※創刊号(2021.8.8)~第37号(2022.4.10)はこちらをご覧ください。⇒ https://yumejitotaiwan.exblog.jp
※ビジュアル夢二ブログ「夢二と台湾」がスタート!「夢二と台湾」講演会制作立ち上がりを記念して、ビジュアル夢二ブログ「夢二と台湾」がスタートしました。“ワンポイント夢二”“夢二トピックス”など、夢二を楽しめる内容をアップしていきます。ご期待ください。⇒ https://jasmineproject.amebaownd.com/
■メッセージ■
1月2日から佐賀県立博物館で開催されている「竹久夢二展 佐賀で巡り合う大正浪漫の世界」は、既に5000人以上の来館者を得て絶賛開催中ですが、会期もあと2週間ほどを残すばかりとなっています。「本展覧会では、九州初公開の「南枝早春」をはじめ、肉筆原画や木版画に加え、夢二がデザインに関わった書籍・雑誌・新聞などの挿絵・装丁用の版画作品や当時の新聞記事や夢二撮影の写真パネルなど、多岐に渡る創作活動をご紹介します。」という内容もさることながら、前回第1回をお知らせした夢二の生涯を綴った佐賀新聞の「大正ロマンの果てに~竹久夢二の生涯」が5回にわたり連載されています。短いながら非常に簡潔に夢二の生涯が紹介されていますので、ここで一気読みをして夢二の生涯の要所を端的にとらえていただけるのではないかと思い、全回分の文面をご紹介させていただきます。なお、サイトには関連写真等が掲載されていますので、本編をご覧になりたい方は、次のURL(第1回)から順を追ってご覧ください。
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/977568
■大正ロマンの果てに~竹久夢二の生涯(福本真理著)佐賀新聞2023.1~2に掲載)
1 夢二式美人画 岡田三郎助の助言で独自画風
1884(明治17)年、岡山県の造り酒屋に竹久夢二(本名・茂次郎)は生まれた。3歳の頃から筆を持ち馬を描き、家族を驚かせた。神戸中に入学するも、家庭の事情で8カ月で中退。福岡県遠賀郡八幡村へ引っ越す。18歳の夏、家出し上京する。
早稲田実業学校に入学。アルバイトで自活しながら、新聞や雑誌に投稿した。苦学生だった夢二は社会主義に共感していた。1905(明治38)年、社会主義運動の機関紙「直言」に、反戦の挿絵が掲載される。「平民新聞」では、貧富の差、労働問題などをモチーフに国民の生活を代弁する作品を数多く発表する。
専攻科を中退し、挿絵画家としてスタートを切った。生活のため、野球の早慶戦をモチーフにした絵はがきを、早稲田の絵はがき店「つるや」に売り込んだ。店の看板娘的な存在だった岸たまきの美しさに心を奪われ、すぐさま求婚。出会いから3カ月後、2人は結婚する。夢二、24歳、たまきは再婚で26歳だった。
ちょうどこのころ、夢二は絵を本格的に学ぶべきかを悩み始める。作品を手に、尊敬する洋画家岡田三郎助(佐賀市出身)を訪ねるも、美術学校進学は「君の天分を壊すかもしれない」と、独自の創作を続けるよう忠告される。
この助言が、後の夢二の創作につながる。海外の画集、雑誌から学び、街中で見かけた姿のよい人の後ろをつけてはスケッチした。熱中するあまり、電信柱や人力車にぶつかることもあった。
たまきの存在も大きかった。前夫が日本画家だったため、日本画の技法を手ほどきした。たまきに理想の女性像を見いだし、“夢二式美人”を創り出す。
◇ ◇
大正ロマンの時代に華やかな美人画を確立した竹久夢二(1884~1934年)。現在も「モダンかわいい」と女性たちの心をとらえ続ける、恋多き詩人画家の歩みを紹介します。全5回。(この連載は福本真理が担当します)
2 港屋絵草紙店 美しく趣味のよい暮らし願い
詩人になりたかった竹久夢二は、雑誌に載せたコマ絵(挿絵)の版木を集め、自作の詩を添えた初の画集「春の巻」を1909(明治42)年刊行する。若い世代の心をつかんで完売が続き、9版を重ねるほど大ヒット。さらに、続編を8巻まで発表し、叙情画家として売れっ子になっていく。
軌道に乗り始めた画業の一方、私生活には暗雲が垂れ込める。長男虹之助(こうのすけ)が生まれたものの、浮気性で嫉妬深い夢二と、たおやかな容貌とは裏腹に勝ち気だったたまきの間では衝突が絶えなかった。
「僕はほんとうに、すべてに別れたいと思う。僕には名がある、パパ、ハズバンド、ラバー、それらに別れたい」。この頃、友人への手紙につづっている。
この時期は「いさかいの後」「泣く妻」など、女性の悲しみを表現した作品も多い。たまきとは2年あまりで協議離婚するも、その後、次男、三男が誕生。籍を抜いても、10年にわたって親密な仲を保つという奇妙な夫婦関係が続いた。
第1次世界大戦が始まった14(大正3)年、離縁したたまきを自活させるため、日本橋に「港屋絵草紙店」を開く。夢二デザインの日常で使う品々を置いた。美しく趣味のよい暮らしは、夢二の願いでもあった。
港屋には、北原白秋や谷崎潤一郎、小山内薫、東郷青児らが足を運び、文化人サロンのようだった。夢二デザインの品々を身につけるのは最上の趣味とされ、模造品まで出回った。後に夢二の最愛の人となる彦乃も港屋に出入りした。
夢二は最先端の流行を発信する雑誌「婦人グラフ」を発表の舞台に選ぶ。洋服にショートカットの女性、ウエーブの髪に帽子をかぶった洋装の女性像を登場させた。着物から洋服へ移行しようとしていた当時の女性より一足早く、「モダンガール」を発信した。
大正デモクラシーを背景に、さまざまな大衆文化が花開いた時代。夢二の好みは時代にマッチし、女性たちのおしゃれにも影響を与えていった。(福本真理)
3 デザイナーとして 絵本、装丁、音楽、幅広く
離縁した妻たまきとの関係も切れない中、竹久夢二は「港屋絵草紙店」に出入りしていた12歳年下の女学生、笠井彦乃と駆け落ちするように京都で暮らし始める。
港屋は、デザイナーを務める夢二からの作品が滞り、閉店に追い込まれた。新たな恋を選んだ夢二だったが、幸せは続かない。夢二と知り合って6年目の1920(大正9)年、彦乃は結核を患い、25歳の若さでこの世を去った。
同じ頃、夢二が雑誌に発表した詩「宵待草」に、作曲家の多忠亮おおのただすけが目を付け曲を付ける。音楽の大衆化が進む中、セノオ楽譜として刊行され、哀愁漂うメロディーは流行歌として、夢二の代表的な詩歌となる。
夢二はセノオ楽譜の表紙も多く手掛け、デザイナーとしても才能を発揮する。夢二はその後、代表作「黒船屋」「長崎十二景」など絵画的な作品を次々に発表し、成熟期を迎える。
挿絵の評判も高まり、夢二の仕事は、詩と絵画、ファッションや音楽と深く関わっていく。数多くの雑誌の表紙や見開きのページを飾り、時代のアイコン的な存在だった。
同時に、子ども向けの挿絵にも積極的だった。
「こどものためにはもつと線の太い、面の大きい、単色の絵が効果も多いし、所謂いわゆる教育的であるはず」と持論を唱えた。やわらかで明るい色合いで、親しみやすい絵を描いた。
中でも、「どんたく絵本」は、文字がない絵本で、表現力豊かな夢二の才能が感じられる。ちょうど、夢二の子どもたちも学齢期。子どもらしいしぐさや目線を盛り込んでおり、大衆からも支持された。
明治末からは約270冊の書籍を装丁する。京都・祇園を題材にした長田幹彦の小説は、舞妓を描き色鮮やかに仕立てた。若者層の受けも絶大で、長田が「君の装丁ゆえに本を買ってくれた若い女性を数多く知っている」と書き残すほど、作家からの引き合いも多かった。
4 東京災難画信 関東大震災を境に人気急落
1923(大正12)年9月1日、夢二はなんだか落ち着かなかった。カンバスに向かうも筆が進まない。モデルを求めて外出しようとしたとき、大地震が起きた。関東大震災。近代的な街並みは燃え尽き、多くの被災者であふれかえった。
夢二は連日、スケッチ帳を抱え、被災地を歩き回った。この惨状を正確に描き伝える使命感に駆られていたからだ。夢二の記録は「東京災難画信」として、震災後の9月14日から21回に渡って「都新聞」(現・東京新聞)に連載された。
人気絶頂期だった夢二は、将来に不安を感じていた。この年の1月、「将来画をやらうと思うなら、私の通つたやうな道を歩いてはいけない。やはり正則に中学、美術学校にいって、帝展でも何でも出品して、やはり世間的に面通りを歩いてエラクなる方が好い。裏道は、万人に向かない」。そう雑誌に寄稿している。
“裏通り”と夢二が呼んだ、画壇に属さず、自由に表現するやり方は、大衆が時代の主役に躍り出た「大正時代」だったから通用した面があったのだろう。どれほど人気があっても、画壇からの視線は冷ややかで、素人扱いが続いた。
ちょうど、都市を中心に商業広告が台頭し始めていた。夢二は商業美術を扱う「どんたく図案社」を立ち上げ、将来の不安に活路を見い出そうとしていた。それが、震災によって協力するはずだった印刷所が壊滅し、計画は頓挫した。
悪いことは重なる。当時、夢二はモデルのお葉と暮らしていた。最愛の彦乃との死別の後、やつれ果てた夢二を見かねた仲間が引き合わせてくれた。お葉は、与謝野晶子の「みだれ髪」の表紙も手掛けた洋画家藤島武二のモデルだった。秋田出身の16歳で、夢二好みのうりざね顔。本来は明るく健康的な女性だったが、夢二好みの着物に、夢二流のしぐさまでこしらえさせ、美人画を体現させた。
震災から1年、女流作家の山田順子に夢二の心が動く。「パパすみません。お葉はこの家を出てゆきます。二度と帰らないでしょう」と置き手紙を残し、お葉は去る。順子との恋も3カ月で破局。このスキャンダルで夢二人気は急落し、大きな転換期を迎えることになる。(福本真理)
5 念願の洋行 画風変わらず、失意の帰国
「油絵のタブロー(キャンバスに描かれた絵)を完成するまで本格的な画家とは言えない」。夢二をそう厳しく評する専門家もいた。その指摘は、夢二にとっても長年のコンプレックスでもあった。当時、洋画を志す者はパリで学んでおり、洋行は夢二の長年の希望だった。榛名湖畔(群馬県)に美術学校を設立するために産業美術を学びたい、そして画風を変えたかった。
長らく望んだ旅が、ようやく実現する。告別展覧会を全国各地で行い、1931(昭和6)年、横浜港を出航した。しかし、米サンフランシスコに着く頃には、案内役だった編集者と決別。在米日本人社会では、夢二の名は知られておらず、米国で欧州行きの費用をまかなう算段は大きく外れた。
当時を物語るような洋行中の作品「ノスタルジア」は、慣れない油絵具にもたついた様子がうかがえる。ドイツでの「舟泊り」は郷愁にかられたのか、榛名湖を背景に描いた最愛の女性、彦乃からは哀愁が漂う。
米国を振り出しに、ヨーロッパを2年余り放浪した。米国で失意の底に沈み、ヨーロッパでは、異国の地での自分の境遇と重ね合わせたのか、「俺にはユダヤ人の血が流れている」と口にするほど、迫害されるユダヤ人に同情している。
1933(昭和8)年、健康を損ない、老け込んで帰国した。愛した女性たちが出入りしたアトリエ兼自宅には、もう誰もいなかった。金が足りず、家財を売り払うありさまだった。
時代はきな臭さを増していた。満州事変、五・一五事件などが相次ぎ、“大正ロマン”とうたわれ、もてはやされた夢二の時代は過ぎ去っていた。再起をかけて世界各国を巡り、画風を変えて、新たな夢二となって日本へ凱旋がいせんするはずが、1年もたたないうちに、失意のまま不帰の人となった。=おわり
■竹久夢二の素顔■
●吉屋信子(2)(『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房指新社)の「竹久夢二の思い出」より)
(注)本文は、吉屋信子が『私の見た人』(1963年(昭和38)(朝日新聞社)に掲載したものです。
港屋にて
港屋は小さい可愛ゆい店だった。店の上に小さい二階がつき、店の屋根に<港屋>と夢二風の看板が出ていた。
店に夢二は居なかった。店番の女のひと、それは奥さんでなく雇われている年増の女性が一人すわっていた。友だちはその人ともおなじみらしかった。「もう先生がいらっしゃるころですよ」と言われて待つことにした。
まもなく炎天の街路を歩いて店へはいってくるその姿が見えた。黄いろい上布に素足に下駄、帽子なしで髪を長くのばしたそのころの画家らしい頭髪のスタイル、肩幅のひろいがっしりした身体つき、大きな顔の色は黒く目はぎょろりとしてたくましい……夢二だと直感した……この抒情画家はけっしてか細き優男ではなかった。
友だちは私をかつての少女雑誌投書仲間だと言い、そして文学雑誌の投書家だなどと紹介の弁を振った。
「文章世界であなたのを読んだよ」
夢二にそう言われて私はびっくりした。私は女学校上級のころから少し前までその雑誌の投稿家だった。
「ぼくも昔は中学世界のコマ絵に投書してたからね。いまでも投書欄読む習慣があるね」<文章世界>の私の投稿文を読んだと言ったのはこの竹久夢二と、あとでは岡本かの子夫人だった。私はちょっと感激してしまった。
まもなく苺の氷水が私たちの前に運ばれ、夢二は真っ先にサクサクと音立てて匙を口に運びつつ「昨日は婦人之友社のテニスコートでテニスしたが汗を流したあとは愉快だね」と言った。
私はじぶんの待望の<少女小説>の一件を言出そうかどうしようかと、ひそかに夢二を打診する気持ちで思い迷いつつ氷水が溶けてゆくのを見詰めていると……
「ぼくたちのいまやってる<新少女>は、今までの実感的な少女雑誌とはまるでちがったやり方でゆきたい、大いに闘うつもりなんだ」
その夢二のふいに言い出した言葉に私は愕然とした。外の少女雑誌が<実感的>という意味はどう解釈すべきか……それは<卑俗>と同意語なのであろうか?ともかく高き理想を掲げる編集方針らしい。私はおびえた。そしてついに目的の話を持ち出すのをあきらめることにした。
そこへ夢二の著書を出す話らしく出版社の人が訪れたので私たちは帰ることにした。「またいらっしゃい」と私たちに愛想を言われたが、それきり私は行くこともなかった。夢二を見た。それでもうたくさんだった。(つづく)
■夢二の台湾旅行関係資料の紹介
●第1回 『夢二 異国への旅』(袖井林二郎著、ミネルヴァ書房)のうち「補章 行かなきゃよかった台北へ」(その4最終回)
・武二は昇り夢二は沈む
藤島武二のホテルと夢二の宿は同じだった。「よく生きて帰ったな」と藤島は行ったかもしれない。夢二は「先生の訪台は何の御用で?」と聞いただろう。藤島は今上天皇の即位を祝う絵を皇太后より下命され、「日の出」をテーマにしたのではいいが、気に入った景勝の地が見つからず、日本各地を訪ねたあと、台湾にやってきた。「水平線にできるだけ近い新しい赤い太陽でなければならないのだよ」と語った。夢二は心の中で、先生は日の出のように昇り、俺は落日のように沈むのかとつぶやいたにちがいない。藤島の努力はやがて内蒙古の砂漠に昇る太陽を描く『旭日照六合』に結実するが、それは1937年のことで夢二が生きてそれを見ることはなかった。「ところで僕の来台を記念して夕食会があるんだが、君も出ないかね。陪席は、君も知っている梅原龍三郎君だよ」と藤島は夢二を励ますように誘った。しかしパリで修業し、いま朝日の昇る勢いの梅原と同じ席に座る気分に夢二はなれなかった。時間がなかったのではない。彼が11月11日まで台北に滞在したことは確かで、その日の扶桑丸を捕まえるべく25年型シボレーを時速40キロで走らせたが、途中でエンストを起こし、船に乗り遅れた。
夢二は丘の上で思いにふける――「私は何しに臺北へ来たか。わたしは臺北で何を見たか。私は臺北においてなんであったか。あるいは無かったか……」竹久夢生「臺灣の印象」(『臺日』1933年11月14日)。
それは夢二の全生涯を問うことでもあった。しかし時間はもう残されていない。11月17日、神戸へ帰港したとき、旅は終わる。訪台でさらに体調を崩して翌年の1月19日、正木不如丘(まさきふにょきゅう)の「信州富士見高原療養所」に入院。
「日にけ日にけかつこうの啼く声をききにけり かつこうの啼く音(ね)はおほかた哀し」
と辞世を残し、1934年9月1日、竹久夢二は死をまたいで帰らぬ旅路に出た。満50歳にわずかに満たぬ生涯である。(完)
※当時の台湾美術界の状況と藤島・梅原の訪台理由(ひろたまさき著論文「台湾の夢二――最後の旅」より)
1929年には台湾人の在野の美術団体「赤島社」が結成され、そこには「反旗がはためいている」と「台展」に対する批判的な動きが報じられ、1930年には「独立美術協会」、33年に「新興洋画展」、34年「台用美術協会」「台湾美術連盟」が結成され、個展も盛んに催されるようになった。内地での流行も直輸入されて、西洋のいろいろな前衛的な傾向も主張され始めた。もちろんそれは日本統治での監視内のことであるが、石川欽一郎の影響から解き放たれて「自由」な、あるいは日本支配への抵抗を内に秘めての活動も含めて、多様な運動が展開され始めていた。
そうした状況に危機感を持った総督府文教局は、「台展」の改革を決意し、そのために中央の権威である武二と梅原隆三郎を招いたわけである。武二は梅原と共に、文教局の方針にそって、台湾の「郷土的特色」を主題とする方向と、画法の多様な傾向を認め審査員を「台展」の会員から選ぶという制度をつくるが、日本人画家が主導するという方針が示された。しかし、日本人画家と台湾人画家の対立や、石川派の水彩写生画のグループと塩月派あるいは前衛的諸派とのあいだの抗争など問題は多様で、「台展」に対する批判も絶えず、ことに日本人が主導権を握ることに対する台湾人画家の抵抗は強かった。だが37年の日中戦争の全面化で台湾にも本格的な戦時体制が敷かれ、総督府批判、「台展」批判は封じられてしまう。
つまり武二の33年の台湾滞在は、戦時下にあって台湾美術界を日台同化の方向に強化する役割をもっていた。夢二は武二のそのような役割について詳しく知る由なかっただろうが、日台同化の方向についてはすぐ感知できたであろう。したがって、そのような武二の姿を「上昇」している大先生と受け取るような感覚はなかったのではないか。夢二自身に「上昇」志向はなかった。自分の絵画に対する大衆の人気は気にかけていたが、世間における、あるいは日本美術界における名誉や地位や財産の階梯を昇るという「上昇」志向はなかったし、権力への接近はむしろ警戒すべきことであったからである。夢二の絵には、あえて言えば、日の出よりも夕焼けが、太陽よりもつきが、上層の紳士淑女よりも庶民がえらばれた。
(編者)次回からは、2000年に「竹久夢二研究 : 全容解明のための一試論」を発表し、「竹久夢二
コレクション1~3」を発刊、そして夢二の訪台に注目した「昭和8年の夢二の訪台 ―『台湾日々新報新資料による―」論文により早くも夢二の訪台に注目している女子美術短期大学・大学院博士・西恭子先生の論文「昭和8年の夢二の訪台 ―『台湾日々新報新資料による―」をご紹介します。
※参考のため、改めて夢二訪台に関する記述で参考にさせていただいている皆様の紹介をいたします。(夢二関係著作順)
・西 恭子(にし きょうこ)
夢二関連著作:「竹久夢二研究 : 全容解明のための一試論」(2000)、「竹久夢二 コレクション1~3」(2000)、「昭和8年の夢二の訪台 ―『台湾日々新報新資料による―」(2000)、「竹久夢二と民主化運動」(2009)
女子美術大学卒業後同大学造形理論演習研究室専任助手。同大学大学院美術研究科博士後期課程修了、学術博士(美術)。現在、女子美術短期大学・大学院博士・講師)
・関谷 定夫(せきや さだお、1925年12月26日 - 2017年6月11日)
夢二関連著作:「竹久夢二 精神の遍歴」(2000年)
聖書学者。西南学院大学名誉教授、旧約聖書学・聖書考古学専攻。
・袖井林二郎(そでい りんじろう、1932年3月9日 - )
夢二関連著作:「夢二 異国への旅」(2012年)
国際政治学者、評論家。専門は、戦後日米関係史、国際政治史、アメリカ政治論。夢二研究会顧問。
宮城県遠田郡小牛田町(現・美里町)出身。占領期研究の第一人者。戦後史関係資料を広範に探索してきたことで知られている。妻は社会学者の袖井孝子。
・ひろた まさき(広田 昌希、1934年11月21日 - 2020年6月17日)
夢二関連著作:「台湾の夢二――最後の旅」(2014年)(論文)
日本の思想史学者、大阪大学名誉教授。専攻・日本思想史。差別問題を中心に日本思想を研究する。
兵庫県神戸市生まれ。1958年京都大学文学部史学科卒業。1963年京都大学大学院博士課程修了。1988年大阪大学文学部日本学教授、東京外国語大学海外社会学講座教授。1997年定年退官、名誉教授、甲子園大学教授、京都橘大学教授。
■夢二の世界■
PART 3 「KAWAIIの世界」(「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より)
55 コラム「大正時代のモデル事情」
現代ではモデル=“ファッションモデル”が真っ先に思い浮かび、流行の装いに身を包んだプロのモデルばかりでなく、一般読者として紙面に登場する“読者モデル”も人気ですが、大正時代は絵画や彫刻制作を対象とする芸術分野での人材が、モデルと呼ばれていました。
美術学校や美術団体、また個々の画家は制作のためにモデルを必要とし、その需要は明治・大正期に刻々と高まりをみせます。場合によって裸体になる必要もあり、人前で肌を見せる観念が現代とは大きく異なる事情から、着衣であってもモデルは敬遠されました。
実際の仕事内容から偏見もしだいに減じ、モデル志願者は増えて、当時唯一モデルを斡旋していた<宮崎モデル紹介所>は繁昌した伝えられています。『婦人グラフ』1926年(大正15)10月号に掲載された「大正夫人職業百態」では、モデルの仕事について特集され、当時<宮崎モデル紹介所>の所属モデルは「百四十人位」であったと記事で紹介されました。
■夢二の言葉■(☆は書かれたころの夢二の状態等の記載です。)
●「恋愛秘話」より(『苦楽』1924年(大正13)7月号)
何だって愛するものを憎まねばならないのだろう。
何だって憎んでいるものを愛さねばならないのだろう。
夫婦だからだ。
☆この年の9月、夢二と争ったお葉が藤島武二の家に逃げ込んでいます。しかし、12月には世田谷・松原に夢二の設計による「少年山荘」が建ち、長男虹一郎、次男不二彦、お葉との家族的な生活がしばらく続きますが、翌年夢二が新進女流作家山田順子と関係したことによりお葉との破局が訪れます。
●日記より(1925年(昭和14)7月28日)
結婚は
(男のために)
愛の理想と恋の幻想と
根こそぎくつがえすために
するものだ。
☆この年の6月に夢二の許をお葉が去り、翌月山田順子との関係は破綻しました。
■夢二情報■
●竹久夢二のデビューから晩年までをたどる 日比谷図書文化館で作品展示 本紙の前身「都新聞」の挿絵原画も(東京新聞)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/224089
大正ロマンを代表する画家竹久夢二(1884〜1934)の作品を紹介する企画展「龍星閣がつないだ夢二の心—『出版屋』から生まれた夢二ブームの原点」が7日、東京都千代田区日比谷公園の区立日比谷図書文化館で始まった。東京新聞の前身、都新聞で1927年に連載された自伝的小説の挿絵原画をはじめ、夢二のデビュー当時から晩年までをたどる内容だ。
展示しているのは、昭和40年代から夢二の作品を収集してきた出版社「龍星閣」が2015年に区へ寄贈した全1200点の資料の1部。区が22年度、616点を指定文化財にしたことを記念した企画で、約190点をお披露目する。
都新聞は、夢二が亡くなる7年前の40代前半のころ、半生をまとめたような小説を連載した。そこに添えられた134点の挿絵原画を収めた作品が「出帆」で、うち10点を展示した。女性画のイメージが強い夢二だが、家族と別荘で過ごす日常などが水墨で描かれ、学芸員の平町允さんは「多様な表現を見られる貴重な作品」と言う。
また、夢二が早稲田実業学校在学中の1903年に制作した画文集「揺籃ようらん」は複数の物語や詩に4つの挿絵が含まれ、文章を推敲すいこうした跡を確認できる。
同館によると、夢二は死後の一時期、人気が下火に。龍星閣の創業者、澤田伊四郎さんは「埋もれたものを掘り出して世に送る」と夢二の作品を精力的に収集し、世間に広めた。学芸員の山田将之さんは「夢二が再び脚光を浴びるきっかけの1つを作った」と説く。
入場無料。前期は今月29日まで。展示内容を入れ替える後期は30日から2月28日まで。今月16日と2月20日は休館。問い合わせは同館文化財事務室=電03(3502)3348=へ。(井上靖史)
●<プレゼント>竹久夢二展グッズ 来場記念で パンフレットなど23人に(佐賀新聞)
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/974536
佐賀新聞社は、県立美術館で開催中の新春特別展「竹久夢二展」の来場記念として、特別展のパンフレットやオリジナルステッカーなど展覧会グッズを30人にプレゼントする。
展覧会は、大正浪漫を象徴する叙情画家竹久夢二の足跡を作品とともに紹介。華やかな美人画、生涯を振り返ったかのような晩年の名品など200点超を展示している。会期は2月12日まで。
プレゼント企画では、特別展のパンフレットが10人、オリジナルステッカー6枚1組が10人、短冊(1枚)が5人、卓上カレンダーが5人に当たる。このうちパンフレット3冊には、8日に展覧会特別企画としてトークショーを行った女優の緒川たまきさんのサインが入る。
当せん品は事務局が抽選で決定し、発送をもって代える。希望者は郵便番号・住所・氏名・年齢・電話番号・展覧会の感想を明記し、はがきかファクスで応募する。会場設置の用紙でも申し込み可能。締め切りは1月31日。宛先は〒840―0815 佐賀市天神3―2―23 佐賀新聞プランニング「竹久夢二展」係、ファクス0952(29)4709。
●企画展「夢二が描いた 心ときめく花と暮らし」開催!(竹久夢二美術館)1月6日(金)~3月26日(日)
日本では古くから、四季折々の花が生活に喜びや潤いを与え、芸術作品の主題として扱われてきました。
画家・詩人として活躍した竹久夢二(1884-1934)も、暮らしの中の花から着想を得て、絵画やデザイン、詩歌などにおいて幅広く表現しました。夢二が描いた花は可憐な姿で鑑賞者を癒してくれます。さらに自身の心情と花の印象が結びついて生まれた詩は、時には香りや触感までも思い出させ、花にまつわる記憶を呼び起こしてくれます。また図案化された花は日用品を装飾して暮らしを彩り、その洗練されたデザインは現代でも高い評価を得ています。
本展では、花をテーマにした夢二作品に加え、明治後期~昭和初期の雑誌より、花を楽しむ文化を展示紹介します。
https://www.yayoi-yumeji-museum.jp/yumeji/exhibition/next.html
●夢二の雰囲気に包まれてオリジナル懐石を楽しめる!――神楽坂「夢二」
コメント