※創刊号(2021.8.8)~第37号(2022.4.10)はこちらをご覧ください。⇒ https://yumejitotaiwan.exblog.jp
※ビジュアル夢二ブログ「夢二と台湾」⇒ https://jasmineproject.amebaownd.com/

 

 

■メッセージ■

210日(金)、東京に初雪が降りました。どうなることかと心配でしたが夕方には雨になり、大きな雪害は出ませんでした。

ちょうどこの日は、「夢二と台湾2023」の骨格を決める合同会社「きよみず」との重要な打合せ日でしたが、急遽オンライン会議に変更。秋葉由美子さんとの全体構成の確認や演出上のすり合わせ、演ずる鈴木愛子さんの試朗読なども行い、制作の方向性が固まりました。5月から撮影開始予定なので、一気に緊張が高まります。

これで思ったのは、コロナ禍で大きく仕事のスタイルを変えたオンライン会議のこと。演奏家や歌手などはこれを使ってライブまでやっている人もいます。

確かに今回の打合せも、話が広範囲に飛んでも家にある資料を画面で見せたりできたことで、会議の充実度がアップ。会議参加者が慣れてくれば慣れてくるほど効果的なツールであることがよく分かりました。ストックしてある写真やデータなどもすぐ見せることも出来ますし、これからさらに大いに活用していきたいと思います。

時間の効率化を図って効果を上げるという、オンライン会議。私も遅まきながら気づきを与えられました。

ところで、翌日は朝から雲一つない上天気。うっすら雪の残った街並みがきれいでした。大雪と闘っている豪雪地帯の方には叱られそうですが。

DSC_2317 (2)
DSC_2321 (2)


 

■竹久夢二の素顔■

●吉屋信子(4最終回)(『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房指新社)の「竹久夢二の思い出」より)

(注)本文は、吉屋信子が『私の見た人』(1963年(昭和38)(朝日新聞社)に掲載したものです。

・「平戸懐古」の絵

 昭和六年春、新宿のある小さい百貨店で竹久夢二の個展があるのを知った。それは近日夢二が外遊するその旅費のために催されるのだと報じられた。

 私はその画家の絵から受けた抒情の甘露を吸った日を忘れかねて、かつはあの過ぎ去った遠い日、港屋の店でイチゴの氷水をごちそうになったこと、そして文章世界の投書欄で私のものを読んだと言われた感激……それに酬いるために、一枚の絵を買ってこの画家へのお餞別に代えたいと思った。

 その百貨店は……今とちがうその当時のいささか場末の感のある新宿らしくまことにごみごみしたほこりっぽい入口で、そのはいるとすぐ横手の光線の足りないような倉庫めいた殺風景な一室が夢二の個展の会場だった。

 灰色の壁に三方ずらりと掛けならべてあるのはいわゆるパン画、力作を見せるためでなくただ売るためにのみ制作されたらしい水墨淡彩の小幅(しょうふく)が仮表装で押し並んでいた。そこにはもうかつての夢二の繊細な線は失せて文人画のような淡白な白筆だった。同じ画題のものが多く、なかに麦の穂を二三本描いただけで余白を多く残したのに、やはり棄てがたい余韻がある気がした。小幅一本はたいてい五十円平均だった。

 私はその麦の穂の一軸を買約して、会期終了後届けてもらう住所を百貨店の伝票に書き代金を払った。会場のゴタゴタした一角にそうしたテーブルと店員が一人居た。

 私は会場を出て正面入口はからはいって来る客たちの間をすりぬけて舗道へ向かう時、うしろから私の名を呼ぶ声がした。振り向くとそこに竹久夢二が追いかけて来ていた。

 「ありがとう、ほんとにありがとう」と夢二は言った。私はいつのまにその人が私を見つけたのか、買約したのを知ったのか……あの会場に夢二が居たのを知らなかった。私はあわててまごまごとお辞儀した。私の傍へ寄ったその人は「さかんに書いていられますね」と真顔で言う。わたしはまたお辞儀して足早に逃げ出してしまった。

  買約伝票にしるした名で女の小説家と知ってか、それとも港屋をむかしたずねた文学娘を思い出してか……まさか、それとも文章世界の投書の名の記憶か……なんだかわからなかったけれども夢二その人の変貌には本当に驚いてしまった。あの港屋の店頭で初めて見た華やかな盛名の夢二の顔は今はしぼんだように小さく黒く、どこかやつれてしわばみ、鼻下に黒いチョビひげ、体格もやせて黒い服に小ぢんまりと……ただギロリとした目におもかげが宿っていた。私はいっとき感傷に打たれて舗道をたどった。

 夢二がアメリカからフランスへ貨物船で渡ったとかドイツをさまよい空腹のあまり倒れたとか伝えられて日本へ帰ったのは1年後だった。

 富士見高原の療養所で孤独の病人となって死去、行年五十一と新聞に訃報が出たのはそれから2年後の昭和九年の初秋だった。

 私の買った麦の穂は戦災で失せたが、戦後に私が画商から手に入れたのは、これぞ夢二のかつての繊細な筆の色彩に満ちた「平戸懐古」の小幅だった。 

 これはつい先年刊行の夢二遺稿の口絵にも使われた。青い海と岬の白壁の土蔵の遠景に平戸の遊女が洋傘を持つエキゾチックなオランダ船渡来の港への幻想図、夢二ならではのものである。

 雑司が谷霊園にあった「竹久夢二を埋む」と彫った墓石は戦後、無縁仏として整理される寸前に、有名だった抒情画家の筆とやっとわかって、にわかに<史跡>の標示が立てられる悲喜劇が生じたと伝えられる。(完)

(編者)次回からは、モガとして一世を風靡し、長年にわたり夢二を見守ってきた評論家・翻訳家の望月百合子のエッセイを紹介します。

▼昭和5年当時の新宿
新宿駅前通り(昭和5年)



■夢二の台湾旅行関係資料の紹介

今回から、論文「台湾の夢二 最後の旅」(ひろたまさき著)をご紹介します。・はじめに
全編を一読されたい方はこちらをどうぞ。 ⇒ http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/81599/1/ifa016009.pdf

 竹久夢二は、明治末から大正期にかけて、一世を風靡したマルチアーティストである。絵画を中心に、デザインや手芸品に新風を巻き起こし、日本社会の美意識に革命をもたらした。夢二については、天才という評価とともに、アカデミイの訓練を受けていない画家として蔑視されたり、女たらしのぐうたらとみなされるなど、その評価はさまざまであるが、その彼を突き動かした思いについては必ずしも十分研究されたと言えない。夢二は若い頃から西洋文化に魅かれ、西洋と日本の伝統を融合させようと努力してきたが、彼が初めて西洋世界を訪れたのは1831年、47歳のときである。アメリカに15ヶ月、ヨーロッパに10ヶ月滞在し、339月に帰国。そしてその直後に台湾を訪ねたのである。

 異国の体験、それも壮年となっての様々な異文化社会での生活は大きな刺激を与えた。アメリカでは日本移民が差別されていたし、ヨーロッパではナチスと出逢ったが、台湾では現地民を差別する日本を見る。それはグローバルな世界の連鎖の中の地域的差異との出会いであったが、夢二の立ち位置も変化し、そして彼の思い(思想)も変化していったと思われる。彼はこの3年足らずの異国への旅から何を発見し、それは彼に何をもたらしたか。それをここでは最後の旅、台湾に焦点を当てて検討したい。短かったとはいえ、っ子の初めてのアジア植民地での体験が彼に何も発見させなかったはずがない。欧米を回って最後に自国の植民地で出会って、初めて世界のなかで人々の立つ姿が見えたのではないか。台湾帰国後10ヶ月で彼はあの世に旅立ったので、この異文化経験が彼の創作に与えた影響をたどることは困難であるが、彼が到達した思想的地点を探ることは、現在私たちが帝国意識に囚われている世界を相対比し、自己解放をはかる課題に通じるのではあるまいか。

        *   *

 1933918日にドイツから帰国した竹久夢二は、旅の疲れを癒す間もなく、河瀬蘇北に誘われて台湾に出向いた。2年前の渡米の際には、アメリカへ行けば日本人移民がいるから絵が売れる、それを資金にパリに行けばよいという翁久允に誘われた。翁久允はその前は18年間アメリカで新聞記者をしていたが、親の事情で日本に帰り『週刊朝日』の編集者になった。小説も書く彼の本の装幀を夢二がやったことがあり、『週刊朝日』の挿絵も描いている夢二としては、心強いガイドであった。その渡米したときに似て、ドイツから帰国の生活費にあてる貯金もなかった夢二にとって、台湾へ行って講演や絵を売って旅をしてはどうかという話は魅力的であった。それまで国内旅行では、いつも旅先での展覧会やファンに囲まれて、絵が売れたので豪勢な旅行ができたという経験もある。不景気のせいもあってアメリカやヨーロッパでは絵はさっぱり売れなかったが、日本の植民地である台湾では事情が違ってくるのではないかという期待がある。翁と同じように蘇北の誘い話が巧みだったし、なによりも、夢二は欧米旅行で借金をつくっていてその返済のめどが立っていなかったのである。夢二の台湾行については、ヨーロッパから帰国した時に大変疲労していたので南国の台湾で保養するのが目的であったという説もあるが、楢原誠一「夢二はなぜ台湾に行ったのか―友からの借金に悩んだ日々」は、夢二が友人である岡山の

星島儀兵衛からベルリンへ500円という大金を送ってもらって、翌年1934年の1月末までに義理堅い夢二はその返済を大変気にしていた、それが台湾行の直接の動機だとしているが、最も説得的な説であろう。夢二は台湾に特別な関心があったわけではない。

 その年1024日に神戸港を発ち、26日に基隆港に着いた。夢二と蘇北は早速、『台湾日日新報』(以下『台日』と略称)の記者からインタヴューを受けた。その時の蘇北の自己紹介は、「東方文化協会」の理事長として台湾支部を設立するためにやってきたこと、その協会は日本全国で千人ほど、台湾には百人ほどの会員がいると言い、「事業としては海外知識を愛知在住者に普及すること、内台融和の充実、其の他」であると言うのであるが、あやふやでその実態はかなり怪しい。蘇北は1931年に『新満蒙論』(この本の装幀を夢二がした)を出していて、アジアについてかなりの知識を持った評論家でもあった。協会は大阪・九州・満州・上海に支部をおき、大日本帝国のアジア攻略を支援するために相当大規模な文化活動の展開を目指していて、台湾にも「純文化的な施設」を設けると言い、今回は協会の台湾支部を設立し、設立記念の式典とともに、夢二にも話をしてもらう講演会を企画している、夢二の滞欧作品の展覧会も開く予定だと宣伝している。現に113日には、台北の医専講堂で講演会が開かれ、蘇北は、「東方文明の時代」、夢二が「東西女雑感」と題した話をしているが、その内容はわかっていない。

夢二の入港時の「談話」についてはあとで取り上げることにしたいが、この時の『台日』記者の紹介は「古い記憶に残る画伯」という失礼とも言えるもので、夢二ブームが去ってひさしく、かつ戦時の非常時にはふさわしくない美人画画家ということへの記者なりの反発・蔑視があったのかもしれない。さらには、ちょうど秋の展覧会の季節で、大安も各派の展覧会でにぎわっていたから、そうした雰囲気に比べて夢二は古いという記者なりの思い込みがあったとも考えられる。

夢二の展覧会は113日から5日までの3日間、台北の警察会館で「竹久夢二画伯滞欧作品展」という看板で開かれたが、同時期に開かれた台湾美術展覧会(以下「台展」と略称)が10日間開かれて「来館者2万余人の盛況」と法ぜられ、そのあと台中・高雄へと移動展が開かれるという報道の雰囲気のなかに、夢二展は埋もれてしまった観がある。警察会館という場所も夢二にはふさわしくなかったし、台湾人(現地住民をさしあたって「台湾人」としょうすることにする)にとっては入りづらい空間であったろうことは容易に察しがつく。しかし『台日』の批評は「時代の潮に姿を没したかに思はれてゐたが、此画家が持つ昔ながらの「人減情熱」はまだ作品の上にまざまざと活きてゐる」と好評であったし、入場者もまずまずであった。しかし期待した歓迎の夢二ブームは起こらなかった。

 夢二の台湾での行動軌跡は、展覧会が終わる5日まで蘇北と一緒にいたようであるが、そのあとは分からない。講演で高雄まで行くと蘇北は宣伝したが、夢二が動いた気配はない。藤島武二画10月末に来台して台湾各地を回っていて、夢二が来たと言うのでホテルに呼んで話をしたようだが、それについては武二の回想記があるだけである。その件に関しては後述する。それ以外には、夢二の行動は不明である。彼は船に乗り遅れて帰国を数日のばすことになり、『台日』にエッセイ「台湾の印象」を書き送ったあと出港、1117日に神戸港に着いた。

(注)『書窓』第3巻第3号(夢二追悼特集号)19368

 以上が夢二滞台の概要である。20日ばかりの短い滞在で、しかもその間の夢二に関する記録がきわめて乏しい。この期間の日記や書簡がすっぽりと欠けている。筆まめな彼が日記や手紙を書かなかったはずはないと思うが、実際に疲れていて書く意欲をもたなかったのか、書いたけれども紛失したか自分で処理したのかもしれない。もっとも、夢二は大事件が起こったときでも、日記を書くとは限らない。彼は日記を人に見られることを予期して書いているところがあり、大事なことほどむしろ書くことを拒否している気配がある。大逆事件については事件後掲示に尾行されていることだけ書いて、事件そのものには触れていない。幸徳らが処刑されたときに友人たちとお通夜をしたが、そのことも書いていない。関東大震災時にはスケッチは沢山しているが、日記ではメモ風の記述があるだけで、彼の感情や思考を正面から書き記すことはしていない。彼と親しかった山本宣治が暗殺された1929年の事件にも触れていないのである。

 台北で夢二ファンの日本人女性と会って彼を喜ばせたというエピソードは武二の改装であるが、このほかにはこれといった痕跡は見えない。もちいろん台北の街を遊歩したであろうし、他の展覧会を観に行ったに違いない。台北近郊の有名な景勝の地を訪れただろうし、スケッチくらいはしたであろう。そいういうことは想像できるが、夢二の病ともいうべき遊郭通いは、財布の中身が乏しかった、というよりもその気力がなかったのでないかと思われる。彼の発言として残っているのは『台日』紙上に紹介された入港時の「談話」と帰国時の「台湾の印象」だけである。

これらのことから、これまでは台湾の夢二に論及する評伝は少なかった。論及した評伝でも、岡崎まこと『竹久夢二正伝』(求龍堂、1984年)は「台湾へ不如意の旅をし身体を一層悪化させて帰る」、上田周二『私の竹久夢二』(沖積社、1999年)は「事志とたがい、得るところなくますます身体を悪くして帰り病臥」と年譜に書き込んでいるくらいである。関谷定夫『竹久夢二精神の遍歴』(東洋書林、2000年)は「台湾行の謎」として比較的長い論述をしているが、旅の意義づけはまさに「謎のままである」としている。そのなかで、最近刊の袖井林二郎『夢二・異国への旅』(ミネルヴァ書房、2013年)が、最期のところで「いかなきゃよかった台北へ」と題する補章を加え詳しく論じているのが注目される。台湾行きについては関谷と袖井の著書から多くのことを教えられたのでまず感謝しなければならないが、ただ、これまでのほとんどの評伝の台湾行をなかったも同じように扱うか否定的にとらえるという傾向は同書にも共通していて、そのことでは私の見解とは異なるし、また袖井が藤島武二と夢二の会話を、武二の回想記を下敷きにして描写しているところには違和感が残る。それはたんに袖井の想像では済まされない、夢二像の核心的なところを語ろうとするものであり、袖井がこれまで論じられてきた多くの崇拝的な夢二像に対して挑戦的に投げかけた問題提起ではないかとも感じられるからである。ここでは、そのほかの最近の夢二研究や、私の調査などを加えながら、袖井の問題提起の検討から始めて、最期に夢二の発言に論及したい。夢二の社会的活動の最後の時期と言えるこの時期の、彼の思想や意識のあり方を明らかにしたいのである。(つづく)

(編者注)女子美術短期大学・大学院博士・西恭子先生の論文「昭和8年の夢二の訪台 『台湾日々新報新資料による」は、都合により延期します。

 

■夢二の世界■

PART 3 KAWAIIの世界」(「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より)

57 コラム「“かわいい”から“Kawaii”へ 夢二が及ぼした影響」

 夢二は主に少女や女学生をターゲットにして、港屋絵草紙店などで展開した雑貨類と、抒情画にみる少女イラストレーションの二つの要素において独自の“かわいい”を発信しました。現代の少女たちの感性にも呼応する“かわいい”を、100年前の大正時代に形づくり、今日への流れを創った夢二は、日本の少女文化における“かわいい”の元祖といえるでしょう。

 大正期に夢二が形成した“かわいい”スタイルを引き継ぎ、さらに進化させた画家やイラストレーターを紹介します。中原淳一・松本かつぢ・内藤ルネ・水森亜土は、夢二と同様に個性的な少女像を描き、またデザインしたグッズ類も数多く販売されて、またデザインしたグッズ類も数多く販売されて、時代を象徴する“かわいい”を表現しました。

▼「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より
本「かわいい手帖」Kawaiiへ (2)

 

■夢二の言葉■(☆は書かれたころの夢二の状態等の記載です。)

●無題(『夢二画集 夏の巻』1910年(明治43))

記憶よ なつかしい記憶よ 二人をつなぐものは おまえばかりだ 記憶よ なつかしい記憶よ

☆夢二はこの年の1月から、前年に協議離婚した妻他万喜と同棲を開始します。前年末に「夢二画集 春の巻」が大ヒットした後、画集の連続刊行に進む絶好調の夢二でした。

●「小曲七章」より(『文章倶楽部』1919年(大正7)2月号)

二人おば 一つにしたと思うたは つい悲しみの時ばかり。

☆京都に彦乃と駆け落ちした夢二は、この前年の秋に北陸の旅をして、金沢湯涌温泉で生涯唯一の至福の3週間を送りました。京都に戻り、「第二回夢二作品展覧会」の準備を始めますが、この年の34日、突然彦乃の父が現れ、彦乃は東京に連れ戻されてしまいます。

 

■夢二情報■

●田端文士村記念館の企画展「多種多彩!!田端画かき村の住人たち」

チラシには『婦人グラフ』4月号表紙が使用され、企画展では夢二が紹介されています。

https://kitabunka.or.jp/tabata/news/11067/

●越懸澤麻衣著『大正時代の音楽文化とセノオ楽譜』が228日発売予定!

西洋音楽と遭遇した大正時代、そこには楽譜があった!

聴こえては流れてゆく「音」を五線譜で出版し、かつて一世を風靡したと言われるセノオ楽譜とは何か?

そして、主宰に飾った竹久夢二との関係など、大正時代の西洋音楽受容の様子を活写する!

(「近刊検索デルタ」より)者・妹尾幸陽とは一体何者なのか?

楽譜の表紙を鮮やか

https://honno.info/kkan/card.html?isbn=9784867800096

 本展覧会では、夢二が表紙絵を手がけ、セノオ音楽出版社から発行された「新小唄」や「セノオ楽譜」を中心に、夢二の作詞曲や同時代の楽譜などもあわせて展示します。なお、妹尾 幸次郎筆 竹久夢二宛書簡(昭和9年)も当館初公開します。

https://www.kanazawa-museum.jp/yumeji/exhibit/index.html

●企画展「夢二が描いた 心ときめく花と暮らし」開催!(竹久夢二美術館)16日(金)~326日(日)

日本では古くから、四季折々の花が生活に喜びや潤いを与え、芸術作品の主題として扱われてきました。

画家・詩人として活躍した竹久夢二(1884-1934)も、暮らしの中の花から着想を得て、絵画やデザイン、詩歌などにおいて幅広く表現しました。夢二が描いた花は可憐な姿で鑑賞者を癒してくれます。さらに自身の心情と花の印象が結びついて生まれた詩は、時には香りや触感までも思い出させ、花にまつわる記憶を呼び起こしてくれます。また図案化された花は日用品を装飾して暮らしを彩り、その洗練されたデザインは現代でも高い評価を得ています。

本展では、花をテーマにした夢二作品に加え、明治後期~昭和初期の雑誌より、花を楽しむ文化を展示紹介します。

https://www.yayoi-yumeji-museum.jp/yumeji/exhibition/next.html


●夢二の雰囲気に包まれてオリジナル懐石を楽しめる!――神楽坂「夢二」

https://www.kagurazaka-yumeji.com/