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■メッセージ■
2月18日(土)、東京・目白にある「ギャラリーゆめじ」にて、昨年10月27日に逝去された竹久夢二の孫・竹久みなみさんの追悼会「竹久みなみさんを偲ぶ会」が夢二研究会(坂原冨美代代表)の主催で開催されました。竹久夢二美術館服部聖子館長・石川桂子学芸員、株式会社港屋・大平龍一社長、お茶の水女子大学袖井孝子名誉教授(「夢二 異国への旅」ほかの夢二関連書著者・袖井林二郎氏の奥様)そして「夢二研究会」創設者の一人であり、会場の会長でもある藤原利親氏など19名が参列しました。岡山からは、みなみさんの菩提を護ることになる縁者上野茂夫妻も駆けつけていただきました。山形県酒田市の「舞娘茶屋
相馬樓/竹久夢二美術館名誉館長」も務めたみなみさんを、動画や写真の映写などを交え、染色、俳句作りと89歳まで大活躍した故人を偲びました。東京・両国にある東京都復興記念館(東京都慰霊堂)には、故人が寄贈した竹久夢二の「東京災難畫信」(関東大震災発生時の新聞連載画文集)が常設展示されています。
■竹久夢二の素顔■
●望月百合子(1)(『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)の「竹久夢二の思い出」より)
(注)本文は、望月百合子が『婦人公論』第59巻4号(1974年(昭和49)(婦人公論社)初出、『限りない自由を生きて』(1988年(昭和63)(ドメス出版)に掲載したものです。
・お葉さん
竹久夢二が生れて今年で90年、亡くなってから40年というが、私にはとてもそうは思えない。松原の疎林の中のアトリエに行けばあの憂鬱な黒い詩情をもみなぎらせた顔が今も見られるような気がしている。
大正8年女学校を卒えた私はその秋短歌を楽しむ春草会の例会で初めて夢二に逢った。菊富士ホテルの夢二のアトリエだった。歌会が始まる前、一人の美女が風のように入ってきた。淑やかに三つ指をつくとお茶を配りはじめたが誰も誰も息をのむ格好、グレイにあずきをかけたような渋い小紋に橙色の重ね着、ふっくらとしたフキを揃えて坐った後ろ姿のあでやかさ、夜会巻の襟足の美しさ、ほっそりと白い夢みる顔、今夢二の絵から抜け出して来たかと疑うばかり、思わず舞踏の「京人形」を瞼に浮かべた。
会が果てての帰りみち、菊坂を降りながら今みた美女は何歳だろうと話し始めた。二十七、八、という人、十九か二十という人、二十二、三では、とみんなまちまち、中には三十をこしている、とみた人もあった。妖精かもね、というひともいたが、この美女が十七歳のお葉、夢二が名前まで自分好みにつけ代えた三番目の妻になった人だった。この年の夢二の大作「砂時計」の女達の衣裳はあの時のお葉の衣裳の色そのままだ。
こんな美女を傍におきながらも夢二の心はつい目と鼻の先の病院に病み臥している彦乃のことでうつうつとたのしまなかったようだ。彼が必死の思いで祈ったのに年を越すと間もなく彦乃は消え入るように呼吸を止めてしまった。
順天堂病院に彦乃が居なくなると、夢二も菊富士ホテルを引払って渋谷の方にお葉と家を持った。それからは春草会にもよく出席するようになったがいつでも暗く沈んだ顔でめったに微笑すらみせなかった。しかしこの頃は作品の数は多く、たまきから始まって彦乃お葉と洗練してきたいわゆる夢二式の美女の定型がいよいよ冴えて来て、女の顔はお葉、子供を描けば次男チコこと不二彦の顔になっていた。
幼い頃から見てきた夢二の絵には今迄誰も表現し得なかった何か夢幻的なムードが漂っていて詩を読むようで好きだったが、心の隅には非難めいた思いが絶えず動いていた。
ある時銀座の飾窓で夢二の長崎の絵をみつけ、つれ立っていた安成二郎(やすなりじろう)に話しかけた。
「夢二さんて、どうしてあんなデカダンの絵ばかり描くのかしら」
「あの人にはそういう一面が、というよりもあの人の半分がそうなんだと言うべきかな」と言い数日後に私が夢二の次の二首の歌を教えてくれた。
絵筆折りてゴリキーの手をとらんには あまりに細き腕とわびぬ
醜の世を屠(ほう)れと神のたまひしか 絵筆はあまりうつくしうして
私にはそれが不満だった。その頃画家の望月桂(もちづきかつら)が「生活即芸術、芸術即生活」を旗印に黒耀会を結成し、「詩情なき人生は生けるミイラだ。凡てのこの人類にあらゆる奪われた芸術生活を自らの手で取り戻す」と宣言して演劇や書や画による革命運動を始め、大杉、堺はむろんのこと有島武郎、生田春月、藤村までが参加しているのに夢二は顔も出さなかった。(つづく)
※デカダン:19世紀末から20世紀初頭にかけて、パリを中心にヨーロッパに起こった芸術上の一傾向。 反権威主義、反道徳主義、悪魔主義、病的趣味など反既成を特徴とする。
ランボーやボードレール、イギリスのワイルドなどに代表される。 ② 一般に、頽廃的な傾向を帯びた事象、事物。(「精選版
日本国語大辞典」
※安成二郎(やすなりじろう):
1886-1974 大正-昭和時代の歌人,ジャーナリスト。明治19年9月19日生まれ。安成貞雄の弟。「実業之世界」編集長,「読売新聞」「大阪毎日新聞」記者をつとめ,のち平凡社に勤務。かたわら「近代思想」「生活と芸術」などに生活派短歌を発表した。徳田秋声に師事した。昭和49年4月30日死去。87歳。秋田県出身。作品に歌集「貧乏と恋」「夜知麻多(やちまた)」など。(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)
■夢二の台湾旅行関係資料の紹介
論文「台湾の夢二 最後の旅」(ひろたまさき著)(2)
全編を一気にお読みになりたい方はこちらをどうぞ。 ⇒ http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/81599/1/ifa016009.pdf
1 夢二と武二
台北における夢二と武二の出会いの場面を、袖井は次のように「想像」している。
「昇る武二、沈む夢二」という小見出しをつけて、
「よく生きて帰ってきたな」と」藤島は言ったかもしれない。夢二は「先生の訪台は何の御用で?」と聞いただろう。藤島は今上天皇の即位を祝う絵を皇太后より下命され、「日の出」をテーマにしたのはいいが、気に入った景勝の地が見つからず、日本各地を訪ねたあと、台湾にやってきた。「水平線にできるだけ近い新しい赤い太陽でなければならないのだよ」と語った。夢二は心の中で、先生は日の出のように昇り、俺は落日のように沈むのかとつぶやいたにちがいない。藤島の努力はやがて内蒙古の砂漠に昇る太陽を描く『旭日照六合』に結実するが、それは1937年のことで夢二が生きてそれを見ることはなかった。
(同書 283-284頁)
史料にもとづいて史料そのものが語らないところをいろいろと想像することは歴史の真実に迫っていくための必須の作業だろう。ことに人の心理などを想像することは一番の困難であるが、それだけに真実を浮き上がらせるために重要である。しかしその作業はつねに、他の史料や歴史事象との関係のなかで解いていかねばならないし、問い返されなければならない。この袖井の想像は武二の回想記を下敷きにしていて、当時の時勢を肯定的に生きている日本の画家たちの姿としては、妥当な想像図と言えるかもしれない。しかしそこに夢二の個性を置いたらどうであろうか。袖井はこのように描くことによって、従来の高く評価されてきた夢二像を批判し、それとは別な夢二の個性を描こうとしたと思われるが、それは武二と夢二のそれまでの関係から必然的に生まれる図であろうか。さらにまた、1930年代の日本及び台湾の状況との関係を考えればどうであろうか。つまり、袖井のこの一節は夢二像に関する核心的な問題提起と言えるのではなかろうか。私のこだわるのは「昇る武二、沈む夢二」とつぶやいたにちがいないという「夢二の心の中」である。袖井のこの問題提起を刺激剤にして、そこでの武二と夢二の関係を歴史的に深めたい。
藤島武二が訪台した主たる目的は二つあった。一つは右に描かれたように、「日の出」の画材を探すためであり、しかし第一には「台展」の審査委員として招請されてその任務を果たすためであった。まず画材調査の問題から検討しよう。
武二は1928年に岡田三郎助とともに、皇居に飾るための絵画の制作を依頼されていた。彼は「日の出」をテーマにしようと決めてその準備に取りかかり、画材を求めて内地各地を歩いたが気に入らず、植民地にまで足をのばしてきたのである。台湾について言えば、彼はこの時が初めての訪台で、そのあと35年にもやってきて『旭日』という作品を仕上げている。当時「日本一」たかいとされた「新高山」(明治天皇の命名とされる。現在の名称は「玉山」)の日の出を描いたものである。しかし彼はそれにも満足せず、結局37年に内蒙古の砂漠に昇る太陽を描き、『旭日照六合』と題して皇室に献上した。その時に彼は「内蒙古の日の出」という題で「日本といふ文字の現はす日の本の意味からも、国旗の旭日からも、日の出こそは最も日本の国を象徴するに相応しい」との感想を書いているが、この年、7月7日の盧溝橋事件をきっかけにして日中戦争が全面化する状況の中で、同年12月に完成したこの作品は、大日本帝国の版図拡大の最前線の日の出を国の象徴として描いたということになろう。「六合」は天地とか宇宙のことだから、『旭日照六合』という題目は、大日本帝国が世界を照らすということである。皇威を最前線に及ぼす、皇威を人の住まない砂漠にまで、世界あまねく及ぼす図と理解できよう。つまり、33年に夢二と会って台湾での画材調査を話題にした時も、武二の思いはこうしたイメージの線上にあったと言えるのではなかろうか。武二はこの後、日本で最初の文化勲章を受ける。文化人として最高の名誉を天皇から受けるのである。38年には大日本従軍画家協会の成立に関与し、39年には陸軍美術協会の副会長(会長は軍人)として「興亜国策」のために先頭に立ち、小磯良平たち教え子を戦場に送り出すことになる。彼は1943年に病没した。
ちなみに、武二はこの時期に「日の出」をテーマにした風景画を各地で描いたのだが、高階秀爾は、『日本近代美術史論』で藤島武二を取りあげて彼の生涯にわたる絵画制作を論じて絶賛しながらも、この「日の出」シリーズには一切触れていない。というより15年戦争期については触れていないのである。美術として評価していないと言える。児島馨『藤島武二』は、武二のオリエンタリズムの視点を指摘するとともに、このシリーズについては、「この間に描かれた数々の風景画は、自ずと日本の(占領下を含めた)国土を日の出のものに刻印してゆくものとなった」と、その帝国主義的な意味や戦争責任の問題があることを示唆している。
ところで竹久夢二と藤島武二の関係は古くさかのぼる。
夢二が上京した1901年よりも前から武二はすでに有名であった。1891年、明治美術会第3回展に出品した『無惨』が森鴎外に激賞されて以来世間の注目を集めた彼は、1896年に東京美術学校・西洋学科・主任教授の黒田清輝の推薦で同校の助教授に任命されたし、それ以来黒田らが結成した白馬会の展覧会には毎回、意欲的な作品を出して評価を高めていた。しかし、上京した夢二がまず魅せられたのは、その年から一条成美の死後を継いで武二が描くこととなった雑誌『明星』の表紙絵や挿絵であった。ロマンチックなアールヌーボー風の絵画、なかでもその美人画であったと思われる。夢二は独学で画法を習得していたのだが、まだそれを職業にすると決意していない時期から、武二の絵に出会ったのであり、夢二が魅せられてそれを手本に勉強し始めたのである。夢二が描いた絵を始めて世間に示したのは、1905年6月4日の『読売新聞』での「可愛いお友達」というコマ絵であるが、続いて『平民新聞』の継続紙『直言』に戦争批判のコマ絵『勝利の悲哀』などを載せる。同じく『中学世界』に投書してコマ絵「筒井筒」が一等に当選したのが同年6月20日号であったが、そこで初めてペンネームに「夢二」を使ったのである。それは藤島武二の名に似せたとされるが、それだけ武二に魅せられ尊敬していたと言えよう。武二主宰の白馬会研究所に通ってアカデミックな画法を学ぼうとしたのがこの頃のことである。台北のホテルで、夢二が武二を「先生」と呼ぶのは自然のことだったであろう。
しかし武二が1905年から1910年までパリに留学生として政府から派遣されたこともあって、白馬会研究所へは行かなくなる。研究所で武二とどのように接する機会があったかわからないが、武二のロマン主義に大きな影響を受けたことは間違いない。しかし、武二の留学以降は、その画風から影響を受けることもなくなったのではないかと思われる。武二帰国の前年、1909年に『夢二画集・春の巻』が出版されて、爆発的な人気を呼び、夢二は自己流の画法でやっていく自信を持ったのである。もちろん彼はその後も絵画制作の研鑽に務めているが、岡田三郎助から、君の絵はもう完成しているというようなことを言われたことも自信になっただろう。武二に学ぶ必要はなくなったのである。もっとも、武二の弟子たち、ことに恩地孝四郎や有島生馬らとの交流があったから、夢二には武二の存在がつねに意識されていただろうが、それはもう世界の違うところにいる偉い先生という意識以上のものではなかったのではないかと思われる。1924年に同棲していたお葉が喧嘩で家出して武二宅へ逃げ込んだ事件が武二の回想に暴露されているが、そこでは「さう云ふ事件で度々私はお目にかかった。さうして私はさう深く交際をして居なかったのでありますが、夢二君の純な心持と云ふものは、能く諒解して居た一人であると思ひます。あゝ云ふ非常にフアンの多かった事も故ある哉と考へて居ります」と、夢二追討の場にもかかわらず、かれの画業には一切触れず「斯う云ふ席上で、お話して宜しい事か、どうか分かりませんけれども何かの参考になるんじゃないかと思ひまして」と断りながら、からかい気味に喋っている。「純な心持」というのもとってつけたような言いぶりである。この追悼文(スピーチ)にはもう一つエピソードが紹介されていて、それが台北での出会いである。
夢二は展覧会をやるために来たようだが、「所がだいぶん時代も移って居りまして、殊に辺鄙な台湾の事でございますし、其頃夢二式の絵に憧れて居ると云ふ夫人は殆ど見当たりませんでした。反響が少し薄い様な傾きであった」、しかしホテルの前のバーの女給が熱心な夢二ファンだったので夢二に紹介すると、女給も夢二も大変喜んだという話である。夢二人気が衰退していたとう話である。また1930年に夢二が「榛名山産業美術研究所」を設立しようとした際に募った賛助会員の一人として、有島生馬とともに藤島武二の名がみられる。おそらく親交厚かった有島が先生である武二に賛助会員に名を連ねてくれるように依頼したものであろう。回想記を見るだけでも、武二がどれだけ本心から賛同したかは疑わしい。
武二は、1896年に東京美術学校の助教授に任命されるが、それは大日本帝国の官吏という性格も持つことであった。そして、1913年に政府から1ヵ月の朝鮮出張を命ぜられたのは、植民地化して間もない朝鮮を、芸術の分野から研究調査して、日本による支配、同化政策の推進を図るための準備を命ぜられたことを意味した。1924年に黒田清輝が死去して、岡田三郎助らとともにその後継者の位置に立った武二は、文部省美術展覧会(略称「文展」、19年から「帝展」、37年から再び「文展」、46年以降は「日展」)の制度改革を求めた1914年の二科会事件で教え子たち若い世代の画家の反乱に直面した時は彼らに同情するところがあったようであるし、その頃彼は「芸術は絶対なる自由性を持っている」と言って、芸術至上主義というか自由主義的な発言もしているが、結局は「文展」の指導者、すなわち文部省側にとどまっている。その「自由」観念は彼の立ち位置と矛盾するはなかったというべきであろう。国家意識あるいは帝国意識と同居できたのである。その後、彼は帝国美術院の重鎮として国家び文化政策を推進していく中心的な地位に在り続けたのであり、国内のみならず朝鮮美術展や台湾美術展の審査委員に任じられることも、むしろ当然の任務として引き受けていたのである。夢二が台湾で出会った武二は、そうした日本美術界も戦争体制に巻き込まれていくときのその大御所であった。
武二にとって人気衰退した夢二は歯牙にもかけぬ存在だっただろう。だから夢二と美術論議をしていないのであるが、夢二にとって武二は日本美術界の大御所であった。しかしそれは自分とは異質な存在であって、武二と自分とを比較することなど思いもしなかったであろうし、夢二の方も美術論議をする気はなかったであろう。お葉の件では武二に恥ずかしい所を見られている。しかもこの4年前の1929年の日記に、「芸術家であることが誇りだった時代もある。画家たらんとした時もある。今はただ一人の人間でよろしい。累々たる絵を描くシルクハットを被った紋付袴の帝室技芸職人のなんと多いことよ」と夢二は書きつけている。その前年に武二と岡田三郎助が皇室から制作を依頼されているから、そのことが念頭にあっただろうことは十分考えられる。そもあれそうした「帝室技芸職人」への批判的な感想は、ヨーロッパへ行った時に「地位が故人に魔力を与へる、権力」(『夢二外遊記』)と書きつけた、おそらくヒトラー批判と思われるこの文章とつながっているのではなかろうか。権威や権力に対する反感は欧米旅行を経て一段と強められたと思われる。つまり台北では夢二にとって武二は、先生は先生でも、かつての魅力的で尊敬すべき絵の先生ではなかったというべきであろう。武二が「日の出」の話をした時、夢二には「帝室技芸職人」という、かつて自分が使った言葉が脳裏によみがえってきていたのではなかろうか。彼はきわめて複雑な気持ちで武二に相対していたのである。(つづく)
■夢二の世界■
PART 3 「KAWAIIの世界」(「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より)(最終回)
58 まとめ「夢二が大正時代に表現した“かわいい”の特徴」
◎少女文化の“かわいい”は夢二が元祖
雑貨や抒情画を手がけた夢二は、少女や女性を意識した「かわいい」を100年前に発信!
夢二の「かわいい」は目に見える要素や外見にも増して、内面を大切にし、心を豊かにする点を重視しています。
◎ゆるカワ系も夢二におまかせ♪ゐ本。
夢二の線と色遣いは、丸みを帯びたやわらかな描線と淡くやさしい色彩が基本。
写実から離れたシンプルな表現は心が和みます。
◎大正時代の“かわいい”は①可憐&はかない
良妻賢母志向が強く、女性の生き方に制約が多かった時代の風潮を反映し、大正時代の“かわいい”は、夢二が描く抒情画のように“可憐”で“はかない”イメージが色濃く表れています。
◎大正時代の“かわいい”は②ハイカラ
アール・ヌーヴォー様式やファッションなど、いち早く西欧の美術様式や文化を取り入れた夢二。
日本の近代化に伴い和から洋へと移り行く時代を先取りして、ハイカラ(西洋風)な表現を試みました。
(編者)長期にわたり、石川桂子様のご厚意により書籍一冊まるまるお届けしました。夢二の生み出した“かわいい”をご理解いただけましたでしょうか?いまや世界語になっている“Kawaii”ですが、夢二以降、多くの人々がこの流れを継承し、様々な分野で発展を遂げ、世代間の共通語としても大いに活躍して日本人を代表する感性を表す言葉となっています。これからもこの優しさを大切にしていきたいですね。
■夢二の言葉■(☆は書かれたころの夢二の状態等の記載です。)
●「垣根」(『女学世界』1919年(大正8)10月号)
ただお友達になって遊びましょうね。 お友達の垣根を越えないように そうでないと 別れる時が辛いんですもの。
☆彦乃が京都から東京へ連れ戻され、順天堂医院に入院。夢二は病院の近くの菊富士ホテルに引っ越しますが、逢えない辛さの中で苦悩します。そんな夢二を心配した友人が人気モデルお葉を紹介しました。
●「夢二日記」より(1920年(大正9)6月5日)
二つの肉体の一つが死んでも 愛は残る。
☆この年の1月16日、夢二の最愛の女性笠井彦乃は、夢二に見守られることもなく順天堂医院で世を去りました。
■夢二情報■
●田端文士村記念館の企画展「多種多彩!!田端画かき村の住人たち」
チラシには『婦人グラフ』4月号表紙が使用され、企画展では夢二が紹介されています。
https://kitabunka.or.jp/tabata/news/11067/
●越懸澤麻衣著『大正時代の音楽文化とセノオ楽譜』が2月28日発売予定!
西洋音楽と遭遇した大正時代、そこには楽譜があった!
聴こえては流れてゆく「音」を五線譜で出版し、かつて一世を風靡したと言われるセノオ楽譜とは何か?
そして、主宰に飾った竹久夢二との関係など、大正時代の西洋音楽受容の様子を活写する!
「近刊検索デルタ」より)者・妹尾幸陽とは一体何者なのか?
楽譜の表紙を鮮やか
https://honno.info/kkan/card.html?isbn=9784867800096
●企画展「夢二が描いた 心ときめく花と暮らし」開催!(竹久夢二美術館)3月26日(日)まで
日本では古くから、四季折々の花が生活に喜びや潤いを与え、芸術作品の主題として扱われてきました。
画家・詩人として活躍した竹久夢二(1884-1934)も、暮らしの中の花から着想を得て、絵画やデザイン、詩歌などにおいて幅広く表現しました。夢二が描いた花は可憐な姿で鑑賞者を癒してくれます。さらに自身の心情と花の印象が結びついて生まれた詩は、時には香りや触感までも思い出させ、花にまつわる記憶を呼び起こしてくれます。また図案化された花は日用品を装飾して暮らしを彩り、その洗練されたデザインは現代でも高い評価を得ています。
本展では、花をテーマにした夢二作品に加え、明治後期~昭和初期の雑誌より、花を楽しむ文化を展示紹介します。
https://www.yayoi-yumeji-museum.jp/yumeji/exhibition/next.html
●企画展「夢二の楽譜 ―大正・昭和初期の作詞曲と表紙絵―」(金沢湯涌夢二館)3月12日(日)まで
竹久夢二(1884-1934)は、明治末期から昭和初期に活躍した詩人画家です。夢二が作詞した「宵待草」は、多忠亮(おおのただすけ)の作曲により大正7年(1918)に「セノオ楽譜」のシリーズから出版され、大正時代を代表し、今なお愛唱される流行歌となりました。この「宵待草」を現在の歌詞で掲載した夢二の処女詩集『どんたく』は大正2年に刊行され、2023年はその刊行から110年目となります。これを記念して、夢二の楽譜をテーマとした展覧会を開催します。
本展覧会では、夢二が表紙絵を手がけ、セノオ音楽出版社から発行された「新小唄」や「セノオ楽譜」を中心に、夢二の作詞曲や同時代の楽譜などもあわせて展示します。なお、妹尾幸次郎筆 竹久夢二宛書簡(昭和9年)も当館初公開します。
https://www.kanazawa-museum.jp/yumeji/exhibit/index.html
●企画展「松田基コレクションⅫ こども学芸員が選ぶ夢二名品展/特別公開―山水に遊ぶ―」(夢二郷土美術館)3月5日(日)まで
松田基(1921~1998 岡山の実業家、両備グループ元代表)は竹久夢二(1884-1934)の里がえりを念じて作品を蒐集し、1966年に夢二郷土美術館を創設しました。そのコレクションは3000点以上で肉筆作品を中心に夢二作品において随一を誇ります。本展では松田が蒐集したコレクションから選りすぐりの夢二の名品のほか、夢二以外の作家の作品から特別公開として竹内栖鳳、浦上春琴らの描く山水の世界をご覧いただきます。
今年で11回目となる当館で活動する「こども学芸員」が選んで解説を書いた夢二作品の展示も行います。こどもの視点から紡ぎだされる夢二作品の素直な感想や解釈にふれ、感情を揺さぶられるような体験をしてみませんか。こども学芸員が11年目を迎えた本年度、新たに誕生した「夢二アンバサダー」とともに開催する特別イベントなど、こども学芸員の活動にもご期待ください。
https://yumeji-art-museum.com/honkan/
●夢二の雰囲気に包まれてオリジナル懐石を楽しめる!――神楽坂「夢二」
https://www.kagurazaka-yumeji.com/
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