※創刊号(2021.8.8)~第37号(2022.4.10)はこちらをご覧ください。⇒ https://yumejitotaiwan.exblog.jp

※ビジュアル夢二ブログ「夢二と台湾」⇒ https://jasmineproject.amebaownd.com/

 

 

■メッセージ■

先週は諸般の事情によりに曜日に発行できませんでした。謹んでお詫びいたします。

なお、44日、「JASMINe Project International」の副代表の林立富氏(Woody Lin)が私用で来日し、協力者の岩島美月さんを交え、面談する機会がありました。

スケジュールの確認を行ったのち、成功に向けて協力体制を強化することとしました。

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■竹久夢二の素顔■

●淡谷のりこ「渡航前竹久夢二とまわった音楽界のことなど」(1)(『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)の「竹久夢二の思い出」より)

(注)本文は、淡谷のり子が『青春と読書』第2012号(1958年(昭和60年)(集英社)に掲載したものです。

わたしの母が竹久夢二さんの大変なファンだったんですね。わたしが子供のころの時分から。ですから、わたしも夢二さんのことは小さい頃からよーく知っていまして、母の影響でしょうね、わたしも夢二さんの絵がたまらなく好きで、女学校の頃には夢二さんの絵をなんとなく集めていたりしていましたよ。その頃は、「夢二画描いたような人ね」というのが代表的な美人の形容でしたからね。

夢二さんの人気というのは大変なもので、浮き沈みなんてなかったんじゃないんですか、その当時から亡くなるまで、ずーっと。

 それでわたしが上野の東洋音楽学校に入りまして、その頃セノオ楽譜というところから夢二さんが表紙の絵を描いている楽譜が出ていまして、わたしもそれでうたったりもしていたんですよ、『宵待草』とか『蘭灯』とかをね。夢二さんが詩を作って、多忠亮さんや本居如月さんたちが作曲して、それをわたしは歌っていました。

昭和4年にわたしは音楽学校を出ましたが、2年後の昭和6年ですか、夢二さんがフランスへ行きたがっているのだけれど、経済的に苦しいようだからその費用を作りだすための「夢二画伯外遊送別舞踏と音楽の会」をやることになったんで、わたしも出ないかというお話がありましてね。

わたしはその話を聞いて、夢二さんのために歌えるというので、それはもう嬉しかったですよ。

前橋や高崎と行ったところの何か所かでその会を開いて、そこであがったお金を夢二さんに持たせたんですね。その会が開かれる土地土地に夢二さんの講演者の方がいましてね、おそらく、その人たちもお金を出したんでしょうし、もちろん、わたしたちも無料出演ということで、そうして集まったお金を夢二さんに差しあげて、それで発たせたんですけどね。そのくらい集まったかは知りませんよ。でも随分な額になったんじゃないでしょうか。竹久夢二が来る、淡谷のり子が来るというんで、各会場ともそりゃもう大変な人が集まりました。

 その音楽会の旅にはずっと夢二さんが一緒だったんですよ。夢二さんはその間いつも一生懸命絵を描いていましたね、墨絵だとかの。で、その絵を会場に展示して売っていたんです。だから旅の間は毎日お目にかかりましたし、何度か一緒にお食事もしました。(つづく)
※淡谷のり子(歌手・190799)昭和6年(1931)当時は24歳でした。

(編者)淡谷のり子さんは「随分な額になったんじゃないでしょうか」と言ってますが、アメリカに向けて出港してからの船内の夢二と翁久允のこの会話はどう理解したらよいのでしょうか。(『夢二と久允』風間書房)

「夢二は、彼(夢二)の蟇口(がまぐち)を手にとると、一種の興味にはずみながら、無造作に口をあけて逆に、じゃやじゃやらひっくり返した。五十銭玉や十銭玉、五銭玉まで交じって紙幣の数々を並べてみると、漸(ようや)く二百何十何円何十銭しかないのだった。ほゝこれじゃ日米金百弗あまりだね。これぽっちの金をもって秩父丸のキャビンにおさまり、世界漫遊するんだなんて人物は、明治以来君一人かもしれないぜ、こりゃ君、記録(レコード)ものだと。しかし笑いながら、なに、どうせこれから一年あまり、二人は夫婦者かなんぞのように助け合いながら行かねばならぬ長い旅だ。」と翁久允は自著「出帆」に書いています。夢二はどうも資金を全部出発前に使ってしまったようですね。

▼淡谷のり子(20代)
淡谷のり子20代
 

■夢二の台湾旅行関係資料の紹介

論文「昭和8年の夢二の訪台 『台湾日々新報新資料による」(女子美術短期大学・大学院博士・西恭子)

1 台湾での活動

 竹久夢二は、昭和8年(19331026日午後零時40分に、大和丸で基隆港に着いた。

 客船には、合計227名が乗船しており、その中には、大蔵省銀行課長和田正彦、東方文化協会理事河瀬蘇北、扶桑海上保険専務小山九一、福田定次郎がいた。

 夢二は、東方文化協会台湾支部設立発会式の記念大講演会の講師として、理事長河瀬と日本大学教授後藤朔太郎とともに出演する予定となっていた。また、協会発足記念の一つの催しとして、竹久夢二の展覧会が開催された。

 展覧会は、昭和8113日から5日に警察会館で行われた。出陳点数は、五十余点で、屏風と額装があった。そのうち、滞欧作品として、「海濵」、「女」、「旅人」等があり、外枕屏風は近年作「春夢幻想」、「榛名山秋色」が展示された。また、四尺二枚屏風風「舞姫」は、有島生馬との合作で、「古き夢二式美人」を偲ぶものであるという。

 3日の午後6時から医専講堂で記念大講演会が行われた。内容は以下のようになっている。

一、 開会の挨拶 尾崎秀眞

二、 東西女雑観

三、 東方文明の時代 河瀬蘇北

 東方文化協会理事長の河瀬蘇北は、『近代反動史』(表現社 大正13620日発行)などを執筆している。

 これまでの夢二研究では触れられていないが、昭和6年(1931)に発行された河瀬著の『新満蒙論』は、夢二が本の装幀をしており、すでにこの頃から面識があったのではないかと考えられる。

 記念大講堂で、当初予定していた後藤朔太郎は、日本大学での講義の都合により出演できなかった。そのため、後藤の代役として、尾崎秀眞が講演をしている。

 尾崎秀眞という人物に替わったのであるが、昭和8年(19331031日の『台湾日日新報』に、「台展で今度会友を委嘱 台湾美術界のためなお一層努力する」という記事がある。本紙に会友の名前があり、そのなかに尾崎秀眞の他12名の名前が列記してある。

 この尾崎秀眞は、台湾総督府博物館協会理事にもなった人物である。尾崎は、ゾルゲ事件に関与し、後に科学的中国評論家として知られる尾崎秀実と文芸評論家尾崎秀樹の父親である。

 竹久夢二は、秀眞と東方文化協会の記念大講演会で共に講演をした。秀樹と関わりのある画家の宮城与徳と面識があった。また、秀樹は竹久夢二に着いて言及している。といったように、直接的な関わりではないが、その周辺にいた。

 秀眞の略歴からは、日本の統治下にあった台湾の歴史の側面を見いだすことができる。また、秀実の活動との接点から、夢二の新しいソシオグラムを見いだせる可能性がある。そして、秀樹の功績は、一般に広く愛好された画家である夢二の活動が、今や学問対象と成り得た経緯の一つであると考えるため、本論からは、多少離れるがここで説明を加えたい。(つづく)

「台湾航路案内」1
台湾航路案内(日本郵船)2
 

■夢二の世界■

PART 4 「夢二のデザイン」(「竹久夢二 《デザイン》モダンガールの宝箱」(竹久夢二美術館 石川桂子著、講談社)より)

4 夢二と少女雑誌

 明治35年(902)、日本で初めての少女雑誌『少女界』が誕生した。以来、処女を対象にした雑誌が相次いで刊行されていくことになった。夢二がデビューしたのは、『少女界』創刊の3年後の同38年のことで、それから約30年にわたって数々の少女雑誌を美しい絵や文章で飾り、乙女たちの心を魅了し続けた。

 夢二が実際に携わった少女雑誌は『少学少女』『少女』『少女画報』『少女倶楽部』『少女世界』『少女の国』『少女の友』『小令女』『新少女』『日本の少女』等で、表紙絵や挿絵を手がけたほか、自作の詩歌も寄稿している。読者の少女たちの中には、誌面からお気に入りの夢二絵をカットして、スクラップブックを作るほどの愛好者も多かったという。

 紙面でひと際人気が高かった、少女のためのイラストレーションは「抒情画」と呼ばれ、その歩みは夢二から始まった。抒情画は大正後期から昭和初期にかけて一世を風靡し、高畠華宵、蕗谷虹児、加藤まさを、須藤しげる等の抒情画家が登場し、少女雑誌の誌面を飾った。(つづく)

▼『新少女』(「竹久夢二 《デザイン》モダンガールの宝箱」(石川桂子著)より

少女世界 (2)

 

■夢二の言葉■(☆は書かれたころの夢二の状況です。)

●「朝暮」より(『中央文学』1919年(大正812月号)

二人の中を隔てるものは 火鉢ひとつだが、

男と女の間は なんて遠いのだ
☆彦乃は京都の病院に入院し、夢二は11月初めに一人東京へ来ていました。12月26日には彦乃は順天堂医院に転院し、夢二は近くの菊富士ホテルに居を構えますが、従妹たちの手引きで京都よりは頻繁に会える状態ではあるものの、見舞いは容易ではありませんでいた。

●「女より旅へ」より(『文章倶楽部』1919年(大正812月号)

女という女から 逃れるために 来た旅だというのに

見知らぬ街を歩く時 いつか眼が 女を探す。

 

■夢二情報■

●竹久夢二のハンドレタリングに着目した展覧会、竹久夢二美術館で、雑誌・楽譜表紙などから描き文字を紹介(「FASHION PRESS」より)
https://www.fashion-press.net/news/101134

「竹久夢二 描き文字のデザイン ―大正ロマンのハンドレタリング―」(竹久夢二美術館)(「美術展ナビ」より)

時代を中心に活躍した画家・竹久夢二(18841934)は、グラフィック・デザイナーとしても才能を発揮し、数多くの図案を残した。

本展では、ポスター、書籍装幀、雑誌・楽譜表紙絵等の図案に展開された、夢二による描き文字のデザインを紹介する。ハンドレタリングで表現された個性的な文字に注目し、コンピューターでの制作とは異なる、描き文字ならではの魅力に迫る。

さらに肉筆で残された書、原稿、プライベートに残した日記と手紙の展示を通じて、夢二による多彩な文字の表現が楽しめる。

https://artexhibition.jp/exhibitions/20230302-AEJ1267824/
特別展「大正ロマンの寵児 竹久夢二展 夢二の世界にひたる春」(4月15日~5月28日、姫路文学館)
初日には石川桂子さん(竹久夢二美術館学芸員)の講演があります。
愁いをたたえた「夢二式美人画」や抒情歌「宵待草」で一世を風靡した画家・詩人の竹久夢二。
夢二が上京した明治30年代は浪漫主義文学の最盛期で、多くの文学青年が詩人に憧れていました。夢二もその一人で、文章を書いては投稿を繰り返します。ある時、友人が持っていた雑誌「中学世界」が募集するコマ絵に応募すると第一等賞となり、その後も当選を重ね、絵を描くことが仕事となりました。
明治42年(1909)、自らの絵に言葉を添えた初の著作『夢二画集 春の巻』を刊行すると大好評を博します。大正元年(1912)には京都をはじめ、日本各地で個展を開き、やがて自らの版画や書籍、便箋や封筒、帯や半襟などを販売する「港屋絵草紙店」を開店し、日常生活の品々にアールヌーボー式の独自のデザインをとり入れ、多くの若者の心をとらえました。
さらに詩や童謡、童話、小説など憧れであった文学の世界にも活躍の場を広げた夢二。
展覧会では、美人画だけでなく、挿絵や装丁用の作品、肉筆原画などを交え、その多岐にわたる創作活動や、播磨とのかかわりについても紹介します。
記念講演会「詩人になりたかった夢二 ―大正ロマンに彩られた美と言葉を追って―」

日時 4月15日(土曜日)午後1時30分から3時(開場は1時)
講師 石川桂子(竹久夢二美術館学芸員)
会場 姫路文学館 講堂(北館3階)
記念講演会「竹久夢二 絵と文学の出会い」
日時 4月29日(土曜日)午後1時30分から3時(開場は1時)
講師 木股知史(甲南大学名誉教授)
会場 姫路文学館 講堂(北館3階)
展示解説会
日時 5月6日(土曜日)午後1時30分から3時(開場は1時)
講師 担当学芸員
会場 姫路文学館 講堂(北館3階)
http://www.himejibungakukan.jp/
●夢二郷土美術館が春の企画展「夢二と舞台芸術」を開催。寄贈された夢二作品も初公開(「ガジェット通信」より)
明治時代以降、文明開化により取り入れられた文化の中には、シェイクスピアら外国の作家が手がけた戯曲やオペラ、バレエなどの舞台芸術があった。それらは、歌舞伎や人形浄瑠璃をはじめとした日本古来の芸能と同様、時代に合わせて変容しながら大衆に愛されるようになる。
大正時代を代表するマルチアーティストの竹久夢二氏(1884-1934)は、舞台芸術を愛し、江戸情趣あふれる日本の伝統芸能や異国発祥の舞台が持つ魅力を作品の中で表現。舞台背景を手がけたこともある。
同氏はまた、華やかな舞台上だけでなく、楽屋での様子や練習風景、観客たちの姿もとらえて画題とした。同展では、そんな同氏の大正浪漫の気風漂う舞台芸術の世界を堪能できる。
あわせて、テレビ時代劇や映画の監督として活躍した牧口雄二氏(1936-2021)が愛蔵し、同館に寄贈された竹久夢二氏のコレクションを初公開し、今につながる同氏の影響を紹介する。作品点数は100点以上。会期は37()64()だ。また、同展に関連したさまざまなイベントも開催される。
https://getnews.jp/archives/3390360
●越懸澤麻衣著『大正時代の音楽文化とセノオ楽譜』が発売中!
西洋音楽と遭遇した大正時代、そこには楽譜があった!
聴こえては流れてゆく「音」を五線譜で出版し、かつて一世を風靡したと言われるセノオ楽譜とは何か?
そして、主宰に飾った竹久夢二との関係など、大正時代の西洋音楽受容の様子を活写する!
「近刊検索デルタ」より)者・妹尾幸陽とは一体何者なのか?
https://honno.info/kkan/card.html?isbn=9784867800096

●本館企画展「夢二と舞台芸術」(37日~64日、夢二郷土美術館)

 明治時代以降、文明開化により取り入れられた文化の中にはシェイクスピアら外国の作家が手がけた戯曲やオペラ、バレエなどの舞台芸術がありました。それらは歌舞伎や人形浄瑠璃をはじめとした日本古来の芸能と同様、時代に合わせて変容しながら大衆に愛されるようになります。

 大正時代を代表するマルチアーティストの竹久夢二(1884-1934)は舞台芸術を愛し、江戸情趣あふれる日本の伝統芸能や異国発祥のステージが持つ魅力を作品の中で表現し、舞台背景を手がけたこともありました。華やかな舞台上だけでなく、楽屋での様子や練習風景、観客たちの姿もとらえて画題とした夢二による大正浪漫の気風漂う舞台芸術の世界をご堪能ください。

また、当館に寄贈されたテレビ時代劇や映画の監督として活躍した牧口雄二氏(1936-2021)愛蔵の夢二コレクションを初公開し、今につながる夢二の影響をご紹介します。
https://yumeji-art-museum.com/honkan/

★関連イベント★

【「夢二と舞台芸術」特別企画:ドレスコード「赤」】

会期中、赤いものを身に着けてご来館のお客様にオリジナル夢二絵はがきをプレゼントいたします。

記念写真が撮れるフォトスポットも登場!

【「夢二アンバサダー」とめぐるワクワク★夢二郷土美術館】

日程:202349日(日)11001120

「夢二アンバサダー」となったベテランこども学芸員さんが夢二郷土美術館の作品やおすすめスポットをご案内します。

申込:不要 参加費:無料(中学生以下入館無料、高校生以上は要入館料、ゆめびぃ会員は無料)

【貸切特別鑑賞会「宵の夢二 解説つきプレミアムツアー」】

閉館後の美術館を貸切で学芸員の解説とともに楽しむことができる、お土産付きツアー。お庭番頭ねこ「黑の助」もお迎えします。

日程:2023429日(土・祝)17001800

定員:最少催行人数5名(要予約)

参加費(税込):一般1300円、中高大学生900円、小学生800

★体験コーナー(随時)★

【「art café 夢二」でお手紙を書きませんか?】

大正ロマンの香りが漂う優雅な空間で大切な人へお手紙を書いてみませんか?

ガラスペンや筆ペン、色えんぴつなどを自由にお使いいただけます。

(夢二切手付きの絵はがきやレターセットもショップで販売しています。)

※筆記具は数に限りがございます。

※感染予防のため、手指の消毒のご協力をお願いいたします。

場所:art café 夢二

 

●夢二の雰囲気に包まれてオリジナル懐石を楽しめる!――神楽坂「夢二」

https://www.kagurazaka-yumeji.com/