※創刊号(2021.8.8)~第37号(2022.4.10)はこちらをご覧ください。⇒ https://yumejitotaiwan.exblog.jp
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■メッセージ■

浅草寺境内は「大正ロマン館」もあり、和風全面押し出しの状況。外国人観光客も和服を着て大喜びのようです。アジア系の人は日本人と区別がつかないこともあり、実は和服姿の人は外国人の方が多いような感じもします。

ところで、姿形では日本人か外国人かよくわからなくても、仕草を見ると分かることがありますね。やはり日本風の仕草というものがあるのでしょう。

今号の夢二の論文はその辺を非常に鋭く解析していて面白い。夢二は「奈良朝が好きだ」公言していますが、夢二の描いた美人画を改めて見てみると何となく理解できるような気もします。和服の女性を眺めながら、日本風って何だろう?と改めて考えてみるのもいいかもしれませんね。
ちなみに、この夢二論にある内容が、1933年11月2日に台湾医専で行われた講演会で「東西女雑感」として話された可能性も高いという西恭子先生の指摘もあり、興味深いところです。

▼和服姿があふれる浅草寺
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■竹久夢二の素顔■

●廣田知子「みなと屋の夢二」(3)(『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)の「夢二を知る女性たち」より)

(注)本文は、廣田知子が『猫町文庫』第四集 2013年(平成25)猫町文庫」に掲載したものです。

 「港屋絵草紙店」を支えた半襟等の刺繍を担当した吉田ソノ(1893年生まれ)の活躍を娘の廣田知子が綴ったもので、日本初のデザイナーズショップの裏側がよく分かる興味深い文章です。

・ソノのミシン刺繍

 ソノは当時有楽町に設立されていたシンガーミシン裁縫女学院を卒業してそこの実業部に籍を置き、専らミシン刺繍の見本を制作したり後輩の指導に当たったりしていた。この学校は実業家秦義之(はたよしゆき)氏がシンガーミシン日本支配人として創設し、後に関東大震災で焼失したまま再建されなかったが、大正デモクラシーに支えられた女性の自立を目指す職業学校として、未亡人や離婚した女性の間に小奇麗な手仕事として人気があった。従ってソノが指導した生徒達も彼女より年長者が多く、その中に牧師の夫と離別してミシン刺繍を習いに来た畑テルがいた。夢二は早稲田実業学校の学生だった頃キリスト教の影響を受け、あちこちの協会にも出入りしている中に牧師婦人の畑テルと顔見知りになったようだった。余談になるがソノがまだこの学校の生徒であった頃、後年世界的なオペラ歌手として名を馳せる三浦環(たまき)の通学姿が毎朝話題の中心となった。彼女はいわゆるハイカラさんで、和服に袴、短靴を履き、自転車のペダルを踏んで、さながら蝶々のように袂を風にひるがえしながら上野の森を目指して翔んで行った。

ミシン学校でのソノの月給は十七円であった。当時田舎で小学校の教師をしていたソノの友人が俸給六円、下女の給金が三円であったことからみても如何に外資系列の会社が個人の能力評価に重点を置いていたかが分かる。最も(ママ)いくら大正デモクラシーとはいえ、この頃の日本が男尊女卑の社会情勢であったことは紛れもない事実で、東京帝国大学を卒業した者は月給四十円、京都帝国大学は三十五円、早稲田が三十円であったから、「学士様なら娘をやろか」とはやり唄に迄もてはやされる程大学卒業生は数も少なく、エリート中のエリートとして国家的にも貴重な存在であった。(つづく)

※三浦環:三浦 環(みうら たまき、1884年(明治17年)222 - 1946年(昭和21年)526日)は、東京府東京市京橋区(現:東京都中央区京橋)出身の日本の女性歌手。本名は柴田 環(しばた たまき)。日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手として知られる。十八番だったジャコモ・プッチーニの「蝶々夫人」にある蝶々さんと重ね合わされて「マダム・バタフライ」と称され、国際的に広く知られた。(wikipediaより)

▼三浦環(『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)の「夢二を知る女性たち」より)
三浦環
 

■夢二の台湾旅行関係資料の紹介

論文「昭和8年の夢二の訪台 『台湾日々新報新資料による」(女子美術短期大学・大学院博士・西恭子)

4 東方文化協会の台湾支部設立記念大講演会の竹久夢二の演説「東西女雑感」(2)

 すべて近代欧米の服装は、肉体の姿勢や塊をあり得る如く露出することに力(ママ)めるのが、その特色である。に反して日本の服装は、なるべく肉体を包み隠すように工風(ママ)して、筋肉の運動や、肉体の盛上がりを見せないように着ける。日本のキモノに於ては、身体を縛る紐を十本乃至十五本用いる。それほど厳しく肉体を護るのである。これはしかし婦人が異性の暴力に備える為めでなく、「諾」の代りにまず「否」と答えるたぐいで、モンマルトルのムア所謂「女は脱ぐために着物を着る」という味な言葉に通じるものである。だが日本のキモノのもつ肉感はもっと味が細かい。まずこんな風に着こなしたキモノの脇や褄先(つまさき)から、白梅のような女体が不用意にこぼれる。この性的秘密を彼が知り、またこの秘かな効果を日本の女性が自ら心得ているとすれば、日本の女はキスもしないなどという諸君の観察がいかに浅いかがわかるであろう。況んや心中という手のこんだ家庭行事を諸君に理解させることは、非常に困難な仕事である。(中略)

 一言断って置きたいのは、私のこの記述は、徳川の中期から浮世絵全盛期に至る、つまり諸君が日本を理解する手がかりの最も多い、おなじみの時代を撰んだことである。それ以前或はそれ以後の日本の女性は自ら趣きを異にする。それ以前と言うのは儒教渡来以前の、大ざっぱに言えば奈良朝頃の闊達な明朗な時代。それ以後とは儒教を解放し或は消解せむとする近代のことである。(以上)

 私は西欧の女性に就いて書く余白をなくしたが、日本の女性に就いて一つの暗示を記しておきたい。私は自分の仕事の上から一つの画因として、服装の点からも日本の女性としても奈良朝時代を最も好む。

 紫は 灰さすものぞ 椿市の

 八十若者が、路ゆく娘に呼びかけた挨拶である。椿市は今の銀座である。娘はこれを何と答へたか。

 垂乳根の 母が呼ぶ名を 申さめど

 道ゆきびとを 誰と知りてか

「名前はあるけれど、わたしはあなたを知らない」と、まことに鮮やかな応酬である。エンス・ボオト「メル・シイ、あたし踊りませんわ」と言ったフラメンゴ(ママ)娘にここで比較などしたくない。

 新日本建築の声を聞く今日、吾々の奈良朝を思い起こすことも無用ではあるまい。(つづく)

※エンス・ボオト:イリヤ・グリゴーリエヴィチ・エレンブルグ(1891126 - 1967831日、ソ連の作家)の「トラストDE―小説・ヨーロッパ撲滅史 (文学の迷宮)」の主人公エンス・ボートのことか?「モナコ王子の子としてこの世に生を受けたエンス・ボートは、ヨーロッパを愛し、同時にヨーロッパを憎んだ。愛憎の果てにエンス・ボートが計画したのは、最愛のヨーロッパを自らの手で完全に滅ぼすことだった。「トラストDE」(ヨーロッパ撲滅トラスト)の代表取締役に収まったエンスは、目的に向かって着々と手を打って行く…。ベルリンが潰滅し、モスクワが崩壊し、ロンドンが全滅し、パリが滅び去った。本書は、ソ連文学の巨匠エレンブルグが、架空の「ヨーロッパ滅亡史」の体裁を借りながら、「文明」の源ヨーロッパに突きつけた“言語の時限爆弾”である。」(紀伊國屋書店評)

▼着物姿のカフェーの女給
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■夢二の世界■

PART 4 「夢二のデザイン」(「竹久夢二 《デザイン》モダンガールの宝箱」(竹久夢二美術館 石川桂子著、講談社)より)

9 ブックデザイナーとして

 夢二は数々の書物でブックデザイナーとして装幀を手がけ、本の美しさを追求した。明治末から夢二が亡くなる昭和9年(1934)まで、長田幹彦や吉井勇をはじめとする多くの作家の書籍装幀、約270冊に加え、自身の著作である画集・詩集等のほとんどの装幀も手がけている。

 ところで、現在に続く装幀の歴史が日本で始まったのは、日本初の活版洋装本『改正西国立志編』(斯邁爾斯(スマイルス)・著)が出版された明治10年(1877)のことであった。近代における装幀の傑作と名高い、夏目漱石の『吾輩は猫である』は、明治38年に漱石の友人・橋口五葉が手がけたが、夢二はこの年にデビューしている。そして、その2年後、夢二は初めての装幀で、ブックデザインの世界に足を踏み入れたのである。

 初の装幀は『愁人』(小川未明・著)で、扉部分には女性の姿があしらわれた。夢二の美人画は、装幀においても要望が高かったようで、数多くの書籍の表紙や函(はこ)を飾っている。作家・長田幹彦の小説は、京都の祇園を題材にしたものが多かったが、夢二は華麗な舞妓姿をあしらい、色鮮やかな装幀に仕上げた。本の売り上げは上々で当時のことを長田は「竹久君が僕の作品の装幀をしてくれたことは、何よりも僕にとって幸福なことであった。その時代の若い読者を獲得するうへに、非常な魅力であつたからである。君の装幀ゆゑに本を買ってくれたうら若い女性を僕は数多く知ってゐる」(「竹久君」より 『書窓』第3巻第3号 昭和11年)と回想している。(つづく)

▼夢二の装幀本(令和4年度文化財企画展「龍星閣がつないだ夢二の心~「出版屋」から生まれた夢二ブームの原点」 千代田区立日比谷図書文化館より)
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■夢二情報■

●企画展「夢二が見つめた1920年代」竹久夢二美術館で、関東大震災からモダンガールまで夢二作品を紹介(FASHION PRESSより)

企画展「夢二が見つめた1920年代震災からモダンガールの表現まで」が、東京の竹久夢二美術館にて、202371()から924()まで開催される。

大正時代から昭和時代へと変わる1920年代は、日本の近代化に伴う様相が広く人びとに浸透していった時代であった。この時期、竹久夢二は、夢二式美人と呼ばれるセンチメンタルな女性像で人気を集める一方、急速に変化する社会を反映した作品も手がけている。

企画展「夢二が見つめた1920年代震災からモダンガールの表現まで」は、20年代における夢二の創作を紹介する展覧会。関東大震災にまつわるスケッチとエッセイ、当時流行したモダンガールを描いた作品などを展示する。

1923年に発生した関東大震災は、江戸時代の面影を残す東京に甚大な被害をもたらす一方、大規模な復興事業により新たな建築などの整備が進められ、東京は近代的な都市へと変貌してゆくこととなった。本展では、夢二が被災地・東京を描いた「東京災難画信」などを展示し、震災により変わり果てた風景や生活の様子、復興へ向けての動きに光をあてる。

大正時代は、女性の社会進出や関東大震災の発生などを背景に、女性の洋装の需要が高まった時期であった。この頃から昭和初期にかけて、洋装を着用する若い女性は、モダンガールと呼ばれている。会場では、モダンな装いを捉えた夢二の作品に着目し、モダンガールをアール・デコ風に表現した《涼しき装い》や、洋装と和装の取り合わせを描いた《湖畔の秋》などを紹介する。

https://www.fashion-press.net/news/103627

 202307夢二美「夢二が見つめた1920年代」

●「新聞小説 夢二の「二筆流」 話と挿絵 企画展 湯涌の美術館」(中日新聞)
明治末期昭和初期に活躍し女性画や挿絵のイメージが強い金沢ゆかりの詩人画家、竹久夢二(一八八四〜一九三四年)の新聞小説四作品を挿絵とともに紹介する企画展が、金沢市湯涌町の金沢湯涌夢二館で開かれている。一作目の「岬」発表から百年の節目に開催。小説を理解すると、女性画などに込められた真意や夢二の生き様をより味わえるようになる。(室木泰彦)

100年前発表「岬」など4作品

 四作品は、明治中期から昭和の戦前まで東京で発刊した「都新聞」(東京新聞=中日新聞東京本社=の前身)で一九二三年八月〜二七年九月に掲載された。夢二初の三部作、「岬」全七十五回(関東大震災ルポルタージュ「東京災難画信」連載で途中一カ月ほど休載)▽「秘薬紫雪」全四十九回▽「風のやうに」全五十七回と、体験を基にした自伝的小説「出帆」全百三十四回。

 三部作は恋愛小説。「岬」の告知で夢二は、貞操について女性三人(モデル、温泉地の娘、舞台女優)を書いたとし、「誰も彼も、岬の方へ急ぐ不幸な人達です」と紹介。最終話で一人目で予定枚数を超え三部作にすると記した。主人公女性の破滅的な男性遍歴などを通して男女関係の機微を描き、挿絵などで見られる人物の寂しい姿に重なる部分が多いという。「出帆」は、予告で「いまいましい実録」を「さっさと洗いざらひ書いちまって」と記した通り、生涯三人の女性と親密な関係を持った体験をほぼ再現している。

 国立国会図書館や同館所蔵の都新聞を複写した各第一話を展示。挿絵にあらすじを添え物語の流れが把握できる。「風のやうに」を載せた都新聞の切り抜きも貼ったスクラップブック(同館所蔵)を公開。都新聞の実物もあり、当時の雰囲気を感じることができる。

 担当学芸員の川瀬千尋さんは、挿絵を整理中に、同館所蔵の下絵を完成させたとみられる挿絵が「岬」四十九話で使われたことを発見。川沿いの柳が温泉街の風情を伝える絵で、並べてあるため下絵と挿絵の類似性が分かる。川瀬さんは「特に出帆では女性関係のスキャンダルへの自己弁護と解釈できる部分もある一方、体験が現実に近い形で再現され、小説を読むと絵などをより深く理解できるようになる」と話す。

 企画展は六月十八日まで。五月六日と六月三日は午後二時から学芸員らが解説。火曜休館(祝日の場合は翌平日)。一般・大学生三百十円、六十五歳以上二百十円(祝日無料)、高校生以下無料など。(問)同館076(235)1112
https://www.chunichi.co.jp/article/684708

●「福山市の美術館で美人画の展示会」(NHK 広島 NEWS WEB

明治から昭和初期にかけて描かれた近代美人画の名作を集めた展示会が、福山市で開かれています。

会場の「ふくやま美術館」には、竹久夢二をはじめ、さまざまな作家が明治から昭和初期にかけて描いたおよそ90点の美人画が展示されています。

このうち、竹久夢二の「投扇興」は、的に向かって扇子を投げるお座敷遊びを楽しむ2人の女性を描いた作品で、たおやかな女性の美しさが表現されています。

また、上村松園の作品「桜可里能図」は、晴れ着姿の女性がおともの女性と一緒に花見に出かける様子を描いていて、気品のある女性のたたずまいや、楽しい雰囲気が伝わってくる華やかな作品です。

このほか、江戸時代の浮世絵の影響を受けた作品や、「平家物語」などの文学や歴史上のできごとを題材に描かれた作品なども展示されています。

ふくやま美術館学芸課の中村麻里子次長は、「着物の模様が細かく描かれたり、女性の髪型が時代によって変わったりと、作者によっていろいろな表現があるので発見しながら見てもらいたい」と話していました。

この展示会は、「ふくやま美術館」で来月4日まで開かれています。
https://www3.nhk.or.jp/hiroshima-news/20230503/4000022107.html

(ニュース動画あり)

●特別展「大正ロマンの寵児 竹久夢二展 夢二の世界にひたる春」(姫路文学館、2023415日(土曜日)から528日(日曜日))

ある時ふと詩の替りに画(え)で自分の心を語ろうとした  「私の投書家時代」より

愁いをたたえた「夢二式美人画」や抒情歌「宵待草」で一世を風靡した画家・詩人の竹久夢二。

夢二が上京した明治30年代は浪漫主義文学の最盛期で、多くの文学青年が詩人に憧れていました。夢二もその一人で、文章を書いては投稿を繰り返します。ある時、友人が持っていた雑誌「中学世界」が募集するコマ絵に応募すると第一等賞となり、その後も当選を重ね、絵を描くことが仕事となりました。

明治42年(1909)、自らの絵に言葉を添えた初の著作『夢二画集 春の巻』を刊行すると大好評を博します。大正元年(1912)には京都をはじめ、日本各地で個展を開き、やがて自らの版画や書籍、便箋や封筒、帯や半襟などを販売する「港屋絵草紙店」を開店し、日常生活の品々にアールヌーボー式の独自のデザインをとり入れ、多くの若者の心をとらえました。

さらに詩や童謡、童話、小説など憧れであった文学の世界にも活躍の場を広げた夢二。

展覧会では、美人画だけでなく、挿絵や装丁用の作品、肉筆原画などを交え、その多岐にわたる創作活動や、播磨とのかかわりについても紹介します。

備考 「コマ絵」とは、文章と関連を持たない飾り絵のこと。

http://www.himejibungakukan.jp/events/event/yumeji2023himeji/

●「乙女デザイン -大正イマジュリィの世界-」(秋田県立美術館、422() 72()

イマジュリィ“imagerie”とは、イメージ図像を意味するフランス語で、装幀、挿絵、ポスター、絵はがき、広告、漫画など大衆的な複製としての印刷・版画の総称です。

マスメディアの発達や印刷技術の進歩により、多彩な大衆文化が花開いた大正~昭和初期。さまざまな書籍や印刷物のイマジュリィが人気作家によって描かれ、人々の心を魅了しました。この時代のイマジュリィは、現代のデザインやイラストレーションの原点であるとともに、レトロでノスタルジックな大正ロマンの雰囲気を感じさせるアートとして現在も幅広い世代に愛好されています。

本展では、アール・ヌーヴォー様式の橋口五葉、アール・デコに取り組んだ杉浦非水や小林かいち、少女趣味の高畠華宵、抒情的な乙女像で一世を風靡した竹久夢二、そして秋田出身の橘小夢など、大正イマジュリィを生み出した作家たちを紹介します。

今見てもおしゃれでかわいい、魅力的な大正イマジュリィの世界をお楽しみください。
https://www.akita-museum-of-art.jp/event/show_detail.php?serial_no=370

「竹久夢二 描き文字のデザイン ―大正ロマンのハンドレタリング―」(竹久夢二美術館)

大正時代を中心に活躍した画家・竹久夢二(1884-1934)は、グラフィック・デザイナーとしても才能を発揮し、数多くの図案を残しました。

本展では、ポスター、書籍装幀、雑誌・楽譜表紙絵等の図案に展開された、夢二による描き文字のデザインを紹介します。ハンドレタリングで表現された個性的な文字に注目し、コンピューターでの制作とは異なる、描き文字ならではの魅力に迫ります。

さらに肉筆で残された書、原稿、プライベートに残した日記と手紙の展示を通じて、夢二による多彩な文字の表現をお楽しみください。 協力:雪朱里
https://www.yayoi-yumeji-museum.jp/yumeji/exhibition/now.html

●夢二郷土美術館が春の企画展「夢二と舞台芸術」を開催。寄贈された夢二作品も初公開(「ガジェット通信」より)

明治時代以降、文明開化により取り入れられた文化の中には、シェイクスピアら外国の作家が手がけた戯曲やオペラ、バレエなどの舞台芸術があった。それらは、歌舞伎や人形浄瑠璃をはじめとした日本古来の芸能と同様、時代に合わせて変容しながら大衆に愛されるようになる。

大正時代を代表するマルチアーティストの竹久夢二氏(1884-1934)は、舞台芸術を愛し、江戸情趣あふれる日本の伝統芸能や異国発祥の舞台が持つ魅力を作品の中で表現。舞台背景を手がけたこともある。

同氏はまた、華やかな舞台上だけでなく、楽屋での様子や練習風景、観客たちの姿もとらえて画題とした。同展では、そんな同氏の大正浪漫の気風漂う舞台芸術の世界を堪能できる。

あわせて、テレビ時代劇や映画の監督として活躍した牧口雄二氏(1936-2021)が愛蔵し、同館に寄贈された竹久夢二氏のコレクションを初公開し、今につながる同氏の影響を紹介する。作品点数は100点以上。会期は37()64()だ。また、同展に関連したさまざまなイベントも開催される。
https://getnews.jp/archives/3390360

●本館企画展「夢二と舞台芸術」(37日~64日、夢二郷土美術館)

 明治時代以降、文明開化により取り入れられた文化の中にはシェイクスピアら外国の作家が手がけた戯曲やオペラ、バレエなどの舞台芸術がありました。それらは歌舞伎や人形浄瑠璃をはじめとした日本古来の芸能と同様、時代に合わせて変容しながら大衆に愛されるようになります。

 大正時代を代表するマルチアーティストの竹久夢二(1884-1934)は舞台芸術を愛し、江戸情趣あふれる日本の伝統芸能や異国発祥のステージが持つ魅力を作品の中で表現し、舞台背景を手がけたこともありました。華やかな舞台上だけでなく、楽屋での様子や練習風景、観客たちの姿もとらえて画題とした夢二による大正浪漫の気風漂う舞台芸術の世界をご堪能ください。

また、当館に寄贈されたテレビ時代劇や映画の監督として活躍した牧口雄二氏(1936-2021)愛蔵の夢二コレクションを初公開し、今につながる夢二の影響をご紹介します。
https://yumeji-art-museum.com/honkan/

★体験コーナー(随時)★

【「art café 夢二」でお手紙を書きませんか?】

大正ロマンの香りが漂う優雅な空間で大切な人へお手紙を書いてみませんか?

ガラスペンや筆ペン、色えんぴつなどを自由にお使いいただけます。

(夢二切手付きの絵はがきやレターセットもショップで販売しています。)

※筆記具は数に限りがございます。

※感染予防のため、手指の消毒のご協力をお願いいたします。

場所:art café 夢二

●越懸澤麻衣著『大正時代の音楽文化とセノオ楽譜』が発売中!

https://honno.info/kkan/card.html?isbn=9784867800096

 

●夢二の雰囲気に包まれてオリジナル懐石を楽しめる!――神楽坂「夢二」

https://www.kagurazaka-yumeji.com/