※創刊号(2021.8.8)~第37号(2022.4.10)はこちらをご覧ください。⇒ https://yumejitotaiwan.exblog.jp

 

■メッセージ■

121日(土)、日比谷図書文化館の「龍星閣がつないだ夢二の心「出版屋」から生まれた夢二ブームの原点」で竹久夢二美術館学芸員・石川桂子さんの講演会「夢二が表現した“かわいい”と出会う ~龍星閣旧蔵竹久 夢二コレクションより~」に行ってきました。いまも「週報」で連載している「KAWAIIの世界」(「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より)の総集編といったところ。展覧会の展示資料に竹久夢二美術館の資料を加え、とても分かりやすく、興味を益々深める内容でした。応募者が多く、聴講者は定員オーバーとなるほどの人気で、講演時間はあっという間に過ぎ、1回では惜しい!と痛切に感じました。聴講後また展示場で講義内容を確かめている人も見られました。講演会前に行われたギャラリートークも展示場に聴衆があふれ、説明員の移動が不自由になるほど。終了後にもう一周ゆっくり鑑賞している人が多くみられました。
展覧会の会期は
2月末まで。ブック・カフェも併設されていて居心地満点。まだあと何回かは行ってみたいです。そういえば、図書文化館の入り口前でセグロセキレイが迎えてくれました。夢二も鳥が好きだったことを思い出しました。

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また、3日前の118日(水)には、「夢二と台湾2023」講演会の制作陣がひそかに?神楽坂に集結。ここは夢二が大正3年頃恋した芸子を慕って通ったというところ。大正ロマンの詰まったレストラン「神楽坂 夢二」で、オリジナル懐石料理で立ち上がり式を実施しました。お店のご厚意で作っていただいた記念デザートもいただき、これから8か月弱の道のりを講演と夢二動画制作に取り組んでいきます。ちなみに完成予定は夢二の誕生日である916日。大家加油!(みんな頑張れ!)

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■ビジュアル夢二ブログ「夢二と台湾」がスタート!
「夢二と台湾」講演会制作立ち上がりを記念して、ビジュアル夢二ブログ「夢二と台湾」がスタートしました。“ワンポイント夢二”“夢二トピックス”など、夢二を楽しめる内容をアップしていきます。ご期待ください。
https://jasmineproject.amebaownd.com/

 

★誠に恐縮ですが、掲載内容の増加により本ブログのテキスト許容量がひっ迫しているため、「■夢二の自論■」は当分の間お休みさせていただきます。

 

■竹久夢二の素顔■

●吉屋信子(1)(『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房指新社)の「竹久夢二の思い出」より)

(注)本文は、吉屋信子が『私の見た人』(1963年(昭和38)(朝日新聞社)に掲載したものです。

宵待草

……待てど暮らせど来ぬ人を……宵待草のやるせなさ……。竹久夢二(本名茂二郎)がその郷里岡山の旭川の川原に咲く月見草をながめての詩はいまもうたわれている。

竹久夢二描く絵は少女のころの私に甘露のごとき抒情の滋味(じみ)を与えた。夢二の絵に夢見心地になったひとは私ばかりではないはずだ。

雑誌<少女の友>に連載される夢二の<露子と武坊>の絵物語を私は毎月待ちかねた。絵に添えられるその文章も匂うように私を魅惑した。三色版の口絵も夢二のが多かった。角兵衛獅子の少年が夕空に富士の浮ぶ道を歩く姿。巡礼姿の少女が秋草のかたわらの石に腰かけてうつむく笠の下の可憐な顔……曲馬団の哀しきピエロと玉乗りの少女。私はいつまでも食い入るようにそれを見入った。

<女学世界>の口絵やさし絵は若い女の姿だった。顔の半分が目のような大きな大きな目。その手がまたばかに大きい。この人体のアンバランスの描き方が不思議な魅力を備えていた。これが夢二式美女として全国的にたくさんの陶酔者を持った。

ある時の口絵に珍しく風景の水彩画が出た。それは奈良の郊外のくずれかかった築地のほとりに群がり作葉鶏頭だった。そのほのさびしい古都の片すみの風物の美しさに夢二特有の抒情が満ちあふれていた。そして文章が添えてあった。……。「ぼくがこの写生をしていると時雨が降った。絵の具がにじむと困ると思うと、うしろからそっと傘をさしかける手があった。振返るとそれは袴姿の奈良女子高師の生徒だった」……

その傘をさしかけた女高師生もさぞ美しい人かと想像したが、あるいはそれは夢二御幻想のフィクションだったかも知れない。

夢二は抒情画家でそして詩人で歌人だった。歌集<昼夜帯>を刊行している。また時には絵の傍に即興の俳句さえ添えた。洗い髪を櫛巻きにした下町風の美女がしなやかに両手をあげて簾(すだれ)を巻き上げる姿態を描いた傍に――たをやめの巻けばかなしき青簾――少女の私にはそれが世にもすばらしい句に思えてひどく感動してしまった。

夢二式の大きな目に憂愁をたたえた美女は近代的の浮世絵だった。そこにあふれる抒情と感傷、そしてデカダンの日本的情緒の匂いもこもって、若い世代のひとを引きずやまなかった。

その竹久夢二が<私の見た人>となったのは大正四年の夏のある日だった。

夢二はそのころ、呉服橋外に<港屋>という小さな店舗を開き、自作の版画、千代紙、絵入り巻紙と封筒、夢二図案の半衿などを売っていた。だが私はそれを買いに行ったのではない。と言って夢二先生のお顔をひとめ拝みたいというファン心理でもなかった。

目的は店主の夢二にでなく、夢二がそのころ、婦人之友社発行の<新少女>という少女雑誌の絵画主任を勤めていたので、私はある大望を抱いた。<新少女>に採用されたら夢二にさし絵を描いてもらってと、まったくとほうもないそれこそ夢見る娘だった。というのも私は女学校に居た時に<少女世界>への投書から抜擢されて短編の少女小説を掲載されたこともあり、勝手な自信を持っていたのだった。

その少女雑誌の投書時代から東京の女学校の投書家たちと文通していた。そのひとたちと東京へ出ると会っていた。その文学少女グループのニ、三人は夢二を知っていた。港屋で買物のお顧客さまだった。その友だちが夢二経営の港屋へ私を連れて行くという。私はその友だちに大望を打明けず、ともかくいちど夢二を見てから考えることとして付いて行ったのは、とても暑い夏の日だった。(つづく)

▼港屋繪草紙店の大きな提灯と岸他万喜
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■夢二の台湾旅行関係資料の紹介

●第1回 『夢二 異国への旅』(袖井林二郎著、ミネルヴァ書房)のうち「補章 行かなきゃよかった台北へ」(その3)

・失せた全出品作品

113日オープンの夜、東方文化協会台湾室設立の記念事業として講演会が台北市内の臺灣医専講堂で開かれた。開会の挨拶に立った尾崎秀真(ほづま)は『臺灣日日新報』(『臺日』)主筆で、ご当地新聞界の第一人者。のちにゾルゲ・スパイ事件で死刑となる尾崎秀実(ほづみ)の父である。夢二がソーテルで親交を結んだ沖縄出身の画家・宮崎與徳(よとく)も、これより少し前にこのスパイ団に参加するため、半ば公然と日本に入国していた。もちろん尾崎も夢二もスパイ工作のことは知らない。尾崎の司会に続いて、夢二がお定まりの『東西女雑感』を一席述べたあと、河瀬は『東方文明の時代』をぶった。

「竹久夢二画伯滞欧作品展覧会」の出品作は54点といわれる。滞欧作品『海浜』『女』『旅人』等の他、枕屏風『春夢幻想』『榛名山秋色』の近作、さらに有島生馬との合作で四尺二枚折屏風『舞姫』があった。帰国早々の夢二に、これだけの作品は描けるはずがないから、ほうぼうからかき集めたのであろう。会場の写真が1枚『臺日』に載っているが、目を光らせてこちらを見ている夢二は、とても次の年の秋に死ぬ人間には見えない。夢二の右側に立つ頭を剃り上げた男は河瀬かもしれない。写真の左側に映っている女の顔など三点の洋画は、その抽象性からして、ヒトラーなら「退廃芸術」と呼びかねない。

尾崎の力によるものか、『臺日』に批評が載った。『夢二の繪』と題するもので――

 

久々で竹久夢二君の繪を観る。時代の潮に姿を没したかに思はれてはゐたが、此の畫家が持つ昔ながらの「人間情熱」は、まだ作品の上にまざまざと活きている。否或る點で一部洗鍛され老熟して来たかの観もあり、相當に面白く観られた。油絵は柄でないようだ。多くの日本畫的手法による半折の美人畫には、藝術作品として卓抜さがドレ程あるかは疑問としても、人間の持つ情熱を描き出さんとして愈々刻苦してゐる夢二張りの長所は十分に認められる。

 「萬里脚」などは小品ながら佳い。風景を畫いても此畫家は自分の情熱を畫面にさらけ出して楽しんでゐるといふ形ちだ。「榛名山風物」その他数作なぞはソレで相當に書けて来た書のうま味と共に南畫的情趣の世界を別に展開して来た。そして俳畫境にも一展開を見せてゐる。鋭い天分で藝術界を一貫する工作は無いとしても、情熱の動きをコレほど如實に傳へて呉る畫家も然う多くは無いといふところに、夢二君の存在価値は依然として認めてよいと思ふ。(鷗汀)

 

なかなか好意的な批評である。だが最終日に載ったのではどれほど効果があったことか。『臺日』の催し物欄には、会期が終わったあとも二日ほど夢二の作品展の知らせが載っていた。だいたい台湾の日本画壇は石川欽一郎の影響力が圧倒的に強く、夢二などはそれこそ「夢二、是誰?(モンアール、シースー?)」ということになりかねない。当然にあまり売れなかっただろう。売れないどころか夢二の言い分では、悪い画商にだまされて54点すべてを取り上げられ、手ブラで日本へ帰ったという。警察会館を舞台に大型詐欺を働くとは、誰にしろ太い奴である。河瀬は著書も多く、ある種の著名人だからまさか彼がやったのではあるまい。

夢二は、812日のベルリン以来、日記がない(失われたのであろう)。それが台湾から帰った直後の1122日に、こう書いている。

「台北で一つの収穫があった。錦水といふ琵琶師がここでまねぢあに一杯食わされて帰ったという話。あの商人でさへ騙されることがあるのをせめてなぐさめとしやう。ゆふべ隣の静山が来て、「北米では男泣きに泣きましたよ」と言ったのは山県に数百金ナメラレタらしい口ぶりである。その話をたつ前に聞いておきたかった!」

ここには河瀬の河の字も出てこないし、後世の人を誤らせるエピソードが書いてある。関谷定夫は「袖井は、夢二を連れていって個展のマネージャー役をした河瀬なる人物が、この個展の成り行きや作品の売れ行きなどとどのような関係を有したのかいっさい触れていない。われわれのいちばん知りたいのは、なぜ夢二が一文の売上金ももらえず、手ぶらで帰ってきたのかということであるが、袖井はその理由をまったく述べていない」という。だが、それこそ私の知りたいところである。それに私は河瀬のマネージャーではない。

おそらくことのありようは、絵は少しは売れたものの、その分け前を巡って、どちらも金がほしくてたまらない夢二と河瀬の間にいさかいが生じ、夢二のほうが尻をまくったのだろう。独断といわばいえである。私はこういうときの夢二を哀れに思い、もう少し大人になれなかったのかと悲しい。しかしそれが夢二なのである。それまで調べたかぎりでは、出品作品は台湾では一点も見つからないし、日本へ戻った作品も(あるとしても)確認できない。(つづく)
(編者注)このブログでは『夢二 異国への旅』(袖井林二郎著、ミネルヴァ書房)の一部を紹介していますが、夢二の心理推測などは米欧旅行中の夢二の行動などを基にしているところが多分にあるため、理解を深くするためには、同書をすべて購読されることをお勧めします。

※講演会が開催された場所:大正11年(1922)に改称された「台湾総督府台北医学専門学校」であり、これは「台湾医専」(「台北医専」という説もあり)と呼ばれる台北市東門町にあり、建物は現在の台湾大医学院2号館で、ここには講堂があったようです。

※ソーテル:1920年ころから日系人が移住したロサンゼルスの町。「リトルオーサカ」とも呼ばれた。当時から続く商店などが、今も街に点在しています。

※鷗汀:尾崎秀真(ほづま)のこと
※この部分の詳細関連情報は、本ブログ第61号(2022.9.25)に記載してあります。

▼臺灣医専(現在の国立台湾大学医学院2号館)
台湾帝大医学部(現台大医学院2号館)4 (2)
台湾帝大医学部(現台大医学院2号館) (2)
【建物(台北医専)1930】台北医学専門学校(1930) (2)
▼警察会館
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■夢二の世界■

PART 3 KAWAIIの世界」(「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より)

54 コラム「夢二が描く『眼』」

夢二が岸他万喜と関係が深かった時期は、大きな黒目がちの眼を頻繁に描いていました。この眼は、他万喜のつぶらな瞳をモチーフに誕生し「夢二式の眼」と呼ばれ、流行語のように使われました。夢二は作画に応じて、細く切れ長の眼や三白眼も描きましたが、この黒目がちの眼は、明治末ごろに制作された美人画に多く見られるのが特徴です。

徳川夢声(とくがわむせい)(1894(明治27)~1971(昭和46)大正・昭和期の活弁家、随筆家)は中学時代に夢二が描く女性に憧れていました。後年当時を回想し、その特徴は「眼」であり「全部黒目、黒目の目玉ばかり、まつ毛の長い」(「夢二を語る」より『書窓』第3巻第31936年(昭和11))女性が美人であったと記しています。また夢二が描く女性の眼に影響を受け、まぶたの上下に墨を塗って眼を大きく見せる女学生も存在したそうです。

現代でも大きな眼に対する憧れは大きいようで、アイメイクやプリクラの修正機能も向上していますが、これは今に始まったことではなく、100年以上前に夢二が描いた女性の眼が雑誌などを通じて広まり、女性の顔立ちに見る「かわいい」にも、大きな影響を与えていたようです。

▼「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より
本「かわいい手帖」夢二が描く眼 (2)
 

■夢二の言葉■(☆は書かれたころの夢二の状態等の記載です。)

●「お葉あての手紙より(1921年(大正101124日)

芸術家のつまは悲しいものだ

昔もいまもかわりはない

まっていろ 好い子だ

☆夢二は、この年の8月から11月にかけて、長期間福島・会津に旅行をしていました。

●「予の恋愛観」より(『新小説』1923年(大正126月号)

男は愛を信じていても、永遠を易々と約束しない。だが女は、悲しい哉、女は、愛を信じていないでも、永遠を誓いたがる、二世も三世も男を縛ばりたがる。

それは経済関係だけで説明できることであろうか。

☆夢二は、このころ「どんたく図案社」発足宣言をし、広告代理店の設立を進めていました。しかし、91日の関東大震災により、その計画は無に帰してしまいました。それでも夢二は、必死でがれきと化した東京を廻り歩いてスケッチを行い、「東京災難畫信」と題した連載を都新聞に掲載しました。(「東京都復興記念館」で展示中)

▼「東京災難畫信」の展示(東京都復興記念館)

 

■夢二情報■

●竹久夢二のデビューから晩年までをたどる 日比谷図書文化館で作品展示 本紙の前身「都新聞」の挿絵原画も(東京新聞)

https://www.tokyo-np.co.jp/article/224089

 大正ロマンを代表する画家竹久夢二(18841934)の作品を紹介する企画展「龍星閣がつないだ夢二の心『出版屋』から生まれた夢二ブームの原点」が7日、東京都千代田区日比谷公園の区立日比谷図書文化館で始まった。東京新聞の前身、都新聞で1927年に連載された自伝的小説の挿絵原画をはじめ、夢二のデビュー当時から晩年までをたどる内容だ。

 展示しているのは、昭和40年代から夢二の作品を収集してきた出版社「龍星閣」が2015年に区へ寄贈した全1200点の資料の1部。区が22年度、616点を指定文化財にしたことを記念した企画で、約190点をお披露目する。

 都新聞は、夢二が亡くなる7年前の40代前半のころ、半生をまとめたような小説を連載した。そこに添えられた134点の挿絵原画を収めた作品が「出帆」で、うち10点を展示した。女性画のイメージが強い夢二だが、家族と別荘で過ごす日常などが水墨で描かれ、学芸員の平町允さんは「多様な表現を見られる貴重な作品」と言う。

 また、夢二が早稲田実業学校在学中の1903年に制作した画文集「揺籃ようらん」は複数の物語や詩に4つの挿絵が含まれ、文章を推敲すいこうした跡を確認できる。

 同館によると、夢二は死後の一時期、人気が下火に。龍星閣の創業者、澤田伊四郎さんは「埋もれたものを掘り出して世に送る」と夢二の作品を精力的に収集し、世間に広めた。学芸員の山田将之さんは「夢二が再び脚光を浴びるきっかけの1つを作った」と説く。

 入場無料。前期は今月29日まで。展示内容を入れ替える後期は30日から228日まで。今月16日と220日は休館。問い合わせは同館文化財事務室=電0335023348=へ。(井上靖史)

 

●<大正ロマンの果てに~竹久夢二の生涯(1)>夢二式美人画 岡田三郎助の助言で独自画風(佐賀新聞(橋本真理記者))

https://www.saga-s.co.jp/articles/-/977568

1884(明治17)年、岡山県の造り酒屋に竹久夢二(本名・茂次郎)は生まれた。3歳の頃から筆を持ち馬を描き、家族を驚かせた。神戸中に入学するも、家庭の事情で8カ月で中退。福岡県遠賀郡八幡村へ引っ越す。18歳の夏、家出し上京する。

 早稲田実業学校に入学。アルバイトで自活しながら、新聞や雑誌に投稿した。苦学生だった夢二は社会主義に共感していた。1905(明治38)年、社会主義運動の機関紙「直言」に、反戦の挿絵が掲載される。「平民新聞」では、貧富の差、労働問題などをモチーフに国民の生活を代弁する作品を数多く発表する。

 専攻科を中退し、挿絵画家としてスタートを切った。生活のため、野球の早慶戦をモチーフにした絵はがきを、早稲田の絵はがき店「つるや」に売り込んだ。店の看板娘的な存在だった岸たまきの美しさに心を奪われ、すぐさま求婚。出会いから3カ月後、2人は結婚する。夢二、24歳、たまきは再婚で26歳だった。

 ちょうどこのころ、夢二は絵を本格的に学ぶべきかを悩み始める。作品を手に、尊敬する洋画家岡田三郎助(佐賀市出身)を訪ねるも、美術学校進学は「君の天分を壊すかもしれない」と、独自の創作を続けるよう忠告される。

 この助言が、後の夢二の創作につながる。海外の画集、雑誌から学び、街中で見かけた姿のよい人の後ろをつけてはスケッチした。熱中するあまり、電信柱や人力車にぶつかることもあった。

 たまきの存在も大きかった。前夫が日本画家だったため、日本画の技法を手ほどきした。たまきに理想の女性像を見いだし、“夢二式美人”を創り出す。

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 大正ロマンの時代に華やかな美人画を確立した竹久夢二(1884~1934年)。現在も「モダンかわいい」と女性たちの心をとらえ続ける、恋多き詩人画家の歩みを紹介します。全5回。(この連載は福本真理が担当します)

 

●<プレゼント>竹久夢二展グッズ 来場記念で パンフレットなど23人に(佐賀新聞)

https://www.saga-s.co.jp/articles/-/974536

佐賀新聞社は、県立美術館で開催中の新春特別展「竹久夢二展」の来場記念として、特別展のパンフレットやオリジナルステッカーなど展覧会グッズを30人にプレゼントする。

展覧会は、大正浪漫を象徴する叙情画家竹久夢二の足跡を作品とともに紹介。華やかな美人画、生涯を振り返ったかのような晩年の名品など200点超を展示している。会期は2月12日まで。

プレゼント企画では、特別展のパンフレットが10人、オリジナルステッカー6枚1組が10人、短冊(1枚)が5人、卓上カレンダーが5人に当たる。このうちパンフレット3冊には、8日に展覧会特別企画としてトークショーを行った女優の緒川たまきさんのサインが入る。

当せん品は事務局が抽選で決定し、発送をもって代える。希望者は郵便番号・住所・氏名・年齢・電話番号・展覧会の感想を明記し、はがきかファクスで応募する。会場設置の用紙でも申し込み可能。締め切りは1月31日。宛先は〒8400815 佐賀市天神3―2―23 佐賀新聞プランニング「竹久夢二展」係、ファクス0952294709

 

●夢二の雰囲気に包まれてオリジナル懐石を楽しめる!――神楽坂「夢二」

https://www.kagurazaka-yumeji.com/