※ビジュアル夢二ブログ「夢二と台湾」⇒ https://jasmineproject.amebaownd.com/
■メッセージ■
挿絵動画「夢二 台湾の印象」の冒頭とエンディングを台湾に行き来する船上の夢二にしようと思い、イメージを整えるため横浜・山下公園の氷川丸に行って見ました。平日なので人が少なく、静かにデッキチェアに座って当時の夢二を想像することができました。船旅は40年前に「青年の船」で2か月間中近東往復の旅をしたので感じはわかります。何日も海原ばかり見て過ごし、陸が見えると感動して思わず笑顔になる……。あんな旅はもうできないだろうなあと思いながら、特別なひとときを過ごしました。
すっかり昭和初期の気分になって下船しようとすると、向こう岸にいる巨大なガンダムが目に飛び込んできました。立っていたガンダムがだんだんしゃがんでいきます。これまた感動。動いているのを見るのは初めて。ガンダムも将来は重要文化財になるのかなあ、などと思いながらしばらく写真を撮り続けていました。
■竹久夢二の素顔■
●望月百合子(1)(『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)の「竹久夢二の思い出」より)
(注)本文は、望月百合子が『婦人公論』第59巻4号(1974年(昭和49)(婦人公論社)初出、『限りない自由を生きて』(1988年(昭和63)(ドメス出版)に掲載したものです。
丁度また夢二が春草会の当番月であったが私がフランスへ遊学するというのでその送別も兼ねて新宿の料亭を会場に選んでくれた。「フランスでは美しいものをたくさん見て来なさい。生きるってそれだけだからね」と夢二は珍しく口を開いた。だのに未熟な私はむらむらと不満で胸をふくらませて、「ほんとは私、ロシア革命の後を見に行きたいんだけどあの国には行けないからせめてヨーロッパからでも隙見できたらと思うの。フランスだって昔革命したでしょ。今それがどういう結果になっているかも見て革命ということをよく考えてみるつもりなの」と反抗的な調子で露骨な言い方をした。
フランスでの私は僅かに有島武郎と時たま消息を告げあうだけで全く日本から離れていた。パリではロシア人の盲詩人エロシェンコが毎日私のマンションに現れたりドイツ旅行中に片山潜に出あったり、それに私が自分の家のようにしていたルクリュ家にもロシアの亡命者夫妻がいたので、ボルシェビキ側からもその外側からも革命ロシアの状態をうかがい知ることができて、クロポトキンやエリゼ・ルクリュが、みんなの人がいかなる社会を創造するか、そのイメージをしかと持った革命でなければ犠牲が大きいだけでただの変化にすぎない、と言っていることに心から同感できて今までの革命、革命と思いつづけた自らの未熟さとその恐ろしさを悟った。
何年ぶりかで東京へ帰った私がまっさきに顔を出したのは春草会だった。この会は心から短歌を愛し楽しむ人々だけの集りで誰も偉がらず、私はその駘蕩(たいとう)ムードが好きだった。何年音信が絶えていようと昨日も会ったような顔で迎えられた私に夢二は短冊を書いてくれ「ほらご褒美」と黒い顔に白い歯を見せた。
・少年山荘で
その頃夢二は松原村に住んでいた。やがて私もその近くの千歳村に家を建てると夢二は道順をかいて遊びにおいでと誘ってくれた。下高井戸の停留所から南側のだらだら坂の小径を下りて反対側を登るとすぐ左側の疎林の中に表札をみるまでもなくそれとわかる夢二の家。細長い建物に沿ってゆくとつき当りのカギの手になった所に玄関らしい入口、声をかけると現れたのがお葉。普段着の何気なさがもうお人形でない人妻の落つきとゆたけさを備えていた。夢二は家の中や庭を案内しながらいつになく明るく話しかけた。アトリエの前で「この土台石はね、生馬さんのところから頂いたんだ」と指さした。には二は木瓜(ぼけ)の大株や傘状に形づくった花木があったりここにも夢二の詩魂がこめられていた。
「フランスでは画をたくさん見たの?」
「ええ、ヨーロッパの主な美術館や寺院のはね」
「いいなあ、僕も見に行くかな。ツグジ君は元気だった?」フジタ・ツグジのことである。
「あの人、奥さんによく持ち逃げされてアトリエで泣いていることがあるんですって」
「奥さんて日本人の筈だが」
「そうよ。他に恋人ができるとフジタさんがせっかく描きためた絵を持ち出して家出してしまうんですって」
「ふうん」夢二は妙に感動したが後できいた話ではお葉もそうだということだった。そして暫くするとけろりと帰って来て何事もなかったように主婦の座にもどるのだそうだ。フジタの場合もまったくその通りだったようだ。ただお葉は夢二の絵を持ち出しはしなかった。この訪問から春草会とは別に夢二との友達づきあいが自然とはじまった。(つづく)
※エロシェンコ:ヴァスィリー・ヤコヴレヴィチ・エロシェンコ。1890年1月12日 - 1952年12月23日)。ウクライナ生れ。エスペランティスト、作家、言語学者、教育者。麻疹により4歳で失明し、9歳の時にモスクワに行き盲学校に入った。15歳のころからエスペラントを学ぶ。世界各地をエスペラントの助けを借りて旅した。1914年には、日本では視覚障害者がマッサージ(あんま)により自立しているとのことを聞いて来日し、東京盲学校(現在の筑波大学附属視覚特別支援学校)で学んだ。日本では盲学校生の間にエスペラントを広めた。
1914年5月11日に東京盲学校を訪ね、按摩術とマッサージ研究のための入学を許可される。日本語が上手で、生徒と按摩の練習をしたり、話しあったり、相撲で遊ぶこともあった。盲学校の生徒を対象に、エスペラントの講習会を何回も開いた。熱心に学んだ人たちに、鳥居篤治郎、平方龍男、新津吉久、斎藤武弥・百合夫妻、三谷復二郎、熊谷鉄太郎、今関秀雄らがいる。1916年4月 盲目の詩人エロシェンコ、秋田雨雀と水戸に講演旅行を行い、5月6日には築地盲人技術学校で開かれた中央盲青年会でも講演をした。
その後、ロシア革命の影響でボルシェヴィキとして国外追放された。1919年の夏に上海を経由して再び日本へと逃がれた。日本語もよくできたので、日本語の児童文学の作品を著し、日本の進歩的な文学者の間で知名度があがった。中村屋で秋田雨雀・江口渙・神近市子ら多くの文化人と交流。この間に、恩義のある中村屋に母国仕込みのボルシチのレシピを教え、1927年の喫茶部開店の折には、ボルシチが人気メニューとして食通に迎えられているほか、店員の制服として彼の着用したルバシカが採用されている。1921年5月1日にメーデーと日本の社会主義者の会合への参加を理由に逮捕され、国外追放となり、敦賀からウラジオストクに送られた。そこからハルビン、上海、北京と移動し、魯迅などの知己を得て、1922年には北京大学でロシア文学について講演したり女子師範学校で講演したりした。
その後、モスクワに行き、8年ぶりに家族と再会する。そして、トルクメン共和国盲児童寄宿学校、モスクワ盲学校などで盲人教育関係の仕事をする。晩年は生まれ故郷に帰り、1952年に62歳で亡くなった。エスペランティストであるとともに帰国者という当局からは危険視される存在だったにもかかわらず、障害者であったためか大粛清などの弾圧を受けることはなかった。(wikipediaより。一部夢二関係部分補追・編集)
※フジタツグジ:(夢二より2歳年下の画壇に反抗した著名画家で夢二も関心を持っていたと思われ、その人生は非常に興味深いので長くなっています。)
藤田嗣治(ふじたつぐはる)のこと。藤田 嗣治(ふじた
つぐはる、1886年11月27日 - 1968年1月29日)は、日本生まれのフランスの画家・彫刻家。フランスに帰化後の洗礼名はレオナール・ツグハル・フジタ。
父・藤田嗣章(つぐあきら)(1854 - 1941年)は、大学東校(東京大学医学部の前身)で医学を学んだ後、軍医として台湾や朝鮮などの外地衛生行政に携り、森鷗外の後任として最高位の陸軍軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物。祖父の藤田嗣服は元田中藩士[1]。曽祖母は江戸時代の文人画家春木南湖の血筋である。兄の嗣雄(1885 - 1967)は朝鮮総督府や陸軍省に在職した法制学者・上智大学教授で、陸軍大将児玉源太郎の四女と結婚。
子供の頃から絵を描き始め、1905年に高等師範附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業した頃には、画家としてフランスへ留学したいと希望するようになった。
1905年(明治38)、森鷗外の薦めもあって東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)西洋画科に入学。しかし当時の日本画壇はフランス留学から帰国した黒田清輝らのグループにより性急な改革の真っ最中で、いわゆる印象派や光にあふれた写実主義がもてはやされており、藤田の作風は不評で成績は中の下であった。表面的な技法ばかりの授業に失望した藤田は、それ以外の部分で精力的に活動し、観劇や旅行、同級生らと授業を抜け出しては吉原遊廓に通いつめるなどしていた。
1910年(明治43)に同校を卒業。卒業に際して製作した『自画像』(東京芸術大学所蔵)は、黒田が忌み嫌った黒を多用しており、挑発的な表情が描かれている。なお精力的に展覧会などに出品したが、当時黒田清輝らの勢力が支配的であった文展などでは全て落選している。
1911年(明治44)、長野県の木曽へ旅行し、『木曽の馬市』や『木曽山』の作品を描き、また薮原の極楽寺(木祖村)の天井画を描いた(現存)。この頃女学校の美術教師であった鴇田登美子(鴇田とみ)と出会って、2年後の1912年に結婚。鴇田とともに榛名湖(群馬県)などを訪れた際に描いたと思われる油彩画『榛名湖』が2017年、鴇田の生家(千葉県市原市)の解体中の蔵から発見されている。
新宿百人町にアトリエを構えるが、フランス行きを決意した藤田は妻を残して単身パリへ渡航。最初の結婚は1年余りで破綻する。
1913年(大正2)に渡仏し、パリのモンパルナスに居を構えた。当時のモンパルナス界隈は町外れの新興地に過ぎず、家賃の安さで芸術家、特に画家が多く暮らしていた。藤田は、隣の部屋に住んでいて後に「親友」と呼んだアメデオ・モディリアーニやシャイム・スーティンらと知り合う。また彼らを通じて、後のエコール・ド・パリのジュール・パスキン、パブロ・ピカソ、オシップ・ザッキン、モイズ・キスリング、ジャン・コクトーらと交友を結びだす。フランスでは「ツグジ」と呼ばれた(嗣治の読みをフランス人にも発音しやすいように変えたもの)。フランス社交界で「東洋の貴公子」ともてはやされた、大富豪の薩摩治郎八との交流は藤田の経済的支えともなった。
パリでは既にキュビズムやシュールレアリズム、素朴派など、新しい20世紀の絵画が登場しており、日本で「黒田清輝流の印象派の絵こそが洋画」だと教えられてきた藤田は大きな衝撃を受ける。この絵画の自由さ、奔放さに魅せられ、今までの作風を全て放棄することを決意した。「家に帰って先ず黒田清輝先生ご指定の絵の具箱を叩き付けました」と藤田は自身の著書で語っている。
1914年(大正4)、パリでの生活を始めてわずか1年後に第一次世界大戦が勃発。日本からの送金が途絶え、生活は貧窮した。戦時下のパリでは絵が売れず、食事にも困り、寒さのあまりに描いた絵を燃やして暖を取ったこともあった。そんな生活が2年ほど続き、フランス領内に侵攻していたドイツ軍が守勢に転じて大戦が終局に向かい出した1917年(大正7)3月、カフェで出会ったフランス人モデルのフェルナンド・バレエと2度目の結婚をした。この頃に初めて藤田の絵が売れた。最初の収入は、わずか7フランであったが、その後少しずつ絵は売れ始め、3か月後には初めての個展を開くまでになった。
シェロン画廊で開催されたこの最初の個展では、著名な美術評論家であったアンドレ・サルモンが
序文を書き、良い評価を受けて、すぐに絵も高値で売れるようになった。翌年に第一次世界大戦が終結。戦後の好景気に合わせて多くのパトロンがパリに集まって来ており、この状況が藤田に追い風となった。
面相筆による線描を生かした独自の技法による、独特の透きとおるような画風はこの頃に確立。以後、サロンに出す度に黒山の人だかりができた。サロン・ドートンヌの審査員にも推挙され、急速に藤田の名声は高まった。
当時のモンパルナスにおいて経済的な面でも成功を収めた数少ない画家であり、画家仲間では珍しかった熱い湯の出るバスタブを据え付けた。多くのモデルがこの部屋にやって来てはささやかな贅沢を楽しんだが、その中にはマン・レイの愛人であったキキも含まれている。彼女は藤田のためにヌードとなったが、その中でも『寝室の裸婦キキ』と題される作品は、1922年のサロン・ドートンヌでセンセーションを巻き起こし、8000フラン以上で買いとられた。
このころ、藤田はフランス語の綴り「Foujita」から「FouFou(フランス語でお調子者の意)」と呼ばれ、フランスでは知らぬ者はいないほどの人気を得ていた。1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を贈られた。
2人目の妻、フェルナンドとは急激な環境の変化に伴う不倫関係の末に離婚し、藤田自身が「お雪」と名づけたフランス人女性リュシー・バドゥと結婚。リュシーは教養のある美しい女性だったが酒癖が悪く、夫公認で詩人のロベール・デスノスと愛人関係にあり、その後離婚する。
1931年(昭和6)には、新しい愛人マドレーヌを連れて個展開催のため、南北アメリカへに向かった。ヨーロッパと文化、歴史的に地続きで、藤田の名声も高かった南アメリカで初めて開かれた個展は大きな賞賛で迎えられ、アルゼンチンのブエノスアイレスでは6万人が個展に訪れ、1万人がサインのために列に並んだといわれる。
その後、1933年(昭和8)11月17日横浜港に帰国。(この日、夢二が台湾から神戸港に戻った)1935年(昭和9)に25歳年下の君代と出会い、一目惚れして翌年5度目の結婚をして、終生連れ添った。翌年、旧友ジャン・コクトーが世界一周の旅で日本に滞在した際藤田と再会し、相撲観戦や夜の歓楽街の散策を供にした(その時、藤田の案内で学生絵画グループ「表現」が銀座の紀伊国屋画廊で開催していた展覧会を訪れ、ジャン・コクトーが大塚耕二の作品を称賛した)。
1938年からは1年間、小磯良平らとともに従軍画家として日中戦争中の中華民国に渡り、1939年(昭和14)に日本に帰国した。
その後再びパリへ戻ったが、同年9月には第二次世界大戦が勃発。翌年5月23日、ドイツにパリが占領される直前にパリを離れ、同年7月7日、再度日本に帰国した。その後、太平洋戦争に突入した日本において陸軍美術協会理事長に就任することとなり、戦争画の製作を手掛けた。南方などの戦地を訪問しつつ『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』(題材はノモンハン事件)や『アッツ島玉砕』(アッツ島の戦い)などの作品を書いた。
このような振る舞いは、終戦後の連合国軍占領下の日本において「戦争協力者」と批判されることもあった。また、陸軍美術協会理事長という立場であったことから、一時はGHQからも聴取を受けるべく身を追われることとなり、千葉県内の味噌醸造業者の元に匿われていたこともあった。その後、1945年(昭和20)11月頃にはGHQに見い出されて戦争画の収集作業に協力させられている。こうした日本国内の情勢に嫌気が差した藤田は、1949年に日本を去ることとなる。
傷心の藤田がフランスに戻った時には、既に多くの親友の画家たちがこの世を去るか亡命しており、フランスのマスコミからも「亡霊」呼ばわりされるという有様だったが、その後もいくつもの作品を残している。そのような中で再会を果たしたパブロ・ピカソとの交友は晩年まで続いた。1955年(昭和30)にフランス国籍を取得(その後、日本国籍を抹消)。1957年、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られた。
1959年(昭和34)にはランスのノートルダム大聖堂でカトリックの洗礼を受け、シャンパン「G.H.マム」の社主のルネ・ラルーと、「テタンジェ」のフランソワ・テタンジェから「レオナール」と名付けてもらい、レオナール・フジタとなった。またその後、ランスにあるマムの敷地内に建てられた「フジタ礼拝堂」の設計と内装のデザインを行った。1968年(昭和43)1月29日にスイスのチューリヒにおいて、ガンのため死亡した。遺体は「フジタ礼拝堂」に埋葬された。日本政府から勲一等瑞宝章を没後追贈された。(wikipediaより一部補追・編集)
※駘蕩(たいとう):さえぎるものなどがなく、のびのびとしているさま。(「goo辞書」)
※ゆたけさ:文語の「豊けし」が、接尾語「さ」により体言化した形。「豊けし」は、気持ち・態度などにゆとりがある、おおらかだ。(「学研全訳古語辞典」)
■夢二の台湾旅行関係資料の紹介
論文「台湾の夢二 最後の旅」(ひろたまさき著)(3)
全編を一気にお読みになりたい方はこちらをどうぞ。 ⇒ http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/81599/1/ifa016009.pdf
2.台湾の美術界
武二訪台の第一の目的は「台展」の審査委員をつとめることであった。さきに朝鮮美術展覧会の審査委員をつとめたことと同じ役割である。
「台展」は、1927年から始まった。台湾総督府の教育会が主宰する展覧会で、「官展」とも言われ、内地の「文展」と同じく総督府に管理された展覧会である。総督府が台湾美術家を日台一体化、同化の方向へ指導していく中心地的な機能を果たす催しであった。「文展」と同じく、その展覧会に出品できるかどうか、そこでどのような評価を受けるかが、その作品の評価となり、権威となり、さらには美術界における勢力・権力とつながっていくのであり、審査委員は美術界の方向を決めて指導していく役割を持っていたのである。
「台展」の審査委員は、1927年の第一回から、石川欣一郎(1871-1945)と塩月桃甫(1885-1954)が任じられていた。二人とも台湾在住日本人の画家で、石川は台北師範の教師として多くの台湾人画家を養成し、今日でも「台湾美術啓蒙の父」と称されている存在で、台湾美術界に大きな影響力をもっていた。塩月は台北一中、台北高校の教師で、その個性的な作品は注目されたが、奔放な性格が誤解される側面があった。植民地主義者という点では石川のほうがかいが教育に熱心教え子を大事にしたが、それはまた同化教育に熱心であったことにもなる。彼は台湾を去るに際して「台湾の山水美は精神的な考慮を人に与へる要素に欠けて居る憾(うら)みがある。……快活で享楽的で直情的であるのが多くの台湾人の性格である。山水と同じに表面に現はれたままで内面の精神的要素には欠けるかと思はれる」と露骨な蔑視感を書き残しているが、これなどまさに典型的な植民地主義者の認識であろう。つまり彼はそれなりに誠実な日台同化主義者だったのである。塩月は石川と対照的で、自由主義的で奔放な教育をしたようであるが、石川と塩月の関係は微妙で、私にはわからない点が多い。この二人が台湾美術界の重鎮であったが、台湾人の教え子を多く持つ石川の勢力が圧倒的であったという。ところが1932年1月に石川が台湾を去ったので、台湾美術界の勢力バランスが一挙に崩れる。32年の「台展」の審査委員には石川の教え子たちの作品が採用されなかった。それに対する石川派の不満が高まり、そこには台湾の美術界の混乱をまねきかねない気配が見えた。
(注)石川欣一郎「台湾の山水」『台湾時報』1932年
総督府は台湾植民地支配40年に当たる1935年に「始政40周年台湾博覧会」の開催を計画していたが、そのためには文化的分野の、そして台湾画壇の、統一した協力を組織する必要があった。31年の満州事変、32年の上海事変と続く日中戦争は台湾にも緊張をつくりだしていたこともある。左翼への弾圧が強化され、日台同化政策が強められていった。国語(日本語)教育の強化が叫ばれて、美術界では、33年に「日・満・華親善政策」の一環として、満州皇帝即位を記念した『台湾風景画帖』が制作されて翌年3月に皇帝博儀に献上された。
しかし、1929年には台湾人の在野の美術団体「赤島社」が結成され、そこには「反旗がはためいている」と「台展」に対する批判的な動きが報じられ、1930年には「独立美術協会」、33年に「新興洋画展」、34年「台用美術協会」「台湾美術連盟」が結成され、個展も盛んに催されるようになった。内地での流行も直輸入されて、西洋のいろいろな前衛的な傾向も主張され始めた。もちろんそれは日本統治での監視内のことであるが、石川の影響から解き放たれて「自由」な、あるいは日本支配への抵抗を内に秘めての活動も含めて、多様な運動が展開され始めていた。
そうした状況に危機感を持った総督府文教局は、「台展」の改革を決意し、そのために中央の権威である武二と梅原隆三郎を招いたわけである。武二は梅原と共に、文教局の方針にそって、台湾の「郷土的特色」を主題とする方向と、画法の多様な傾向を認め審査員を「台展」の会員から選ぶという制度をつくるが、日本人画家が主導するという方針が示された。しかし、日本人画家と台湾人画家の対立や、石川派の水彩写生画のグループと塩月派あるいは前衛的諸派とのあいだの抗争など問題は多様で、「台展」に対する批判も絶えず、ことに日本人が主導権を握ることに対する台湾人画家の抵抗は強かった。だが37年の日中戦争の全面化で台湾にも本格的な戦時体制が敷かれ、総督府批判、「台展」批判は封じられてしまう。
つまり武二の33年の台湾滞在は、戦時下にあって台湾美術界を日台同化の方向に強化する役割をもっていた。夢二は武二のそのような役割について詳しく知る由なかっただろうが、日台同化の方向についてはすぐ感知できたであろう。したがって、そのような武二の姿を「上昇」している大先生と受け取るような感覚はなかったのではないか。夢二自身に「上昇」志向はなかった。自分の絵画に対する大衆の人気は気にかけていたが、世間における、あるいは日本美術界における名誉や地位や財産の階梯を昇るという「上昇」志向はなかったし、権力への接近はむしろ警戒すべきことであったからである。夢二の絵には、あえて言えば、日の出よりも夕焼けが、太陽よりもつきが、上層の紳士淑女よりも庶民がえらばれた。(つづく)

■夢二の世界■
前回まで“カワイイ”の概要について連載してきましたが、今回からは、竹久夢二美術館・石川桂子学芸員の著書「竹久夢二 《デザイン》モダンガールの宝箱」をご紹介し、より具体的に夢二の「カワイイ文化」創造の秘密に迫っていきます。
PART 4 「夢二のデザイン」(「竹久夢二 《デザイン》モダンガールの宝箱」(竹久夢二美術館 石川桂子著、講談社)より)
1 大正の“カワイイ”を創ったデザイナー夢二
現在のわたしたちの生活には、“カワイイ”という言葉が溢れていますが、女性たちが“カワイイ”に惹かれるのは、今に限ったことではありません。約100年前の日本でも”可愛い“に着目した画家がいました。“夢二式美人画”で人気を誇った竹久夢二です。
夢二は大正3年(1914)東京・日本橋に「港屋絵草紙店」を開店し、特に女性たちを彩るための「美しいもの 可愛いゝもの 不思議なもの」を自らデザインして販売し、“趣味のよい暮らし”への憧れを具現化しました。
自らを“ゑかき”と称した夢二は、美術学校に通わず絵を習得して、若き日に挿絵画家としてスタートした独学の画家です。日本画・油彩画・水彩画などを手がける一方、魅力的な“図案”を数多く残しました。夢二が活躍した時期、今日の“デザイン”を意味する言葉は、“図案”が一般的でした。第一次世界大戦の終結や関東大震災を経て、その多様性、大衆性が問われるようになりましたが、夢二はそれ以前から、従来の図案家とは異なる見地で、独自のデザインを展開していました。西洋と日本の美、さらに伝統と近代の間を自由に行き来しながら、同時代の流行を巧みに取り入れることが出来た夢二は、デザインという領域において輝きを放つ感性の持主だったのです。そして、江戸時代より伝わる千代紙や絵封筒など、暮らしに身近な日用品にも新鮮な感覚を織り込んで、趣味性の高いデザインを手がけるかたわら、雑誌・書籍や楽譜装幀をはじめとするグラフィック・アート、さらには商業的なポスターや広告と、幅広い分野で活躍しました。
洗練された意匠と実用性を兼ね備え、加えて個性豊かな夢二デザインは、特に近代化の波を受けた女性たち――ハイカラ娘、令嬢、女学生、モダンガール――若く瑞々しい乙女たちの心をとらえました。
その魅力は時を隔てても色あせることなく、輝いています。可愛くて、懐かしくて、モダンなエッセンスがちりばめられた夢二デザイン、そんなきらめきに満ちた宝物を、あなたもそっと開けてみませんか。
▼「竹久夢二 《デザイン》モダンガールの宝箱」(石川桂子著)
■夢二の言葉■(☆は書かれたころの夢二の状態等の記載です。)
●「断章」(『青い小径』1921年(大正10))
幸福(しあわせ)が きたのをしらぬ ばかでした
別れた宵にしりました。
☆この年は、夢二の最愛の女性笠井彦乃が順天堂医院で世を去った翌年です。この年の夏、夢二はお葉と同棲しましたが、福島・会津に長期旅行をしています。
●「相聞自賛」(『恋愛秘話』1924年(大正13))
二人の上にかなりの月日が流れた。処に馴れ生活に馴れ運命に馴れて、二人がありうることを感謝する念がなくなったから、二人はもう全く、別々な生活の感覚を持つようになっていた。それでも人生の路上には、運命にさえぎられて、一つの線上で心がいつしらず触れ合う時がある。悲みの涙の中に、二人の心が漂いながら抱き合う。
☆この年はお葉との喧嘩が絶えず、お葉が家出して藤島武二の家に身を寄せたこともありました。それでも、年末には夢二設計の「少年山荘」が完成し、長男虹之助も呼び寄せ、次男の不二彦、そしてお葉、と4人で暮らし始めました。しかし翌年、夢二は装幀をした女流作家の山田順子と恋愛関係になり、お葉は6月に家を去ります。
■夢二情報■
●夢二生家記念館・少年山荘2023年春の企画展「夢二生家 ふるさとの春」 五節句を大切にしていた夢二の関連作品を特別展示(夢二郷土美術館)(「PRTIMES」より)
2023年2月28日(火)~ 夢二生家記念館・少年山荘にて開催
夢二郷土美術館(所在地:岡山県岡山市中区浜2-1-32、館長:小嶋光信、運営:公益財団法人両備文化振興財団)では、別館の夢二生家記念館・少年山荘(岡山県瀬戸内市邑久町本庄2000-1)にて、2023年2月28日(火)より、「夢二生家 ふるさとの春」と題した企画展を開催いたします。
本展では、ふるさとをテーマに季節を感じられる夢二の肉筆作品の展示とともに、桃の節句、端午の節句に合わせた室礼もお楽しみください。
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000140.000052428.html
●京都で愛される老舗「あんこ」に「本わらび餅」 スペシャリストが教える名店の和菓子10選より(「AERAdot.」)
・かさぎ屋の「おはぎ」
1914(大正3)年創業のかさぎ屋は、あの竹久夢二も通ったとされる甘味処。提供するのは、注文ごとに仕上げる昔ながらの「おはぎ」だ。三色萩乃餅(700円)は、最高級の小豆・丹波大納言を使ったつぶあんとこしあん、きな粉の3種。二寧坂の石段の途中にあり、清水寺とセットで訪れたい。
●田端文士村記念館の企画展「多種多彩!!田端画かき村の住人たち」
チラシには『婦人グラフ』4月号表紙が使用され、企画展では夢二が紹介されています。
https://kitabunka.or.jp/tabata/news/11067/
●越懸澤麻衣著『大正時代の音楽文化とセノオ楽譜』が2月28日発売予定!
西洋音楽と遭遇した大正時代、そこには楽譜があった!
聴こえては流れてゆく「音」を五線譜で出版し、かつて一世を風靡したと言われるセノオ楽譜とは何か?
そして、主宰に飾った竹久夢二との関係など、大正時代の西洋音楽受容の様子を活写する!
「近刊検索デルタ」より)者・妹尾幸陽とは一体何者なのか?
楽譜の表紙を鮮やか
https://honno.info/kkan/card.html?isbn=9784867800096
●企画展「夢二が描いた 心ときめく花と暮らし」開催!(竹久夢二美術館)3月26日(日)まで
日本では古くから、四季折々の花が生活に喜びや潤いを与え、芸術作品の主題として扱われてきました。
画家・詩人として活躍した竹久夢二(1884-1934)も、暮らしの中の花から着想を得て、絵画やデザイン、詩歌などにおいて幅広く表現しました。夢二が描いた花は可憐な姿で鑑賞者を癒してくれます。さらに自身の心情と花の印象が結びついて生まれた詩は、時には香りや触感までも思い出させ、花にまつわる記憶を呼び起こしてくれます。また図案化された花は日用品を装飾して暮らしを彩り、その洗練されたデザインは現代でも高い評価を得ています。
本展では、花をテーマにした夢二作品に加え、明治後期~昭和初期の雑誌より、花を楽しむ文化を展示紹介します。
https://www.yayoi-yumeji-museum.jp/yumeji/exhibition/next.html
●企画展「夢二の楽譜 ―大正・昭和初期の作詞曲と表紙絵―」(金沢湯涌夢二館)3月12日(日)まで
竹久夢二(1884-1934)は、明治末期から昭和初期に活躍した詩人画家です。夢二が作詞した「宵待草」は、多忠亮(おおのただすけ)の作曲により大正7年(1918)に「セノオ楽譜」のシリーズから出版され、大正時代を代表し、今なお愛唱される流行歌となりました。この「宵待草」を現在の歌詞で掲載した夢二の処女詩集『どんたく』は大正2年に刊行され、2023年はその刊行から110年目となります。これを記念して、夢二の楽譜をテーマとした展覧会を開催します。
本展覧会では、夢二が表紙絵を手がけ、セノオ音楽出版社から発行された「新小唄」や「セノオ楽譜」を中心に、夢二の作詞曲や同時代の楽譜などもあわせて展示します。なお、妹尾幸次郎筆 竹久夢二宛書簡(昭和9年)も当館初公開します。
https://www.kanazawa-museum.jp/yumeji/exhibit/index.html
●企画展「松田基コレクションⅫ こども学芸員が選ぶ夢二名品展/特別公開―山水に遊ぶ―」(夢二郷土美術館)3月5日(日)まで
松田基(1921~1998 岡山の実業家、両備グループ元代表)は竹久夢二(1884-1934)の里がえりを念じて作品を蒐集し、1966年に夢二郷土美術館を創設しました。そのコレクションは3000点以上で肉筆作品を中心に夢二作品において随一を誇ります。本展では松田が蒐集したコレクションから選りすぐりの夢二の名品のほか、夢二以外の作家の作品から特別公開として竹内栖鳳、浦上春琴らの描く山水の世界をご覧いただきます。
今年で11回目となる当館で活動する「こども学芸員」が選んで解説を書いた夢二作品の展示も行います。こどもの視点から紡ぎだされる夢二作品の素直な感想や解釈にふれ、感情を揺さぶられるような体験をしてみませんか。こども学芸員が11年目を迎えた本年度、新たに誕生した「夢二アンバサダー」とともに開催する特別イベントなど、こども学芸員の活動にもご期待ください。
https://yumeji-art-museum.com/honkan/
●夢二の雰囲気に包まれてオリジナル懐石を楽しめる!――神楽坂「夢二」
https://www.kagurazaka-yumeji.com/
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