※創刊号(2021.8.8)~第37号(2022.4.10)はこちらをご覧ください。⇒ https://yumejitotaiwan.exblog.jp
※ビジュアル夢二ブログ「夢二と台湾」⇒ https://jasmineproject.amebaownd.com/

 

■メッセージ■

帰国後始めた<Amazing Taiwan>のシリーズをFacebookで始めてもう30回になりました。

今回の旅は、「夢二と台湾2023」の調査でしたが、台湾の魅力についても再考すべく、視点を一歩台湾没入型にしてみました。

これで役立ったのがYouTube。驚くほどの情報量が短時間に得られます。必要なところだけ観たらすぐ次へ。ジャンルも自由に選べます。これで屋台で買い食いしたり、気に入ったお店に飛び込んで見たり、フツーの観光客の楽しみも味わうことが出来ました。

また、台湾の環境を知るのに最重要なものが言語です。台湾では北京語の発音とほぼ同じ台湾華語が使われていて、使用する漢字が日本の旧字体のものも多いので取り組みやすいと思ったのですが、始めて見るとかなり大変。華語の発音に馴れてきたものの、恐ろしいことに気づきました。読んでいて一部の語を日本語の音で読んでいても自分では全く気づかないことです。これには困りました。誰かに注意してもらわないといつまでたってもある漢字は今でも日本語で発音してる!!(^^;)!

こんな具合でとりあえず読める(発音は別として)ことが重要と、“途中でやめないようにする”のを最大の目標にすることにシフトしました。

いずれにしても、何かに挑戦し続けるということは、生きてることを確認できる最良の方法だと思って頑張っています。

71日開催の「夢二研究会」で実施予定の「夢二と台湾2023」プロジェクトの進捗状況発表用パワーポイントの制作がほぼ出来上がりました。これから文言の整理をしつつ写真などの素材を加えていきますが、最大の問題はすでに画像枚数が200枚を越えていること。完成後にこんどは短縮化の作業が必要となりそうです。

でも、長尺版が出来ていると、自分の考えが100%反映されたものがあるということで内容の基盤がしっかりしてくるし、後々編集により様々な利用が出来るので、いまはとにかく完ぺきに近い長尺版に取り組んでいこうと思います。残すはあと12日。意外と“光陰矢の如し”。気をつけないと。

▼久々の石神井公園。大きくなったカイツブリやアオサギやコサギの赤ちゃんが元気に動き回っていました。
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■竹久夢二の素顔■

●廣田知子「みなと屋の夢二」(7)(『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)の「夢二を知る女性たち」より)

(注)本文は、文筆家の廣田知子が『猫町文庫』第四集 2013年(平成25)猫町文庫」に掲載したものです。

 「港屋絵草紙店」を支えた半襟等の刺繍を担当した吉田ソノ(1893年生まれ)の活躍を娘の廣田知子が綴ったもので、日本初のデザイナーズショップの裏側がよく分かる興味深い文章です。

・たまきと次男不二彦

 ソノはみなと屋の二階に一人で寝泊まりしていたが、三度の食事は夢二の家で支度してくれる約束になっていたから、夜になると市電にゆられて鎌倉河岸の家へ夕食を食べに行く毎日であった。遅く迄喋り込んでそのまま泊まってしまうこともしょっちゅうで、夜帰り際に翌日の朝食を持ち帰ることも多かった。店番の花ちゃんは近所から通ってくるので、閉店の時間には店に鍵をかけて帰ってしまう。みなと屋の前は道路一本隔てて二階建てのハイカラな喫茶店があって、当時の庶民には全くの高嶺の花のピアノが置かれ、夜遅くまで賑やかなメロディーが流れてくるので、ソノは一人で泊まっていても少しも心細くはなかった。昼食は夢二の家からばあやかたまきが、これも市電に乗って弁当を届けに来てくれた。たまきはみなと屋の責任者として毎日顔を出すのは当然のこととしても、夢二とたまきのカップルが既に戸籍の上では他人の間柄になっていたことなど、当時のソノには想像もつかないことであった。ソノはたまきを奥さんと呼び、たまきも何のこだわりもなくこれに答えていたし、鎌倉河岸の家には四歳になっていた不二彦という男の子も一緒に暮していた。たまきの話では不二彦は次男で、長男の虹之助は岡山の夢二の実家に預けてあるというのがなんとも不自然な印象をソノに与えていた。不二彦はほっぺたの垂れ下がるような顔の大きな男の子で、周囲のものはみんなチコさんと呼んでいた。子供は時々二階の自室に籠っている夢二に向かって、

「パーパさん」

と独特の節回しで呼びかけていたが、自分から決して二階へ上がって行こうとしなかったのは、夢二から仕事場への立ち入りをきつく戒められていたせいであった。ソノが不二彦の口まねで

「バーカさん」

と小声でからかうと、

「違う、吉田さん、パーパさんだよ」

とパーパさんの箇所に力を入れ、一生懸命訂正するのが可愛くて、ソノは度々この手を使って不二彦をからかい、たわむれ合った。この家にはもう一人赤ら顔の太ったばあやが住み込みで働いていて、飯炊きから掃除洗濯に加えて不二彦の世話迄一切の面倒を見ていたので、子供はいつも仕事をするばあやの後ばかりくっついて歩き、店へ出向くたまきの後を追うような事もなかった。当然のことながら、寝る時も子供はばあやと一緒であった。ソノは半年近く夢二の家に居る間に不二彦を何度か散歩に連れ出したが、一度はたしか大正三年の十二月で、七年の歳月を費やして建設中であった東京駅が完成したときであった。彼女は鎌倉河岸から不二彦の手を引いてその東洋一の威容を誇る赤煉瓦のステイションビルを見物に行ったが、彼女が買い与えた大きなアメ玉をしゃぶりながら、興奮で顔を真っ赤にし、街頭に並んだ屋台の店や、発着する蒸気機関車に奇声を上げたり跳びはねたり大変な喜びようであった。

 このときから六十五年を経て、昭和五十四年十月、夢二研究で著名な文京区の長田幹雄氏の自宅で、私の母ソノは不二彦氏と再会した。当然のことながら不二彦氏には丸顔で下ぶくれした四歳頃の面影はなく、ソノはつくづく眺めてから「眼がたまきさんそっくりだね」と懐かしがった。不二彦氏は兄の虹之助が早死にし、弟の草一も戦争で失って、このとき、妻と二人暮らし、子供も無いとのことであった。この人を最後に夢二の血も絶えるのかと思うと秀でた才能ほど劣性遺伝ではあるまいかと疑われる。私の目から見ても夢二の絵から抜け出たような美しい紳士は、つと中腰になり、背中を向けて、「おんぶしましょうか」と母にやさしい声をかけてくださるのだった。(つづく)

▼昨年末お亡くなりになった夢二の孫(虹之助の子)に当たる竹久みなみさん
(前「舞娘茶屋相馬樓 竹久夢二美術館(酒田市)」名誉館長)。
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■夢二の台湾旅行関係資料(1)

これまで、袖井林二郎氏著「夢二 異国への旅」、ひろたまさき氏著の論文「台湾の夢二 最後の旅」、そして、西恭子氏の論文「昭和8年の夢二の訪台 ―『台湾日々新報新資料による―」を掲載してきましたが、今回からは、夢二の台湾旅行関係の個別資料を掲載します。

今回は、夢二の台湾滞在日程を紹介します。夢二の台湾の旅では、滞在日数21日間のうち、行動不明の日数が10日間あります。これが、夢二が台湾に持ち込んだ54枚の絵や夢二が書いたと思われるメモやスケッチなどが全て未だに行方不明であることに続く、夢二訪台の最大の謎の一つとなっています。

東方文化協会台湾支部の設立を祝す展覧会及び講演会の特別企画を担った夢二ですが、台湾でそのような賓客の面倒を見た人物は不明ですし、新聞等で周知されている場所と台北で出逢った画家・藤島武二がカフェー「美人座」に連れて行ったこと以外、行動内容が全く分かっていません。
 おそらく朝の散歩でも行ける所に「児玉総督と後藤民政長官のための博物館」(現・台湾国立博物館)や新公園(現・ニニ八公園)があり、2年後に「台湾博覧会」を控えていて活気にあふれていた台北だったと思われるので、遠出はしなくとも、ホテル周辺などはいろいろ歩き廻ったに違いないと考えられます。(当時の台北のインフラは上下水道施設が東京を超えていたといわれるほど充実したものでした。)

また、同協会の発会式が行われた「蓬莱閣」は裕福な台湾人の多い歓楽地である大稲埕にあり、ここには夢二を最も刺激しそうなカフェーなどの風俗店があふれていたこともあり、夢二が別の日に行った可能性が全くないとは言えません。さらに、藤島武二は夢二と会った1026日の夜、夜行で台南方面の旅に出て各地を廻り、114日には台北に戻って歓迎会に出席しいたり、また、夢二を台湾に誘った同協会の理事・河瀬蘇北は仕事で展覧会後高雄に向かっています。これは当時の鉄道網がかなり発達していたことを示すもので、夢二もその気になれば台湾の別の地域へも行けたはずです。

そして、亡失したままの絵について考えて見ると、当時台湾では大々的に絵画展が開催されており、それを生業とする仲介業者(または画商)が存在していたはずです。それは東方文化協会が契約したのか、夢二が契約したのか分かりません。夢二の日記によれば、本土に戻ってから1週間後の1122日に台湾で詐欺にあったことをほのめかす記述があります。(夢二日記で台湾のことを書いてあるのはこれだけです。)そこにはあきらめのような言葉が書かれていますが、なぜ夢二が絵のありかを追求しようとしなかったのかが全く分かりません。以前にも騙されていて強い反応を示していないので、性格のせいとも言えなくもありませんが、それにしても、その後の河瀬蘇北との交流についても亡くなるまで全く何も書かれていません。

さらに、河瀬蘇北については、謎の人物とされていて、出版社が履歴を懸命に調べたが分からなかったといいます。人事興信録や著作権台帳にもなく、出生地と没年すら分からないそうです。(袖井林二郎氏『夢二 異国への旅』)彼は、満州、香港などでも広く活動していたので、この謎も解明する必要があるようです。

まだまだ謎はたくさんありますが、いろいろ想像しながら、夢二の台湾での旅程をご覧ください。

<「夢二の台湾の旅」年表>
■昭和8年(1933

10.23 横浜港から「大和丸」にて出港。夢二の同行者は河瀬蘇北のみだった。

10.26基隆港に到着。入港時に台湾日日新報から「ナチスに追われて帰国したのかどうか」取材を受け、否定する。

同じ鐡道ホテルに泊まっている藤島武二に呼ばれて面談する。その後、カフェー「美人座」で夢二ファンの女給を紹介されハンカチに歌を書く。

武二は夜行で台南方面へ行く。(114日に台北に戻り、歓迎会に出席。

10.27―10.31 行動不明(4日間)

11.1 「東方文化協會臺灣支部發會式」(大稲埕の「蓬莱閣」)

11.2 「東方文化協會臺灣支部發會式」記事が『臺灣日日新報』に掲載。

11.3  「竹久夢二滞欧作品展覧会」を「警察会館」で開催。(5日まで)

「東方文化協会台湾支部設立記念講演会」を台湾医専で開催し、「東西女雑感」を講演。

11.5 『臺灣日日新報』に編集長・尾崎秀真が書いた展覧会の批評が掲載。

11.6―11.10 この間に自動車の故障で「秩父丸」に乗り遅れる。(出港予定日不明、行動不明3日間)

11.11 同日付で書いたエッセイ「臺灣の印象」の原稿を『臺灣日日新報』に送付。

11.12―11.14行動不明(3日間)

11.14 エッセイ「臺灣の印象」が『臺灣日日新報』に掲載。

11.15  基隆港から「靖国丸」にて出港。

※行動不明日:10日間/ 21日間滞在日(10.26-11.15

▼夢二が講演をした台北帝国大学医学専門学校(現・台湾大学医学人文博物館)
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■夢二の世界■

PART 4 「夢二のデザイン」(「竹久夢二 《デザイン》モダンガールの宝箱」(竹久夢二美術館 石川桂子著、講談社)より)

11 木版へのこだわり(2)

  『山へよする』に挟まれた口絵の「KAWAZIN」には、妥協を許さぬ夢二の仕事ぶりを物語るエピソードが残されている。女性のうなじに注目すると、ほくろがある版、ない版がある。それは、初版を制作する際、彫師はほくろを絵に付いたごみと思い刷ってしまい、再版の際に誤りが正され、ほくろが戻されたためだという。

 夢二の木版画で大きな役割を果たした職人は多数存在したはずであるが、職人という性格上、名前が残される機会は少なかった。現在、夢二の仕事に関わったことが判明している彫師に、伊上凡骨(いがみぼんこつ)(木版画「春の宵」「夜の歌」、『山へよする』口絵他)、村瀬錦司(港屋版の木版画、夢二装幀・長田幹彦著『絵日傘一の巻』表紙・扉・口絵)、久保井市太郎(夢二装幀・長田幹彦著『衣日傘 二の巻』から『五の巻』、山口比呂志(川柳雑誌『大大阪』表紙)、前田謙太郎(『婦人グラフ』貼り込み口絵)、来田新太郎(柳屋版の木版画「宝船」)が、摺師に田口陽康(夢二著『露地のほそみち』口絵)、山崎安太郎(柳屋版の木版画「宝船」)が挙げられる。

 彫師の村瀬錦司は、少年時代の木版屋修行と、読売新聞社製版部の仕事を経て、夢二の木版画に携わるようになった。夢二から“錦公”と呼ばれ、大正3年(1914)末から公私にわたり密に交流し、大正5年の暮れには夢二の次男、不二彦を、先に引っ越しを終えて京都に住んでいた夢二のところに、東京から連れていったりもしている。村瀬はその後、大正7年に内閣所管の印刷局に入局、さらに星製薬印刷部図案部を経て、昭和7年(1932)から毎日新聞東京本社の公務局技術顧問嘱託として勤務し、それまでの経験を生かして活版活字の原型になる手彫りの活字“種字”の彫刻者として活躍した。この足跡をみると、夢二との関りが、村瀬に与えた影響というものが少なからず感じられる。(つづく)

▼「竹久夢二 《デザイン》モダンガールの宝箱」(竹久夢二美術館 石川桂子著)より
「木版」 (2)

 

■夢二情報■

●企画展「夢二が見つめた1920年代」竹久夢二美術館で、関東大震災からモダンガールまで夢二作品を紹介(FASHION PRESSより)

企画展「夢二が見つめた1920年代 ─震災からモダンガールの表現まで─」が、東京の竹久夢二美術館にて、202371()から924()まで開催される。

大正時代から昭和時代へと変わる1920年代は、日本の近代化に伴う様相が広く人びとに浸透していった時代であった。この時期、竹久夢二は、夢二式美人と呼ばれるセンチメンタルな女性像で人気を集める一方、急速に変化する社会を反映した作品も手がけている。

企画展「夢二が見つめた1920年代 ─震災からモダンガールの表現まで─」は、20年代における夢二の創作を紹介する展覧会。関東大震災にまつわるスケッチとエッセイ、当時流行したモダンガールを描いた作品などを展示する。

1923年に発生した関東大震災は、江戸時代の面影を残す東京に甚大な被害をもたらす一方、大規模な復興事業により新たな建築などの整備が進められ、東京は近代的な都市へと変貌してゆくこととなった。本展では、夢二が被災地・東京を描いた「東京災難画信」などを展示し、震災により変わり果てた風景や生活の様子、復興へ向けての動きに光をあてる。

大正時代は、女性の社会進出や関東大震災の発生などを背景に、女性の洋装の需要が高まった時期であった。この頃から昭和初期にかけて、洋装を着用する若い女性は、モダンガールと呼ばれている。会場では、モダンな装いを捉えた夢二の作品に着目し、モダンガールをアール・デコ風に表現した《涼しき装い》や、洋装と和装の取り合わせを描いた《湖畔の秋》などを紹介する。

https://www.fashion-press.net/news/103627

●「竹久夢二 - 大正ロマンに魅せられて - 」(公益財団法人平野美術館)

竹久夢二は明治17年、岡山県邑久郡本庄村の代々酒造業を営む家に次男として生まれます。そして単身上京し、特定の師に就くこともなく独学でいわゆる「夢二式美人」をはじめとする画風を築き上げました。大正モダンの中で確立した作風は、現在でも色褪せることなく多くの人々に愛されています。夢二は複数の女性と関係をもっていたことから、恋多き男性としての側面がよく取り上げられています。しかし夢二は子供向けの童画も多く手掛けており、いつまでも童心を忘れない純粋な精神の持ち主でもありました。

今回の展覧会では肉筆作品をはじめセノオ楽譜・書簡・著作本・絵葉書・雑誌の挿絵・ポスターまで、夢二が手掛けた幅広い画業に光を当てました。ぜひこの機会に真の夢二像に触れていただければ幸いです。

前期: 611日~717

後期: 719日~813
http://www.hirano-museum.jp/takehisayumeji-taisyouromannnimiserarete.html

●竹久夢二の回顧展が京都・福田美術館で - 夢二式美人をはじめ“大正ロマン”の作品約230点を紹介(「FASHION PRESS」より

企画展「生誕140年 竹久夢二のすべて 画家は詩人でデザイナー」が、京都の福田美術館にて、2023714()から109(月・祝)まで開催される。その後、群馬の高崎市美術館ほか、全国を巡回予定だ。

https://www.fashion-press.net/news/104088

●「新聞小説 夢二の「二筆流」 話と挿絵 企画展 湯涌の美術館」(中日新聞)

明治末期−昭和初期に活躍し女性画や挿絵のイメージが強い金沢ゆかりの詩人画家、竹久夢二(一八八四〜一九三四年)の新聞小説四作品を挿絵とともに紹介する企画展が、金沢市湯涌町の金沢湯涌夢二館で開かれている。一作目の「岬」発表から百年の節目に開催。小説を理解すると、女性画などに込められた真意や夢二の生き様をより味わえるようになる。(室木泰彦)

 四作品は、明治中期から昭和の戦前まで東京で発刊した「都新聞」(東京新聞=中日新聞東京本社=の前身)で一九二三年八月〜二七年九月に掲載された。夢二初の三部作、「岬」全七十五回(関東大震災ルポルタージュ「東京災難画信」連載で途中一カ月ほど休載)▽「秘薬紫雪」全四十九回▽「風のやうに」全五十七回−と、体験を基にした自伝的小説「出帆」全百三十四回。

 三部作は恋愛小説。「岬」の告知で夢二は、貞操について女性三人(モデル、温泉地の娘、舞台女優)を書いたとし、「誰も彼も、岬の方へ急ぐ不幸な人達です」と紹介。最終話で一人目で予定枚数を超え三部作にすると記した。主人公女性の破滅的な男性遍歴などを通して男女関係の機微を描き、挿絵などで見られる人物の寂しい姿に重なる部分が多いという。「出帆」は、予告で「いまいましい実録」を「さっさと洗いざらひ書いちまって」と記した通り、生涯三人の女性と親密な関係を持った体験をほぼ再現している。

 国立国会図書館や同館所蔵の都新聞を複写した各第一話を展示。挿絵にあらすじを添え物語の流れが把握できる。「風のやうに」を載せた都新聞の切り抜きも貼ったスクラップブック(同館所蔵)を公開。都新聞の実物もあり、当時の雰囲気を感じることができる。

 担当学芸員の川瀬千尋さんは、挿絵を整理中に、同館所蔵の下絵を完成させたとみられる挿絵が「岬」四十九話で使われたことを発見。川沿いの柳が温泉街の風情を伝える絵で、並べてあるため下絵と挿絵の類似性が分かる。川瀬さんは「特に出帆では女性関係のスキャンダルへの自己弁護と解釈できる部分もある一方、体験が現実に近い形で再現され、小説を読むと絵などをより深く理解できるようになる」と話す。

 企画展は618日まで。火曜休館(祝日の場合は翌平日)。一般・大学生三百十円、六十五歳以上二百十円(祝日無料)、高校生以下無料など。(問)同館076(235)1112

https://www.chunichi.co.jp/article/684708

2023年夏の企画展「Taisyo Romantic Design-夢二のモダン×伝統デザイン-」 当館新収蔵作品《千代紙「きのこ」》を岡山で初公開

202366日(火)~(岡山)夢二郷土美術館本館にて開催 両備ホールディングス株式会社

夢二郷土美術館本館(所在地:岡山県岡山市中区浜2-1-32、館長:小嶋光信、運営:公益財団法人両備文化振興財団)では、202366日(火)より、「Taisyo Romantic Design-夢二のモダン×伝統デザイン-」と題した企画展を開催いたします。

本展では、夢二のスクラップブックから夢二デザインのイメージソースを辿るとともに、夢二式美人に応用された夢二デザインの形もご紹介します。また、夢二がアールヌーヴォーから影響を受けた作品の一つでこのたび当館新収蔵となった《千代紙「きのこ」》を初公開。令和の私たちが見ても胸高鳴る大正浪漫のデザインの数々をお楽しみください。

<夢二郷土美術館 https://yumeji-art-museum.com/

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000174.000052428.html

●大正ロマンを代表する画家・竹久夢二の生誕140年・没後90年を記念した回顧展『竹久夢二のすべて ~画家は詩人でデザイナー』が、7月14日より「福田美術館」(京都市右京区)にて開催。(「L MAGA」より)

雑誌や新聞にコマ絵を寄稿するところからキャリアをスタートさせた夢二。やがて、センチメンタルな表情を浮かべ、退廃的な雰囲気に満ちた女性を描く独特のスタイルは、「夢二式美人画」として一世を風靡した。

また、画家としての活動に加え、雑誌の表紙や日用品のデザインなども手がけ、さらには詩集も発表するなど、マルチな分野で活躍。日本のグラフィックデザインやアートディレクションの草分けともいえる存在であった。

同展覧会では、そんな夢二の作品の魅力を、6章の展示にわたって紹介。前半では、彼の代表作ともいえる美人画の数々を展示。恋多き夢二が恋人に送った手紙や絵画で、彼のドラマチックな人生を辿る。

後半では、彼の作品を通じて夢二の文芸界・音楽界との深い繋がりや、夢二がデザインした日用雑貨を紹介。時代を経ても色あせない雑貨の数々が並ぶという。最終章「夢二のまなざし」では豊かな創作欲の源となったスケッチの数々が公開される。

期間は7月14日~10月9日。時間は朝10時~夕方5時。入館料は1500円ほか

https://news.yahoo.co.jp/articles/1603670fd157c3f82c81fc3ab7a232df6e8bf1d0

●「乙女デザイン -大正イマジュリィの世界-」(秋田県立美術館、422() 72()

イマジュリィ“imagerie”とは、イメージ図像を意味するフランス語で、装幀、挿絵、ポスター、絵はがき、広告、漫画など大衆的な複製としての印刷・版画の総称です。

マスメディアの発達や印刷技術の進歩により、多彩な大衆文化が花開いた大正~昭和初期。さまざまな書籍や印刷物のイマジュリィが人気作家によって描かれ、人々の心を魅了しました。この時代のイマジュリィは、現代のデザインやイラストレーションの原点であるとともに、レトロでノスタルジックな大正ロマンの雰囲気を感じさせるアートとして現在も幅広い世代に愛好されています。

本展では、アール・ヌーヴォー様式の橋口五葉、アール・デコに取り組んだ杉浦非水や小林かいち、少女趣味の高畠華宵、抒情的な乙女像で一世を風靡した竹久夢二、そして秋田出身の橘小夢など、大正イマジュリィを生み出した作家たちを紹介します。

今見てもおしゃれでかわいい、魅力的な大正イマジュリィの世界をお楽しみください。

https://www.akita-museum-of-art.jp/event/show_detail.php?serial_no=370

●「竹久夢二 描き文字のデザイン ―大正ロマンのハンドレタリング―」(竹久夢二美術館)(625日まで)

大正時代を中心に活躍した画家・竹久夢二(1884-1934)は、グラフィック・デザイナーとしても才能を発揮し、数多くの図案を残しました。

本展では、ポスター、書籍装幀、雑誌・楽譜表紙絵等の図案に展開された、夢二による描き文字のデザインを紹介します。ハンドレタリングで表現された個性的な文字に注目し、コンピューターでの制作とは異なる、描き文字ならではの魅力に迫ります。

さらに肉筆で残された書、原稿、プライベートに残した日記と手紙の展示を通じて、夢二による多彩な文字の表現をお楽しみください。 協力:雪朱里

https://www.yayoi-yumeji-museum.jp/yumeji/exhibition/now.html

●越懸澤麻衣著『大正時代の音楽文化とセノオ楽譜』が発売中!

https://honno.info/kkan/card.html?isbn=9784867800096

●夢二の雰囲気に包まれてオリジナル懐石を楽しめる!――神楽坂「夢二」

https://www.kagurazaka-yumeji.com/