※創刊号(2021.8.8)~第37号(2022.4.10)はこちらをご覧ください。⇒ https://yumejitotaiwan.exblog.jp
※ビジュアル夢二ブログ「夢二と台湾」⇒ https://jasmineproject.amebaownd.com/

 

 

■メッセージ■

34日(土)、夢二研究会(坂原冨美代代表)で高橋律子氏の講演会「夢二の時代―ジェンダーの視点から」が開催されました。高橋氏は2002年から2005年まで金沢湯涌夢二館の学芸員を務め、その後金沢21世紀美術館のキュレーターとして活躍。金沢美術工芸大学大学院で博士号を取得しました。現在はNPOひいな アクションの代表となり、さらに研究を進めています。2010年に『竹久夢二―社会現象推しての<夢二式>』を著し、20228月から電子版が刊行されています。
講演では、同氏が夢二に関心を持った経緯や「夢二式」誕生とその後の社会への影響についての説明、そして同氏の現在の活動内容の紹介が行われ、現在ジェンダーについて研究活動を進めている同氏の講演で、数多くの新たな夢二研究の切り口が披露されました。講演終了後も限られた時間の中で質問が相次ぎ、遂に時間切れとなりましたが、大いにまたの機会を期待して閉会となりました。

また、本講演会には、高橋氏の恩師でもある金沢湯涌夢二館から太田昌子館長が駆けつけ、質疑応答などで講演の成果がさらに高まりました。金沢は熱い!

なお、現在制作中の挿絵動画「夢二 台湾の印象」についても、講演内容が様々な視点から夢二を捉えていたことから、多くのヒントを得ることができました。大いに感謝しております。

▼講演で説明された「夢二式」のスライド
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▼『竹久夢二―社会現象推しての<夢二式>』(高橋律子著、ブリュッケ)


■竹久夢二の素顔■

●望月百合子(2)(『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)の「竹久夢二の思い出」より)

(注)本文は、望月百合子が『婦人公論』第594号(1974年(昭和49)(婦人公論社)初出、『限りない自由を生きて』(1988年(昭和63)(ドメス出版)に掲載したものです。

 度々尋ねるうちに、夢二の家の様子がその都度ちがうことに無頓着な私も気づいた。お葉がいる時もあり、居ない時もあり、そのうちまったく違う女人が玄関に現れたのにはびっくりしたが、これが山田順子(ゆきこ)だった。この女人にはお葉のもつ夢幻もやさしさもないようだった。「お葉さんは可哀そう」と言ったが夢二は黙っていた。が、間もなく、また新聞が順子のことでさわぎ立てているうちにもうこの女人は少年山荘から姿を消した。

 夢二は木津川べりの田舎寺にチコともう一人少年をつれて暫く滞在していたことがあった。その頃私にも一身上の大きな変化があって、その上いのちを賭けて権力のない社会をつくろうなんて考えは夢ではないかと思い始めて、殆んどニヒルな気持になっていた。親しくしていた辻潤(つじじゅん)はニヒルの果てに狂人の真似をして自分を痛めつけている。そうなるよりはいっそ死ぬ方がと思う私を紫野のお茶の寺にいた江口章子(あやこ)が遊びに来いと誘ってくれた。そこでお茶三昧のある日章子から夢二の消息をきき、急に会いたくなった私は木津川の堤を歩いて土手下のゆすら梅のつやつやと赤い実をつまみながらお寺を訪ねた。閑静な寺の部屋には山の絵がたくさん描かれてあった。

「やっと本当のお仕事ね」山を描いてもそこには詩情がヴェールのように漂っていた。

「だけど山の絵では世間が承知しないんだ。やっぱり女の子の絵しか売れない、悲しいよ」と呟く。加藤武雄もいつか私に「農民小説を書きたいのに、家庭小説しか売れない」と嘆いていたことを思い出した。

 つい近所同士だったので夢二は私のことを知っていたらしく、

「誰でも一度や二度は死ぬほどの思いをするものだよ」とふいに言い出した。「世の中だってたとえ革命に成功したって一朝一夕どうなるもんじゃないさ」。傍でお茶を点てていた住職が、「地獄極楽はあの世にあるんじゃなくていまこの世にあるんだ」とひとり言のように言った。

 私のふさぎの虫もどうやらこの寺や江口章子の寺での生活で退散しはじめたようで東京に帰ったが、しばらく経つと夢二の家が長男虹之助夫婦に次男不二彦も嫁に迎えて今までにない賑やかな笑声の絶えない場になった。

 その日も私はチコ達と人形を作ろうと小布をいっぱい持っていくと玄関の梅の花をいっぱいに描いた杉戸を背に指をついたのは初めて見る若い愛らしい娘、家にはもう息子たちの姿はなくひっそりとしていた。夢二は、

「エロシェンコを、あんたが怒ったんだって?」とふいに言い出した。

「毎日私の所へ御飯を食べに来たの。すっかり落ちぶれてね」

「革命ロシアで倖せでなかったのかな」

「わからないけど、ともかくパリへ来ていてね、日本の悪口ばかり言うの。あんなに世話になった中村屋や秋田(雨雀)さんのことまで。それでね。もううちに来るなって追出したの」

「ふふ、あんたにも民族意識があるんだね」夢二は愉快そうに笑いだした。

 そんな会話をして帰った後の春草会で、またここしばらく欠席がちの夢二が話題に上った。そこで私が先日みた可愛い女の子のことを話すと、

「そのひと黄八丈を着ていたの?」と岡本かの子。

「ええ、半纏(はんてん)を着てたわ」

「それだ、夢二さんの新しい女だ。黄八丈を着ればそうなんだ」と岡田道一(みちかず)。夢二という人は女も家も山も木も凡てを自分好みに作り変える創造主みたいなところがあるんだなと私が言うと誰かが「天才だよ」と言った。(つづく)

(編者)今回は著名人の氏名が数多く出ているので注が長くなっています。

※ゆすら梅:ユスラウメは、サクラの花が咲きだすころ、ウメに似た5弁の白~淡紅色の花を枝いっぱいに咲かせ、梅雨の初めごろ直径1cmほどの真っ赤な小さい果実がつきます。熟果は生食でき、小果樹としても扱われています。中国原産ですが、江戸時代の初期にはすでに栽培されていました。当時は「桜桃」と呼ばれていましたが、明治時代になってサクランボとの混同を防ぐため「朱桜」(ユスラウメ)と呼ばれるようになりました。(「みんなの趣味の園芸」NHK出版)

※山田順子(やまだゆきこ):1901625 - 1961827日。本名ユキ。秋田県由利郡本荘町(現由利本荘市)に廻船問屋の長女として生まれる。気丈で美貌の祖母を慕っていたが、順子が7歳のころにその祖母が投身自殺し、精神的に多大な影響を受ける。

秋田県立秋田高等女学校(現秋田県立秋田北高等学校)を卒業し、1920年に19歳で東京帝国大学出の弁護士増川才吉と結婚して小樽に住む。長女出産後、病で片方の乳房を失う。文学志望が強く、1924年(大正13年)に自作『水は流るる』を携えて上京し、徳田秋聲に師事。その前年にたび重なる借金で負債を抱えていた夫が投機で失敗して破産し、借金取りから逃れるため東京に移り住んだ。

順子も子を連れてそれに合流していたが、夫婦仲は破綻し、1925年(大正14年)に離婚、3児を夫が引き取る(1926年に順子が取り戻す)。夫の増川は1926年に小樽の銀行から大金3万円を詐取持ち逃げした件で裁判沙汰となり、1927年に逃亡先の上海で逮捕される。

徳田の門下生で劇作家の足立欽一の尽力で、足立の経営する出版社聚芳閣より1925年に『流るるままに』が上梓されると、夫と子供を捨てて我を通した女と攻撃され、扇情的な非難記事が増えていった。足立の愛人となり、また同書の装幀をした竹久夢二とも恋仲になり同棲するが、4か月で別れる。

1926年(昭和元年)、妻が急死した秋聲の愛人となり、ジャーナリズムに「尊敬が恋に」と書きたてられ、秋聲は「元の枝へ」などの「順子もの」と呼ばれる30編近い短編を濫作。1927年(昭和2年)11月より雑誌『女性』に自叙伝「下萌える草」を連載。

その後、順子の娘・淑子が入門した舞踊家・藤間静枝(後の藤蔭静樹)の恋人で、若きマルキスト・文学者の勝本清一郎と恋に落ちる。1927年末、秋聲との正式結婚の直前、秋聲に家から追い出されて勝本の許へ奔るが、勝本とは1年で別れる。その間に勝本は、順子との恋を私小説『肉体の距離』として『三田文学』に発表する。当時の順子は艶やかな魅力に溢れた女性だったようで、吉屋信子は「鏑木清方の名作となった『築地明石町』の明治の美女の立姿にどこか坊佛としていた」と評し、「浮世絵から抜け出てきたようなたおやかな美しさに外人客が目を見張った」様子に触れ、徳田家に寄宿していた川崎長太郎は「彼女を散見する私は、ややもすれば幻惑され、射すくめられるやうな勝手を抱きがちであった」と述べている。1930年代には西銀座でバー「Junko」を経営した。

秋聲は1935年(昭和10年)に「順子もの」を集大成した『仮装人物』を完成し、掉尾を飾る私小説の代表作となった。1937年、順子は自分の言い分に耳を傾けずすべて否定する報道に対する抗議として『神の火を盗んだ女』を自費出版した。その後も細々と文筆活動を続け、1954年(昭和29年)1月に秋声との性交渉をも含めた自らの恋愛を公表した「秋声と女弟子」(『中央公論』文芸特集号)を発表した。書籍(『女弟子』)には2ヴァージョンあり、片方にのみ秋聲への恨みの念が描かれていた。『座談会明治文学史』で勝本は、秋聲から順子を押し付けられたと語っている。

生涯に10冊以上の単行本を出し、雑誌や新聞に数十篇の小説、エッセイを発表したが、秋声の『仮装人物』で固定されてしまった順子像により、まともに批評されることはなかった。文学作品について語られることは少なく、スキャンダルをもって文学史上に名を残した女性である。(wikipediaより一部編集)

※岡本かの子(おかもとかのこ): 188931 - 1939218日。本名は岡本 カノ、旧姓:大貫(おおぬき)。日本の大正・昭和期の小説家、歌人、仏教研究家。

東京府東京市赤坂区青山南町(現東京都港区青山)生まれ。跡見女学校卒業。漫画家岡本一平と結婚し、芸術家岡本太郎を生んだ。

若年期は歌人として活動しており、その後は仏教研究家として知られた。小説家として実質的にデビューしたのは晩年であったが、生前の精力的な執筆活動から、死後多くの遺作が発表された。耽美妖艶の作風を特徴とする。私生活では、夫一平と「奇妙な夫婦生活」を送ったことで知られる。(wikipediaより一部編集)

※岡田道一(おかだみちかず): 1889年(明治22)103日~1980年(昭和55)712日。大正・昭和期の医師,歌人 元・「夢二会」会長。別名号は「鯨洋」。

京都帝国大学医学部卒。竹久夢二の友人で、「夢二会」会長となり回顧展を開いたりした。また、公衆衛生の普及に努め、東京市衛生技師当時の昭和3年、麴町区内の全小学校に衛生婦を初めて設置、現在の養護教員制度の基礎を作った。歌人としては「十月会」「春草会」に参加、歌集に「花ざくら」「麦踏」などがある。

1933年(昭和8年)、台湾から戻った後、少年山荘で病に苦しむ夢二を発見した望月百合子が助けを求めたのが岡田道一である。(「20世紀日本人名事典より、一部加筆)

※秋田雨雀(あきたうじゃく):1883年(明治16年)130 - 1962年(昭和37年)512日。日本の劇作家・詩人・童話作家・小説家・社会運動家。本名は徳三(とくぞう)。

産科医である父玄庵(全盲であった)と、母まつの長男として青森県南津軽郡黒石町(現黒石市)に生まれる。東京専門学校(早稲田大学の前身校)英文科在学中の1904年、詩集「黎明」を刊行した。

1908年、恩師の島村抱月の推薦により、『早稲田文学』6月号に小説「同性の恋」を発表。小山内薫のイプセン研究会の書記をつとめ、戯曲への関心を深める[2]1909年小山内薫の自由劇場に参加[2]1911年「自由劇場」の第四回公演で、自身の戯曲「第一の暁」が初めて上演。1913年、島村抱月主宰の劇団・芸術座の創設に参加。翌1914年に脱退し、沢田正二郎らと美術劇場を結成。以後、芸術座、先駆座などに参加した。その一方で、小説、劇作、詩、童話、評論、翻訳と幅広く活躍した。

1915年、来日したワシーリー・エロシェンコと親交を結んでエスペラントを学び、彼と島村ら文化人との親交を取り持った。1921年には小坂狷二と共にエスペラント教本『模範エスペラント独習』を出版。1931年、日本プロレタリアエスペランチスト同盟(JPEU)の結成に参加した。

1921年、日本社会主義同盟に加わり、1924年フェビアン協会を設立。1927年、ロシア革命の十周年祭に国賓として招かれてソ連を訪問[3]1928年、帰国後、国際文化研究所を創設して所長。1929年、プロレタリア科学研究所として引き継き所長。1940年検挙。1934年新協劇団結成に参画し事務長となり、雑誌「テアトロ」を創刊。

1949年共産党に入党。1950年には日本児童文学者協会第2代会長に就任。1962512日、結核と老衰のため東京都板橋区中丸町の自宅で死去。(wikipediaより一部編集)
※江口 章子(えぐち あやこ):1888年(明治21年)41 - 1946年(昭和21年)1229日。歌人、詩人。北原白秋の2番目の妻。

大分県西国東郡香々地町(現豊後高田市)に旧家江口家の三女として生まれる。1906年(明治39年)に弁護士と結婚して大分町に在住するが、1915年(大正4年)に離婚し、平塚雷鳥を頼って上京。1916年(大正5年)に千葉県南葛飾郡小岩村の借家で北原白秋と同棲を始める。1918年(大正7年)には白秋と入籍するも、1920年(大正9年)に離婚。

離婚後は大分に戻り、別府市の伊藤家別荘に逗留していた柳原白蓮を訪ねて身を寄せた後、西国巡礼に向かい、その帰途に大分市松岡の浄雲寺や木上の少林寺を訪れた。1921年(大正10年)に京都の大徳寺芳春院に入り、1923年(大正12年)に一休寺の住職と3度目の結婚をするが、2ヶ月後には出奔。故郷の香々地町に戻る。

1928年(昭和3年)、詩文集『女人山居』出版。1930年(昭和5年)、芳春院聚光院の住職中村戒仙と結婚するが、翌1931年(昭和6年)には精神に変調を来し京都帝国大学病院精神科に入院。1934年(昭和9年)、詩集『追分の心』出版。1938年(昭和13年)、岐阜県可児郡御嵩町の吉祥寺で剃髪して尼僧となり、妙章と称す。また、戒仙と離婚。晩年は香々地町の実家に戻り、1946年(昭和21年)1229日に死去。(wikipediaより一部編集)

▼山田順子
山田順子
 

■夢二の台湾旅行関係資料の紹介

論文「台湾の夢二 最後の旅」(ひろたまさき著)(4)

全編を一気にお読みになりたい方はこちらをどうぞ。 ⇒ http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/81599/1/ifa016009.pdf

3.夢二のメッセージ

 竹久夢二が基隆港に着いた時に『台日』記者に語った「談話」を見ることにしよう。

 

「ドイツの一美術学校教授たること半年、ナチスから追はれて帰朝したと云はるる竹久夢二画伯のナチス説。

私はナチスから追はれたと云ふことはありません。例のユダヤ人の排斥で技術、芸術家のユダヤ人が人種的迫害を受けた結果、ドイツの技術も見込がなくなったので帰つてきました。日本人排斥と云ふことなどありませんが、事実をゆがめて通信をやつたと云ふのでこうした目にあった例があるそうです。

ユダヤ人には技術、芸術家など頭のよいのが沢山おりますが、これらは漸次迫害されて国外退去をしてゐますけれど、例外として金融資本家のユダヤ人はなんら排斥を受けていないのは資本主義時代の一つの矛盾を示している様です。西洋人の複雑した感情はどうも私共にはよくわかりません。ナチスの芸術は今後だんだん希薄になつて行きますが、美術は彼等の生活に大した影響はなくとも、音楽が聞けなくなると云ふことは一番の苦しみだらうと思ひます。

(注)竹久夢二「談話」『台湾日日新報』19331027

 

 ここでいう「―美術学校」とは、ベルリンにあった「イッテンシューレ」のことで、スイス人ヨハネス・イッテンの主宰するバウハウス系統の美術工芸学校である。これについては、夢二がここで日本画を教えていたこと、その教え子は9人いてそのうちユダヤ人が7人いたこと、そしてこの学校は627日にナチスの突撃隊に襲撃されて廃校にされたこと、夢二もそのため職を失ったことを指摘するだけにとどめたい。職を失い他に収入のめどが立たなかったし、ナチスのユダヤ人迫害が教え子たちに及んだので、彼もドイツを去ることにしたのである。おそらく教え子たちのために彼がドイツ脱出の手伝いをしたこともあったであろう。それについては夢二研究者の間に夢二がユダヤ人救出運動にかかわったかどうかについての論争があるが、それは別の機会に論じることにする。ここでは夢二のドイツからの脱出にはユダヤ人問題が深くかかわっていたことを確認すればよいだろう。インタヴューした汽車はそのような事情を知っていたわけではないが、時代遅れの古臭くなった画伯から絵の話を聞くよりは、当時世界中で議論になっていたナチス問題に焦点を絞ったと思われる。夢二が教鞭をとっていた学校がナチスによってつぶされたので夢二はドイツをはなれたということは、法的には追放でなくとも実質的にはそうであり、そういう噂が日本に伝わってもやむをえなかったであろうし、汽車がその点に強い好奇心を持ったのも自然である。しかし夢二にとっては不愉快きわまりない噂であり、ユダヤ人救済のことが分かればどのような被害が教え子たちに及ぶかもしれない。少なくともその点について語ることは危険であると夢二は思ったのでないか。夢二は、まず「ナチスから追われて帰国した」という事実を否定する。自己防衛のためにもことわっておかねばならない。そして、ナチスによってユダヤ人に対する人種差別、人種的迫害が行われている事実は確認している。彼の日記には、「技術・芸術家のユダヤ人」のみならず、ユダヤ人全体が迫害されていることが記されているのだが、なぜ技術・芸術家に特定したのか。イッテンシューレが廃校にされたことが強烈な記憶であったためであろうか。「ナチスの芸術」の「希薄」化=崩壊の予測は彼の体験からでたのである。しかし、ナチが政権をとった当初の日本では、さらに欧米ではともいえるが、ナチスの政権奪取とユダヤ人への暴力的な迫害は、多くの人々の非難を呼び起こしていた。日本のジャーナリズムでもこの時期は、少数のナチス擁護論者を除けば、多くの知識人がユダヤ人迫害と独裁的政治についてナチスに対する非難の論陣を張っていた。だから、その現場にいてその状況を見てきた夢二は、もっと明確に、もっとリアルに、ナチス批判を展開できたはずであるが、その点きわめて生ぬるい穏やかな表現で、日本の知識人たちのナチス批判に比べれば物足りないといわざるをえない。そこには、インタヴューした汽車が夢二の話を要約するときに切り捨てたりっ表現を修正したりした部分もあっただろうが、夢二自身にもそう表現せざるをえない事情、そう表現してしまう事情があったのである。

 

 彼はベルリンからの帰国の途次、「戦闘ファッシ」の黒衣隊がナチスの突撃隊のように暴れまわっているイタリアを経過してきたということもあろうし、日本のマスコミにおけるナチス論議、ナチス批判の言説に、ほとんど接していなかったということがあるのではないかと私は推測する。日本に帰国後の1か月の間、旅の疲れで寝てばかりいたということもあろう。新聞を見たとしても、ナチスについては、ユダヤ人と有色人種を排除する政策を打ち出したので、日本人も排除される恐れがあるという報道があり(『朝日新聞』1020日)、他方国内では、すでに小林多喜二の警察に彫る虐殺事件(220日)は知っていただろうが、かつての友人神近市子が数日前に検挙されたことも衝撃だったろう。そして彼が目にした新聞には、「転向の佐野・鍋山をコミンテルンが処分……わが国内の左翼陣営は根底から揺らぎ……」(『朝日新聞』922日)という報道が踊っている。この頃の彼は左翼運動とは全く無関係であったが、彼のトラウマを刺激するには十分のニュースであろう。つまり夢二は権力やマスコミに対してかなり臆病になっていたのでないかと思われるのである。彼には、国家のでっち上げた大逆事件で死刑に処せられた幸徳秋水らへの思いとその後彼に張り付いた刑事の尾行・監視という体験があり、それがトラウマとなって彼を臆病にしてきたという問題がある。そのようなトラウマを想定することで複雑な臆病の問題も初めて解けるのでないか。そして、ベルリンにおけるユダヤ人に対する暴力的な迫害の見聞、なによりも彼自身のうけたイッテンシューレ廃校の被害も、そのトラウマを強烈に呼び起こすことになったのでないか。にもかかわらずユダヤ人迫害の事実とナチス崩壊の予測を、生ぬるい表現ながらきっちり指摘していると言ってよいのではあるまいか。

▼夢二がドイツで描いたスケッチ(『おお、白銀のチロル』栗田藤平著より)
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■夢二の世界■

PART 4 「夢二のデザイン」(「竹久夢二 《デザイン》モダンガールの宝箱」(竹久夢二美術館 石川桂子著、講談社)より)

2 雑誌の仕事

(1)身近な芸術への取り組み(1)

 定期的に刊行される出版物「雑誌」は、明治・大正期に次々と創刊されたが、その中で、夢二はさまざまな足跡を残した。その内容は、表紙絵、口絵、挿絵、付録といった画家としての仕事のみならず、詩歌やエッセイを含む文章にも及んだ。また、雑誌のジャンルも、児童、少年、少女、婦人、青年を対象にしたものから、文芸、美術、趣味系の雑誌に至るまで多種多様で、生涯に携わった雑誌の数は、約2250冊にのぼった。

 美術学校に通わず、独学で絵を習得した夢二のデビューは、雑誌の投稿がきっかけだった。明治38年(19056月、博文館発行の『中学世界』に投稿したコマ絵「筒井筒」が入選。この年の末から本格的に寄稿を始め、以後、夢二は雑誌を舞台に飛躍的な活動を展開していくこととなった。

「コマ絵」とは、現在ではあまり聞き慣れないが、雑誌や新聞の紙面に、周囲の文章とは独立して描かれた絵を指し、題名とそれに沿った内容の絵が描かれていることが特徴である。夢二の登場以前には、「竹に雀」「雪に犬」等の伝統的な画題が多かったが、夢二は画一的な趣向を好まず「自分の周囲から得た印象を其儘(そのまま)描」き、「極めて自由」にコマ絵の可能性を広げていった。そして、日常生活での出来事をはじめ、恋愛・結婚、家族や友人関係に鋭く目を向けて絵筆をとり、同じ時代を生きる人々へ、コマ絵を通じてメッセージを送った。ときには弱い立場にあった庶民の目線で教育や社会の矛盾を指摘し、また権力への反抗を表現し、風刺の利いたコマ絵を描き表した。(つづく)

 

▼「筒井筒」

「筒井筒」

 

■夢二の言葉■(☆は書かれたころの夢二の状況です。

●「相聞自賛」(『恋愛秘話』1924年(大正13))

うかうかと恋のために恋をしていた時分の、

夢のかずかずはおおかた忘れてしまったが、

それでも遠い記憶のなかに、うぶな心でふれあったものだけは、忘れられずにいた。

それがいまの孤独な静寂な生活の折折に思出されてかえって寂しくするという。

☆この年はお葉との喧嘩が絶えず、お葉が家出して藤島武二の家に身を寄せたこともありました。それでも、年末には夢二設計の「少年山荘」が完成し、長男虹之助も呼び寄せ、次男の不二彦、そしてお葉、と4人で暮らし始めました。

●山田順子宛の手紙(1925年(大正14723日)

「愛は戦だ」という。長い戦で短い恋だったね。

考えると、ゆっくり坐って家庭らしい静かな茶の時さえ持たなかったね。

でもいつかまた 全く別な心持で逢えるだろう。

☆、この年、夢二は装幀をした女流作家の山田順子と恋愛関係になり、お葉は6月に家を去ります。7月に夢二は順子と純子の故郷である秋田旅行をしますが、結局この関係は4か月で終わりました。

 

■夢二情報■

●「竹久夢二 描き文字のデザイン ―大正ロマンのハンドレタリング―」(竹久夢二美術館)(「美術展ナビ」より)

時代を中心に活躍した画家・竹久夢二(18841934)は、グラフィック・デザイナーとしても才能を発揮し、数多くの図案を残した。

本展では、ポスター、書籍装幀、雑誌・楽譜表紙絵等の図案に展開された、夢二による描き文字のデザインを紹介する。ハンドレタリングで表現された個性的な文字に注目し、コンピューターでの制作とは異なる、描き文字ならではの魅力に迫る。

さらに肉筆で残された書、原稿、プライベートに残した日記と手紙の展示を通じて、夢二による多彩な文字の表現が楽しめる。

https://artexhibition.jp/exhibitions/20230302-AEJ1267824/

●田端文士村記念館の企画展「多種多彩!!田端画かき村の住人たち」

チラシには『婦人グラフ』4月号表紙が使用され、企画展では夢二が紹介されています。

https://kitabunka.or.jp/tabata/news/11067/

●越懸澤麻衣著『大正時代の音楽文化とセノオ楽譜』が228日発売開始!

西洋音楽と遭遇した大正時代、そこには楽譜があった!

聴こえては流れてゆく「音」を五線譜で出版し、かつて一世を風靡したと言われるセノオ楽譜とは何か?

そして、主宰に飾った竹久夢二との関係など、大正時代の西洋音楽受容の様子を活写する!

「近刊検索デルタ」より)者・妹尾幸陽とは一体何者なのか?

楽譜の表紙を鮮やか

https://honno.info/kkan/card.html?isbn=9784867800096

●企画展「夢二が描いた 心ときめく花と暮らし」開催!(竹久夢二美術館)326日(日)まで

日本では古くから、四季折々の花が生活に喜びや潤いを与え、芸術作品の主題として扱われてきました。

画家・詩人として活躍した竹久夢二(1884-1934)も、暮らしの中の花から着想を得て、絵画やデザイン、詩歌などにおいて幅広く表現しました。夢二が描いた花は可憐な姿で鑑賞者を癒してくれます。さらに自身の心情と花の印象が結びついて生まれた詩は、時には香りや触感までも思い出させ、花にまつわる記憶を呼び起こしてくれます。また図案化された花は日用品を装飾して暮らしを彩り、その洗練されたデザインは現代でも高い評価を得ています。

本展では、花をテーマにした夢二作品に加え、明治後期~昭和初期の雑誌より、花を楽しむ文化を展示紹介します。

https://www.yayoi-yumeji-museum.jp/yumeji/exhibition/next.html

●企画展「夢二の楽譜 ―大正・昭和初期の作詞曲と表紙絵―」(金沢湯涌夢二館)312日(日)まで

 竹久夢二(1884-1934)は、明治末期から昭和初期に活躍した詩人画家です。夢二が作詞した「宵待草」は、多忠亮(おおのただすけ)の作曲により大正7年(1918)に「セノオ楽譜」のシリーズから出版され、大正時代を代表し、今なお愛唱される流行歌となりました。この「宵待草」を現在の歌詞で掲載した夢二の処女詩集『どんたく』は大正2年に刊行され、2023年はその刊行から110年目となります。これを記念して、夢二の楽譜をテーマとした展覧会を開催します。

 本展覧会では、夢二が表紙絵を手がけ、セノオ音楽出版社から発行された「新小唄」や「セノオ楽譜」を中心に、夢二の作詞曲や同時代の楽譜などもあわせて展示します。なお、妹尾幸次郎筆 竹久夢二宛書簡(昭和9年)も当館初公開します。

https://www.kanazawa-museum.jp/yumeji/exhibit/index.html

●企画展「松田基コレクション こども学芸員が選ぶ夢二名品展/特別公開山水に遊ぶ」(夢二郷土美術館)35日(日)まで

 松田基(19211998 岡山の実業家、両備グループ元代表)は竹久夢二(1884-1934)の里がえりを念じて作品を蒐集し、1966年に夢二郷土美術館を創設しました。そのコレクションは3000点以上で肉筆作品を中心に夢二作品において随一を誇ります。本展では松田が蒐集したコレクションから選りすぐりの夢二の名品のほか、夢二以外の作家の作品から特別公開として竹内栖鳳、浦上春琴らの描く山水の世界をご覧いただきます。

 今年で11回目となる当館で活動する「こども学芸員」が選んで解説を書いた夢二作品の展示も行います。こどもの視点から紡ぎだされる夢二作品の素直な感想や解釈にふれ、感情を揺さぶられるような体験をしてみませんか。こども学芸員が11年目を迎えた本年度、新たに誕生した「夢二アンバサダー」とともに開催する特別イベントなど、こども学芸員の活動にもご期待ください。

https://yumeji-art-museum.com/honkan/

 

 

●夢二の雰囲気に包まれてオリジナル懐石を楽しめる!――神楽坂「夢二」

https://www.kagurazaka-yumeji.com/