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■メッセージ■
3月22日(水)、私の所属する通信文化協会團宏明会長からFacebookで紹介のあった、東京・虎ノ門にある台北駐日経済文化代表処台湾文化センターで開催中の「藤井克之墨彩画展『台湾を描く』に行きました。幸運にも藤井克之画伯が会場にいらっしゃったので、しばらくお話を伺うことが出来ました。あまりよく調べずに行った私はそこで衝撃の事実を知ることになりました。
藤井画伯は、墨彩画という独特な素晴らしい表現方法で胸にしみいるような絵をお描きなる方ですが、展示されている台湾の風景の中に、私が訪れた時の思いが浮かび上がってくるようなリアル感がありました。それが、台湾の絵を描くことになった理由を直にお聞きして、その絵の中に込められた同画伯の思いを知ることになりました。
それは2016年に32歳の若さでこの世を去った藤井さんのお嬢様、小百合さんの物語でした。
私は藤井画伯の出版した追悼本「日本與台灣的風景畫」を買い求め、帰りの電車で読みましたが、にじみ出る涙をこらえるのに大変な思いをしました。
ここでは、同書の「後記」として藤井画伯の書かれた文章を紹介し、私の感動と無念の心境をお届けしたいと思います。
「お父さん、台湾の絵を描いて!いつか台湾で個展をしてね。この近くに日本台湾交流協会があるからその時は相談するといいよ。」リージェントタイペイホテルに向かう道すがら娘の小百合が言った言葉が今でも鮮明に聞こえてきます。
あれから8年、娘の希望したとおり台北での個展が実現しました。しかし一番喜んでくれるはずの娘はいません。
娘は何度か行き来するうち台湾に魅せられ移住、台北の語学学校で教師として勤務していました。「台湾の人達は強くて明るいんだよ」とよく言っていました。厳しく辛い台湾の歴史がこの地に生き抜く為に、彼らに与えた賜物であると感じていたようです。統治時代日本がどんなことをしてきたのか勉強したい。そうでなければ台湾の人と正しく付きあえないと口にしていたことを覚えています。
そして「苦難の中を通ったがゆえに人を思いやるやさしさを身につけた。」とも言ってました。「強く明るくやさしい台湾人」が娘を魅了した大きな要因であったと思います。その人達の中で暮らしているうち娘の人生観も変化していったようです。いづれにしても日本に生き辛さを感じ不安定な日々を過ごしていた娘が、日毎に明るく逞しくなっていったことからみると、ここが最良の地だったことは間違いないと思っています。遠回りしたけれどやっと安住の地、そして日本語教師という天職に巡り会えた。ここから私の本当の人生がスタートすると喜びに満ちた娘の表情を忘れることが出来ません。
そんな矢先、病気(がん)が見つかりました。日本で治療に専念する為退職を余儀なくされました。迎えに行った際、台北のホテルで一晩中泣いていた娘の嗚咽は私の耳から一生離れないことと思います。娘は「がん」と懸命に闘いましたが、残念ながら2016年2月に天国に逝ってしまいました。32歳でした。
日本での治療中、台湾から多くの友人がお見舞いに来て下さいました。亡くなってからも私達夫婦を包み込む愛で受容し、ともに悲しんで下さいました。またある時は泣き言を言っている私を叱責して下さり、我に返ったこともありました。台湾の人達との関わりの中で私達夫婦は、この苦しさを乗り切ることが出来たと言っても過言ではありません。いつの間にか娘と同じように台湾人の魅力に引かれていることに気づきました。
そんな時、黄嘉懋さんが台湾での展覧会を提案して下さいました。娘の知人で台湾時代大変お世話になった方です。「小百合さんの好きだった台湾の風景、そして生まれ育った日本の風景を展示し、多くの方々に観てもらうことは小百合さんの魂が喜ぶことだと思う。」とおっしゃって下さいました。それこそ「両国の架橋」になりたいと願っていた娘の夢を実現することが出来るのではと思い、お願いすることにしました。と同時に娘の台湾での生活を追体験してみたいという思いも満たされるのではないか。娘はどんな風景を見、そして何を感じたのか。絵を描くことを通してその思いに添うことが出来るのではないかと考えました。
観光名所だけではなく住んでいた街、好きだった店等々友人の方々に聞きながら何度も台湾に足を運びました。
この画集は私達家族を台湾と繋いでくれた娘小百合に捧げるものです。たくさんの良き人達に囲まれ、短い時間でしたがこの地で多くの事を学び、いきいきと充実した時間を過ごした娘の生きた証です。このように見える形として残すことが出来ましたことは望外のよろこびであります。(後略)
ここには書かれていませんが、帰国して治療を続けていたある日、小百合さんは藤井さんに、もう一度台湾をこの目で見たいので家族で台湾に行きたい、と願い出たそうです。藤井さんはこの願いを叶えて旅をしました。小百合さんはもう一人では歩けず、車いすに乗り、(医療用)麻薬携帯許可証持参でモルヒネと共にする旅でした。激痛をがまんしながら、小百合さんは友人たちと再会し、そしれ最後の別れをしました。夢を実現しかけた台湾をどんな思いで見たことでしょう。松山空港で台湾を発つとき、台湾人の友人から「何かしておきたいことはありますか」と聞かれ、「もう一度タピオカミルクティーが飲みたい」と答えたそうです。そして、それが最後の台湾で叶えた希望となり、小百合さんは二度と台湾へ戻ることのない帰国の旅に出たということです。
「新潟と台湾の架け橋になりたい」というのが小百合さんの願いでした。
奇しくも3年前にプロジェクト「夢二と台湾2023」を企画したとき、「夢二の訪台をきっかけとして、日本と台湾との架け橋を創りたい」というのが中華郵政公司の林立富さんとともに日台プロジェクトチームを立ち上げた時の思いでした。台湾大学、北投文物館での講演会を7か月後に控えた今、動画制作も含めた準備を鋭意進めていますが、この度の藤井画伯との出会いにより、小百合さんの遺志をも継ぐつもりで頑張ろうと、より強固な意志をもつことができました。
この物語は、来年台湾で開催予定の展覧会や映画の制作によって多くの人に紹介されることになっているとのことです。小百合さんの台湾への思いがより多くの人に感動を与え、「日本と台湾の架け橋」となることを願っています。
▼台湾文化センターでの展覧会
▼台湾最後の旅の記念写真
▼台湾で開催された展覧会
■竹久夢二の素顔■
●望月百合子(5)最終回(『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)の「竹久夢二の思い出」より)
(注)本文は、望月百合子が『婦人公論』第59巻4号(1974年(昭和49)(婦人公論社)初出、『限りない自由を生きて』(1988年(昭和63)(ドメス出版)に掲載したものです。
・永遠の旅立ち
昭和9年が明けると私はすぐ夢二を訪ねたが、家の中はシンカンとして人の気配もなくそれでいて手をかけると戸はするするとあいた。気味悪いけれど見ねばなるまいと怖る怖る部屋部屋をのぞきまわり最後に道路に一番近い細長いアトリエをのぞいてびっくりした。夢二が死んだようにベッドに寝ていた。
「風邪ひいちゃってね」と私に気づくと聞き取りにくい程の声を出した。額に手を当ててみると熱い。薬も服んでいないという。私はあわてて停留所の前の店に飛び込んで春草会の幹事の岡田道一医博を呼んだ。博士はすぐかけつけて来て診察したが、「正木君にでも頼まねばだめだ」と言う。結局正木不如丘博士の友情のおかげで富士見の高原療養所に入院することになった。
その年の8月15日、私は夫と信州の山歩きをと出かけ途中冨士見に下車して療養所を訪ねた。夢二は一番奥の病棟の多分最上と思われる部屋にいたが、その顔をみた瞬間私も夫も胸をつかれた思いで言葉も出せなかった。生活のあらゆる煩いから逃れて静かで清らかな自然の中で、最高の国手の最上の医療を受けているのだから、もう家にも帰れるほどに元気をとり戻しているとばかり思いこんで来たのに、腫(むく)んだ顔、ハチ切れそうに丸々とふくらんだ手足を見たのだ。
夢二が咳こみ痰吐きをとろうとするので私が取って渡すと
「いいよ、病気がうつるといけないから」と言って痰吐きを自分で卓に戻した。
窓からは甲斐駒やそれに連なる南アルプスの峰々が見渡せるのに今はそれを見る気力も失せてしまった姿だ。奥の間にはまだ気力があった時に描いたと思われる山の油絵がニ、三枚立てかけてあった。夫はそれを見て「山の絵が描けてよかったですね」というと夢二は唇を綻(ほころ)ばせて頷いた。おそらくこの油絵は夢二が描いた初めてのそして最後の本格的な作品であろう。
この病室にくるまでの長い廊下に一人の患者も看護婦もみかけずシンカンとしていたので、何処に医者や看護婦の詰め所があるやら、せめて付添婦を一人つけたい、と思うともう私も夫も山歩きどころはなく東京へ引きかえした。岡田医博と相談して春草会を中心に付添婦の費用をカンパすることになった。しかしそれが実現しないうちに9月1日の朝夢二は彦乃の後を追って不帰の人になってしまった。
永遠の女性として愛し抜き、引き裂かれたまま死に目にも会えずに逝かれた彦乃と、奇しくも同じ病でこの世を去る夢二は、せめてそのことだけには喜びを抱いて逝ったのではなかろうか。
葬式は有島生馬画伯らの肝いりで番町の寺で賑やかに行われたが竹久亭夢生居士と書かれた位牌の前で「こんな戒名ぶっとばしなさいよ」と私は夢二の霊に呼びかけた。布施のせいかも知れないが余りに安易すぎる戒名だったからだ。
墓は雑司ヶ谷で夢二にふさわしい風情の自然石、外地に10年いて戦後3年目に帰って墓参に行くと、管理費不払いのはり紙がべったり。私はすぐ岡田道一医博に電話して「来てみろ」と怒った。岡田博士は折よく豊島区の区会議員をしていたので、その奔走で夢二の墓は区の文化史跡として保存されることになって、今は文学散歩の訪問が絶えない。(完)
■夢二の台湾旅行関係資料の紹介
論文「昭和8年の夢二の訪台 ―『台湾日々新報新資料による―」(女子美術短期大学・大学院博士・西恭子)
序論
竹久夢二(1884~1934)は、明治後半期から大正、昭和と活躍し、広く一般に愛好された画家であった。
「夢二」の名を世に知らせたのは大衆雑誌に掲載されたコマ絵や悲哀に満ちた独自の美人画であった。夢二は、正規に美術学校で学んだことはなく、官庁主催の公募展に出品することもなかった。つまり画壇とは無縁であったために評価されずにいた。そのため、本格的な研究は後年のことになる。
昭和30年代後半から徐々に美術研究の対象として取り扱われるようになった。これまでの書誌学に基づく調査から、夢二に関する著述は、昭和10年(1934)11月発行の『文芸』に正木不如丘著の「夢二の死に方」があり、平成10年(1998)3月に発行された『女子美術大学紀要』第29号の西恭子著の「竹久夢二と『法律新聞』」まで、合計169がある。
また、関係図書は、昭和16年(1941)に発行された森口多里著の『明治大正の洋画』(東京堂)や、平成10年(1998)5月に発行された荒俣弘著の『流線型の女神 アールデコ挿絵本の世界』(発行・牛若丸/発売・星雲社)等94冊がある。
現在では、美術研究の対象のみならず、文学、社会学、服飾文化といった多くの分野から、夢二の活動について論究されている。
以上のような多くの先行研究がありながら、「台湾での活動」が未だに解明されていない。
竹久夢二の海外での活動は、「外遊日記」として出版されている。また、「東行国際列車」、「手による産業の提唱」や「外国放浪」といった現地レポートがある。
これらの資料をもとに、袖井林二郎の『加州客中』や鶴谷壽の『夢二の見たアメリカ』といった詳細な研究がある。
竹久夢二は、昭和6年(1931)5月7日から昭和8年(1933)9月18日まで、アメリカから欧州へ向けて外遊している。外遊の目的は、榛名山産業美術研究所設立のための視察であるとされている。
夢二は昭和6年(1931)5月7日に、秩父丸で出帆し、同年5月14日にホノルルへ着いた。同年5月29日に龍田丸でサンフランシスコへ行き、同年8月8日から11月下旬までポイントラパスに滞在した。昭和7年9月10日に、サンピイドル出版のドイツ汽船タコマ丸で渡欧し、同年10月10日にハンブルグに着き、欧州を巡るといった航路を辿った。
外遊前に歓送としての展覧会が行われた。また、現地に着いてからも展覧会が開催された。
このように、渡米や対応の活動に関しては多くのことが解明されている。
しかしながら、台湾での活動は未解明であり、先行研究では、「昭和8年11月、、台湾へ赴くが得るところなく」といった著述が大半である。
従って、どのような目的で、何を行ったかということが一切明らかになっていない。
本論では、新資料として『台湾日々新報』より、台湾での夢二の動向と論説を紹介し、考察を加えたいと思う。(つづく)
■夢二の世界■
PART 4 「夢二のデザイン」(「竹久夢二 《デザイン》モダンガールの宝箱」(竹久夢二美術館 石川桂子著、講談社)より)
3 雑誌の仕事
(3)『淑女画報』
明治45年(1912)4月、博文社から創刊された女性向け雑誌で、絵や写真からなる「画報」と「読み物」のページで構成された。中でも写真に力を入れているのが特徴で、一般的な雑誌では写真が数ページのところを、毎号、全体の半分近い約40頁を写真に充て、良家の家庭の様子や、令嬢などの写真を掲載した。また、写真が見やすいよう、四六倍判(188X254mm)サイズという、大きめの判型を採用していた。
夢二は大正3年(1914)から同5年にかけて表紙絵を手がけた。とりわけ、12ヵ月連続で担当した大正4年には、アール・ヌーヴォー様式を取り入れ、動植物をモチーフにしたものなど、遊び心溢れるデザインが表紙を飾った。(つづく)
*明治・大正期の雑誌は菊判(152X218mm)サイズが多かった。
▼『淑女画報』(「竹久夢二 《デザイン》モダンガールの宝箱」(石川桂子著)より
■夢二の言葉■(☆は書かれたころの夢二の状況です。)
●「夢二日記」(1916年(大正5)7月7日)
呼ばれないで女はくる、
呼ぶ時には来ないのは猫のようだ。
☆この前年、夢二は笠井彦乃と出会い、愛し合うようになりましたが、彦乃の父親・宗重の反対に会い、逢瀬もままならぬ状態で秘かに恋文を交わす日々が続いていました。離婚した他万喜を主人とした「港屋絵草紙店」は繁昌していましたが、夢二は商品づくりには積極的でなく、この日記を書いた4か月後、夢二は単身京都に旅立ちます。それは宗重を説得して京都に行く彦乃を待ち受けるためでした。そして東京に残された他万喜はこの年の暮れ、子ども3人を置いたまま失踪してしまいます。
●「夢二日記」(1917年(大正6)6月13日)
「俺はさみしいんだよ。そしてたったひとりのおまえがこんなに可愛いのだ」
女はすぐ猫のようにころごろ言って、すぐ主人になれて甘える。
しかし猫は猫であることを決して忘れない、おのれを空うして身を投げない。
常に意識してあまえる。
私はまたついに高貴な猫をかったのであろうか。
☆この年の6月8日、京都で絵の先生に師事するということで父親の宗重の許しを貰い、彦乃が夢二の許にやってきました。ようやく彦乃と暮らせるということで大喜びの夢二ですが、日記にはこんなことを書いています。さて、どんな意味合いなのでしょうか。
■夢二情報■
●竹久夢二のハンドレタリングに着目した展覧会、竹久夢二美術館で、雑誌・楽譜表紙などから描き文字を紹介(「FASHION
PRESS」より)
https://www.fashion-press.net/news/101134
●「竹久夢二 描き文字のデザイン ―大正ロマンのハンドレタリング―」(竹久夢二美術館)(「美術展ナビ」より)
時代を中心に活躍した画家・竹久夢二(1884~1934)は、グラフィック・デザイナーとしても才能を発揮し、数多くの図案を残した。
本展では、ポスター、書籍装幀、雑誌・楽譜表紙絵等の図案に展開された、夢二による描き文字のデザインを紹介する。ハンドレタリングで表現された個性的な文字に注目し、コンピューターでの制作とは異なる、描き文字ならではの魅力に迫る。
さらに肉筆で残された書、原稿、プライベートに残した日記と手紙の展示を通じて、夢二による多彩な文字の表現が楽しめる。
https://artexhibition.jp/exhibitions/20230302-AEJ1267824/
●夢二郷土美術館が春の企画展「夢二と舞台芸術」を開催。寄贈された夢二作品も初公開(「ガジェット通信」より)
明治時代以降、文明開化により取り入れられた文化の中には、シェイクスピアら外国の作家が手がけた戯曲やオペラ、バレエなどの舞台芸術があった。それらは、歌舞伎や人形浄瑠璃をはじめとした日本古来の芸能と同様、時代に合わせて変容しながら大衆に愛されるようになる。
大正時代を代表するマルチアーティストの竹久夢二氏(1884-1934)は、舞台芸術を愛し、江戸情趣あふれる日本の伝統芸能や異国発祥の舞台が持つ魅力を作品の中で表現。舞台背景を手がけたこともある。
同氏はまた、華やかな舞台上だけでなく、楽屋での様子や練習風景、観客たちの姿もとらえて画題とした。同展では、そんな同氏の大正浪漫の気風漂う舞台芸術の世界を堪能できる。
あわせて、テレビ時代劇や映画の監督として活躍した牧口雄二氏(1936-2021)が愛蔵し、同館に寄贈された竹久夢二氏のコレクションを初公開し、今につながる同氏の影響を紹介する。作品点数は100点以上。会期は3月7日(火)~6月4日(日)だ。また、同展に関連したさまざまなイベントも開催される。
https://getnews.jp/archives/3390360
●越懸澤麻衣著『大正時代の音楽文化とセノオ楽譜』が発売中!
西洋音楽と遭遇した大正時代、そこには楽譜があった!
聴こえては流れてゆく「音」を五線譜で出版し、かつて一世を風靡したと言われるセノオ楽譜とは何か?
そして、主宰に飾った竹久夢二との関係など、大正時代の西洋音楽受容の様子を活写する!
「近刊検索デルタ」より)者・妹尾幸陽とは一体何者なのか?
楽譜の表紙を鮮やか
https://honno.info/kkan/card.html?isbn=9784867800096
●企画展「夢二が描いた 心ときめく花と暮らし」開催!(竹久夢二美術館)3月26日(日)まで
日本では古くから、四季折々の花が生活に喜びや潤いを与え、芸術作品の主題として扱われてきました。
画家・詩人として活躍した竹久夢二(1884-1934)も、暮らしの中の花から着想を得て、絵画やデザイン、詩歌などにおいて幅広く表現しました。夢二が描いた花は可憐な姿で鑑賞者を癒してくれます。さらに自身の心情と花の印象が結びついて生まれた詩は、時には香りや触感までも思い出させ、花にまつわる記憶を呼び起こしてくれます。また図案化された花は日用品を装飾して暮らしを彩り、その洗練されたデザインは現代でも高い評価を得ています。
本展では、花をテーマにした夢二作品に加え、明治後期~昭和初期の雑誌より、花を楽しむ文化を展示紹介します。
https://www.yayoi-yumeji-museum.jp/yumeji/exhibition/next.html
●本館企画展「夢二と舞台芸術」(3月7日~6月4日、夢二郷土美術館)
明治時代以降、文明開化により取り入れられた文化の中にはシェイクスピアら外国の作家が手がけた戯曲やオペラ、バレエなどの舞台芸術がありました。それらは歌舞伎や人形浄瑠璃をはじめとした日本古来の芸能と同様、時代に合わせて変容しながら大衆に愛されるようになります。
大正時代を代表するマルチアーティストの竹久夢二(1884-1934)は舞台芸術を愛し、江戸情趣あふれる日本の伝統芸能や異国発祥のステージが持つ魅力を作品の中で表現し、舞台背景を手がけたこともありました。華やかな舞台上だけでなく、楽屋での様子や練習風景、観客たちの姿もとらえて画題とした夢二による大正浪漫の気風漂う舞台芸術の世界をご堪能ください。
また、当館に寄贈されたテレビ時代劇や映画の監督として活躍した牧口雄二氏(1936-2021)愛蔵の夢二コレクションを初公開し、今につながる夢二の影響をご紹介します。
https://yumeji-art-museum.com/honkan/
★関連イベント★
【「夢二と舞台芸術」特別企画:ドレスコード「赤」】
会期中、赤いものを身に着けてご来館のお客様にオリジナル夢二絵はがきをプレゼントいたします。
記念写真が撮れるフォトスポットも登場!
【学芸員によるギャラリートーク】
企画展担当学芸員による作品解説です。申込不要。
日程:2023年3月12日(日)14:00~14:20
参加費:無料(※要入館料、ゆめびぃ会員は無料です。)
【第58回文化講座「春を彩るテーブルコーディネート」】
日程:2023年4月1日(土)10:00~11:30
会場:夢二郷土美術館 本館 art café 夢二
講師:テーブルコーディネーター 原 のり子氏
定員:25名(要予約・先着順)
参加費(税込):一般1000円(別途要入館料)
お申込み先:下記お問い合わせ先まで
【「夢二アンバサダー」とめぐるワクワク★夢二郷土美術館】
日程:2023年4月9日(日)11:00~11:20
「夢二アンバサダー」となったベテランこども学芸員さんが夢二郷土美術館の作品やおすすめスポットをご案内します。
申込:不要 参加費:無料(中学生以下入館無料、高校生以上は要入館料、ゆめびぃ会員は無料)
【貸切特別鑑賞会「宵の夢二 解説つきプレミアムツアー」】
閉館後の美術館を貸切で学芸員の解説とともに楽しむことができる、お土産付きツアー。お庭番頭ねこ「黑の助」もお迎えします。
日程:2023年4月29日(土・祝)17:00~18:00
定員:最少催行人数5名(要予約)
参加費(税込):一般1300円、中高大学生900円、小学生800円
★体験コーナー(随時)★
【「art café 夢二」でお手紙を書きませんか?】
大正ロマンの香りが漂う優雅な空間で大切な人へお手紙を書いてみませんか?
ガラスペンや筆ペン、色えんぴつなどを自由にお使いいただけます。
(夢二切手付きの絵はがきやレターセットもショップで販売しています。)
※筆記具は数に限りがございます。
※感染予防のため、手指の消毒のご協力をお願いいたします。
場所:art café 夢二
●夢二の雰囲気に包まれてオリジナル懐石を楽しめる!――神楽坂「夢二」
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