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■メッセージ■
1回目の訪台による打合せを終え、7月1日開催の「夢二研究会」で「夢二と台湾2023」プロジェクトの進捗状況発表をすることになりました。
これまでの資料調査で分かっていること、謎となっていること、当時の状況から推測できること、全く分からないことなどのピックアップを開始。かなり膨大な情報から引き抜き作業が始まりました。これまでの研究成果の中にも微妙なずれがあり、遺跡発掘同様、新たに判明したこともあるなどの状況下で、これらを考慮しながらの作業となりましたが、実質的な調査研究をする時間はもう残されてはいません。
いずれにしても、それなりに形になるとは思いますが、この作業が10月の日本、11月の台湾での講演会に反映されることは間違いないと思われるため鋭意頑張っています。
ところでまた王文萱さんが快挙です。台北市の天母にある「大葉高島屋」で竹久夢二を題材にしたレイアウトのコーナーを設置しました。王さんの活動に刺激されてとのこと。売り場はまさに「モダンガール」時代の雰囲気。
おそろいの景品も充実していたことから、初日の朝は買い物客が殺到したとか。
6月18日午後3時には、王さんの講演会も予定されているとのことです。いま台湾では、夢二ブームの波がますます大きくなってきているようです。
終戦で佐野氏は本土に戻ることになりますが、後を継いだ台湾人のオーナーは、「逸邨大飯店(イーツンホテル)」と名を変え、部分的に設備を洋風にしたものの庭園等の原型は保持。その後の観光ブームもあって順調に経営を続けていましたが、2013年、オーナーがアメリカに移住し、惜しくも閉業となりました。
この本を読むと、夢二が訪台した1933年は台北の景気が大変な勢いで盛り上がってきている頃だったことがよくわかります。確かに、基隆税関や総督府博物館前の第一勧業銀行など、この時期に数々の大きなビルがこの時期に竣工しています。30年以上の間、威信をかけて東京をしのぐほどのインフラ整備、病院、公設市場、公園などを整えてきたこの時代の台湾の絶頂期を夢二は目にしたのだと思います。
長くつらかった外遊から帰国してひと月の夢二も、湯治を進められて北投温泉に行った可能性もないとはいえませんね。資料がないだけに、想像は限りなく広がります。
■竹久夢二の素顔■
●廣田知子「みなと屋の夢二」(6)(『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)の「夢二を知る女性たち」より)
(注)本文は、文筆家の廣田知子が『猫町文庫』第四集 2013年(平成25)猫町文庫」に掲載したものです。
「港屋絵草紙店」を支えた半襟等の刺繍を担当した吉田ソノ(1893年生まれ)の活躍を娘の廣田知子が綴ったもので、日本初のデザイナーズショップの裏側がよく分かる興味深い文章です。
半襟は仕入れ値が七十銭、夢二の下絵にソノの刺繍が加わると三円五十銭もの値札が付けられていたがまだミシン刺繍がめずらしかったせいか、ソノの技術が、冴えていたのか、月に一度の有り物調べの折にもついぞ売れ残っているということはなかった。夢二の商才が中々のものであった証拠であろう。店番の女は開店当時は未亡人のほっそりとした美人であったが、すぐに花ちゃんと呼ばれる派手な顔立ちの娘にかわり、これも姉がどこぞで妾奉公をしていると噂されるだけあって、人目を引くほどの器量よしであったから、花ちゃんを目当てに毎日のように店へ顔を出す男もいた。
ソノの刺繍技術については夢二は批判がましい言葉を刺し挟んだことは一度もなかったが、あるとき、「ソノちゃん、庭の木の葉を一枚取ってきてごらん」
と言われて、彼女は椿の葉っぱを一枚枝からもいできたことがあった。
「よく見てごらん。木の葉の付け根は一寸広がってしっかりした感じになっているでしょう。それから僕の絵の葉っぱは枝から少し浮いた様に描いてあるけど、見た目に付いている感じであれば、何もすっかり枝にくっ付けなくてもいいんだよ。」
と夢二はおだやかに諭してくれたことがあった。彼女は出来る限り夢二の下絵を正確に表現したつもりであったが、木の葉は枝にくっついているという固定観念から、少し離れて描かれた葉っぱを無理に枝にくっつけてしまったらしい。又葉軸の根元が少し広がっていることも、田舎育ちのくせにソノがうっかり見落としている盲点を見事に指摘されたといってよかった。そしてこれはもう絵を描こうとする人間にとって、対象の観察という基本的な姿勢の教育に他ならなかった。(つづく)
■夢二の台湾旅行関係資料の紹介
論文「昭和8年の夢二の訪台 ―『台湾日々新報新資料による―」(女子美術短期大学・大学院博士・西恭子)
結語
竹久夢二は、昭和8年(1933)10月26日から同年11月11日までの17日間を(ママ)台湾に滞在し、活動した。
その目的は、河瀬蘇北を理事長とする東方文化協会の台湾支部設立の記念行事に参加することであった。
夢二は、11月3日に医専講堂で開催された協会支部設立の記念大講演会で、「東西女雑感」という演題で、講演をした。また、11月3日から同5日に警察会館で作品展覧会を行った。作品は、屏風と額装で50点余りを出陳した。
記念大講演会は、夢二の他に尾崎秀眞が講演をした。尾崎秀眞は、ゾルゲ事件に関与し、また中国評論家として知られる尾崎秀実と文芸評論家尾崎秀樹の父親である。夢二の生涯の活動は、尾崎家の人々と関わりがある。夢二は、ゾルゲ事件に関わった沖縄出身の画家である宮城与徳と面識がある。また、文芸評論家尾崎秀樹の大衆文学研究の功績により、ポピュラーの画家である竹久夢二は、学問上の研究対象と成り得たといってもよいであろう。
竹久夢二は、訪台時期に論説を『台湾日日新報』に掲載している。一つは、昭和8年10月24日に「ナチスの芸術は段々希薄に」であり、ナチスのユダヤ人迫害についての記述がある。他には、同年11月14日に「台湾の印象」があり、台湾女性の服装に就いて述べ、また後藤新平の台湾占領政策について触れている。
竹久夢二が東方文化協会台湾支部発足の記念大講演会で講演した「東西女雑感」と同じ様な論題である「東西女ばなし」が、『文芸』(昭和8年11月1日発行)に書かれている。同時期に書かれた論説であることから、「夢二の女性観」を含め、この時期の夢二の考え方が分かる。
竹久夢二の論説は、希少であるために本論では、全文を紹介した。夢二のものの考え方を直接言葉で理解することができる。
台湾では、この時期、他にも「台湾美術展覧会」や「鴎外展」などの展覧会が行われている。
夢二は台湾美術展覧会の審査員として来台していた藤島武二と面会した。
当時、日本の植民地であった台湾文化が移植された。その一つに東方文化協会の台湾支部設立があり、その行事に竹久夢二も参加していた。
滞欧と訪台によって、晩年の夢二は、ヒトラーのドイツ独裁と日本の台湾統治といった、いわば特殊な時期を直接現地で体験した。
これらを実体験した夢二の海外の活動は、歴史的にも重要な意味を孕んでいると考える。
夢二は、台湾からの帰国後、病臥に伏した。そのため『令女界』、『若草』といった雑誌に手記を掲載する仕事の他はなく、創作活動は進まなかったようである。
夢二は、昭和9年(1934)9月1日に富士見高原療養所で満50年を半月足らずに他界する。
台湾からの帰国後の作品への影響等を見い出すことができないのが、非常に惜しまれる。
本論で紹介した昭和8年の『台湾日日新報』は、北海道大学附属図書館所蔵の原本から、平成9年(1997)の撮影で、ゆまに書房からマイクロ化され復刻した。
これまでには容易に眼に触れることがなかったために、夢二の台湾での活動も解明されずに来たのであろう。
今後も台湾での夢二の活動をさらに論究していきたいと思う。(1999.11.8)(完)
※(「ママ」とした部分について)一般的には、竹久夢二は、昭和8年(1933)10月26日から同年11月15日までの21日間台湾に滞在し、11月17日に神戸港に帰還したとされている。
■夢二の世界■
PART 4 「夢二のデザイン」(「竹久夢二 《デザイン》モダンガールの宝箱」(竹久夢二美術館 石川桂子著、講談社)より)
11 木版へのこだわり
夢二は書籍装幀のほか、一枚絵においても木版画制作に情熱を傾け、絵師・彫師(ほりし)・摺師(すりし)の分業による、伝統的な浮世絵版画の特質と技法を十分に活用した画家だった。絵師としての従来の役割を超え、彫師や摺師にも細かく指示を出し、総合的なデザイナーとして、職人の技をさらに引き出し、納得のいく仕上がりになるよう情熱を注いだ。
夢二が最愛の女性・笠井彦乃への思いを綴った恋歌集『山へよする』は、本の中に挟まれた木版口絵の美しさでも知られるが、この仕事を手がけた職人の回想が残されている。当時摺師をしていた平井孝一によると、夢二の木版へのこだわりようは、「ガミガミとどなりつけたりはしなかったが、ちょっとでも納得がゆかないところがあると何べんでも刷り直しをさせられる。夜通しそばについているなどざらで、色の濃度、密度、バランスなどについての勘には、へたな職人などとてもついてゆけるものではなかった」ほどで、平井の仕事場で「よその仕事にもていねいに目を通し、少しでも目あたらしいところがあると、その方法を根堀り葉堀りしてたずね、ふっと出て行ったかと思うと、この色が出ないかと、何か古い裂地をもって来たり」していたという。平井は夢二の態度に閉口しながらも「出来上がって見るとやっぱり夢二が我を通したところがよくなっていて、あらためて感心させられた。下絵よりも刷り上がったほうがすっきりと見ばえがするのは、夢二には、刷り上がりの効果がはじめから見えていて、下絵はそれを計算して描かれているからであった」(青江舜二郎『竹久夢二』より 昭和46年)と、その仕事ぶりに感嘆している。(つづく)
▼「竹久夢二 《デザイン》モダンガールの宝箱」(竹久夢二美術館 石川桂子著)より
■夢二情報■
●企画展「夢二が見つめた1920年代」竹久夢二美術館で、関東大震災からモダンガールまで夢二作品を紹介(FASHION PRESSより)
企画展「夢二が見つめた1920年代 ─震災からモダンガールの表現まで─」が、東京の竹久夢二美術館にて、2023年7月1日(土)から9月24日(日)まで開催される。
大正時代から昭和時代へと変わる1920年代は、日本の近代化に伴う様相が広く人びとに浸透していった時代であった。この時期、竹久夢二は、夢二式美人と呼ばれるセンチメンタルな女性像で人気を集める一方、急速に変化する社会を反映した作品も手がけている。
企画展「夢二が見つめた1920年代 ─震災からモダンガールの表現まで─」は、20年代における夢二の創作を紹介する展覧会。関東大震災にまつわるスケッチとエッセイ、当時流行したモダンガールを描いた作品などを展示する。
1923年に発生した関東大震災は、江戸時代の面影を残す東京に甚大な被害をもたらす一方、大規模な復興事業により新たな建築などの整備が進められ、東京は近代的な都市へと変貌してゆくこととなった。本展では、夢二が被災地・東京を描いた「東京災難画信」などを展示し、震災により変わり果てた風景や生活の様子、復興へ向けての動きに光をあてる。
大正時代は、女性の社会進出や関東大震災の発生などを背景に、女性の洋装の需要が高まった時期であった。この頃から昭和初期にかけて、洋装を着用する若い女性は、モダンガールと呼ばれている。会場では、モダンな装いを捉えた夢二の作品に着目し、モダンガールをアール・デコ風に表現した《涼しき装い》や、洋装と和装の取り合わせを描いた《湖畔の秋》などを紹介する。
https://www.fashion-press.net/news/103627
●竹久夢二の回顧展が京都・福田美術館で - 夢二式美人をはじめ“大正ロマン”の作品約230点を紹介(「FASHION
PRESS」より
企画展「生誕140年 竹久夢二のすべて 画家は詩人でデザイナー」が、京都の福田美術館にて、2023年7月14日(金)から10月9日(月・祝)まで開催される。その後、群馬の高崎市美術館ほか、全国を巡回予定だ。
https://www.fashion-press.net/news/104088
●「新聞小説 夢二の「二筆流」 話と挿絵 企画展 湯涌の美術館」(中日新聞)
明治末期−昭和初期に活躍し女性画や挿絵のイメージが強い金沢ゆかりの詩人画家、竹久夢二(一八八四〜一九三四年)の新聞小説四作品を挿絵とともに紹介する企画展が、金沢市湯涌町の金沢湯涌夢二館で開かれている。一作目の「岬」発表から百年の節目に開催。小説を理解すると、女性画などに込められた真意や夢二の生き様をより味わえるようになる。(室木泰彦)
100年前発表「岬」など4作品
四作品は、明治中期から昭和の戦前まで東京で発刊した「都新聞」(東京新聞=中日新聞東京本社=の前身)で一九二三年八月〜二七年九月に掲載された。夢二初の三部作、「岬」全七十五回(関東大震災ルポルタージュ「東京災難画信」連載で途中一カ月ほど休載)▽「秘薬紫雪」全四十九回▽「風のやうに」全五十七回−と、体験を基にした自伝的小説「出帆」全百三十四回。
三部作は恋愛小説。「岬」の告知で夢二は、貞操について女性三人(モデル、温泉地の娘、舞台女優)を書いたとし、「誰も彼も、岬の方へ急ぐ不幸な人達です」と紹介。最終話で一人目で予定枚数を超え三部作にすると記した。主人公女性の破滅的な男性遍歴などを通して男女関係の機微を描き、挿絵などで見られる人物の寂しい姿に重なる部分が多いという。「出帆」は、予告で「いまいましい実録」を「さっさと洗いざらひ書いちまって」と記した通り、生涯三人の女性と親密な関係を持った体験をほぼ再現している。
国立国会図書館や同館所蔵の都新聞を複写した各第一話を展示。挿絵にあらすじを添え物語の流れが把握できる。「風のやうに」を載せた都新聞の切り抜きも貼ったスクラップブック(同館所蔵)を公開。都新聞の実物もあり、当時の雰囲気を感じることができる。
担当学芸員の川瀬千尋さんは、挿絵を整理中に、同館所蔵の下絵を完成させたとみられる挿絵が「岬」四十九話で使われたことを発見。川沿いの柳が温泉街の風情を伝える絵で、並べてあるため下絵と挿絵の類似性が分かる。川瀬さんは「特に出帆では女性関係のスキャンダルへの自己弁護と解釈できる部分もある一方、体験が現実に近い形で再現され、小説を読むと絵などをより深く理解できるようになる」と話す。
企画展は6月18日まで。火曜休館(祝日の場合は翌平日)。一般・大学生三百十円、六十五歳以上二百十円(祝日無料)、高校生以下無料など。(問)同館076(235)1112
https://www.chunichi.co.jp/article/684708
●2023年夏の企画展「Taisyo Romantic
Design-夢二のモダン×伝統デザイン-」 当館新収蔵作品《千代紙「きのこ」》を岡山で初公開
2023年6月6日(火)~(岡山)夢二郷土美術館本館にて開催 両備ホールディングス株式会社
夢二郷土美術館本館(所在地:岡山県岡山市中区浜2-1-32、館長:小嶋光信、運営:公益財団法人両備文化振興財団)では、2023年6月6日(火)より、「Taisyo Romantic Design-夢二のモダン×伝統デザイン-」と題した企画展を開催いたします。
本展では、夢二のスクラップブックから夢二デザインのイメージソースを辿るとともに、夢二式美人に応用された夢二デザインの形もご紹介します。また、夢二がアールヌーヴォーから影響を受けた作品の一つでこのたび当館新収蔵となった《千代紙「きのこ」》を初公開。令和の私たちが見ても胸高鳴る大正浪漫のデザインの数々をお楽しみください。
<夢二郷土美術館 https://yumeji-art-museum.com/>
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000174.000052428.html
●「乙女デザイン -大正イマジュリィの世界-」(秋田県立美術館、4月22日(土) ~7月2日(日))
イマジュリィ“imagerie”とは、イメージ図像を意味するフランス語で、装幀、挿絵、ポスター、絵はがき、広告、漫画など大衆的な複製としての印刷・版画の総称です。
マスメディアの発達や印刷技術の進歩により、多彩な大衆文化が花開いた大正~昭和初期。さまざまな書籍や印刷物のイマジュリィが人気作家によって描かれ、人々の心を魅了しました。この時代のイマジュリィは、現代のデザインやイラストレーションの原点であるとともに、レトロでノスタルジックな大正ロマンの雰囲気を感じさせるアートとして現在も幅広い世代に愛好されています。
本展では、アール・ヌーヴォー様式の橋口五葉、アール・デコに取り組んだ杉浦非水や小林かいち、少女趣味の高畠華宵、抒情的な乙女像で一世を風靡した竹久夢二、そして秋田出身の橘小夢など、大正イマジュリィを生み出した作家たちを紹介します。
今見てもおしゃれでかわいい、魅力的な大正イマジュリィの世界をお楽しみください。
https://www.akita-museum-of-art.jp/event/show_detail.php?serial_no=370
●「竹久夢二 描き文字のデザイン ―大正ロマンのハンドレタリング―」(竹久夢二美術館)(6月25日まで)
大正時代を中心に活躍した画家・竹久夢二(1884-1934)は、グラフィック・デザイナーとしても才能を発揮し、数多くの図案を残しました。
本展では、ポスター、書籍装幀、雑誌・楽譜表紙絵等の図案に展開された、夢二による描き文字のデザインを紹介します。ハンドレタリングで表現された個性的な文字に注目し、コンピューターでの制作とは異なる、描き文字ならではの魅力に迫ります。
さらに肉筆で残された書、原稿、プライベートに残した日記と手紙の展示を通じて、夢二による多彩な文字の表現をお楽しみください。 協力:雪朱里
https://www.yayoi-yumeji-museum.jp/yumeji/exhibition/now.html
●越懸澤麻衣著『大正時代の音楽文化とセノオ楽譜』が発売中!
https://honno.info/kkan/card.html?isbn=9784867800096
●夢二の雰囲気に包まれてオリジナル懐石を楽しめる!――神楽坂「夢二」
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