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■メッセージ■
4月7日、竹久夢二美術館の「竹久夢二 描き文字のデザイン」展に行ってきました。広範多岐にわたる媒体ごとに描かれた多彩な絵が一堂に展示されています。さらに、レタリング部分のみを抽出して集めた展示があり、絵に溶け込んでいたタイトルなどのレタリングがいかに巧妙に描かれているかが分かります。
また、『若草』やセノオ楽譜などは壁面にずらりと並べられているのは圧巻でした。夢二が米欧と台湾に行っている間がない『若草』4月号の表紙画を見ると、特に帰国後体調が相当不調であったにもかかわらずしっかりと作られているので、夢二の才能とプロ根性を見せられたような気がしました。ただ最後の6月号は柄の折れたパラソルで、とても痛々しく感じます。
入館するときに、スマホを見せて「ここが弥生・夢二美術館ですか?」と聞かれた欧州系の老夫妻も、展示をじっくりとご覧になっていました。驚いたのは、夢二美術館の入口にある日本語の説明を、奥様が母国語に訳しながらスマホに録音していたことです。
一巡した後、展示場の椅子に並んで小声でゆっくり座って話をされていたのが印象的でした。まるで夢二がヨーロッパで描いたスケッチのような光景。奥様が説明してあげていたのかもしれませんね。
■竹久夢二の素顔■
●淡谷のりこ「渡航前竹久夢二とまわった音楽界のことなど」(3)(『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)の「竹久夢二の思い出」より)
(注)本文は、淡谷のり子が『青春と読書』第20巻12号(1958年(昭和60年)(集英社)に掲載したものです。
その旅の途中のある日のことなんですが、わたしが墨をするお手伝いをしていましたら、夢二さんが「そこに掛けてください」と言って、わたしを椅子に掛けさせて、
わたしをモデルに夢二さんが絵を描いたんですよ。でも、何に描いたと思います?それがお寺に行くと「過去帳」というのがありますでしょ、あれにわたしの絵を描いたんです。そしてその横に「私の絵の権利は全部のり子さんにあげます」と書いたんです。
それはまわりの人達やわたしの家の者も見ていまして、皆から「いいわねえ」ととてもうらやましがられましたけど、絵の権利がどうということじゃなくて、あの夢二さんに自分を描いてもらったということが、わたしはもう嬉しくて、嬉しくてね。
でも、それを持っていたら今頃は大変なことになったんでしょうけれど、戦災で焼いてしまったんです。とても残念でしたね。
そのほかにも夢二さんは黒じゅすに絵を描いて帯を上げるからという約束もしてくれたんです。
当時、夢二さんは四十七、八歳でしたか、わたしから見たらもういいおじさんなんですけどね、あまり喋らない人でとても女性関係の派手な人だなどとは思えませんでしたけどねえ。
「フランスに行くんです」
「フランスにいらっしゃるんですか、いいですね」
何度かそんな話をしましたけれど、アメリカへ寄ってそれからフランスに行く予定だったんでしょう。でも、アメリカにいらっしゃる時間が予定よりも長くなって、それからヨーロッパへお入りになった。しかし、間もなく病気になったんでしょうね。やがて日本へ帰ってこられて「帯をあげるから取りにいらっしゃい」という通知をいただいて、わたしは竹藪のいっぱいあるお宅に訪ねて行きましたけど、その時はもうご病気がずいぶんと進んでいたんじゃないのかしら、夢二さんにはお目にかかることもできませんでしたし、約束の帯もいただけなかったですからね。
夢二さんと会ったのは、本当にその音楽会の旅の間だけでしたから、それに夢二さんが旅の間もほとんど喋らない人でしたから、夢二さんとはそれほど深いお付合いがあったわけではないんですけども、小さい時から好きで好きでしようのなかった夢二さんのために歌い、その人と一緒に旅が出来、そのうえ、「幾つかの忘れがたい思い出が作れたということです。
わたしがお目にかかったあと、夢二さんがアメリカでどんな生き方をなさったのかは、とても興味があります。(談)(完)
(編者)淡谷のり子さんに帯をあげると言ったのは、“ヨーロッパから帰ってから”ということなので、おそらく台湾に行く前のことだと思います。この頃は人の出入りが多かったようですし、望月百合子さんにチェコスロヴァキアで買ったエプロンを上げた時期と同じようです。台湾から帰った時はかなり重症で、その2か月後に入院した時は、正木医師も危篤のような対応をしたと書かれているものもありますから、お土産どころではなかったでしょう。
また、淡谷のり子は「あまり喋らない人でとても女性関係の派手な人だなどとは思えませんでしたけどねえ」と言っていますが、これは米欧の旅に出る前の1929年の言。山田順子との浮気がもとでお葉が去って夢二の評判が急激に悪化したのが1925年頃のこと。その後あまり表立った大きなスキャンダルはないのに、4年経っても夢二の評判は挽回できなかったということですね。怖いですね。
▼「音楽と舞踏の会」(「群馬と夢二」みやま文庫より)
■夢二の台湾旅行関係資料の紹介
論文「昭和8年の夢二の訪台 ―『台湾日々新報新資料による―」(女子美術短期大学・大学院博士・西恭子)
2 竹久夢二と尾崎秀眞、秀実、秀樹との間接的な関わり合い
尾崎秀眞(1874~1949)は通称で本名を秀太郎という。岐阜県加茂郡西白川村川岐小字島(後に白河町河岐百四番地)に生まれた。明治24年(1891)に美濃大震災に遭遇したのを契機に上京した。始め医師になることを志したが断念し、漢学を依田学海に学び、和歌を高崎正風に学んで文筆の道を択んだ。大伯父の市太郎が神田三崎町で発刊した『医界時報』の記者となった。当時内務省の衛生局長であった後藤新平を訪ね書生となる。
日清戦争後、下関条約で、清国は遼東半島、台湾全島およびその付属諸島、膨湖諸島の土地の主権、兵器製造所及び官有物を永久に分け与えることを公約した。つまり、台湾は日本の植民地となった。
明治31年(1898)に、第四代総督に児玉源太郎が赴任し、民生長官に後藤新平が起用される。
秀眞は、後藤が台湾で和文と漢文の日刊紙、つまり『台湾日日新報』を発行するという要請に応えて、明治33年(1900)に台湾へ渡った。秀眞は、台湾総督府史料編纂官を歴任、台湾史の研究に努めた。昭和8年(1932)に史料編纂官を退職し、以後、台湾軍事司令部嘱託、台湾博物館協会理事、台湾山岳会幹事などを歴任した。
このような略歴から推察できるように、秀眞は、台湾での文化的活動に貢献しており、東方文化協会での講演者の一人として加わるには適任であったといえる。
秀実は、ドイツ共産党主義者であるゾルゲと中心となって、日本の対ソ侵略阻止による日ソ間の平和維持を目的に対日諜報活動を組織し検挙された。諜報機関員は、外国人4名、日本人13名がおり、その一人に宮城与徳がいた。
工藤栄太郎は、夢二日記を引用し、「ミヤギ君」の記述を、宮城与徳と指摘している。
鶴谷壽は、竹久夢二が昭和6年(1931)にポイントラバスに滞在していた時期に、竹久夢二と宮城与徳と交遊があったといことを裏付ける写真の発掘とその調査を記述している。
宮城与徳は、明治35年(1902)に沖縄県国領郡名護村東江で生まれた。大正8年(1919)にアメリカのロサンゼルス郊外に在住していた父の呼び寄せに応じて渡米した。大正10年(1921)10月に宮城は、サンフランシスコにあるカリフォルニア州立美術学校に入学する。しかし、胸部疾患のため、ロサンゼルスに戻って静養に努めた。大正12年(1923)9月に、サンディエゴの官立美術学校へ転入し、大正15年(1925)9月に同校を卒業した。昭和6年(1931)にアメリカ共産党日本部(正式名称・アメリカ共産党第十三区カリフォルニア支部東洋民族課日本人部)に加盟した。昭和7年(1932)にコミンテルン(共産主義インターナショナル)関係から指令を受けて帰国した。そして、ゾルゲ組織の一員となる。昭和18年(1943)8月2日に獄死した。
宮城の活動は、『宮城与徳遺作集』の発行があるようであるが、その詳細は夢二との関係も含めて今後の課題としたい。
尾崎秀眞の略伝及び尾崎秀美の活動は、尾崎秀樹の執筆に負うものである。
尾崎秀樹は、平成11年(1999)9月21日の新聞報道でその死去が報じられた。
秀樹は、夢二に関する執筆がある。しかし、秀眞や秀樹との関係を明らかにするものではない。それらは、挿絵画家としての「竹久夢二の軌跡」や大衆文学に関する「矢田挿雲と「江戸から東京へ」」に触れている。
秀樹は「竹久夢二の軌跡」の中で、竹久夢二の社会主義活動への同調について述べている。
また、尾崎秀樹によって、「大衆文学」が文化史的な位置付けをもたらされた。この功績は、アカデミズムと対抗するポピュラーの位置が学問対象と成り得た一つの要因であるとも考えられる。
次項では論を戻し、夢二の台湾での活動について述べてみたい。(つづく)
■夢二の世界■
PART 4 「夢二のデザイン」(「竹久夢二 《デザイン》モダンガールの宝箱」(竹久夢二美術館 石川桂子著、講談社)より)
4 夢二と少女雑誌(2)
抒情画とは、思春期前後の少女を主要な題材に、画家が自らの感性を表現するもので、その特徴として、少女の敏感な心情に呼応したセンチメンタルな趣を多分に含むこと、流麗な描線や淡彩で描写されていることなどが挙げられる。
抒情画家の背景には、明治後期に少女雑誌が創刊され、続く大正期で少女文化が成熟してゆくにつれて、近代的な少女像が確立したことが指摘できる。個性を重視する自由な風潮が、少女に及んだことも大きな理由であった。
夢二はロマンチックな抒情画を手がけて少女雑誌に花を添えたが、それとは趣を異にして、少女向け雑誌の内容自体は、良妻賢母志向の強いものであった。少女は尋常小学校、あるいは女学校を卒業したのちは、家事手伝いをしながら花嫁修業をし、親が決めた婚家に嫁ぎ、良き妻良き母であることが求められた時代であった。
■夢二の言葉■(☆は書かれたころの夢二の状況です。)
●「夢二日記」より(1920年6月17日)
人間は――
男はいつ迄も
“母(マザー)”が女であったことを
覚えているのだ。
☆これは最愛の女性笠井彦乃が亡くなった約5か月後の日記です。
●「ある眼」より(『女性』1924年5月号)
人が誰にも見られないで、
たった一人で何かしているのを
覗き見ることに悪魔的な喜びを
感じることがあります。
ことにそれが女性である場合、
眠っていない限り、
何等かの不思議な美しさを
見せてくれるものです。
☆これが書かれた前年に関東大震災が発生。「どんたく図案社」の計画が消滅し、夢二は東京中を歩き廻ってスケッチして「東京災難畫信」を連載しました。この年は結婚を望むお葉とはすれ違いの暮らしをしていました。
■夢二情報■
●竹久夢二以来の美人画家と呼ばれる池永康晟。第一画集「君想う百夜の幸福」(芸術新聞社)は美術書としては異例のロングセラーに。現在、もっとも原画の購入が困難な作家のひとりとされている。第二画集から4年のときを経た、待望の作品となる。
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000012510.000007006.html
(編者)「竹久夢二以来の美人画家と呼ばれる」!どなたが呼んだのかわかりませんが、そうなのでしょうか。”(-“”-)”
●竹久夢二のハンドレタリングに着目した展覧会、竹久夢二美術館で、雑誌・楽譜表紙などから描き文字を紹介(「FASHION
PRESS」より)
https://www.fashion-press.net/news/101134
●「竹久夢二 描き文字のデザイン ―大正ロマンのハンドレタリング―」(竹久夢二美術館)(「美術展ナビ」より)
時代を中心に活躍した画家・竹久夢二(1884~1934)は、グラフィック・デザイナーとしても才能を発揮し、数多くの図案を残した。
本展では、ポスター、書籍装幀、雑誌・楽譜表紙絵等の図案に展開された、夢二による描き文字のデザインを紹介する。ハンドレタリングで表現された個性的な文字に注目し、コンピューターでの制作とは異なる、描き文字ならではの魅力に迫る。
さらに肉筆で残された書、原稿、プライベートに残した日記と手紙の展示を通じて、夢二による多彩な文字の表現が楽しめる。
https://artexhibition.jp/exhibitions/20230302-AEJ1267824/
●夢二郷土美術館が春の企画展「夢二と舞台芸術」を開催。寄贈された夢二作品も初公開(「ガジェット通信」より)
明治時代以降、文明開化により取り入れられた文化の中には、シェイクスピアら外国の作家が手がけた戯曲やオペラ、バレエなどの舞台芸術があった。それらは、歌舞伎や人形浄瑠璃をはじめとした日本古来の芸能と同様、時代に合わせて変容しながら大衆に愛されるようになる。
大正時代を代表するマルチアーティストの竹久夢二氏(1884-1934)は、舞台芸術を愛し、江戸情趣あふれる日本の伝統芸能や異国発祥の舞台が持つ魅力を作品の中で表現。舞台背景を手がけたこともある。
同氏はまた、華やかな舞台上だけでなく、楽屋での様子や練習風景、観客たちの姿もとらえて画題とした。同展では、そんな同氏の大正浪漫の気風漂う舞台芸術の世界を堪能できる。
あわせて、テレビ時代劇や映画の監督として活躍した牧口雄二氏(1936-2021)が愛蔵し、同館に寄贈された竹久夢二氏のコレクションを初公開し、今につながる同氏の影響を紹介する。作品点数は100点以上。会期は3月7日(火)~6月4日(日)だ。また、同展に関連したさまざまなイベントも開催される。
https://getnews.jp/archives/3390360
●越懸澤麻衣著『大正時代の音楽文化とセノオ楽譜』が発売中!
西洋音楽と遭遇した大正時代、そこには楽譜があった!
聴こえては流れてゆく「音」を五線譜で出版し、かつて一世を風靡したと言われるセノオ楽譜とは何か?
そして、主宰に飾った竹久夢二との関係など、大正時代の西洋音楽受容の様子を活写する!
「近刊検索デルタ」より)者・妹尾幸陽とは一体何者なのか?
楽譜の表紙を鮮やか
https://honno.info/kkan/card.html?isbn=9784867800096
●本館企画展「夢二と舞台芸術」(3月7日~6月4日、夢二郷土美術館)
明治時代以降、文明開化により取り入れられた文化の中にはシェイクスピアら外国の作家が手がけた戯曲やオペラ、バレエなどの舞台芸術がありました。それらは歌舞伎や人形浄瑠璃をはじめとした日本古来の芸能と同様、時代に合わせて変容しながら大衆に愛されるようになります。
大正時代を代表するマルチアーティストの竹久夢二(1884-1934)は舞台芸術を愛し、江戸情趣あふれる日本の伝統芸能や異国発祥のステージが持つ魅力を作品の中で表現し、舞台背景を手がけたこともありました。華やかな舞台上だけでなく、楽屋での様子や練習風景、観客たちの姿もとらえて画題とした夢二による大正浪漫の気風漂う舞台芸術の世界をご堪能ください。
また、当館に寄贈されたテレビ時代劇や映画の監督として活躍した牧口雄二氏(1936-2021)愛蔵の夢二コレクションを初公開し、今につながる夢二の影響をご紹介します。
https://yumeji-art-museum.com/honkan/
★関連イベント★
【「夢二と舞台芸術」特別企画:ドレスコード「赤」】
会期中、赤いものを身に着けてご来館のお客様にオリジナル夢二絵はがきをプレゼントいたします。
記念写真が撮れるフォトスポットも登場!
【貸切特別鑑賞会「宵の夢二 解説つきプレミアムツアー」】
閉館後の美術館を貸切で学芸員の解説とともに楽しむことができる、お土産付きツアー。お庭番頭ねこ「黑の助」もお迎えします。
日程:2023年4月29日(土・祝)17:00~18:00
定員:最少催行人数5名(要予約)
参加費(税込):一般1300円、中高大学生900円、小学生800円
★体験コーナー(随時)★
【「art café 夢二」でお手紙を書きませんか?】
大正ロマンの香りが漂う優雅な空間で大切な人へお手紙を書いてみませんか?
ガラスペンや筆ペン、色えんぴつなどを自由にお使いいただけます。
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※筆記具は数に限りがございます。
※感染予防のため、手指の消毒のご協力をお願いいたします。
場所:art café 夢二
●夢二の雰囲気に包まれてオリジナル懐石を楽しめる!――神楽坂「夢二」
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