■メッセージ■
1月9日(月)、日比谷図書文化館の「龍星閣がつないだ夢二の心―「出版屋」から生まれた夢二ブームの原点―」に行ってきました。
展示会場は小ぶりながら、素晴しいレイアウトと夢二画の配置により、一気に夢二の世界に飛び込んでいく雰囲気。龍星閣は千代田区内にある出版社。夢二の没後、一時世間から忘れ去られたこともあったようですが、龍星閣の創業者・澤田伊四郎(さわたいしろう)氏が奮起して夢二の作品を精力的に集め、作品集として世に送り出しました。これが今まだ消えることのない夢二ブームへと繋がっているようです。創設者澤田氏の大きな写真に掲げられたメッセージは「夢二をやる。ブームにしてみせる。みてるがいい」――強烈なメッセージです。この言葉どおり、確かに竹久夢二の名は普及のものとなりました。多方面にわたる夢二の才覚を改めて見出した、ということなのでしょう。澤田伊四郎氏は、夢二ブームの中興の祖と言ってもいいかもしれません。
展覧会では、夢二の魅力をテーマ別に分けて展示。少ないながら、ひとつひとつの展示物の裏側に膨大な夢二の遺作が思い浮かびます。洋画家岡田三郎助の妻・八千代(小説家・劇作家)へのしみじみとした夢二の書簡の実物もありました。
会場で平町 允学芸員さんとお会いすることが出来、今月21日(土)の竹久夢二美術館・石川桂子学芸員の講演会への期待が大いに高まりました。
■竹久夢二の素顔■
●岩田専太郎(『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房指新社)の「竹久夢二の思い出」より)
(注)本文は、岩田専太郎が『三彩増刊 竹久夢二』(1969年(昭和44)(三彩社)に掲載したものです。
忙中の走り書き意をつくし得ないことをおゆるし下さい。
私が、はじめて夢二の名を知ったのは、小学生の頃でした。そこはかとない哀愁をただよわせたその絵が、幼い少年の心を捕えたのだと思います。夢二の絵が載っていることだけで多くの少年・少女雑誌を買いあさったのを覚えています。
小学校を卒業するとすぐ私は、家庭の都合で東京の地を去り京都へ移りました。その頃長田幹彦氏の祇園をあつかった小説の単行本が幾つか出版され夢二がその装幀をしています。木版刷りの美しい本でした。その何冊かを買ったのも、舞妓を描いた夢二の絵がほしかったからでした。
はじめて夢二の姿を見たのもその頃でした。――会ったというより見たというのが正しいでしょう。
それは、岡崎の京都図書館で夢二の個展が開かれた時でした。その頃の私はまだ画家になる気はなかったのですが、好きな絵が見られるというだけで、それを観に行ったと思います。
なぜか、会場には人影がまばらでしたが、画壇のこととか、夢二の人気とかには、関心のない少年のことですから、気にもならなかったようです。心ゆくまで絵を楽しんだ後、会場のそとへ出ました。
図書館のまわりには芝生がありました。その裏口に近い場所に、黒い背広を着た顔色のさえない男の人が、立てた膝の上に顎をうずめるようにして座っていたのです。白い壁をバックに細い木立もあったと思います。
その人を見た瞬間、それが夢二だと思ったのは、なぜか判りません。遠い所をみつめているような悲しげな眼差しと、今にも消えてしまいそうなそのポーズとに、そのまま夢二の絵を感じたのかも知れません。しばらく私が立ちどまっている間、その人は身動きもしませんでした。
――夢二に会えた――勝手にそうきめた私は、心おどる思いで家路につきました。
夢二に会って言葉を交わしたのは、その数年後、私が東京へ帰り挿絵の仕事をするようになってからニ十歳をすぎた頃でした。雑誌社の応接室で編集の人に紹介されたその人は、少年の日見たのと同じ人でした。やはり黒い背広を着て憂鬱な表情をしていました。いうまでもなく私は、京都のことも、少年の頃からその絵の愛好者だったことも、口にしませんでした。が、思いがけず自分が、その人と同じようにマスコミの仕事に従事するようになった十年近くの歳月の間、一時期を風靡し、女性関係その他プライベートに関しても、いろいろ噂の多かったことを知らなかったのではありません。
また、十年近くの時が流れ去り、私が挿絵の仕事に追われ続けるようになった或る年の正月のことでした。人目をさけたい事情があって、わざと暖い湘南の地をさけ寒い伊香保の宿に数日を送った時、宿帳には偽名を書いてあったのにかかわらず、画帖へ何か描くことを求められました。気のすすまぬまま炬燵の上でその画帖を開き、一枚一枚めくってゆくうち、思いもよらず、そこに「夢」の署名のある絵を見出しました。
広々と広がる枯野原に、黒い背広に黒いソフトの痩せた男が立ち、遠く汽車の煙らしいうす墨が流れていました。
――倖せは吾がかたわらを過ぎゆきぬ、のりおくれたる列車にも似て――
余白にかかれたその文字が、私の背筋にさむざむとした思いを走らせたのは、その頃の伊香保の宿に暖房設備がなかったせいばかりではありませんでした。盛衰の劇しいマスコミの流れから、死後時がすぎての盛名とうらはらに、一ツ時、夢二の名が忘れるともなく忘れられていたからです――海外旅行のあと、富士見高原に独り病をやしなっていると、人の噂に聞いてはいましたが――
二・二六事件の起こるすこし前、世の中が騒然としていた頃のことでした……
※岩田専太郎:1901年(明治34)6月8日 - 1974年2月19日。日本の画家、美術考証家。1901年6月8日、東京市浅草区黒船町(現在の東京都台東区寿)に生まれ、小学校卒業後、菊池契月、伊東深水に師事。1919年(大正8)、十代後半から『講談雑誌』(博文館)で挿絵を発表。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で被災し、大阪に転居。中山太陽堂の経営する広告出版社プラトン社の専属画家となる。同年創刊の『女性』(小山内薫編集)、翌年創刊の『苦楽』(直木三十五、川口松太郎ら編集)で、永井荷風らの連載小説の挿絵を描く。岩田専太郎、志村立美と小林秀恒は、挿絵界の「三羽烏」。1926年(大正15)に東京に戻り、同市滝野川区田端476番地(現在の北区田端)に転居する。この界隈は「田端文士村」と呼ばれた町で、すぐ後には隣に川口松太郎が引っ越してきている。同年『大阪毎日新聞』に吉川英治が連載した『鳴門秘帖』に挿絵を描いて評判を呼び、「モダン浮世絵」と呼ばれた。1937年(昭和12)、映画監督山中貞雄の遺作となった四代目河原崎長十郎主演の映画『人情紙風船』(P.C.L.映画作品)の美術考証を手がけた縁で、1939年(昭和14)、山中の遺した原案をもとに梶原金八が脚本を書き、河原崎が主演し、山中の助監督だった萩原遼が監督した映画『その前夜』(東宝映画京都撮影所作品)の美術考証を手がける。1954年(昭和29)、表紙絵及び挿絵が評価され、第2回菊池寛賞を受賞。1974年(昭和49)2月19日に死去。享年72歳。妹は女優の湊明子。(wikipediaより)
※「第1回夢二作品展覧会」…1912年(大正元年)11月23日~12月2日)に京都府立図書館で開催。
※二・二六事件:1936年(昭和11)2月26日から29日にかけて、陸軍の青年将校らが起こしたクーデター事件。 陸軍の「皇道派」に属する青年将校らが、東京の近衛歩兵第3連隊などの部隊を率い、首相官邸や政府要人宅を襲撃した。夢二は1934年に逝去している。
■夢二の台湾旅行関係資料の紹介
●第1回 『夢二 異国への旅』(袖井林二郎著、ミネルヴァ書房)のうち「補章 行かなきゃよかった台北へ」(その2)」
1933年10月24日、神戸を発った大和丸は26日昼過ぎ、基隆(キールン)港の外に着いた。遠浅の港を秋雨が覆っている。基隆は別名「雨港」といい、日本本土の4倍も雨が降ることを誰も教えてくれなかった。
夢二は基隆入港の際、ナチスから追われて帰国したといわれるが、と問う新聞記者に次のように語っている。
私はナチスから追はれたと云ふことはありません。例のユダヤ人の排斥で技術、芸術家のユダヤ人が人種的迫害を受けた結果、ドイツの技術も見込がなくなったので帰つてきました。日本人排斥と云ふことなどありませんが、事実をゆがめて通信をやつたと云ふのでこうした目にあった例があるそうです。
ユダヤ人には技術、芸術家など頭のよいのが沢山おりますが、これらは漸次迫害されて国外退去をしてゐますけれど、例外として金融資本家のユダヤ人はなんら排斥を受けていないのは資本主義時代の一つの矛盾を示している様です。西洋人の複雑した感情はどうも私共にはよくわかりません。ナチスの芸術は今後だんだん希薄になつて行きますが、美術は彼等の生活に大した影響はなくとも、音楽が聞けなくなると云ふことは一番の苦しみだらうと思ひます。(『臺灣日日新報』)
私が1998年11月4日付の『毎日新聞』夕刊に、夢二訪台の事実を詳しく公にしたとき、彼の発言に続けて「夢二が反ナチ・レジスタンスの活動家だったという気配はこの発言からはまったく伺えない」とコメントしたことについて、関谷定夫(西南学院大学名誉教授)は、これを夢二はベルリンでユダヤ人救済活動に参加していたことなどなかったという見解だと曲解し、「それは夢二をスーパーマン扱いして新しい神話をつくろうとすることにほかならないと言っている。この解釈は、彼の独断に過ぎない」(関谷定夫『竹久夢二――精神の遍歴』東洋書林、2000年)と難詰しているが、藤林取材のノットマイヤー談によれば夢二の活動はベルリンにとどまらないというし、それに私が詳しく述べたように、それ以外でも動きはすでにスーパーマン並みである。関谷教授が確たる根拠もなく人を批判することは、それこそ独断的な解釈にすぎない。要するに、彼もそして藤林も、第二の「センポ・スギハラ」か日本産の「シンドラー」が、どうしてもほしいのであろう。
上陸してから台北市内まで汽車で1時間、翌日ホテルで自分とのインタビューが載った『臺灣日日新報』(10月27日付)を見ると、「臺灣展審査員として来臺した藤島武二氏は二十六日夜行にて臺北発、二十九日臺南を一巡し帰北の筈」とある。藤島武二は日本を代表する画家であり、夢二にとっても師と呼べる数少ない人であった。「夢二」という名前にしてからが「武二」から取ったものだ。
夢二との同行は河瀬ただ一人。河瀬自身がマネージャーなのであった。河瀬は「東方文化協会」を主宰し、新たに台湾支部を設立する記念事業として、講演会と「竹久夢二画伯滞欧作品展」を開こうというのである。11月1日に発会式があったが、詳細は略す。個展は3日からわずか3日間。会場は明石町の警察会館。そのような場所を借りるにはかなりの政治力が必要だが、一方、「私たち台湾人には行きにくい所でしたよ」と私と同じ世代の日本語をしゃべる台湾人画商が語ってくれた。(つづく)
※基隆の雨:基隆は非常に雨の多いところで、別名、「雨港」と呼ばれ、降水量は年間3700ミリを超える。さらに、単純に降水量が多いだけでなく、雨天日数も非常に多い。年平均の降雨日数が206日ということは、1年間の半分以上は雨となっている。基隆は台湾の東北部に位置していて、東北の季節風の影響を強く受け、特に10月~3月にかけて風力が強く、基隆エリアに冬の長雨をもたらす大きな原因の1つとなっている。(ロングステイサイト「台湾再び」より)
※ドイツでの夢二:1933年(昭和8年)1月、ヒトラーが首相となったが、夢二は同年2月ごろから画学校「イッテンシューレ」で日本語教室を開始した。しかし、学生の多くがユダヤ人だったことで授業が不振となり、6月26日に辞任したが、その翌日ナチスが学校を襲撃した。
※臺灣日日新報:第4代台湾総督児玉源太郎下で民政長官を務めた後藤新平が旧知の守屋善兵衛に指示して対立する『台湾新報』と『台湾日報』の両紙の買収をさせ、台湾の実業家賀田金三郎の仲介と出資を経て1898年(明治31年)5月1日に創刊した。同紙は総督府の支援を受け、日本統治時代の台湾で最大の新聞としての地位を確立し、『台湾新聞』や『台南新報』とともに三大新聞と呼ばれた。最盛期の発行部数は5万部を記録し、総計1万5800号あまりを発行した。1901年(明治34年)11月からは8面のうち2ページを中国語版とし、1905年(明治38年)7月からは、『漢文台湾日日新報』の名で4ページの独立した新聞を発行した。しかし、1911年(明治44年)には財政困難の理由により、日本語版の中に2ページの中国語版を付す姿に戻された。この中国語版も1937年(昭和12年)4月には、総督府の「皇民化」政策により廃止されることになった。その後、太平洋戦争の激化に伴う戦時報道統制により、1944年4月1日に総督府がこの当時の他の主要日刊紙5紙と統合させ、『台湾新報』(新)とした。この『台湾新報』(新)は、戦時下の厳しい紙事情にかかわらず、発行部数16万7000部であった。太平洋戦争での日本の敗戦後は『台湾新報』(新)は国民政府により接収され、『台湾新生報(中国語版)』と改称された。(wikipediaより)
※藤林:映画監督藤林信治氏のこと。夢二が当時ユダヤ人救出の地下活動に協力したという情報をドイツで得た。本件の周辺参考文章:「このドイツでの夢二の芸術活動を支えたのは、当時のベルリン日本大使館商務官事務所(現在の通産省の出先機関)の今井茂郎らとされていますが、夢二は、英語もドイツ語も、あまりできませんでした。その夢二が、ベルリン時代の日記に、ナチスへの嫌悪とユダヤ人への同情を記したことは知られていましたが、1985年に、映画監督の故藤林伸治さんが、夢二が当時ユダヤ人救出の地下活動に協力したという情報を、ドイツで得てきました。『朝日新聞』1994年9月19日夕刊等によると、当時夢二は、師ヨハネス・イッテンの影響もあり、ナチスの政権奪取で始まったユダヤ人迫害に憤り、プロテスタント教会の牧師たちに協力して、ユダヤ人の国外脱出や貴重品運搬を助けたというのです。日本人は、この頃自由にヨーロッパ内を行き来できたからです。後にこの点は、NHK岡山放送局が藤林情報を後追いし、スイス・チューリッヒに亡命したイッテン夫人の証言をも得ています。故藤林伸治さんの集めた関連資料は、昨98年秋、法政大学大原社会問題研究所に寄贈されました。」(一橋大学加藤哲郎教授のウェブサイトより) http://netizen.html.xdomain.jp/yumeji.html
※「センポ・スギハラ」:杉原 千畝(すぎはら ちうね)のこと。1900年〈明治33年〉1月1日 - 1986年〈昭和61年〉7月31日)。中学校入学までは税務官吏である父親の異動のために各地を転々とし、父親の単身赴任後は愛知県名古屋市に住んで、旧名古屋古渡尋常小学校と旧第五中学校に通い、卒業後に上京して早稲田大学高等師範部英語科(現・教育学部英語英文学科)に通ったが、外務省留学生試験合格のために本科中退した。第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原は、ドイツの迫害によりポーランドなど欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。1940年7月から8月にかけて、外務省からの訓令に反して大量のビザ(通過査証)を発給し、避難民を救ったことで知られる。その避難民の多くがユダヤ人系であった。「東洋のシンドラー」などとも呼ばれる。彼が残した「大したことをしたわけではない。当然のことをしただけです。」という言葉は、有名である。(wikipediaより)
※「シンドラー」:オスカー・シンドラー(Oskar Schindler)のこと。1908年4月28日 - 1974年10月9日。メーレン(当時オーストリア領、現チェコ領)生まれのズデーテン・ドイツ人の実業家。第二次世界大戦中、ドイツにより強制収容所に収容されていたユダヤ人のうち、自身のエナメル工場で雇用していた1,200人を虐殺から救った。(wikipediaより)
※藤島武二に関する記事(『台湾日日新報』):藤島武二は10月26日の夜行で台南に向かうと書かれているが、当時の時刻表によれば、夜行列車の第3列車(第1列車は基隆発高雄行の朝発、第2列車は高雄発基隆行の朝発列車)は基隆を21時48分に出発し、台北に22時23分に到着。台北で7分間停車している。(中略)台南到着は翌日7時11分、高雄到着は8時8分とのこと。所要時間は10時間20分となっている。(片倉佳史著『台湾鉄路と日本人』交通新聞社新書P.165-166より)
※発会式の模様:「東方文化協会臺灣支部の盛大な發會式は昨夜大稲埕蓬莱で挙行されたが、本部。。。。が出席、先づ川瀬理事長より。。。旨を述べ、次いで数項決議を成し終わって午後五時過ぎより祝賀縁を開き盛會裡に午後八時散會したが。。。(後略)」(『臺灣日日新聞』)
※明石町の警察会館:台北駅近くの南陽街に警察会館があった。明石町の町名は台湾総督の明石元二郎に由来。現在はドラッグストアをメインとした小規模店の雑居ビルとなっている。
※明石元二郎:1864年~1919年。福岡・大名町で生まれ、陸軍の幼年学校、士官学校、陸軍大学校を経て情報将校となり、ヨーロッパにおいて対ロシア諜報活動を行い、日露戦争における日本の勝利に貢献した。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げた」と称えたと伝えられる。1918年(大正7)に就任した第7代台湾総督。総督府高官を前にした最初の訓示で「台湾を内地同様の状態にすることを目指せ」と命じ、地方官会議では「産業と貿易を振興し、台湾を繁栄させなくてはならない」「内地人と本島人の相互協和を図り、母国と人心を同じくさせるのが統治の主要な目的」と訓示した。さらに明石は「本島人を等しく教育できるようにすべき」「世界における人文の発達に本島人を順応させる」などと総督府部下に命じた。まず教育改革に取り組み、公学校官制改正、師範学校官制、医学専門学校官制などの台湾教育令を公布している。明石の台湾統治方針は「300万人ともいわれる台湾の本島人をどこまでも日本人として受け入れ、日本人の中に繰り込んで、本来の日本人と見分けもつかず、差別もない人々にする」というものであった。
また、明石は、台湾中部の日月潭に大きな発電所を建設し台湾電力株式会社を設立したが、1919年(大正8)、インフルエンザから肺炎を誘発した明石は福岡に戻り療養したが、10月24日朝に逝去した。享年56歳。
明石は日頃から家族や部下に「台湾に入ったら台湾のものを食べ、台湾で尋常な生活をすべきだ。もし死んだなら、台湾に埋葬せよ」と話していたという。そしてその希望の通りに遺体は、日本から台湾に運ばれ11月3日、荘厳な葬式の後、台北の三板橋日本人墓地に埋葬され、台湾の土になった。統治者が、その統治下にあった地を永眠の場所に選ぶということは、歴史上類を見ないことである。
この三板橋日本人墓地は、大東亜戦争後、大陸から怒濤のごとく押し寄せてきた難民達によって占領されたが、昭和62年(1987)、台北市の都市計画でこの日本人墓地が公園に開発されることになり、避難民たちは強制撤去。日本人の墓は掘り起こされ、遺骨は全て台中の寺院に預けられたが、明石の遺骨だけは台北近くの寺院にしばらく預けられ、縁あって台北県三芝郷の福音山クリスチャン墓地に埋葬されることになった。(「日華(台)親善友好慰霊訪問団」結団式の文章より)
▼森林公園内にある明石元二郎総督の墓地に立っていた鳥居。
小ぶりな鳥居は、乃木希典(第3代台湾総督)の母親・乃木寿子の墓に立っていた鳥居。
(2017年撮影)
■夢二の世界■
PART 3 「KAWAIIの世界」(「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より)
53 コラム「“かわいい”恋人によせて ③佐々木カ子ヨ(お葉)」
「ゆうべおまえの日記を見てかわゆくて泣かされた。好い子だからおとなしくしといで。」(お葉宛の手紙より (1920年(大正9)4月10日消印)
お葉が夢二に出会ったのは15歳の時でした。最初はモデルと画家の関係でしたが、お葉は夢二との結婚を望み、夢二にもしだいに恋愛感情が生じてきました。
この手紙はお葉の誕生日に送られました。夢二は20歳年下のお葉が書く日記を読み、無邪気なあどけなさを微笑ましく感じたようです。この日はお葉のところにお祝いに行く予定でしたが夢二の都合で叶わず、弁解とご機嫌をとるような文章が全体にしたためられました。お葉ははるかに年上の夢二を「パパ」と呼び、夢二も父親の目線で接するような時もありましたが、お葉は夢二の振る舞いに不満を抱くことが多く、家出を繰り返しました。
1925年(大正14)、夢二が作家・山田順子(ゆきこ)との旅行で家を空けたことをきっかけに、お葉は夢二の許を去りました。
※佐々木カ子ヨ(お葉):1904年(明治37)~1980年(昭和55)秋田生れ。10代のはじめよりモデルを務め、洋画家・藤島武二、縛り絵で知られる伊藤晴雨の作品にも描かれた。1919年(大正8)にモデルとして夢二の許に通い“お葉”と呼ばれ、「夢二式」の装いや振る舞いを観につけさせられる。その姿は“夢二の絵から抜け出てきた女性”のようだったと、川端康成をはじめ大勢から賞讃された。
■夢二の言葉■(☆は書かれたころの夢二の状態等の記載です。)
●「日記より(1916年(大正5)1月5日)
二人は世の常の人のごとく結婚できる境遇でもないし、またくだらぬ結婚という形式で愛をつなぐことの愚をも知っている。
☆夢二と彦乃は前年初冬の1915年11月22日にニコライ堂で愛を誓いました。彦乃には許婚者がおり、父の笠井宗重は二人の結婚に猛反対でした。
●「日記より(1918年(大正7)12月25日)
いかに、結婚すべきかではない、いかに暮すかだ。
いかに金を得るべきかよりも いかに費すべきか。
☆京都から父・宗重によって東京に連れ戻された彦乃は、この年の11月26日に御茶ノ水の順天堂医院に入院しました。面会謝絶とされた夢二は、この年の12月末に名作「黒船屋」を完成させています。その絵を見ると、夢二の心にあったモデルが彦乃だということがよく分かります。(「黒船屋」は1919年(大正8)作と一般的に言われていますが、正確にはその前年末です。)
(編者注)笠井彦乃は1920年(大正9)1月16日に逝去しました。まもなく祥月命日です。夢二の誕生日が1884年(明治17)9月16日で同じ“16日”なのは不思議な縁です。夢二もそれを日記に書いています。
■夢二の自論■(今回はお休みします。)
■夢二情報■
●日比谷図書文化館で竹久 夢二の企画展を開催「龍星閣がつないだ夢二の心―「出版屋」から生まれた夢二ブームの原点―」(千代田区)
1 担当学芸員によるギャラリートーク各回約30分程度
・日時:1月13日(金)午後6時30分、1月21日(土)午後1時、2月4日(土)午後1時、2月10日(金)午後6時30分
・場所:日比谷図書文化館 1階特別展示室
2 企画展関連講座
(1)夢二が表現した“かわいい”と出会う ~龍星閣旧蔵竹久 夢二コレクションより~
・日時:1月21日(土曜日)午後2時
・会場:日比谷図書文化館4階 スタジオプラス
・講師:石川 桂子さん(竹久 夢二美術館学芸員)
・参加費:500円 (注意) 事前申込抽選制(定員40名)
申込はこちら⇒ https://www.edo-chiyoda.jp/tenji_koza_kodomotaikenkyoshitsu/koza_kodomotaikenkyoshitsu/205.html
令和4年度企画展「龍星閣がつないだ夢二の心~「出版屋」から生まれた夢二ブームの原点」/千代田区文化財サイト
(edo-chiyoda.jp)
●「大正ロマン」竹久夢二の作品展 佐賀県立美術館(1月13日12時03分「NHK NEWS WEB」
https://www3.nhk.or.jp/lnews/saga/20230113/5080013620.html
大正ロマンを代表し美人画で知られる画家、竹久夢二の作品展が佐賀市の県立美術館で開かれています。
竹久夢二は憂いを含んだ愛らしい瞳を描いた美人画で知られる明治から昭和にかけて活躍した画家で、県立美術館で開かれている作品展には250点あまりが公開されています。
このうち「南枝早春」という日本画は昭和初期の作品で女性の後ろ姿を描くという日本画の伝統を踏襲しつつ、モデルの着物や帯の柄は夢二が自分でデザインしたのが特徴です。
また「ノスタルジア」という油彩画は若い頃から憧れていたアメリカやヨーロッパに渡航したものの、戦争へと世論が傾く中で思うように絵が評価されず、夢二の失意の気持ちが女性の表情に表れています。
このほか、子ども向けに日本の昔話や西洋の童話を題材にしたすごろくなども展示され、訪れた人たちは当時の最先端の西洋画の手法を日本画に取り入れた作風を楽しんでいました。
展示会を担当した藤井庸平さんは「有名な美人画だけでなく、子ども向けの絵画など夢二のいろんな種類の作品が集まっているので、ぜひ多くの人に見てもらいたい」と話していました。
この展示会は来月12日まで佐賀市の県立美術館で開かれています。
●<プレゼント>竹久夢二展グッズ 来場記念で パンフレットなど23人に(佐賀新聞)
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/974536
佐賀新聞社は、県立美術館で開催中の新春特別展「竹久夢二展」の来場記念として、特別展のパンフレットやオリジナルステッカーなど展覧会グッズを30人にプレゼントする。
展覧会は、大正浪漫を象徴する叙情画家竹久夢二の足跡を作品とともに紹介。華やかな美人画、生涯を振り返ったかのような晩年の名品など200点超を展示している。会期は2月12日まで。
プレゼント企画では、特別展のパンフレットが10人、オリジナルステッカー6枚1組が10人、短冊(1枚)が5人、卓上カレンダーが5人に当たる。このうちパンフレット3冊には、8日に展覧会特別企画としてトークショーを行った女優の緒川たまきさんのサインが入る。
当せん品は事務局が抽選で決定し、発送をもって代える。希望者は郵便番号・住所・氏名・年齢・電話番号・展覧会の感想を明記し、はがきかファクスで応募する。会場設置の用紙でも申し込み可能。締め切りは1月31日。宛先は〒840―0815 佐賀市天神3―2―23 佐賀新聞プランニング「竹久夢二展」係、ファクス0952(29)4709。
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