってまぼろしの本なのである。
河瀬蘇北、本名は龍雄。大正から昭和の初めにかけて十数冊の著書がある。『日本反動思想史』『日本労農二千年史』『現代之人物観無遠慮に申上候』(これはおもしろい本。筆の立つ人である)、そのほか『近代回教史潮』と回教史にまで手を広げているが、一番得意なのは中国論で、『満州及支那辭典』は近年復刻されている(日本図書センター、2003年。ただし書名は『中国問題資料事典第一巻』)。その際、出版社が履歴を懸命に調べたがわからなかったという。人事興信録や著作権台帳にもない。出生地と没年さえわからない。
ともかくこの一冊の本が縁となって、夢二と河瀬の関係がぶり返す。長い外遊から病気で帰国したばかりで、台湾などへ行くのはよせ、と忠告する人もいたが、台北は日本本土より南だからかえって健康にいいかもしれぬ、と勧める者もあった。(つづく)
次回、夢二はいよいよ台湾へ出発します。
■夢二の世界■
PART 3 「KAWAIIの世界」(「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より)
52 コラム「“かわいい”恋人によせて ②笠井彦乃(かさいひこの)」
「俺はさみしいんだよ。そしてたったひとりのおまえがこんなに可愛いのだ。」(日記より 1917年(大正6)6月13日)
夢二と彦乃は、東京での人目を忍ぶ関係に終止符を打ち、この日記が書かれる5日前から、京都で一緒に暮らし始めました。
ここまでの道のりは長く、前年の11月に京都に赴いた夢二の後を、彦乃もすぐに追いかけたかったのですが、父親に知られないよう周到に計画を練る必要がありました。また画家を志していた彦乃にとって、この京都行きは絵画修行のためでもあり、女子美術学校時代の師や友を頼り準備を重ねていました。
そして苦労してようやく京都にたどり着いた彦乃が、肉親に手紙を書いたり所用をすませるため1人の時間を持ちたいことを、夢二は頭で理解しながらも、片時も離れたくありませんでした。
孤独でやりきれない気持ちを伝えるのと同時に、深い愛情をもって大切にしたい思いを強調して、夢二は日記の言葉を彦乃に告げました。
※笠井彦乃:1896年(明治29)~1920年(大正9)山梨生れ。1914年(大正3)に夢二と出会い、恋愛関係となる。他万喜の存在と自身の父親の強い反対に悩まされながら、「山」(彦乃)、「川」(夢二)の符号を用いて手紙を交わし、逢瀬を重ねる。京都で同棲を始めるが、病に倒れ引き離され、入院していた順天堂医院で23歳9か月の生涯を閉じる。
■夢二の言葉■(今回から、書かれたころの夢二の状態に関するコメントを加えました。)
●「高相利郎宛の手紙より(1933年(昭和8)2月1日)
私のようにあんまり女を甘やかしすぎた前例を、あなたはよく知っていましょう。
しかしあんまりほっておいてもいけないもので、いつも細心の注意を怠らず、そして大ように可愛がっておあげなさい。
☆この頃夢二はドイツ・ベルリンにいました。
※高相利郎:
●「長谷川賢宛の手紙より(1911年(明治44)1月4日)
然し彼女を自分のものにしようとは思っていない。
なぜなれば彼女と共にあることは彼女のために幸福な方法ではないかもしれぬということが考えられる。
☆この頃夢二は岸他万喜と同棲中でした。(1907年結婚、1909年離婚の仲でしたが)
●「日記より(1915年(大正4)4月6日)
私はあまりに女性の美を知りすぎる、また女性を愛し過ぎる。
あまり愛し過ぎるから妻として見ていることが出来ないのだ。
愛し過ぎるから憎いのだ。
☆この頃夢二は他万喜と同棲しつつ12歳若い笠井彦乃との愛にのめり込んでいきました。5月22日に二人は結ばれます。
■夢二の自論■
数々の冊子、書物に掲載された夢二の自論。夢二式の考え方、書きぶり、表現の面白さなどを楽しみましょう。
今回は、夢二の着物へのこだわりがよく分かる部分です。
1 女性論(『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房指新社)より) )
(2)「女の浴衣姿」(その2)(『中央公論』第二五巻第九号 1920年(大正9年)8月)
此頃の新聞に、四谷で馬子(まご)が馬を酷使した為、馬が憤慨してその馬子を噛殺した記事があった。最近には豚が子供の頭と手とを喰ってしまった記事もあった。近代人の不安と焦燥が、馬豚の類にまで及んだことを思うと、我々が学生の長い世紀の間の美の対照であった女のみが歌麿の時代の姿勢(ポー折々にズ)で立ち尽くしているとは思えない。
地方の娘は、古い風習から、性の概念から少しの愛の情操も持たずに、早く女になってしまうから問題の外として、都会の娘は、既に十三四歳になると、十分にはや性的コケットを表している。女の市価を知っている。近代の女の眼にはヒステリックな愛の強要ではあるが、静かな故知らぬ約束もなしに頬をつたう涙はない。あの理智の影のささない、訴えるような、憧れるような、久遠(くおん)の純真を持った夢二式の眼はもはや再び見るよしもない。掛茶屋の緋(ひ)の絨毯(じゅうたん)から片脚おろした春信の女のあのすんなりした蕨の新芽のような足は今はもう絶をたった。汗をかいた桜の花片のような踵を、電車の乗り降りに曾(かつ)て見たことがない。白魚に桜貝を散りばめたような指を持った女を見たことがない。羊のような柔軟性(フレキシビリティ)がその皮膚にない。
なんのことはない鐡道感謝の塀に咲いた、七月の夾竹桃(きょうちくとう)のように埃(ほこり)っぽくドライで赤いばかりだ。そりゃむろん路(みち)がわるいのだが、私は三年振りで東京へ帰った時、上野広小路で電車に乗れないでまごまごしていたら岡田八千代さんに逢った、岡田夫人はつま革のついた日和下駄をはいている、どうしてそんなものを穿くんですとあの好みの好い夫人にたずねたら、だって、この電車じゃ足袋をも下駄もおまけに足だってたまらないんですものとの事だった。
私が脱線して「女の浴衣姿」をすっかり否定してしまった事になったが、そんなつもりじゃなかったのです。今の呉服屋が悪く大工場で製造した均一物を売出そうと、女が神経の先端ばかりに電気仕掛けのコケットリーな愛のトリックを見せようと、従って、女の肉体の美しさが随分雑多な服装を要求しようと、ほんとうに美しい手織の中形を造る店も出ようし、着るに好い女もありましょう。何にせよ、このさわやかな簡素なキモノを改良しないようにしたいものだ。ただこの頃の洋風図案がどんなに日本の女――と言うよりは日本のキモノに不適当に図案されているかを考えておきたい。が前にも言ったようにそれは一般的な考え方で私にとっては、「浴衣姿の女」をただ「浴衣姿の女」として考えるゆとりがないだけです。まかり違えば女に食殺されるかもしれない私ですから。
※岡田夫人:(おかだ やちよ、1883年(明治16年)12月3日 - 1962年(昭和37年)2月10日)小説家、劇作家。劇作家である兄の小山内薫の影響で早くから文学に親しむ。明治35(1902)年『明星』に小説「めぐりあひ」を発表、翌年には『歌舞伎』に劇評を執筆。39(1906)年『明星』に戯曲の第一作「築島」を発表し、同年洋画家岡田三郎助と結婚。44年青鞜社に賛助員として参加し、大正12(1923)年には長谷川時雨と『女人芸術』を創刊。戦後では、昭和23(1948)年日本女流劇作家会を結成、会長となる。代表作に長編小説『新緑』(1907)、戯曲『黄楊の櫛』(1912)がある。
(サイト「近代日本人の肖像」より) https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6299/
※つま革:雨や泥などをよけるために、下駄などの爪先につけるおおい。爪掛け。
※日和下駄:差歯(さしば)下駄の一種。足駄といわれる高下駄よりも歯が低いもので、前者が雨天用なのに対して、日和下駄はその名のとおり晴天の日に履くものである。
■夢二情報■
●日比谷図書文化館で竹久 夢二の企画展を開催「龍星閣がつないだ夢二の心―「出版屋」から生まれた夢二ブームの原点―」(千代田区)
1 担当学芸員によるギャラリートーク各回約30分程度
・日時:1月13日(金)午後6時30分、1月21日(土)午後1時、2月4日(土)午後1時、2月10日(金)午後6時30分
・場所:日比谷図書文化館 1階特別展示室
2 企画展関連講座
(1)夢二が表現した“かわいい”と出会う ~龍星閣旧蔵竹久 夢二コレクションより~
・日時:1月21日(土曜日)午後2時
・会場:日比谷図書文化館4階 スタジオプラス
・講師:石川 桂子さん(竹久 夢二美術館学芸員)
・参加費:500円 (注意) 事前申込抽選制(定員40名)
申込はこちら⇒ https://www.edo-chiyoda.jp/tenji_koza_kodomotaikenkyoshitsu/koza_kodomotaikenkyoshitsu/205.html
令和4年度企画展「龍星閣がつないだ夢二の心~「出版屋」から生まれた夢二ブームの原点」/千代田区文化財サイト
(edo-chiyoda.jp)
●竹久夢二展特別イベント「緒川たまきさんトークショー」 1月8日 聴講者募集(Web「さがから」より)
2023年1月2日から佐賀市の県立美術館で開幕する新春特別展「竹久夢二展~佐賀で巡り合う大正浪漫の世界~」に関連し、竹久夢二をテーマにしたトークショーを開催します。参加無料、定員250人で聴講者を募集しています。
登壇者は、俳優の緒川たまきさんと竹久夢二研究家の安達敏昭さん。緒川さんは、芸名「たまき」を竹久夢二の妻の名からとっているほどの夢二ファン。トークショーでは、夢二と出会うきっかけやエピソード、好きな作品など夢二について熱く語っていただきます。
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/964506
●<竹久夢二展 大正ロマンへようこそ(1)>南枝早春(なんしそうしゅん) 着物に理想のデザイン(佐賀新聞より)
細くしなやかな体に、伏せた大きな瞳。竹久夢二(1884~1934年)が生み出した、はかなげな美人画のエッセンスが詰まった作品。夢二は、帯のデザインが見えるよう、後ろ姿も好んで描いた。
夢二の美人画は“夢二式”と呼ばれ、大正時代の美人の代名詞ともなった。1914(大正3)年、日本橋に誕生した「港屋」は、夢二が自らデザインした浴衣や半襟を売り出した。東京の名所となり、連日、若い女性たちでごった返した。さらに、夢二のデザインをまねて半襟に刺しゅうを施す人が現れ、街中は“夢二式”の女性たちであふれかえったという。
1916(大正5)年1月3日、夢二は日記にこう残している。「私は長い間かゝっても好いから あのひとといつしよにどこかへ行ける時にしめてゆく帯やキモノやその他のものを私の手で作りたいとおもふ」。京都への移住を機に港屋は閉じたものの、服飾デザインへの興味は尽きず、美人画の着物に理想のデザインを施していった。(福本真理)
◇ ◇
大正ロマンを象徴する詩人で画家の竹久夢二。新春特別展に並ぶ名品にまつわるエピソードを紹介します。全5回。
▼新春特別展「竹久夢二展」は2月12日まで、佐賀市の県立美術館で。開場時間は午前9時半~午後6時(最終入場は午後5時半まで)。
休館日は1月10、16、23、30、2月6日。
観覧料は一般1000円、中高生500円。小学生以下無料。佐賀新聞プランニング、電話0952(28)2151。
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