※創刊号(2021.8.8)~第37号(2022.4.10)はこちらをご覧ください。⇒ https://yumejitotaiwan.exblog.jp
※ビジュアル夢二ブログ「夢二と台湾」⇒ https://jasmineproject.amebaownd.com/
■メッセージ■
「夢二と台湾2023」講演会の事前打合せのため、5月27日から6月3日まで台湾へ行ってきました。
本来は2021年から数回にわたって事前準備のため渡航する予定でしたが、終わりの見えないコロナ禍の影響で延び延びになり、メール等でやり取りしていましたが、ようやく今回第1回目の打ち合わせとなりました。
11月2日実施予定の台湾大学では、本プロジェクトの特別顧問をお願いしている同大学日本語学部の田世民副教授の提案により、実際に授業を参観させていただくことができました。しかも幸運なことに、最後の10分間をいただいて、実際に自己紹介と簡単な講演の趣旨説明をすることもできました。
対象の学生は期末を迎える2年生(台湾の卒業式・終業式は5月)でしたが、日本語の理解度はかなり高く、短い時間でしたが楽しく話をすることもできました。また、聴講者のリアクションが読めたということもあり、講演の構成内容を一部練り直してより効果的な講演につながることになりました。
▼「田世民副教授と日本語学部のある「校史館」前で
▼田世民教授の授業風景
また、11月3日に講演会を実施することになっている北投文物館での打合せは、台北からMRT(地下鉄)で1時間ほどの北投温泉の山中にある同館に伺って行いました
北投は、1894年にドイツ人硫黄商人オウリーが温泉を発見し、1896年に大阪商人平田源吾が北投で最初の温泉旅館「天狗庵」を開業し、日露戦争の際に日本軍傷病兵の療養所が作られて以降、台湾有数の湯治場として知られるようになったところです。
北投文物館は、日本統治時代の1921年に建造された北投で最高級の「佳山温泉旅館」を5年かけて改装し、2008年にオープンしました。山の中腹にあり、敷地は約800坪。木造二階建て和風建築の私立博物館です。収蔵資料は5000点近くを誇り、台湾の民間芸術や文物を保存・展示しています。古跡の建物そのものが最大の展示品ですが、それに加えて室内で常設展示や不定期なテーマ展を開催する一方、日本の茶道や和菓子といった文化体験施策も実施しており、日本文化の発信地としても重要な役割を果たしています。夢二研究会会員の王文萱氏が2021年から2022年にかけて長期にわたり夢二展も開催したのもここです。
▼王文萱さんの講演会(「竹久夢二的視界」にて)(今回予定と同じ大広間で開催)
洪侃館長との面談では、日本語の達者な学芸員・王彬全展示典蔵部主任の素晴らしい通訳でとどこおりなく当方からの施策説明を終え、その趣旨にあらためて賛同の意を示していただきました。さらに、夢二の訪台資料が見つからないという状況やそれにより夢二の台湾での行動が不明であることに対し、今後も夢二の訪台関係に関心を持ち続け、協力していくことで合意しました。同館で新たな資料が発見されたときはお知らせいただけるとのことでした。
面談後、講演会開催予定の畳を敷き詰めた大広間を視察しましたが、音響設備が整い、3台のスクリーンをフル活用して講演が可能ということで、期待の大きさに身の引き締まる思いでした。
▼北投文物館玄関
▼洪侃館長及び王彬全展示典蔵部主任と
▼講演予定会場
▼館内の喫茶コーナー
また、夢二が講演をした台湾総督府医学専門学校(現台湾大学医学人文博物館)を訪問し、ご協力を得て正式に建物の外観及び内部の撮影をさせていただくことが出来ました。
いずれにしても企画実施まで4カ月余り。「週報」も目標の第100回まであと10回を残すばかりとなりました。動画制作の出演及び挿絵を担当する俳優の鈴木愛子さん(合同会社)からは、昨日、伊香保記念館、夢二のアトリエの視察を行ったとの報告が入ってきました。いよいよ本格的な具体的製作工程に入りました。10月14日には先行講演会が目白の「ギャラリーゆめじ」で予定されています。待ったなしの「夢二と台湾」、ご支援のほど、よろしくお願いいたします。
※台湾大学の講演は教員・学生等の関係者のみ聴講可能、北投文物館の講演は同館で一般聴講者を募ることになっています。
■竹久夢二の素顔■
●廣田知子「みなと屋の夢二」(5)(『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)の「夢二を知る女性たち」より)
(注)本文は、文筆家の廣田知子が『猫町文庫』第四集 2013年(平成25)猫町文庫」に掲載したものです。
「港屋絵草紙店」を支えた半襟等の刺繍を担当した吉田ソノ(1893年生まれ)の活躍を娘の廣田知子が綴ったもので、日本初のデザイナーズショップの裏側がよく分かる興味深い文章です。
・みなと屋
みなと屋は道路に面した三軒長屋の一軒で間口は僅か二間余りの小ぢんまりした店構えであった。軒先には長さ三尺にも及ぶ細長い赤提灯を吊し、そこに平仮名で黒々と「みなと屋」と書かれてあった。間取りは階下が店と洗面所兼流し台のある狭い板の間だけで他に畳の部屋はなく、二階が六畳一間の和室になっていた。夢二と面会した日の翌日、ソノは早速ミシンと寝具、簡単な見回り品をこのみなと屋の二階に運び入れて住み込むことになった。隣家は表に弁護士の看板を掲げて主人は外部からの通いであったが、頭を丸刈りにした書生一人が寝泊まりしていて、みなと屋とはまるで没交渉だった。
問題の半襟の布地はすべて小浜ちりめんで、表面の凸凹が多少刺し辛いという難点はあったが、夢二が筆に胡粉をつけて図案を描くと、ソノは白一色の下絵の上にミシン刺繍で色どりと艶を与えてゆくのだった。夢二はソノの持参した二百種類もの毛糸の中から絵に似合う糸をその都度慎重に選んで指定したので、たまに欠番の糸などあると、必ず会社から取り寄せる迄は決して他の色で間に合わせるということをしなかった。色に対する夢二の執念の程が知れよう。只刺し方には三種類の違った方法があった。線縫い、しが縫い、刺し縫い(ぼかし)で、その組み合わせについてはソノの自由な選択に任せて、夢二が口をさしはさむようなことはなかった。ソノが
「出来ましたよ」
と仕上がった製品を見せると、すぐ又筆をとって新しい下絵を描き上げてくれるのだった。
図案には小花や笹竹、わらじ、苺など夢二好みの可憐な模様が多かった中で、何度思い返してみても新鮮な驚きで感嘆せずには居られない奇抜な一本の作品があった。それは左側に秋海棠の花を二輪と小さな蕾をあしらい、雨の風情を斜線に引いて、右側には夢二独特の柔らかい文字で、
わたしや涙の花じやもの
と讃を添えた詩情溢れる一作であった。夢二にすれば枕屏風や衝立(ついたて)にしばしばみられる文人画的作風で即興に書き留めただけのものであったろうが、左右対称が常識であった半襟という素材に縛られない彼の柔軟な思考能力はソノに畏敬の念を抱かせるに十分であった。この頃半襟とか簪(かんざし)と言った品は男から女への手軽な贈り物として盛んに利用されていて、詩人の萩原朔太郎もみなと屋の半襟を美人の妹に買ってやったし、随筆家の森田たまも浴衣を求めて愛用し、後に瀬戸内晴美に譲ったところ大そう喜ばれたと言われている。店には帝劇の女優たちが人力車を走らせてやってきてはあれこれ品定めして求めていったが、版画では治兵衛や小春の大首絵がよく売れた。
中には
「夢二の肉筆を頂戴」
と壁に掛けられたスケッチ風の夢二の原画を大枚をはたいて買ってゆく者もいた。(つづく)
※半襟:半襟とは、着物の下に着る長襦袢(ながじゅばん)につける襟のことを指します。大きさは、幅が15cm~20cm程度、長さが100cm~110cm程度です。裏地はついていません。半襟は、着物や長襦袢の襟に汗・皮脂汚れがつかないように保護する役割があります。汚れやすいので、着物を一度着るごとに付け替えるのが一般的です。また、半襟は汚れから守るためだけでなく、おしゃれを楽しむためのアイテムとしても活用されています。柄のない真っ白な半襟から、おしゃれな柄・色の半襟、レース・ビーズ付きの半襟までさまざまな種類があり、コーディネートを楽しめます。
半襟は、安土桃山時代に発祥し、結髪が普及した江戸時代に一般的になりました。結髪には多量の髪油が必要とされていたので、襟元の汚れを防ぐためには欠かせないアイテムだったのです。汚れの保護が目的で広まったものなので、色は汚れが目立ちづらい黒色が主流でした。半襟がおしゃれ目的で流行しだしたのは明治時代・大正時代です。日常的に着物を着ていた当時の女性にとって、半襟はおしゃれに欠かせないアイテムとなっていました。たくさんの半襟専門店が開かれ、どの店も非常に繁盛していたようです。
伊達襟(だてえり)とは、着物を重ね着しているように見せるための襟のことです。重ね襟(かさねえり)とも呼ばれます。大きさは、幅が10cm~12cm程度、長さが120cm~130cmです。半襟とは異なり、裏地付きで二重仕立てとなっています。また、伊達襟は着物に必ずつけるアイテムではありません。この点も半襟とは異なります。伊達襟は、お祝いの場やおめでたい場で、「喜びが重なりますように」という願いを込めてつけることが多いです。おしゃれを楽しむ目的で使うこともあります。(「着物の着付け教室」より)
■夢二の台湾旅行関係資料の紹介
論文「昭和8年の夢二の訪台 ―『台湾日々新報新資料による―」(女子美術短期大学・大学院博士・西恭子)
5 台湾への日本の文化移植
東方文化協会の活動と同時期に、『台湾日日新報』では、以下のような展覧会報道をしている。
昭和8年(1933)10月28日に、「古今名家の洋画展覧会」が掲載されている。その他には、
1 11月1日、3日、27日 「鴎外展」
2 11月1日~2日 「台展」
3 11月18日 「春陽会 山崎省三展」
4 11月24日 「水彩画展」
がある。
日本の画家たちが来台していたことも分かる。
昭和8年10月27日の七面に、「藤島画伯鵞鑾鼻へ」という記事がある。藤島は、10月26日夜行で台北を出発し、27日がガランピーを視察し、四重茎に一泊する。そして、28日には高雄へ帰着し、29日台南を一巡し帰北の予定であるということが述べられている。また、同紙面に、「結城(素明)画伯阿里山へ」いった記事がある。そして、11月4日号に「台展友の会の有志や美術同好者が来台中の梅原龍三郎と藤島武二を蓬莱閣で招待懇親会を催す計画があることを掲載している。
藤島は、「夢二追悼文」で以下のようなことを述べている。
夢二君が最後に外国へ行かれまして帰って来てから台湾に行かれた。その時私は台湾に参って居りました。夢二君が来ると云うことを新聞に依って知りましたので、久しぶりで会おうと思って待って居りました。
果たして私の泊って居るホテルに来た。何のために来たかと云うと展覧会か何かやらと思って来たのだと云う事でありました。ところが大分時代も移って居りまして、殊に辺鄙(へんぴ)な台湾の事でございますし、その頃夢二式の絵に憧れて居ると云う婦人はほとんど見当たりませんでした。反響が少し薄いような傾きであった。
と、藤島は来台の際に夢二と面会したことを証言している。
新聞報道により、藤島、結城が来台していたことが分かるが、その理由について述べてみたい。
『台湾事情』によれば、「台湾教育の普及改善を計る」ために、総督府の教育方針に従って、「学事の奨励及び社会教育に関する事業を遂行」していた。
その一つに、「台湾美術展覧会(台展)」があり、「美術趣味の普及により島民の生活に潤あらしむる」ことを目的として開催された。
昭和8年の台湾美術展覧会は、台北市内の教育会館で開催され、審査員を島内から小澤秋成ら六名、内地より、藤島武二、結城貞松(素明)の二氏が嘱託として迎えられたことが報告されている。前年度の内地からの審査員は、和田三造、結城素明であった。
従って、藤島と結城は、台湾美術展覧会の審査員と迎えられていたことが分かる。
「近代日本画の台湾移植」については、廖瑾瑗(りょうきんえん)による木下静涯を通した研究がある。
夢二の活動は、民間の活動ではあるが、日本の台湾統治時代にあった文化政策の一つであったといえるであろう。(つづく)
※鵞鑾鼻(がらんび):台湾島最南端の岬。その名はパイワン族の言語に由来し、俗に台湾尾(たいわんび)ともよぶ。台湾島南端の町恒春(こうしゅん/ホンチュウン)の南18キロメートルにある鵞鑾鼻灯台は、清朝末期のアメリカ船の遭難を契機に、1882年外国の要請で建設された。西の猫鼻頭(びょうびとう)岬との間に南港を囲み、岬一帯は隆起サンゴ礁からなり、低緑樹に覆われている。北方約10キロメートルにある墾丁(こんてい)熱帯植物公園、太平洋に面する佳洛水(からくすい)ビーチの奇岩異石の景観とあわせて、南台湾最大の名勝地となっている。(『日本大百科全書』より)
※廖瑾瑗(りょうきんえん)による木下静涯を通した研究:廖瑾瑗「近代日本画の台湾移植―木下静涯(1887~1988)を通して」(『美学』184号)
▼鵞鑾鼻(がらんび)のパンフレット(1931)(NITESHAのHPより)
https://www.nitesha.com/?pid=156689493
▼鵞鑾鼻(がらんび)の絵葉書(「海外神社(跡地)のデータベース」より)
http://www.himoji.jp/database/db04/permalink.php?id=412
▼鵞鑾鼻を訪問した郵便学者・内藤陽介氏のブログ
http://yosukenaito.blog40.fc2.com/blog-entry-1035.html
■夢二の世界■
PART 4 「夢二のデザイン」(「竹久夢二 《デザイン》モダンガールの宝箱」(竹久夢二美術館 石川桂子著、講談社)より)
10 函(はこ)・表紙
函は、本を保護する役割を持つが、実用性だけでなく装飾の要素も大いに重視される。夢二は本の内容や表紙の図案と連動させて効果的なデザインを施し、ときに意表を突く組み合わせなども試みている。
表紙は、本の外装部分に当たるが、こちらも中身の保護の役割に加えて、美しさも重視される。表・裏・背から成り立つ表紙であるが、、夢二の装幀においては、この部分をひとつの紙面に見立て、広げると一枚の絵になるデザインも多く存在する。
『縮刷 夢二画集』の函・表紙絵・見返しの植物模様は、夢二による<港屋>版の千代紙を応用した装幀である。(つづく)
▼「竹久夢二 《デザイン》モダンガールの宝箱」(竹久夢二美術館 石川桂子著)より
■夢二情報■
●企画展「夢二が見つめた1920年代」竹久夢二美術館で、関東大震災からモダンガールまで夢二作品を紹介(FASHION PRESSより)
企画展「夢二が見つめた1920年代 ─震災からモダンガールの表現まで─」が、東京の竹久夢二美術館にて、2023年7月1日(土)から9月24日(日)まで開催される。
大正時代から昭和時代へと変わる1920年代は、日本の近代化に伴う様相が広く人びとに浸透していった時代であった。この時期、竹久夢二は、夢二式美人と呼ばれるセンチメンタルな女性像で人気を集める一方、急速に変化する社会を反映した作品も手がけている。
企画展「夢二が見つめた1920年代 ─震災からモダンガールの表現まで─」は、20年代における夢二の創作を紹介する展覧会。関東大震災にまつわるスケッチとエッセイ、当時流行したモダンガールを描いた作品などを展示する。
1923年に発生した関東大震災は、江戸時代の面影を残す東京に甚大な被害をもたらす一方、大規模な復興事業により新たな建築などの整備が進められ、東京は近代的な都市へと変貌してゆくこととなった。本展では、夢二が被災地・東京を描いた「東京災難画信」などを展示し、震災により変わり果てた風景や生活の様子、復興へ向けての動きに光をあてる。
大正時代は、女性の社会進出や関東大震災の発生などを背景に、女性の洋装の需要が高まった時期であった。この頃から昭和初期にかけて、洋装を着用する若い女性は、モダンガールと呼ばれている。会場では、モダンな装いを捉えた夢二の作品に着目し、モダンガールをアール・デコ風に表現した《涼しき装い》や、洋装と和装の取り合わせを描いた《湖畔の秋》などを紹介する。
https://www.fashion-press.net/news/103627
●竹久夢二の回顧展が京都・福田美術館で - 夢二式美人をはじめ“大正ロマン”の作品約230点を紹介(「FASHION
PRESS」より
企画展「生誕140年 竹久夢二のすべて 画家は詩人でデザイナー」が、京都の福田美術館にて、2023年7月14日(金)から10月9日(月・祝)まで開催される。その後、群馬の高崎市美術館ほか、全国を巡回予定だ。
https://www.fashion-press.net/news/104088
●「新聞小説 夢二の「二筆流」 話と挿絵 企画展 湯涌の美術館」(中日新聞)
明治末期−昭和初期に活躍し女性画や挿絵のイメージが強い金沢ゆかりの詩人画家、竹久夢二(一八八四〜一九三四年)の新聞小説四作品を挿絵とともに紹介する企画展が、金沢市湯涌町の金沢湯涌夢二館で開かれている。一作目の「岬」発表から百年の節目に開催。小説を理解すると、女性画などに込められた真意や夢二の生き様をより味わえるようになる。(室木泰彦)
100年前発表「岬」など4作品
四作品は、明治中期から昭和の戦前まで東京で発刊した「都新聞」(東京新聞=中日新聞東京本社=の前身)で一九二三年八月〜二七年九月に掲載された。夢二初の三部作、「岬」全七十五回(関東大震災ルポルタージュ「東京災難画信」連載で途中一カ月ほど休載)▽「秘薬紫雪」全四十九回▽「風のやうに」全五十七回−と、体験を基にした自伝的小説「出帆」全百三十四回。
三部作は恋愛小説。「岬」の告知で夢二は、貞操について女性三人(モデル、温泉地の娘、舞台女優)を書いたとし、「誰も彼も、岬の方へ急ぐ不幸な人達です」と紹介。最終話で一人目で予定枚数を超え三部作にすると記した。主人公女性の破滅的な男性遍歴などを通して男女関係の機微を描き、挿絵などで見られる人物の寂しい姿に重なる部分が多いという。「出帆」は、予告で「いまいましい実録」を「さっさと洗いざらひ書いちまって」と記した通り、生涯三人の女性と親密な関係を持った体験をほぼ再現している。
国立国会図書館や同館所蔵の都新聞を複写した各第一話を展示。挿絵にあらすじを添え物語の流れが把握できる。「風のやうに」を載せた都新聞の切り抜きも貼ったスクラップブック(同館所蔵)を公開。都新聞の実物もあり、当時の雰囲気を感じることができる。
担当学芸員の川瀬千尋さんは、挿絵を整理中に、同館所蔵の下絵を完成させたとみられる挿絵が「岬」四十九話で使われたことを発見。川沿いの柳が温泉街の風情を伝える絵で、並べてあるため下絵と挿絵の類似性が分かる。川瀬さんは「特に出帆では女性関係のスキャンダルへの自己弁護と解釈できる部分もある一方、体験が現実に近い形で再現され、小説を読むと絵などをより深く理解できるようになる」と話す。
企画展は六月十八日まで。火曜休館(祝日の場合は翌平日)。一般・大学生三百十円、六十五歳以上二百十円(祝日無料)、高校生以下無料など。(問)同館076(235)1112
https://www.chunichi.co.jp/article/684708
●2023年夏の企画展「Taisyo Romantic
Design-夢二のモダン×伝統デザイン-」 当館新収蔵作品《千代紙「きのこ」》を岡山で初公開
2023年6月6日(火)~(岡山)夢二郷土美術館本館にて開催 両備ホールディングス株式会社
夢二郷土美術館本館(所在地:岡山県岡山市中区浜2-1-32、館長:小嶋光信、運営:公益財団法人両備文化振興財団)では、2023年6月6日(火)より、「Taisyo Romantic Design-夢二のモダン×伝統デザイン-」と題した企画展を開催いたします。
本展では、夢二のスクラップブックから夢二デザインのイメージソースを辿るとともに、夢二式美人に応用された夢二デザインの形もご紹介します。また、夢二がアールヌーヴォーから影響を受けた作品の一つでこのたび当館新収蔵となった《千代紙「きのこ」》を初公開。令和の私たちが見ても胸高鳴る大正浪漫のデザインの数々をお楽しみください。
<夢二郷土美術館 https://yumeji-art-museum.com/>
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000174.000052428.html
●「乙女デザイン -大正イマジュリィの世界-」(秋田県立美術館、4月22日(土) ~7月2日(日))
イマジュリィ“imagerie”とは、イメージ図像を意味するフランス語で、装幀、挿絵、ポスター、絵はがき、広告、漫画など大衆的な複製としての印刷・版画の総称です。
マスメディアの発達や印刷技術の進歩により、多彩な大衆文化が花開いた大正~昭和初期。さまざまな書籍や印刷物のイマジュリィが人気作家によって描かれ、人々の心を魅了しました。この時代のイマジュリィは、現代のデザインやイラストレーションの原点であるとともに、レトロでノスタルジックな大正ロマンの雰囲気を感じさせるアートとして現在も幅広い世代に愛好されています。
本展では、アール・ヌーヴォー様式の橋口五葉、アール・デコに取り組んだ杉浦非水や小林かいち、少女趣味の高畠華宵、抒情的な乙女像で一世を風靡した竹久夢二、そして秋田出身の橘小夢など、大正イマジュリィを生み出した作家たちを紹介します。
今見てもおしゃれでかわいい、魅力的な大正イマジュリィの世界をお楽しみください。
https://www.akita-museum-of-art.jp/event/show_detail.php?serial_no=370
●「竹久夢二 描き文字のデザイン ―大正ロマンのハンドレタリング―」(竹久夢二美術館)
大正時代を中心に活躍した画家・竹久夢二(1884-1934)は、グラフィック・デザイナーとしても才能を発揮し、数多くの図案を残しました。
本展では、ポスター、書籍装幀、雑誌・楽譜表紙絵等の図案に展開された、夢二による描き文字のデザインを紹介します。ハンドレタリングで表現された個性的な文字に注目し、コンピューターでの制作とは異なる、描き文字ならではの魅力に迫ります。
さらに肉筆で残された書、原稿、プライベートに残した日記と手紙の展示を通じて、夢二による多彩な文字の表現をお楽しみください。 協力:雪朱里
https://www.yayoi-yumeji-museum.jp/yumeji/exhibition/now.html
●越懸澤麻衣著『大正時代の音楽文化とセノオ楽譜』が発売中!
https://honno.info/kkan/card.html?isbn=9784867800096
●夢二の雰囲気に包まれてオリジナル懐石を楽しめる!――神楽坂「夢二」
https://www.kagurazaka-yumeji.com/
コメント