※創刊号(2021.8.8)~第37号(2022.4.10)はこちらをご覧ください。⇒ https://yumejitotaiwan.exblog.jp
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■メッセージ■
先月、一生けんめい巣を作り始めたアオサギが、昨日行ったら卵を温めていました。鋭い眼のこわそうな顔立ちのアオサギですが、新しい命を育む母鳥の姿がとてもやさしそうに見えました。
やさしさを求めて生きた夢二。数奇な運命に翻弄されながらも、真実の愛を求めてさまよい続けた夢二。彼が生み出した数多くの遺産は、自由な生き方とはなにかを様々なかたちで私たちに問いかけているような気がします。
■竹久夢二の素顔■
●望月百合子(3)(『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)の「竹久夢二の思い出」より)
(注)本文は、望月百合子が『婦人公論』第59巻4号(1974年(昭和49)(婦人公論社)初出、『限りない自由を生きて』(1988年(昭和63)(ドメス出版)に掲載したものです。
・サカロフのバレエから
しかし昭和5年(1930)ごろにはもうその少女は居なくなって夢二は榛名山に美術学校のようなものを作り産業美術を普及するのだと言い出した。そして私に、「僕があんた達の運動に参加できるのはこんな形でしかできないんだ。弱い人間だからね」と言った。そしてその資金づくりのために東北地方によく出かけて行った。
夢二が旅から帰っていたある日、私は帝劇でロシヤンバレエのサカロフ夫妻のワルツのデュエットをみた感激を夢二に話した。すると夢二は「今日これからもう一度見に行かないか」と言い出し、チコとその友達と私も一緒に帝劇の二回の正面の席に坐った。
それから数日後訪ねると、
「あんたは僕の絵を軽蔑しているんだろうがこれだけは貰い給え。これはあんたの舞姿をこうもあろうかと描いたんだから」と言って半折(はんせつ)をさっとひろげた。むろん私はそんな舞姿はしないのだが、そのキモノの色がサカロフ夫妻の衣裳のサーモン・ローズなのだ。それまで夢二画ついぞ使ったことのない色だ。
これが下絵になったらしくこのサーモン・ローズの踊る女態はさまざまに変化して「竜田姫」や「榛名山賊」(ママ)のモチーフになったようだ。
早春のある日は、
「あんたはお雛様を持ってないだろうね。これを上げよう」と出されたのは愛らしい立雛の色紙。また夏のある日は女体を描いた扇子をくれたが、その女体の四肢が余りなよなかな線だったので私は風にそよぐ蘆(あし)かと言って夢二をがっかりさせたこともあった。(つづく)
※夢二の家にいた「少女」というのは、1928年に夢二が電車の中で知り合い、一時期同棲していた女性・宇佐美雪江と思われます。夢二は雪江を「雪坊」と呼び、絵のモデルや家事をしていました。夢二と別れたあと、1930年に夢二と別れた後、宇佐美雪江は歌人となりました。後に彼女の日記を発見した長田幹雄氏の勧めで著書「夢二追憶」(1972年、文藝春秋)を執筆。ここには、当時書かれた短歌による日記をもとに、夢二との出会いから「雛によする」の展覧会場で引導を渡されるまでの様子が克明に書かれています。特に、夢二がどのようにモデルに着付けをして絵を描いていたかについて記述があるほか、当時の少年山荘の様子や友人や愛人たちの出入りがどうだったか、また、夢二と暮らす女性の思いの一端などを知る上で参考になります。
■夢二の台湾旅行関係資料の紹介
論文「台湾の夢二 最後の旅」(ひろたまさき著)(5)
全編を一気にお読みになりたい方はこちらをどうぞ。 ⇒ http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/81599/1/ifa016009.pdf
次に、帰国間際のエッセイ「台湾の印象」を見てみよう。
「台湾の印象―グロな女学生服―竹久夢生」という見出しのもとに、
二十五年型シボレイは呼吸をきらし切らし四十哩を出したが、基隆の裏山まできてへたばって終わった。四時八分前!わが乗るべき扶桑丸はもう八分を待たずして出帆するのである。吾々の自動車は「もうどうにも走れない」といふのである。丘の上までゆけば扶桑丸の煙が見えるであらうといふ。
私は、この小高き丘の上で、友人に挨拶する間もなく倉皇と立ってまた台北の方を望み、また遺憾なる煙を上げてゆく扶桑丸を眺めやる。しかし私は山の形や岬の方は見ない事にする。そこはやかましい要塞地帯で、私が絵かきだから、制服を着た人間に心配掛けないためである。
私はこの丘の上で思ふ。何故なれば、次の船の出る日まで充分思ふ間があるからである。私は何しに台北へ来たか。私は台北で何を見たか、私は台北においてなんであったか、或は無かったか。かういふ主要な問題をやっと考へる時間を持った。
「台湾には生蛮人と制服を着た日本人が居る」さういふのが私の台湾に対する人文地理学であった。その他に何があるのか、私は知る必要もなかったから、考へても見なかった。つまりこちらでいふ本島人がゐることに気がつかなかったのだ。しかしこれは笑へない。多くの日本人はいつの間にか、本島人の居ない台湾を知るに過ぎなかったのではないか。
(注:本島人…清朝時代の中国渡来の人。漢人)
その寄ってくるところはその政策のためか、感情か、私は知らない。急に本島人が山の中からでも出てきた見たいに言ふ人があるが、なるほど、来てみると本島人も居るが、制服を着た人間もずいぶん居るのには驚いた。
後藤新平の予言が果たして卓見になるかどうか、次の船までに解るものではない。
(注:卓見…優れた意見)
本島人はせっせと日本語を勉強せねばならないだらうが、日本人もまた本島人の住宅と衣服に就いて学ぶべきものがあると思ふ。ことに台湾に生活するときに於いて。つまり台湾の風土に適応するために、およそおかしきものは台湾に於ける女の学生の制服である。ああいふ帽子はーさうだあらゆるグロテスクな俗悪醜悪な形容詞をつめこんでもまだ一杯にならないであらう。
* * *
「台湾には生蛮人と制服を着た日本人が居る」さういふのが私の台湾に対する人文地理学であった。その他に何があるのか、私は知る必要もなかったから、考へても見なかった。つまりこちらでいふ本島人がゐることに気がつかなかったのだ。しかしこれは笑へない。多くの日本人はいつの間にか、本島人の居ない台湾を知るに過ぎなかったのではないか。
(注:本島人…清朝時代の中国渡来の人。漢人)
その寄ってくるところはその政策のためか、感情か、私は知らない。急に本島人が山の中からでも出てきた見たいに言ふ人があるが、なるほど、来てみると本島人も居るが、制服を着た人間もずいぶん居るのには驚いた。
後藤新平の予言が果たして卓見になるかどうか、次の船までに解るものではない。
(注:卓見…優れた意見)
本島人はせっせと日本語を勉強せねばならないだらうが、日本人もまた本島人の住宅と衣服に就いて学ぶべきものがあると思ふ。ことに台湾に生活するときに於いて。つまり台湾の風土に適応するために、およそおかしきものは台湾に於ける女の学生の制服である。ああいふ帽子はーさうだあらゆるグロテスクな俗悪醜悪な形容詞をつめこんでもまだ一杯にならないであらう。
「汽車に注意すべし」といふ立札の(に)を(も)書き換えて「汽車も注意すべし」とあった。この浅いおかしみが、この無邪気な作者に理解されてゐたのではない。
* * *
優秀な人種だと考へることのできる人種だけが優秀なのである。私はまた少し眠くなった。(八年十一月十一日)
(注)竹久夢二「台湾の印象」『台湾日日新報』1933年11月14日
夢二は台湾を去る間際にやっと、「私は何しに台湾に来たか、私は台北において何であったか」という問いを思い出している。それは彼が明確な目的意識なしに、ただ絵を売って資金をえたいという思いだけできたことを物語る。台湾をまともに観察しようという姿勢が持てなかったのである。にもかかわらず何か言わねばならない思ったのだろう。しかし、絵がさっぱり売れず、しかもその作品五十数点が行方不明のままである。滞台中に台湾のスケッチをしているはずだがそれも見当たらない。ともかく夢二は最大の目的が達せられなかった。大失敗である。しかし、台湾の新聞社に送る原稿にそのことは書けない。台湾にいる、せめて夢二ファンであってほしい日本人あてのメッセージをどうするか。せめて、「私は台北で何を見たか」を書かねばならない。記者からの依頼にどうこたえるか、彼は四苦八苦したに違いない。それが、このメッセージを読む人によってはくだらない散文、女学生への悪口、と受け止められても致し方ないものにしたと思われる。実際、これまでにこれを問題として取り上げた研究者はいない。評伝に彼の台湾旅行が無視されるのもこうしたことによるだろう。
にもかかわらず、このメッセージには二つの興味深い問題が提起されている。一つは台湾には「生蛮人と制服の人間だけ」という「人文地理」しか知らなかった自分に対する反省である。とともに、多くの国内の日本人は台湾をそのような目で見ているのではないかと、植民地に対する国内日本人の無関心と支配者としての偏見と倣漫を問うているのである。「本島人」つまり漢族系住民のことが視野に入っていない。しかし彼が台北の街を散策したときに出会ったのは殆ど本島人であり、彼らを日本人が軽蔑している風景である。人口的には圧倒的なのだが、その存在を無視している。平定した存在は無視できるが、「生蛮人」(少数民族原住民に対する軽蔑)は抵抗的で理解しがたい野蛮な存在とみなされて注目されている。「その寄ってくるところはその政策のためか」と、それとなく植民地政策に対する批判を漏らしているのである。
だからまた、「制服の日本人」つまり役人・警官・軍隊の存在が圧倒的だということになる。「やっかいな要塞地帯」もまた権力的、暴力的支配のイメージがある。この文章では要塞に触れる必要もなかったのに、わざわざそれを取り上げているのは、その問題に注意を呼びたかったのであろう。夢二は台湾をそのような「人文地理学」に安住している日本人、およびそのように安住してしまう状況を批判的に見ていて、それらに対する彼の嫌悪感が読み取れる。
あと一つは、「女学生の制服がグロテスク」という問題である。女学生の問題を論ずるところに夢二の特徴があるという人もいるだろう。果たしてそうか。彼を連れてきた河瀬蘇北は、何度か台湾に来ていて、その2か月前には、「台日」に8回にわたって、「台湾素描」を連載している。いわば彼の台湾紀行といったものだが、その観察は当時の植民地主義者のなかでも冷静な観察であり、台湾認識としては優れた部類に属すと言えよう。そこに「婦人の服装」という項目があって、「台湾婦人の服装の、著しく清潔となり明るさに富めることにビックリした。・・・・・・孰れも洋装に近いスカートの支那服で、その柄といひ、かく構(格好)と云ひ頗るスマートでした。……総督府で別に服装改良を提唱した譯でないと云ふから、全く自発的です。文化の低い台湾人、生活程度の低い彼等に自発的に而も夫人に、斯かる現象の興ったと云ふのは、抑も(そもそも)何か。台湾にいる内地人の多くは、その話をしても、「はァさうですか」と誠に無関心だ。恰も台湾人の風俗などは、我々の問題外と云った態度だ。そして台湾の首府台北で見るところの、日本婦人の街頭進出風景は、丸髷にアッパッパ、さらにご丁寧に下駄と云ふ、生蛮人すらも眉をひそめそうなグロテスクなものです。彼我対照して一考の価値なきや否や」と問うている。大変率直で、台湾人の衣服を観察してほめるなど、日本の植民地主義者の無知と倣漫をいさめているのである。
(注)河瀬蘇北「台湾素描3」『台湾日日新報』1933年8月11日
夢二はこの「台湾素描」を蘇北から読まされたにちがいない。初めて訪台の夢二に、台湾案内のつもりで見せるのは自然だろう。彼に見せられなくとも2か月前の新聞だから、十分時間のあった夢二は日本語に飢えていたはずで、この文章を読んだにちがいない。そしてそこからも植民地事情を批判的に学んだと思われる。夢二の服装に関する観察は、蘇北とそっくりで、「グロテスク」という表現も、蘇北を真似たといえよう。ただ「日本婦人」でなく「女学生」にし、「アッパッパ」でなく「制服」にしているところが違う。
1920年代に、日本製の洋服・アッパッパがつくられて大流行していた。腰にベルトのない身体に拘束感のない服なので、中間層から庶民層の女性にまで広がった洋装である。内地の流行はすぐ植民地に広がる。1937年の調査では、女性の洋装の普及率は統計表で25%だったが、植民地の大都市ではずっと高くて台北は46%だったという。つまり台北では日本婦人の半数が洋装で、その中の多くがアッパッパということになるから、それだけにアッパッパは目立った風景であっただろう。しかしアッパッパは総じて男性たちに不評であった。
蘇北のように、在台日本婦人と台湾人婦人と比較して日本婦人を批判したほうが、「女学生」をおりあげるよりも呼びかける対象が広範で、説得力があり、そのインパクトも大きかったと思われる。にもかかわらず夢二が蘇北よりも一歩突き出ている点は、蘇北が「一考の価値」があるで終わっていることに対して、夢二は台湾人に学ぶべきだとしている点である。「本島人の住宅、衣服について学ぶべき」というのは、女学生だけでなく、服装だけでなく、生活全般にわたる問題として提起していると理解すべきだろう。そして、その問題は夢二が1930年代に「榛名山産業美術研究所」設立を構想した時以来の持論でもあった。(ウィリアム・モリス来の民衆芸術運動が、1920年代には多様な運動となって世界に広がり、日本でも多様な活動がみられた。それと夢二との関係については、また別に論じたい)。その時の宣言文には「我々の日常生活の必要と感覚は、我々に絵画・木工・陶工・染織物等々の製作を促すだろう」とあり、日常生活自体が、産業美術との関連でとらえられているのである。さらに台湾行の直前に書かれた文章も、「私はその頃、不用意にも自分の図案した浴衣を婦人に着せることを言ったが、これは実に馬鹿げた俗徊趣味であった。この踊りに適当な服装が作られるならば、それは直ちにこの時代の地方的服装が決定するのである」も思い出すべきであろう。彼はあくまでも地域の生活と結びついた衣服(と住居)と、その上に生れる美術を考えていた。「日常生活の必要と感覚」にもとづくこと、それはイッテンシューレにも流れていたバウハウス的な問題意識でもあった。そして「低徊趣味」だったと自己批判しているところに夢二の飛躍がうかがわれる。民衆自身による民衆文化を考えていたのである。民衆を主体性を持った存在だと考えているのである。したがって学ぶべきというのは、日本人も台湾民衆に学んでつくるべきだと言っているのである。蘇北のように「台湾人の文化が低い」と平然と言っている視点からは、台湾人に学ぶという発想は生まれにくい。まして台湾人の日常生活を内在的に理解しようという姿勢は生まれないであろう。つまり日常生活から日本人と台湾人を対等にとらえ、台湾の地方的特色を内在的に理解して学ぶという夢二の視点が注目されるのではなかろうか。
(注)竹久夢二「旅中備忘録」1933年10月21日(長田幹雄編『夢二外遊記・竹久夢二遺録』
それにしても、夢二が台湾からの去り際に残すメッセージに、なぜ「女学生の制服がグロテスクだ」というだけを語ったのか。しかも、夢二にしては強すぎる、「あらゆるグロテスクな俗悪醜悪な形容詞をつめこんでもまだ一杯にならない」という、それこそ女学生に投げかけるにはふさわしくない形容の仕方で罵倒しているのはなぜか。蘇北とちがって夢二が言いたかったのは、「女学生が問題なのではなくて「制服」が問題だったのではないか。彼は台湾の日本人といえば「制服」と言えるほどに「制服」が多いことを強調し、それに反感を示している。彼には、本島人に対して尊大にふるまう日本人はみな「制服」に見えたのかもしれない(すべての日本人がそうだったわけではない)。「制服」=権力によって支配されている台湾植民地に大きな違和感を持つことになったのではなかろうか。
そう考えると、この文章の後に突然に、「汽車に注意・・・」という文章が出てくることの意味が分かるだろう。「汽車に」を「汽車も」と書き換える問題は、「女学生の制服に」でなく「女学生の制服も」と言い換えることができるというサインであり、「その他の制服も」グロテスクだということである。一般の読者も、初めは戸惑い、そして、これは夢二のサインなのだと気づかされたことであろう。そして、制服のみならず、「住宅、衣服について」も、その制服的なもろもろの問題が、そこに含意されていると言えよう。
私の強引な憶測をあえて言うならば、夢二が日本人女学生の制服のグロテスクを強調する時、彼が見た「台展」の作品を思いだしていたのではないか、というよりも、武二が関係する「台展」への表立った批判を遠慮して、その代わりに台湾の風土に似合わない日本人女学生の服装をグロテスクと批判したのではないだろうか。彼の画家としての直感がそこに示されているのでないか。『台展』の作品群は、たしかに台湾の郷土色を描こうとする点で共通していたが、郷土色の重視は総督府の、日本政府の要請であり、それにはまた日本的手法による指導も強調されていた。日本人の西洋文化の摂取が生んだ日本的手法はそれなりに意味あることであるが、台湾の自然を、台湾人の感性を、日本人画家も台湾人画家も、内在的に理解し、自分のものとし、そこから生まれる画法を駆使ししたものではないところが問題なのである。台湾にとって日本的手法での統一は「制服」なのである。夢二が日本人女学生の洋装が、台湾の自然や台湾人の衣・住を内在的に理解しないで、日本的な流行をそのまま持ち込んだところの不自然さを示す事例として指摘していることは、実は日本人画家も、日本人画家に指導されたり日本に留学したりした台湾人の画家も、日本的な画法をそのまま使っていることに通じる。そういう意味では、台湾人に対しても、台湾人画家に対しても、彼はそのメッセージを届けたかったのかもしれない。
そのように考えると、「後藤新平の予言」ということについても、夢二は何を言いたかったのか。後藤が民生長官として8年間滞在し、児玉源太郎総督と二人三脚で台湾の近代化政策に取り組んだ時の発言を指しているようだが、私はその「予言」が何か特定できない。後藤には台湾についての予言らしき言説は沢山ある。しかし夢二がそのことについてどれほどの知識を持っていたかは疑わしい。夢二が台湾に来て聞き知った「予言」の可能性が大きい。台湾在住日本人が日本統治のすばらしさを称揚するのに、児玉と後藤との統治法が必ず引き合いに出されたであろうことは、容易に推測することができる。後藤の台湾での功績は今日でも高く評価されているが、その一つに、台湾人の生活慣行を調査して、それを尊重しながら近代化を進める、日本国内の法律をそのまま画一的に適用しない、という民心慰撫策があげられよう。これは夢二の地域の民衆生活にもとづいた美術という発想に似ている。しかし、夢二はそこから自分のデザインを撤回して民衆自身の創意にまつべきだったと反省しているが、後藤にはその反省がなかった。なぜなら、それは民心慰撫という政治目的のための手段だったからである。後藤は、大日本帝国の植民地政策によって列強による植民地のなかでも最高の楽園(植民地として!)を実現したいという願望があった。後藤の政治があったから現在の台湾の成功(予言の実現)があるという在台日本人たちの言説に対して、夢二は「後藤の予言が果たして卓見になるかどうか」と、予言がまだ成功していないかのように扱っている。それは、台湾統治における欠陥の最たるものが「民衆の創意」に基づくものでなかった点にあることを感じとったからではないであろうか。
このメッセージは、末尾に「優秀な人種だと考へることのできる人種・・・・・・」の言葉が、何の脈絡もなしに突然に示されていて、彼は眠りにつく。無責任な終わり方である。しかし、これはそれまでの文章全体を受けた結語として読むのが自然であろう。そこで夢二は何を言わんとしたか。この皮肉な人種差別主義、選民意識を示す成句は、もちろん肯定的に提示されたものではないことは明らかである。それが、ナチの選民意識か、それとも諸民族にしばしばみられる現象か、であるが、夢二の場合はナチズムに対する批判意識が強かったからまずナチス批判を込めて書かれたということは容易に察することができる。それ以前の文章の「制服」とのつながりで考えれば、夢二がベルリンで経験したナチス突撃隊のグロテスクな「制服」(鉄兜や
の腕章・国旗)が人種差別主義の象徴の容易に思い出されたと言えるのではあるまいか。とともに、彼がナチ権力の暴力性に触れる時に、日本についての心配をすることがよく見られる。ベルリンにいた3月21日の日記に「避雷針のついた鉄兜をきたヒットラアガ何をしでかすか、日本といひ、心がかりではある」と書いているが、この「日本」は日本政府のありようのことである。ヒトラーと比べているのである。こうした思考の仕方で台湾人に対する日本人の優越感がグロテスクであるとしているように読める。日本人の選民意識が台湾人を差別している、という告発のようにも読めるだろう。彼は台湾入国時の「談話」では、「西洋人の複雑した感情はどうも私共にはよくわかりません」と言っている。西洋文化と東洋文化、あるいは日本文化との違い(相互理解の困難)を口実にして逃げている。しかしここでは、ナチスの制服「も」日本の制服「も」同じだ、人種差別主義では同じだと言っているのである。夢二の飛躍ではなかろうか。「眠くなった」夢二が見た夢は、関東大震災下の在日朝鮮人、アメリカの日本人移民、ベルリンのユダヤ人、そして台湾の人たちの顔が走馬灯のように巡り、その背景には「制服」たちと帝国意識に囚われた民衆の姿があったのではなかろうか。(完)
PART 4 「夢二のデザイン」(「竹久夢二 《デザイン》モダンガールの宝箱」(竹久夢二美術館 石川桂子著、講談社)より)
3 雑誌の仕事
(1) 身近な芸術への取り組み(2)
やがて夢二は挿絵画家、現代で言うイラストレーターとして名を轟かせるようになる。雑誌に掲載された夢二の作画は、広く“挿絵”と包括されることが多いが、夢二を敬愛した装幀家・恩地孝四郎の言葉を借りると「機智にたよつたコマ絵から入って、之にもつと内容を勝たした、生の生活感情を盛つたものとし、青春の情緒を柔軟な筆技のなかに織り込んで、草画と称し、抒情画と唱へた小画を完成した」(『本の美術』より) 昭和48年)という流れで、「コマ絵」「草画」「抒情画」(抒情画については別項「夢二と少女雑誌」で説明)のスタイルを完成させ、挿絵の世界をリードしていったのである。
挿絵の評判が高まると、夢二の絵は多くの雑誌の表紙も飾るようになった。雑誌の性格を表し、売れ行きも左右するこのフロントページで、夢二は折々のテーマに応じて季節の風物や出来事を題材に“雑誌の顔”を作り上げた。
数多くの雑誌表紙絵からは、夢二がその時々の流行や美術様式を巧みに取り入れて作画していたことがうかがえるが、その傾向は大正後期の『婦人グラフ』に顕著に表れている。
『婦人グラフ』は、モダンガールをはじめ流行に敏感な女性を対象にした高級画報雑誌。1920年に、モードと芸術をテーマにパリで創刊された雑誌『アール・グー・ボーテ』に倣ったアール・デコ調のモダンな表紙が特徴で、誌面は良家の家庭生活や子女の肖像など、最先端の風俗や衣食住を紹介する写真で飾られた。夢二は、大正13年(1924)8月号から断続的にその表紙絵を手がけたが、和洋のファッションに身を包んだおしゃれな女性の絵は、とりわけ人気を博した。また、表紙絵は機械刷り木版、また号によってはオフセット印刷の技法で制作されるなど、当時の高度な印刷技術が用いられたことも特筆できる。(つづく)
■夢二の言葉■(☆は書かれたころの夢二の状況です。)
●≪離婚物語≫「選まれて語る」(『婦人画報』1928年3月号))
別れるということはむずかしいものです。
上手に別れるということも、
朗らかに別れるということも。
☆この年は、前年に自伝的絵画小説「出帆」を出したばかり。夢二は電車の中で知り合った宇佐美雪江(雪坊)を口説き落として同棲を始めた年でした。離婚については他万喜としか経験していません。
■夢二情報■
●「竹久夢二 描き文字のデザイン ―大正ロマンのハンドレタリング―」(竹久夢二美術館)(「美術展ナビ」より)
時代を中心に活躍した画家・竹久夢二(1884~1934)は、グラフィック・デザイナーとしても才能を発揮し、数多くの図案を残した。
本展では、ポスター、書籍装幀、雑誌・楽譜表紙絵等の図案に展開された、夢二による描き文字のデザインを紹介する。ハンドレタリングで表現された個性的な文字に注目し、コンピューターでの制作とは異なる、描き文字ならではの魅力に迫る。
さらに肉筆で残された書、原稿、プライベートに残した日記と手紙の展示を通じて、夢二による多彩な文字の表現が楽しめる。
https://artexhibition.jp/exhibitions/20230302-AEJ1267824/
●姫路文学館で「大正ロマンの寵児 竹久夢二展」が開催。(4月15日~5月28日)
初日4月15日に竹久夢二美術館学芸員・石川桂子さんの講演会を開催予定です。http://www.himejibungakukan.jp/event_calendar/event_info/
●夢二郷土美術館が春の企画展「夢二と舞台芸術」を開催。(「ガシェット通信」より)
明治時代以降、文明開化により取り入れられた文化の中には、シェイクスピアら外国の作家が手寄贈された夢二作品も初がけた戯曲やオペラ、バレエなどの舞台芸術があった。それらは、歌舞伎や人形浄瑠璃をはじめとした日本古来の芸能と同様、時代に合わせて変容しながら大衆に愛されるようになる。
大正時代を代表するマルチアーティストの竹久夢二氏(1884-1934)は、舞台芸術を愛し、江戸情趣あふれる日本の伝統芸能や異国発祥の舞台が持つ魅力を作品の中で表現。舞台背景を手がけたこともある。
同氏はまた、華やかな舞台上だけでなく、楽屋での様子や練習風景、観客たちの姿もとらえて画題とした。同展では、そんな同氏の大正浪漫の気風漂う舞台芸術の世界を堪能できる。
あわせて、テレビ時代劇や映画の監督として活躍した牧口雄二氏(1936-2021)が愛蔵し、同館に寄贈された竹久夢二氏のコレクションを初公開し、今につながる同氏の影響を紹介する。作品点数は100点以上。会期は3月7日(火)~6月4日(日)だ。また、同展に関連したさまざまなイベントも開催される。
https://getnews.jp/archives/3390360
●越懸澤麻衣著『大正時代の音楽文化とセノオ楽譜』が発売中!
西洋音楽と遭遇した大正時代、そこには楽譜があった!
聴こえては流れてゆく「音」を五線譜で出版し、かつて一世を風靡したと言われるセノオ楽譜とは何か?
そして、主宰に飾った竹久夢二との関係など、大正時代の西洋音楽受容の様子を活写する!
「近刊検索デルタ」より)者・妹尾幸陽とは一体何者なのか?
楽譜の表紙を鮮やか
https://honno.info/kkan/card.html?isbn=9784867800096
●企画展「夢二が描いた 心ときめく花と暮らし」開催!(竹久夢二美術館)3月26日(日)まで
日本では古くから、四季折々の花が生活に喜びや潤いを与え、芸術作品の主題として扱われてきました。
画家・詩人として活躍した竹久夢二(1884-1934)も、暮らしの中の花から着想を得て、絵画やデザイン、詩歌などにおいて幅広く表現しました。夢二が描いた花は可憐な姿で鑑賞者を癒してくれます。さらに自身の心情と花の印象が結びついて生まれた詩は、時には香りや触感までも思い出させ、花にまつわる記憶を呼び起こしてくれます。また図案化された花は日用品を装飾して暮らしを彩り、その洗練されたデザインは現代でも高い評価を得ています。
本展では、花をテーマにした夢二作品に加え、明治後期~昭和初期の雑誌より、花を楽しむ文化を展示紹介します。
https://www.yayoi-yumeji-museum.jp/yumeji/exhibition/next.html
●企画展「夢二の楽譜 ―大正・昭和初期の作詞曲と表紙絵―」(金沢湯涌夢二館)3月12日(日)まで
竹久夢二(1884-1934)は、明治末期から昭和初期に活躍した詩人画家です。夢二が作詞した「宵待草」は、多忠亮(おおのただすけ)の作曲により大正7年(1918)に「セノオ楽譜」のシリーズから出版され、大正時代を代表し、今なお愛唱される流行歌となりました。この「宵待草」を現在の歌詞で掲載した夢二の処女詩集『どんたく』は大正2年に刊行され、2023年はその刊行から110年目となります。これを記念して、夢二の楽譜をテーマとした展覧会を開催します。
本展覧会では、夢二が表紙絵を手がけ、セノオ音楽出版社から発行された「新小唄」や「セノオ楽譜」を中心に、夢二の作詞曲や同時代の楽譜などもあわせて展示します。なお、妹尾幸次郎筆 竹久夢二宛書簡(昭和9年)も当館初公開します。
https://www.kanazawa-museum.jp/yumeji/exhibit/index.html
●夢二の雰囲気に包まれてオリジナル懐石を楽しめる!――神楽坂「夢二」
https://www.kagurazaka-yumeji.com/
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