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■メッセージ■
3月18日(土)、竹久夢二美術館で開催中の企画展「夢二が描いた 心ときめく花と暮らし」で徳重学芸員さんのギャラリートークを聴きました。今回は「花」をテーマに夢二を語ろうというもので、展示資料の時代が前後していることから、短時間で説明するのがなかなか難しいと思われましたが、夢二の人生のエポックとなる「コマ絵」、夢二式美人画」、「セノオ楽譜」などに数多くの関係した人物の説明を的確に織り交ぜながら、楽しく分かりやすいトークを聴かせていただきました。毎回さまざまな切り口で企画展を開催している夢二美術館ならでは、と感心しました。
トークが一段落すると、参加者から次々と質問がでましたが、質問内容が広範多岐わたり、時間切れとなってしまうほどでした。これだけ様々な疑問点を持つ夢二ファンがいるということはとても嬉しいことで、やはり夢二の多彩な仕事ぶりや波乱に満ちた人生がうかがえるものでした。
現在鋭意準備を進めている「夢二と台湾2023」につては、夢二が訪台した時期が、波乱に満ちた人生の末、悲願の外遊を苦労して終えたという時期に当たるため、“夢二が台湾で何を考えたか”というテーマに取り組む難しさを痛感していますが、今回のギャラリートークはそれを補うという点で非常に勉強になりました。
そして、企画展を観るときは、できるだけギャラリートークのある日に行き、さらにその前後にまた一人で観る、という楽しみ方が大事だと改めて感じた次第です。
「竹久夢二 描き文字のデザイン ―大正ロマンのハンドレタリング―」(竹久夢二美術館)も注目されています。
●竹久夢二のハンドレタリングに着目した展覧会、竹久夢二美術館で、雑誌・楽譜表紙などから描き文字を紹介(「FASHION
PRESS」より)
https://www.fashion-press.net/news/101134
●「竹久夢二 描き文字のデザイン ―大正ロマンのハンドレタリング―」(竹久夢二美術館)(「美術展ナビ」より)
https://artexhibition.jp/exhibitions/20230302-AEJ1267824/
■竹久夢二の素顔■
●望月百合子(4)(『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)の「竹久夢二の思い出」より)
(注)本文は、望月百合子が『婦人公論』第59巻4号(1974年(昭和49)(婦人公論社)初出、『限りない自由を生きて』(1988年(昭和63)(ドメス出版)に掲載したものです。
榛名山の学校の計画はどうも進展しそうになく、時代も夢二の耽美とは程遠い弁証法や唯物論が人々の最大関心事になって、取り残された淋しさに追いつめられる思いで夢二はその淋しさを逃れ、新しい絵の道をみつけたい一心でかねて念願していた外国旅行に出かけて行った。
アメリカを振出しにヨーロッパを2年余りも放浪して昭和8年の初秋に帰国した時の夢二は疲れ果てた様子ですっかり老け込んでいた。それでもカバンの中からチェコスロヴァキアで買ったエプロンと白フェルトに赤い毛糸で刺繍した可愛らしい室内穿(しつないばき)に美しい文字で私の名札をつけておいたのを「はい、おみやげ」と取り出してくれるだけの余裕はあった。
夢二はこうして帰ってきたけれど少年山荘にはあの愛らしい女の子も息子達も帰らず夢二はぽつんと一人で暮らしているようだった。私はみかねて手作りの野菜や梨を持って殆んど毎日訪ねた。その日は風の強い日で、私は卓を中にして夢二と話し込んでいた。ふと気が付くと私の犬がちょこんと私の右側に来て坐ってじっと夢二をみつめている。わが家では犬を畳の上にあがらせたことは決してないのにどうしたことかとおどろいて追い出し家中の戸をしめて又話しこんでいると、いつの間にか犬は又同じところに来ている。また追い出したがやはり同じことの繰返し、夢二はとうとう笑い出して、「この犬、僕の弱い性格を見抜いていて、あんたを護ろうと一生けんめいなんだよ。偉い奴だ、いい犬だね」というと私の犬の頭をなでた。
またある日、犬をつれて庭先から入ってゆくと寒いのに戸障子が開け放たれて家財が運び出され見知らぬ男が立ち働いていた。
「おひっこし?」と驚く私に夢二はどもりながら「少し金がいるんで古道具屋に売ったんだ」という。みると、家の中は空っぽ、殆んど全部だ。
「いったいいくらなの?」
「30円というんだ」
「待って、それくらいならすぐ家から持ってくるから」と私は家にとんで帰ったことがあったが、その後で夢二は庭の木瓜の大株を引き抜いて私の庭に植えてくれた。
もう秋も深くなってから夢二はまた台湾の旅に出て、今度は1カ月ほどで寒い松原の家に帰って来たが、げっそりと痩せて重い病気ではないかという様子になっていた。気になるのでしばし訪ねてみると生活にも不自由らしく、私はその様子を、これもよく往き来して蘆花未亡人に話した。と未亡人が、「夢二さんに不如帰(ほととぎす)の絵ハガキを描いて頂けないかしら。ねえお願いしてみて」と言う。
その原画はすぐ描き上がって蘆花未亡人を喜ばせた。一枚は榛名山、もう一枚は伊香保山上のわらび狩り、そして後の一枚は逗子に病む浪子、これは藤島武二の浪子の模写と夢二が言っていた。蘆花未亡人はその榛名の絵に
白雲にしばしへだての二つ岳 ならぶはひかり地に満つるとき
と自作の短歌を書き添えて絵ハガキに仕上げた。これが夢二が入院する前の最後の仕事になったようだ。(つづく)
※蘆花未亡人:明治の文豪徳富蘆花の婦人愛子のこと。熊本県菊池隈府で生まれ、文学少女として成長し、その多彩な才能は蘆花の作品にも大きく影響を与えた。また銀婚式の記念に誰よりも早く世界一周の旅にでかけるなど夫婦仲の良さも知られている。⇒詳細は熊本県観光サイトをご覧ください。
愛子と隈府(ワイフ)・21世紀に生きる愛子像 | 【公式】熊本県観光サイト もっと、もーっと!くまもっと。
(kumamoto.guide)
(編者)今回は、帰国後台湾に行く前の夢二の状況(特に経済状況)や台湾から帰った直後の夢二の様子が克明に描かれています。2年余りにわたり、“無銭旅行”ともいわれる困窮の旅は夢二の身体を相当痛め、「すっかり老け込んだ」ようですが、さらに望月百合子のほかに様子を見に来る人もほとんどないような環境の中で台湾に旅立ったようです。さらに台湾から戻って来たときの様子は、「げっそりと痩せて重い病気ではないかと」と描かれています。
しかし、外遊から帰った後、望月百合子へのしゃれた土産や彼女の犬へ微笑ましい態度などを見ると、台湾に出発する前は夢二らしいところがまだしっかり生きていたことがわかります。台湾でのんびりして個展で稼ぐつもりだった夢二が急激に病状悪化したのは、やはり積もり積もった旅の疲れが一気に出で、結核が表面化したからでしょうか。しかし、次回の中で望月百合子が書いているとおり、夢二はまだ「風邪」だと思っていたのは致命的だったようです。
■夢二の台湾旅行関係資料の紹介
事情により、今回はお休みします。
■夢二の世界■
PART 4 「夢二のデザイン」(「竹久夢二 《デザイン》モダンガールの宝箱」(竹久夢二美術館 石川桂子著、講談社)より)
3 雑誌の仕事
(2)『新少女』
大正4年(1915)4月、婦人之友社から創刊された少女雑誌。創刊号から18冊の表紙絵は夢二の手によるもので、色鮮やかでノスタルジックな植物画、時代の風俗を映した少女画で読者をとらえた。夢二はその編集局絵画主任を務め、表紙絵に加えて口絵や挿絵、カット・イラストを手がけたほか、文章も多数寄稿し少女の生活を豊かにするための提案にも力を注ぐなど、誌画づくりに深く関わった。
創刊3号目の読者だよりには、「夢二先生のお書きになる清純な少女(中略)美しうなつかしう存じます」「私の心を強くひきつけるのは夢二先生の絵です、先生の絵は好きで好きでたまらないのです」等の声が寄せられており、夢二人気が絶大なものであったことがうかがえる。(つづく)
▼『新少女』(「竹久夢二 《デザイン》モダンガールの宝箱」(石川桂子著)より
■夢二の言葉■(☆は書かれたころの夢二の状況です。)
●「夢二日記」(1930年(昭和5)1月28日)
少年のように
どうして素直に愛することが出来ないのだ。
世の男のように
どうして単純に愛することだけしかしないのだ。
もうそろそろ心臓を使わずに
愛する構えを体得してもよさそうなものだ。
お前のおめでたさはきりがない。
だからお前は女に捨てられるのだ。
いつもこっちから捨てる
心構えをしていないから
甘さにかぎりがないのだ。
そして向うから捨てられるのだ
☆前年の10月20日、博文館編集者小池秀子が突然日記に登場しています。この後二人は急激に愛し合うようになり、筑波へ連れ立って旅に出たため大騒動になって破局を迎えます。家には電車内で声をかけたあと同棲している宇佐美雪江(雪坊)がいましたが、彼女とも疎遠になっていて、2月には家に帰るように言っています。その後、夢二は「榛名山美術研究所」の設立宣言をしますが、翁久允の誘いで翌年アメリカに旅立つことになります。
■夢二情報■
●竹久夢二のハンドレタリングに着目した展覧会、竹久夢二美術館で、雑誌・楽譜表紙などから描き文字を紹介(「FASHION PRESS」より)
https://www.fashion-press.net/news/101134
●「竹久夢二 描き文字のデザイン ―大正ロマンのハンドレタリング―」(竹久夢二美術館)(「美術展ナビ」より)
時代を中心に活躍した画家・竹久夢二(1884~1934)は、グラフィック・デザイナーとしても才能を発揮し、数多くの図案を残した。
本展では、ポスター、書籍装幀、雑誌・楽譜表紙絵等の図案に展開された、夢二による描き文字のデザインを紹介する。ハンドレタリングで表現された個性的な文字に注目し、コンピューターでの制作とは異なる、描き文字ならではの魅力に迫る。
さらに肉筆で残された書、原稿、プライベートに残した日記と手紙の展示を通じて、夢二による多彩な文字の表現が楽しめる。
https://artexhibition.jp/exhibitions/20230302-AEJ1267824/
●夢二郷土美術館が春の企画展「夢二と舞台芸術」を開催。寄贈された夢二作品も初公開(「ガジェット通信」より)
明治時代以降、文明開化により取り入れられた文化の中には、シェイクスピアら外国の作家が手がけた戯曲やオペラ、バレエなどの舞台芸術があった。それらは、歌舞伎や人形浄瑠璃をはじめとした日本古来の芸能と同様、時代に合わせて変容しながら大衆に愛されるようになる。
大正時代を代表するマルチアーティストの竹久夢二氏(1884-1934)は、舞台芸術を愛し、江戸情趣あふれる日本の伝統芸能や異国発祥の舞台が持つ魅力を作品の中で表現。舞台背景を手がけたこともある。
同氏はまた、華やかな舞台上だけでなく、楽屋での様子や練習風景、観客たちの姿もとらえて画題とした。同展では、そんな同氏の大正浪漫の気風漂う舞台芸術の世界を堪能できる。
あわせて、テレビ時代劇や映画の監督として活躍した牧口雄二氏(1936-2021)が愛蔵し、同館に寄贈された竹久夢二氏のコレクションを初公開し、今につながる同氏の影響を紹介する。作品点数は100点以上。会期は3月7日(火)~6月4日(日)だ。また、同展に関連したさまざまなイベントも開催される。
https://getnews.jp/archives/3390360
●越懸澤麻衣著『大正時代の音楽文化とセノオ楽譜』が発売中!
西洋音楽と遭遇した大正時代、そこには楽譜があった!
聴こえては流れてゆく「音」を五線譜で出版し、かつて一世を風靡したと言われるセノオ楽譜とは何か?
そして、主宰に飾った竹久夢二との関係など、大正時代の西洋音楽受容の様子を活写する!
「近刊検索デルタ」より)者・妹尾幸陽とは一体何者なのか?
楽譜の表紙を鮮やか
https://honno.info/kkan/card.html?isbn=9784867800096
●企画展「夢二が描いた 心ときめく花と暮らし」開催!(竹久夢二美術館)3月26日(日)まで
日本では古くから、四季折々の花が生活に喜びや潤いを与え、芸術作品の主題として扱われてきました。
画家・詩人として活躍した竹久夢二(1884-1934)も、暮らしの中の花から着想を得て、絵画やデザイン、詩歌などにおいて幅広く表現しました。夢二が描いた花は可憐な姿で鑑賞者を癒してくれます。さらに自身の心情と花の印象が結びついて生まれた詩は、時には香りや触感までも思い出させ、花にまつわる記憶を呼び起こしてくれます。また図案化された花は日用品を装飾して暮らしを彩り、その洗練されたデザインは現代でも高い評価を得ています。
本展では、花をテーマにした夢二作品に加え、明治後期~昭和初期の雑誌より、花を楽しむ文化を展示紹介します。
https://www.yayoi-yumeji-museum.jp/yumeji/exhibition/next.html
●企画展「夢二の楽譜 ―大正・昭和初期の作詞曲と表紙絵―」(金沢湯涌夢二館)3月12日(日)まで
竹久夢二(1884-1934)は、明治末期から昭和初期に活躍した詩人画家です。夢二が作詞した「宵待草」は、多忠亮(おおのただすけ)の作曲により大正7年(1918)に「セノオ楽譜」のシリーズから出版され、大正時代を代表し、今なお愛唱される流行歌となりました。この「宵待草」を現在の歌詞で掲載した夢二の処女詩集『どんたく』は大正2年に刊行され、2023年はその刊行から110年目となります。これを記念して、夢二の楽譜をテーマとした展覧会を開催します。
本展覧会では、夢二が表紙絵を手がけ、セノオ音楽出版社から発行された「新小唄」や「セノオ楽譜」を中心に、夢二の作詞曲や同時代の楽譜などもあわせて展示します。なお、妹尾幸次郎筆 竹久夢二宛書簡(昭和9年)も当館初公開します。
https://www.kanazawa-museum.jp/yumeji/exhibit/index.html
●夢二の雰囲気に包まれてオリジナル懐石を楽しめる!――神楽坂「夢二」
https://www.kagurazaka-yumeji.com/
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