※創刊号(2021.8.8)~第37号(2022.4.10)はこちらをご覧ください。⇒ https://yumejitotaiwan.exblog.jp
※ビジュアル夢二ブログ「夢二と台湾」⇒ https://jasmineproject.amebaownd.com/

 

 

■メッセージ■

「夢二と台湾2023」プロジェクト実施が5か月後に迫り、明日、事前打合せのために台湾に向かいますので今号は少し早めにアップし、次号は再来週になります。

台湾の王文萱さんからの逆輸入新情報!「夢二と台湾2023」の講演会でも参考論文「台湾の夢二 最後の旅」(特別寄稿、公開者・出版社:東京外国語大学海外事情研究所、2014年)で大変お世話になっているひろたまさきさんの本が6月に出版されるようです。

内容は次のとおりで、これも夢二訪台90周年ということでの出版なのでしょうか?もっとも、夢二は欧州旅行最終地のベルリンに1933年から滞在して画塾で日本画を教授していたので、このことなのかもしれません。いずれにしても、この偶然のタイミング、とても楽しみです。

▼前回の台湾ツアー「夢二の見た台湾2019」。
もう3年7カ月も経った。"(-""-)"
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<<書籍の説明>>

「講談社選書 メチエ787 異国の夢二」ひろた まさき 著(定価:2,420円(税込))
 
6 / 12 ごろ発売(電子書籍同時配信)!

https://amzn.to/425BaBQ

竹久夢二(1884-1934)は、「夢二式美人」と呼ばれる美人画で今日も人気が高い。『夢二画集 春の巻』(1909)がベストセラーとなって一躍その名を知られ、「大正ロマン」を象徴する存在となった夢二は、その他にも児童向け雑誌や詩文の挿絵を描き、書籍の装丁、広告をはじめとするグラフィックデザイン、雑貨や服飾のデザインを手がけ、「民衆芸術」と「産業美術」に数々の功績を残した。さらには詩や童話といった文筆活動も積極的に行い、詩「宵待草」(1918)は曲を付されて大衆歌として日本全国に及ぶヒットとなる。

その夢二が晩年になって「外遊」を行ったことは、あまり知られていない。19315月に出国し、アメリカ西海岸に到着した夢二は、慣れない異国に戸惑いながらも翌19329月にはヨーロッパに渡り、ドイツ、チェコ、オーストリア、フランス、スイスといった国をまわった。折しも、ナチスが政権を獲得した翌1933年のベルリンを体験した夢二は、同年9月に帰国したあと、10月には台湾に向かう。翌月帰国するが体調をくずし、長野県の八ケ岳山麓にある富士見高原療養所で療養したものの、翌193491日に死去する。

みずからの死期を知っていたかのように最晩年になって集中的に敢行された外遊に、夢二は何を求め、実際に何を見たのか? そして、49歳の早すぎる死を迎えなかったとしたら、外遊から得たものをいかなる形で日本に活かそうとしたのか?――今も愛される画家が生涯最後に残した謎は、稀代の思想史家である著者のライフワークとなった。病魔に冒され、苦しい日々を送る中で全精力を費やした原稿は、完成稿に近い姿でわれわれのもとに残された。この遺稿を著者の二人の高弟による精緻な調査・編集を経て、ようやく1冊の書物としてお届けする。多数の図版とともに甦る、晩年の夢二が描いた軌跡。

[本書の内容]

はじめに

第一章 外遊に至る道、第二章 アメリカ合衆国の世界、第三章 あこがれのヨーロッパ、第四章 最後の旅・台湾、夢二の「異国」──まとめにかえて

エッセイ(廣田真智子)・解 題(高木博志・長志珠絵)

本「異国の夢二」ひろたまさき


 

■竹久夢二の素顔■

●廣田知子「みなと屋の夢二」(4)(『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)の「夢二を知る女性たち」より)

(注)本文は、廣田知子が『猫町文庫』第四集 2013年(平成25)猫町文庫」に掲載したものです。

 「港屋絵草紙店」を支えた半襟等の刺繍を担当した吉田ソノ(1893年生まれ)の活躍を娘の廣田知子が綴ったもので、日本初のデザイナーズショップの裏側がよく分かる興味深い文章です。

ソノの刺繍の技術が卓抜していたことは、後年(大正五年九月十五日から十一月二十五日)読売新聞社主催の「婦人子ども博覧会」が上野公園不忍池周辺で開催されたとき、シンガーミシンからソノがキャンペーンガールとして派遣されたことからも分かる。彼女はそこに「紫式部の源氏の間」と題する式部が石山寺で執筆中の姿を写した三尺四方(約90cm四方)の壁掛けをミシン刺繍で埋めつくして出品した。その壁掛けの下でソノが鮮やかな手並みで刺繍の技術を披露すると、見物人から「まるで神技だなぁ!」という嘆息がもれる。今でこそミシンにもコンピューターが組み込まれて簡単な模様など自動的に出てくるようになったが、この頃は足踏み式のミシンを使って、手と足の調子一本で細かい花やローマ字なども巧みに刺してゆくのだった。「この頃が私の人生の花だったねえ」と母は何度も回想した。彼女は当時姉の家に下宿していて弁当を持って通勤していたが「そのお弁当をぽいっとゴミ箱に捨ててね。今日は栗ごはん、明日は松茸ごはんと博覧会の中の催事会場を食べ歩いたものだよ」と生き生きと語った。又このとき会場の一角には一寸小高い人口の富士山が盛り土で作られ「ぷかぷか、どんどん」と楽隊がはやし立てる中、富士登山をさせたが、頂上には賽銭箱も据えられていて「みんなお参りしてお賽銭を上げたものだよ」と語っていたのは昔から富士講という民衆の富士山信仰会のようなものがあったのを取り込んだ企画ででもあったろうか。ソノは普段学校に居ても地方都市にミシンの販売に出かけるセールスマン達が競ってソノに見本の花や鳥を刺してもらいたがって、贈り物までする有様であった。ソノに言わせると同じ糸で同じ模様を刺しても上手下手は顕著に現れるという。ソノの刺した物には生き生きした色艶の躍動があった。

ソノが抜群の技術を買われて破格の高給を支給されているミシン学校を一時休職して、夢二の半襟を刺す気になったのは、夢二の評判もさることながら、彼女も又夢二からの絵の手ほどきを受けるという相互の交換条件があったればこその話であった。というのはソノは自分で下絵が描けず、いつも他人のデザインした図柄を刺していたので、下絵の段階から自分で納得のいく刺繍を創作してみたいという希望を抱いていたからである。(つづく)

※シンガーミシンは1851年にアイザック・メリット・シンガーが「I.M.Singer社」を創立して操業開始した会社。2年後にシンガーミシン1号機を100ドルで発売して営業を開始し、今年で創業172年になる。日本上陸は1900年代である。詳しくは下記ホームページを。

http://singer.happyjpn.com/naruhodo/history/

▼シンガーミシンの初期の広告(シンガーミシンHPより)
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 ■夢二の台湾旅行関係資料の紹介

論文「昭和8年の夢二の訪台 『台湾日々新報新資料による」(女子美術短期大学・大学院博士・西恭子)

4 東方文化協会の台湾支部設立記念大講演会の竹久夢二の演説「東西女雑感」(4)

 本論説では、東西における夢二の女性観を述べ、その違いを服装を通して言及している。

 夢二は、日本の女性は、西欧の女性と違い着物で肉体を包み隠すといっている。

 奈良朝の服に関しては、元正天皇の養老2年(718)に大宝の律令が修正され、日本の服制の大綱が確立された。この頃、中国唐風様式の婦女の衣があったという。

 夢二は、この奈良朝の後半に及ぶ服装の形式について述べていると思える。

 現在までの夢二の服装に関する研究は、宇野保子による「竹久夢二の服装表現と洋装化」がある。また荒俣宏著の『流線型の女神』には、」アール・デコのファッション版画であるボショワール版画との形態的な類似が指摘されている。

 夢二は、昭和2年(19271月の『婦人の友』に「服飾採集」として同時代の様々な装いを図説しているという事実もあり、夢二の絵画は洋装について述べられることが多い。

 この論説からは、夢二の考える日本人女性の着物の意味とその趣向が窺える。それらは、夢二画である「立田姫」(1931)、「榛名山賦」(1931)の女性の長い袖と身にまとわりつくような着物に見いだせる。その女性像は、着物で躰を隠しながらも、躰の線が強調され、その肉体がはっきりと分かるように描かれている。

 日本の女性の伝統的衣装を身に纏わせ、西洋風のS字型の女性を融和し、「夢二式」の女性は、完成されたということもできる。

  この論説が、東方文化協会台湾支部設立の記念大講演会での講演内容であるという特定はできない。しかし、訪台当時に演題と同じ様な題名の論説を書き、その内容は、他の論説と同じ服装について述べている。この時期の夢二の考え方は、大講演会内容に反映されるはずである。(つづく)

▼「立田姫」(1931
立田姫

▼「榛名山賦」(1931
榛名山賦
 

■夢二の世界■

PART 4 「夢二のデザイン」(「竹久夢二 《デザイン》モダンガールの宝箱」(竹久夢二美術館 石川桂子著、講談社)より)

9 ブックデザイナーとして(2)

 女性のほかにも夢二は、動植物モチーフ、千代紙風、幾何学模様等の多種多様な意匠、さらには浮世絵趣味からモダンなスタイルまでを自在に取り入れて、独自の装幀を作り上げた。夢二と深い親交を結んだ装幀家・恩地孝四郎は、「彼の装本は図案風なものでもやはり彼らしい情趣を盛り込んでゐる。長田幹彦の小説本と組んだ情艶豊かな装画は、著名であつたが、むしろ図案味の勝ったものの方が美しかった。彼のもつ柔らかな色感の効果が効果を結んだ」(『本の美術』より 昭和48年)と図案風の意匠を評価している。

 さて、夢二の装幀を語る際に外すことのできない人物、恩地孝四郎について改めて触れておきたい。「本である以上美しくなければ意味がない」と唱えて、『本の美術』を著した恩地は、装幀家として800冊以上の仕事を残した。その中には夢二の著書『どんたく』をはじめとする5冊の装幀も含まれており、夢二は恩地を「本の立体的な感覚をよく呑込んで仕事をしてゐる」と評価し、恩地の技量とセンスに絶大な信頼を寄せていた。

 印刷や製本の技術が大きく進歩した明治から大正期、本の生産量は飛躍的に伸び、その結果、装幀においては、時代の流行を取り入れて限られた画面の中にデザインする手腕、さらに作家の個性を表現する美的な訴求力が要求されたが、夢二はいずれの条件も兼ね備えていたのである。

このように、ブックデザイナーとして評価の高かった夢二であったが、装幀についての思いは尽きなかったようで、「装幀に於ける文様図案の工風は、『もう沢山』な気がする。その代り、質―装幀材料がもつと注意され、選択せられねばならないと思ふ。(中略)装幀の鑑賞は視界から触覚へ移つてゆく。手にもつた感覚を必要とする」(「装幀に就いての私の意見」より『新潮』第415号 大正13年)との意見も表明していた。(つづく)

▼夢二の装幀本・表紙(企画展「竹久夢二 描き文字のデザイン」(公開中)(竹久夢二美術館)より)
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■夢二情報■

●企画展「夢二が見つめた1920年代」竹久夢二美術館で、関東大震災からモダンガールまで夢二作品を紹介(FASHION PRESSより)

企画展「夢二が見つめた1920年代 震災からモダンガールの表現まで」が、東京の竹久夢二美術館にて、202371()から924()まで開催される。

大正時代から昭和時代へと変わる1920年代は、日本の近代化に伴う様相が広く人びとに浸透していった時代であった。この時期、竹久夢二は、夢二式美人と呼ばれるセンチメンタルな女性像で人気を集める一方、急速に変化する社会を反映した作品も手がけている。

企画展「夢二が見つめた1920年代震災からモダンガールの表現まで」は、20年代における夢二の創作を紹介する展覧会。関東大震災にまつわるスケッチとエッセイ、当時流行したモダンガールを描いた作品などを展示する。

1923年に発生した関東大震災は、江戸時代の面影を残す東京に甚大な被害をもたらす一方、大規模な復興事業により新たな建築などの整備が進められ、東京は近代的な都市へと変貌してゆくこととなった。本展では、夢二が被災地・東京を描いた「東京災難画信」などを展示し、震災により変わり果てた風景や生活の様子、復興へ向けての動きに光をあてる。

大正時代は、女性の社会進出や関東大震災の発生などを背景に、女性の洋装の需要が高まった時期であった。この頃から昭和初期にかけて、洋装を着用する若い女性は、モダンガールと呼ばれている。会場では、モダンな装いを捉えた夢二の作品に着目し、モダンガールをアール・デコ風に表現した《涼しき装い》や、洋装と和装の取り合わせを描いた《湖畔の秋》などを紹介する。

https://www.fashion-press.net/news/103627

 

●「新聞小説 夢二の「二筆流」 話と挿絵 企画展 湯涌の美術館」(中日新聞)
明治末期昭和初期に活躍し女性画や挿絵のイメージが強い金沢ゆかりの詩人画家、竹久夢二(一八八四〜一九三四年)の新聞小説四作品を挿絵とともに紹介する企画展が、金沢市湯涌町の金沢湯涌夢二館で開かれている。一作目の「岬」発表から百年の節目に開催。小説を理解すると、女性画などに込められた真意や夢二の生き様をより味わえるようになる。(室木泰彦)

100年前発表「岬」など4作品

 四作品は、明治中期から昭和の戦前まで東京で発刊した「都新聞」(東京新聞=中日新聞東京本社=の前身)で一九二三年八月〜二七年九月に掲載された。夢二初の三部作、「岬」全七十五回(関東大震災ルポルタージュ「東京災難画信」連載で途中一カ月ほど休載)▽「秘薬紫雪」全四十九回▽「風のやうに」全五十七回と、体験を基にした自伝的小説「出帆」全百三十四回。

 三部作は恋愛小説。「岬」の告知で夢二は、貞操について女性三人(モデル、温泉地の娘、舞台女優)を書いたとし、「誰も彼も、岬の方へ急ぐ不幸な人達です」と紹介。最終話で一人目で予定枚数を超え三部作にすると記した。主人公女性の破滅的な男性遍歴などを通して男女関係の機微を描き、挿絵などで見られる人物の寂しい姿に重なる部分が多いという。「出帆」は、予告で「いまいましい実録」を「さっさと洗いざらひ書いちまって」と記した通り、生涯三人の女性と親密な関係を持った体験をほぼ再現している。

 国立国会図書館や同館所蔵の都新聞を複写した各第一話を展示。挿絵にあらすじを添え物語の流れが把握できる。「風のやうに」を載せた都新聞の切り抜きも貼ったスクラップブック(同館所蔵)を公開。都新聞の実物もあり、当時の雰囲気を感じることができる。

 担当学芸員の川瀬千尋さんは、挿絵を整理中に、同館所蔵の下絵を完成させたとみられる挿絵が「岬」四十九話で使われたことを発見。川沿いの柳が温泉街の風情を伝える絵で、並べてあるため下絵と挿絵の類似性が分かる。川瀬さんは「特に出帆では女性関係のスキャンダルへの自己弁護と解釈できる部分もある一方、体験が現実に近い形で再現され、小説を読むと絵などをより深く理解できるようになる」と話す。

 企画展は六月十八日まで。五月六日と六月三日は午後二時から学芸員らが解説。火曜休館(祝日の場合は翌平日)。一般・大学生三百十円、六十五歳以上二百十円(祝日無料)、高校生以下無料など。(問)同館076(235)1112
https://www.chunichi.co.jp/article/684708

●「福山市の美術館で美人画の展示会」(NHK 広島 NEWS WEB

明治から昭和初期にかけて描かれた近代美人画の名作を集めた展示会が、福山市で開かれています。

会場の「ふくやま美術館」には、竹久夢二をはじめ、さまざまな作家が明治から昭和初期にかけて描いたおよそ90点の美人画が展示されています。

このうち、竹久夢二の「投扇興」は、的に向かって扇子を投げるお座敷遊びを楽しむ2人の女性を描いた作品で、たおやかな女性の美しさが表現されています。

また、上村松園の作品「桜可里能図」は、晴れ着姿の女性がおともの女性と一緒に花見に出かける様子を描いていて、気品のある女性のたたずまいや、楽しい雰囲気が伝わってくる華やかな作品です。

このほか、江戸時代の浮世絵の影響を受けた作品や、「平家物語」などの文学や歴史上のできごとを題材に描かれた作品なども展示されています。

ふくやま美術館学芸課の中村麻里子次長は、「着物の模様が細かく描かれたり、女性の髪型が時代によって変わったりと、作者によっていろいろな表現があるので発見しながら見てもらいたい」と話していました。

この展示会は、「ふくやま美術館」で来月4日まで開かれています。
https://www3.nhk.or.jp/hiroshima-news/20230503/4000022107.html

(ニュース動画あり)

●特別展「大正ロマンの寵児 竹久夢二展 夢二の世界にひたる春」(姫路文学館、2023415日(土曜日)から528日(日曜日))

ある時ふと詩の替りに画(え)で自分の心を語ろうとした  「私の投書家時代」より

愁いをたたえた「夢二式美人画」や抒情歌「宵待草」で一世を風靡した画家・詩人の竹久夢二。

夢二が上京した明治30年代は浪漫主義文学の最盛期で、多くの文学青年が詩人に憧れていました。夢二もその一人で、文章を書いては投稿を繰り返します。ある時、友人が持っていた雑誌「中学世界」が募集するコマ絵に応募すると第一等賞となり、その後も当選を重ね、絵を描くことが仕事となりました。

明治42年(1909)、自らの絵に言葉を添えた初の著作『夢二画集 春の巻』を刊行すると大好評を博します。大正元年(1912)には京都をはじめ、日本各地で個展を開き、やがて自らの版画や書籍、便箋や封筒、帯や半襟などを販売する「港屋絵草紙店」を開店し、日常生活の品々にアールヌーボー式の独自のデザインをとり入れ、多くの若者の心をとらえました。

さらに詩や童謡、童話、小説など憧れであった文学の世界にも活躍の場を広げた夢二。

展覧会では、美人画だけでなく、挿絵や装丁用の作品、肉筆原画などを交え、その多岐にわたる創作活動や、播磨とのかかわりについても紹介します。

備考 「コマ絵」とは、文章と関連を持たない飾り絵のこと。

http://www.himejibungakukan.jp/events/event/yumeji2023himeji/

●「乙女デザイン -大正イマジュリィの世界-」(秋田県立美術館、422() 72()

イマジュリィ“imagerie”とは、イメージ図像を意味するフランス語で、装幀、挿絵、ポスター、絵はがき、広告、漫画など大衆的な複製としての印刷・版画の総称です。

マスメディアの発達や印刷技術の進歩により、多彩な大衆文化が花開いた大正~昭和初期。さまざまな書籍や印刷物のイマジュリィが人気作家によって描かれ、人々の心を魅了しました。この時代のイマジュリィは、現代のデザインやイラストレーションの原点であるとともに、レトロでノスタルジックな大正ロマンの雰囲気を感じさせるアートとして現在も幅広い世代に愛好されています。

本展では、アール・ヌーヴォー様式の橋口五葉、アール・デコに取り組んだ杉浦非水や小林かいち、少女趣味の高畠華宵、抒情的な乙女像で一世を風靡した竹久夢二、そして秋田出身の橘小夢など、大正イマジュリィを生み出した作家たちを紹介します。

今見てもおしゃれでかわいい、魅力的な大正イマジュリィの世界をお楽しみください。
https://www.akita-museum-of-art.jp/event/show_detail.php?serial_no=370

「竹久夢二 描き文字のデザイン ―大正ロマンのハンドレタリング―」(竹久夢二美術館)

大正時代を中心に活躍した画家・竹久夢二(1884-1934)は、グラフィック・デザイナーとしても才能を発揮し、数多くの図案を残しました。

本展では、ポスター、書籍装幀、雑誌・楽譜表紙絵等の図案に展開された、夢二による描き文字のデザインを紹介します。ハンドレタリングで表現された個性的な文字に注目し、コンピューターでの制作とは異なる、描き文字ならではの魅力に迫ります。

さらに肉筆で残された書、原稿、プライベートに残した日記と手紙の展示を通じて、夢二による多彩な文字の表現をお楽しみください。 協力:雪朱里
https://www.yayoi-yumeji-museum.jp/yumeji/exhibition/now.html

●夢二郷土美術館が春の企画展「夢二と舞台芸術」を開催。寄贈された夢二作品も初公開(「ガジェット通信」より)

明治時代以降、文明開化により取り入れられた文化の中には、シェイクスピアら外国の作家が手がけた戯曲やオペラ、バレエなどの舞台芸術があった。それらは、歌舞伎や人形浄瑠璃をはじめとした日本古来の芸能と同様、時代に合わせて変容しながら大衆に愛されるようになる。

大正時代を代表するマルチアーティストの竹久夢二氏(1884-1934)は、舞台芸術を愛し、江戸情趣あふれる日本の伝統芸能や異国発祥の舞台が持つ魅力を作品の中で表現。舞台背景を手がけたこともある。

同氏はまた、華やかな舞台上だけでなく、楽屋での様子や練習風景、観客たちの姿もとらえて画題とした。同展では、そんな同氏の大正浪漫の気風漂う舞台芸術の世界を堪能できる。

あわせて、テレビ時代劇や映画の監督として活躍した牧口雄二氏(1936-2021)が愛蔵し、同館に寄贈された竹久夢二氏のコレクションを初公開し、今につながる同氏の影響を紹介する。作品点数は100点以上。会期は37()64()だ。また、同展に関連したさまざまなイベントも開催される。
https://getnews.jp/archives/3390360

●本館企画展「夢二と舞台芸術」(37日~64日、夢二郷土美術館)

 明治時代以降、文明開化により取り入れられた文化の中にはシェイクスピアら外国の作家が手がけた戯曲やオペラ、バレエなどの舞台芸術がありました。それらは歌舞伎や人形浄瑠璃をはじめとした日本古来の芸能と同様、時代に合わせて変容しながら大衆に愛されるようになります。

 大正時代を代表するマルチアーティストの竹久夢二(1884-1934)は舞台芸術を愛し、江戸情趣あふれる日本の伝統芸能や異国発祥のステージが持つ魅力を作品の中で表現し、舞台背景を手がけたこともありました。華やかな舞台上だけでなく、楽屋での様子や練習風景、観客たちの姿もとらえて画題とした夢二による大正浪漫の気風漂う舞台芸術の世界をご堪能ください。

また、当館に寄贈されたテレビ時代劇や映画の監督として活躍した牧口雄二氏(1936-2021)愛蔵の夢二コレクションを初公開し、今につながる夢二の影響をご紹介します。
https://yumeji-art-museum.com/honkan/

★体験コーナー(随時)★

【「art café 夢二」でお手紙を書きませんか?】

大正ロマンの香りが漂う優雅な空間で大切な人へお手紙を書いてみませんか?

ガラスペンや筆ペン、色えんぴつなどを自由にお使いいただけます。

(夢二切手付きの絵はがきやレターセットもショップで販売しています。)

※筆記具は数に限りがございます。

※感染予防のため、手指の消毒のご協力をお願いいたします。

場所:art café 夢二

●越懸澤麻衣著『大正時代の音楽文化とセノオ楽譜』が発売中!

https://honno.info/kkan/card.html?isbn=9784867800096

 

●夢二の雰囲気に包まれてオリジナル懐石を楽しめる!――神楽坂「夢二」

https://www.kagurazaka-yumeji.com/