※創刊号(2021.8.8)~第37号(2022.4.10)はこちらをご覧ください。⇒ https://yumejitotaiwan.exblog.jp
※ビジュアル夢二ブログ「夢二と台湾」⇒ https://jasmineproject.amebaownd.com/
■メッセージ■
2021年8月にスタートした週報「夢二と台湾」、目標の100号に2号加えて、ついに最終号を迎えます。コロナ禍にあえいだ2年間余の間、ありがとうございました。
おかげさまで、本プロジェクトは、10月14日の内輪の国内講演会を経て、11月2日に台湾大学、11月3日に北投文物館で講演会を実施する運びとなりました。
プロジェクト「夢二と台湾2023」はこれで完了することになりますが、台湾での夢二の追跡はこれで終わるわけではありません。かえって勢いを増しました。
謎に満ちた夢二の台湾訪問。資料がなかなか見つからないので前途多難ではありますが、この活動を行っている間に、夢二が台湾で何を考えたか、どんなことをしたかを想像するのはとても夢があって楽しいことに気づきました。そして、なお素晴らしいのは、それを想像するには夢二の生涯を理解することが必要だということです。
特に、夢二が台湾を訪れたのが、彦乃が1920年に亡くなってから13年目で、その間に、「夢二式美人」を立体化したお葉との暮らしや群馬県の榛名山への思い入れから出た「榛名山美術研究所」の設立宣言、そして米欧旅行という異質の状態が続きました。特に米欧旅行では彦乃とも約束した外遊の実現とあって、“山”の愛称で手紙を書いた彦乃のことや榛名山のことが片時も頭から離れなかった様子が日記にも表れています。
その波乱に満ちた晩年の人生の、まさに最後の大きな活動が台湾訪問だったわけです。展覧会開催後、自動車の故障で本土へ帰る船を逃し、次の船を待つ間に書いた新聞エッセイ「台湾の印象」は、短いながら夢二がいかに台湾で短い間にその現実を捉えてたかがよく分かります。まさに、1923年(大正12)の関東大震災の後焼け野原を毎日歩き廻って画文を連載した時の鋭い感性を思い出させる記述でした。
こういうことに気づいた、というのがこのプロジェクトの活動の最大の収穫のような気がします。講演では、現在分かっていることの集約と謎の部分の紹介を行う予定ですが、いま、この講演会はまさに第一歩目という感じがしています。
実は、夢二忌に当たる9月1日から、新たなフェーズを迎えるということで、現在、夢二ブログ「夢二の小窓」の準備を行っています。マルチ・アーティストである夢二はたくさんの小窓を持っています。それをひとつひとつ開いて覗いていこう、という趣向です。「週報」で2年間蓄積してきたことがその足場になっています。“夢二を探る、夢二を楽しむ”をスローガンとして、夢二の台湾訪問の行動をさらに明らかにするため、夢二の生涯とその業績すべてを対象として進めていこうと思っています。先は長いし、命は短い。動けるうちはやれるだけやって、そのまま倒れるなら本望。
これをベースとして、夢二生誕140年・没後90年に当たる2024年から、ブログとリンクする形で同名のYouTube番組をスタートさせられないかという計画も模索しています。挑戦は尽きません。
「夢二と台湾2023」は、最終的に私の夢二関係活動の大きな起爆剤となりました。今後ともよろしくお願いいたします。
■竹久夢二の素顔■
●廣田知子「みなと屋の夢二」(12)(『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)の「夢二を知る女性たち」より)
(注)本文は、文筆家の廣田知子が『猫町文庫』第四集 2013年(平成25)猫町文庫」に掲載したものです。
・東郷青年
一方、毎日みなと屋に出向くたまきの方にも東郷という名の当時青山学院在学中の19歳の学生がちょくちょく顔を覗かせるようになった。みなと屋の店は評判が高まるにつれて美校の生徒はもとより、一般の人達迄が、
「ここがみなと屋だよ」
と喋り合いながら覗いて行ったり、お下げ髪にリボンの女学生達も連れ立ってやってきては華やいだ雰囲気を撒き散らしていったが、時には不粋な警官がぬっと顔を出しては、
「春画のようなものは置いてないかね」
と小声でソノや花ちゃんに問いただすこともあった。
東郷青年が絣の着物に袴といった当時の書生スタイルで、
「奥さんいる?」
とやってくると、たまきは急に生き生きとしはしゃいで店の前のピアノのある喫茶店へお茶を飲みに入っていくことが多かった。それが平日の昼日中であったりすると、さすがにソノは怪しんで、
「あんた今日学校どうしたの」
と詰問口調になった。東郷青年は一寸もじもじして
「今日学校休んだんだ」
と至極当たり前の返事を返してよこした。ソノにすればまだまだ少年のような若者と、三十四歳にもなるたまきとの組み合わせなど、想像するだに薄気味悪い男女の仲としか言いようがなかった。
大正四年もまだ春浅く、ようやく節分も過ぎた頃、弁当を届けに来たばあやが、
「大変なのよっ」
と口角泡を飛ばす勢いで極度に興奮しながら喋り出した。
「奥さんが東郷さんと温泉へ行く約束してたんだって。それが旦那さんにばれて二人は大喧嘩よ。すると旦那さんが一体どうしたと思う?」
ソノは女のやさしさ、はかなさ、美しさを書き続ける夢二の怒りの形相など想像もつかない。いつか玄関で借金取りを邪険に扱った時の不快そうな表情をかろうじて思い浮かべながら、
「どうしたっていうの?」
とせき込んで聞くと、ばあやは一層興奮して、
「奥さんが新調したばかりの比翼のお召の神山を、旦那さんが下の長襦袢まで重ねてざっくり裁ち物鋏で切っちゃったのよ。これじゃどうにもならないから、奥さんはもう温泉へ行けなくなったのよ」
と右手の指を鋏に見立てて左の肩まで袖山を裁ち切る様子を真似て見せた。それは初心なソノにとって鳥肌の立つような、すさまじい男女の愛欲の世界であった。
ソノはこの日のことをこれ以上はどうしても思い出せない。たまきがソノと目線を合わせたとき、どんな表情を見せたのか下司の勘ぐりで一生懸命思い出してみるのだが、記憶は一切途切れたままである。長田幹雄編『夢二書簡』(一)の191頁によると、2月8日付、夢二からたまき宛の手紙の最後に「キズ口はうみをもちはせぬかと案じている。人の噂などにはかへられぬ。医者に見てもらふが好いよ」と記されており、宛先は富山の小川温泉となっている。恐らく逆上した夢二の鋏がたまきの肌を傷つけて、彼女は一人で郷里の温泉へ湯治に行ったのではあるまいか。
夢二はその後、彦乃、お葉、山田順子、その他何人かの女性たちと浮名を流しているが、どの女性も不妊のままでたまき一人がこの事件の後にも三男草一を生み、三人の男子の母親となっている。奇妙な事実に気がついた。
夢二の年譜を眺めていると、明治40年に二歳年上のたまきと結婚して、翌41年2月に長男虹之助が生まれ、明治42年5月にたまきと協議離婚してその年8月には離婚記念に富士登山している。この時もマスコミが人気者の変わった言動を面白おかしく報道しているが、たまきは高山病で須走(すばしり)までしか登れず、そのたまきの登山姿を情緒豊かに生き生きと描いたスケッチが残っている。翌43年5月には次男不二彦が生まれている。また三男草一が生まれた大正5年の前年に、例の東郷事件が起こり、夢二も笠井彦乃と結ばれているのである。つまり夢二は大いなる異常事件や、心身の極度の興奮状態を経なければ子供が生まれない体質であったということであろうか。
この時の東郷青年は知る人ぞ知る後の二科の重鎮・東郷青児画伯である。東郷青児も後に宇野千代らと同棲生活を送ったりしているが、一人娘のたまみさんはたまきと一字違いであり、晩年の青児が飽くことなく描いたマネキン人形のような女性像は、目の大きな鳩胸の容姿が初恋の人たまきのエッセンスを伝えて余すところがないとソノはよく語っていた。
その後ソノもこの情痴事件を契機にしてみなと屋を辞めてシンガーミシンの実業部に復帰した。夢二の家庭生活の乱脈振りに驚いた友人畑テルの忠告と、絵画を習うあてもなく、一銭の収入もない生活はやはり無意味なものに思われたからである。ソノの申し出に夢二は一言、
「残念だけど仕方ないでしょう」
と淋しそうに答えて許してくれた。
この翌年の10月にはみなと屋はたった二年の短命で店を閉じた。彦乃との愛に溺れてたまきとの生活基盤がゆるんでくるにつれて、みなと屋の品物の補充を怠った為である。
しかしみなと屋開店早々の活気溢れる時期に、夢二という時代の奇才と半襟の共同制作をしたというソノの体験は、彼女の青春時代を彩る華やかな思い出として、いつ迄も心に住み続け、子供達への語り草となったに違いない。(完)
※比翼のお召の袖山:「比翼」は長襦袢と着物の間にもう一枚着物を着ている下着のようなもの。袖山(そでやま)は、前袖と後ろ袖の境となる輪の部分を言います。和服の袖山は、洋服と違って縫い合わせて使うということはしない。
※二科会:美術団体。1914年(大正3)新帰朝の洋画家が中心となって、文展洋画部に審査における新旧二科制の設置を要望したが、文部省はこの願いを受け入れなかった。そこで、これを不満とした新傾向作家の石井柏亭(はくてい)、有島生馬、梅原龍三郎らが文展を離れて結成したもので、同年10月第1回展を開催。以後積極的に海外の動向を紹介する一方、新進作家の発掘育成に努め、また19年には彫刻部を新設、文展と対抗する有力な在野団体へと成長していった。だが、創立当初より会員の移動も頻繁で、30年(昭和5)に独立美術協会が、36年に一水会が、分派独立している。そして44年、戦争のため一時解散、戦後の45年(昭和20)東郷青児(せいじ)らを中心に再組織され、46年9月第31回展を開催した。この前後にも行動美術協会、二紀会の結成による分裂があり、55年には一陽会の派生をみた。なお、戦後は団体としての組織拡大が計られ、45年に工芸部、理論部を、51年に漫画部、商業美術部を、さらに53年には写真部を設け、79年には社団法人組織となった。毎年9月に公募展を開催するほか、海外美術の紹介と同時に海外巡回展を行うなど、国際化への積極的対応を示している。だが一方、1914年の創立から長い年月が経過し、しだいに当初の革新的性格が薄れてきたとの声も聞かれる。(「百科事典マイペディアより)
▼東郷青児
■夢二の世界■
PART 4 「夢二のデザイン」(「竹久夢二 《デザイン》モダンガールの宝箱」(竹久夢二美術館 石川桂子著、講談社)より
前号にて「16 暮らしのデザイン」をスタートさせましたが、この後、「17 絵はがきのデザイン」、「18 楽譜のデザイン」、「19 商業デザインの世界へ」と同書には素晴らしい解説が続いていますが、本ブログ最終回ということで、止む無くこれらを割愛させていただくことといたしました。これまでの記事でご覧のとおり、丁寧で的を得た夢二のデザインに関する説明がありますので、関心のある方は、ぜひ同書をご購入の上、お読みいただければ幸いです。
なお、同書の「あとがき」として、著者石川桂子氏の夢二への思いや長きにわたるご経緯に関する文章が記されていますので、これをご紹介してこの項を終わらせていただきます。これから10年余が経っていますが、今なお、同氏の言葉は新鮮に感じられます。そして、その後の同氏のご活躍ぶりについても機会をみて後継ブログ等でご紹介できたらと思っています。
・あとがき(記載内容は2012年時点ですのでご了承ください。)
今から約100年前に夢二が手がけた数々のデザイン、皆さまの眼にはどのように映ったでしょうか?
本書の編集を通じて、モダンな感覚に包まれながら、どこか懐かしさを感じさせるという二面性を持った夢二独特の和洋折衷のデザインに、私自身も改めて魅力を感じました。さらに、時代のニーズに応えながら、自身の個性も存分に発揮し、美の本質を追求した絶妙のバランス感覚、“可愛い”という視点から、いち早くデザインを手がけた先見の明に感服しました。
個人的なことになりますが、今春、竹久夢二美術館の学芸員になって丸20年が経ちました。これまでさまざまな角度から夢二の企画展を行いましたが、デザインをテーマに展示紹介したときには、夢二の意外な一面、美人画とは違う魅力を再発見したという声が多く寄せられていました。生活を豊かに彩るためのデザイン、現代においてそれは、日々の暮らしを潤すための欠かせない要素です。大正ロマンの時代に花開いた夢二デザインは、平成の今も古びることなく、普遍的な美の世界を形成しています。夢二が主に活躍した大正時代……その元年に当たる1912年から数えてちょうど100年という節目の年に当たる今年、夢二のデザインを一冊の本にまとめ、広く知ってもらえる機会をいただき、とても嬉しく思います。
振り返ると私が学芸員になったばかりの頃、夢二の次男・不二彦さんにお会いすることが出来ました。夢二の友人で元祖モダンガールだった望月百合子さん、夢二研究の第一人者だった長田幹雄先生からも多くのご教示を頂きましたが、今では夢二を知り、関わりの深かったほとんどの方が他界されて月日も経ち、時の流れを身にしみて感じます。このような夢二関係者の方々との出会いに改めて感謝し、学芸員の仕事に携わる契機をつくってくださった、竹久夢二美術館創設者である故・鹿野琢見元理事長の御霊前に、拙書の出版を報告したいと思います。そしてこれからも夢二の美とメッセージを広く伝えていけるよう、心を尽くしていきたいです。
(後略)
2012年の早春に 石川桂子
▼「竹久夢二 《デザイン》モダンガールの宝箱」(竹久夢二美術館 石川桂子著、講談社)
■夢二情報■
●「関東大震災100年 竹久夢二が見た震災直後の東京 中日新聞東京本社で企画展」(東京新聞本社、9月16日まで開催)
大正時代に美人画で人気を博した画家・詩人の竹久夢二(1884~1934年)が見た関東大震災直後の東京と、当時の都新聞(東京新聞の前身)を展示する企画展が、東京新聞(中日新聞東京本社、千代田区内幸町)の本社1階ロビーで開かれている。(大島晃平)
竹久夢二(竹久夢二美術館提供)
竹久夢二(竹久夢二美術館提供)
竹久夢二は、色白で細身の「夢二式美人」と言われる美人画のスタイルを確立し、「大正ロマン」を代表する芸術家。画壇に属さず、作詞や小説執筆などでも幅広く活動した。
大正時代に発行された都新聞で、自身初の新聞小説となる「岬」の連載を始めたが、直後に関東大震災が発生。小説の連載を中断し、震災直後の東京を伝える挿絵付きルポ「東京災難画信」を都新聞に21回掲載した。震災後の混乱を描きながら、現代にも通ずる差別や貧困の問題を伝える内容だ。
企画展「夢二の震災ルポと都新聞~関東大震災100年の記憶~」は、来年9月に創刊140周年を迎える東京新聞による特別展示。東京災難画信のほか、震災発生直後の都新聞の実物や、復興に向かう東京の写真などを展示する。9月16日までの午前10時~午後5時(日曜休み)。観覧無料。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/271872
●「竹久夢二新聞ちぎり絵コンクール」の作品を募集中。(東京新聞、9月15日締切。)
ちぎり絵に必要な下絵は本社1階ロビーなどで配布中。優秀作品の応募者には竹久夢二作品の刺しゅう入りオリジナルグッズを贈る。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/271872●企画展「明治・大正・昭和 レコードの時代と夢二の時代展 ~大衆を魅了した日本近代の音とデザイン~」(竹久夢二美術館、2023年9月30日(土)~12月24日(日))(FASHIONPRESSより)
https://www.tokyo-np.co.jp/chigirie
●「明治・大正・昭和 レコードの時代と夢二の時代展 ~大衆を魅了した日本近代の音とデザイン~」(竹久夢二美術館、2023年9月30日(土)~12月24日(日))
詩人画家・竹久夢二(1884-1934)が活躍した明治・大正・昭和は、レコードが大衆に受け入れられ隆盛した時代と重なります。はやり唄や落語、政治家の演説など様々な音源が記録され、音楽と音声を聴くためのレコードが日本で製造・発売して約110年の時間が流れました。
本展では、明治・大正・昭和戦前期に蓄音器で聴いていた、選りすぐりのSPレコードと共に、夢二が手掛けた楽譜表紙絵のデザインや時代風俗を描いた作品を展示紹介します。
「ぐらもくらぶ」代表・保利透コレクションを中心とした貴重なレコード及び資料と、大正ロマンを象徴する竹久夢二から見た、音楽を中心とした日本の近代芸術における足跡をお楽しみください。
協力・ぐらもくらぶ レコード資料監修・保利透
●「大正の夢 秘密の銘仙ものがたり」展、東京・弥生美術館で - “銘仙”着物をコーディネートで紹介(弥生美術館、2023年9月30日(土)~12月24日(日))(FASHIONPRESSより)
https://www.fashion-press.net/news/107661
●夢二が描いた関東大震災 渋川の記念館で特別展」(竹久夢二伊香保記念館、10月15日()まで)(『朝日新聞デジタル』より)
https://www.asahi.com/articles/ASR8K7X5JR8BUHNB00C.html
●関東大震災から100年の節目に、特別展示「夢二と関東大震災」を開催 被災者でもある夢二が遺した震災の記録を初公開も含め展示(夢二郷土美術館、8月29日(火)~12月3日(日))(PRTIMESより)
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000214.000052428.html
●「夢二の新聞連載ルポ 「東京災難画信」―100年前の自画自作小説と画信―」(金沢湯涌夢二館、6月24日(土)~9月10日(日)※毎週火曜休、8月15日(火)臨時開館、8月16日(水)臨時休館)
竹久夢二(1884-1934)は、明治末期から昭和初期に活躍した詩人画家です。今年は大正12年9月1日に発生した関東大震災から100年目となります。夢二は、震災発生後まもなく、絵入りルポルタージュの 「東京災難画信」を『都新聞』に連載しました。会場には、その手稿や震災直後の東京を描いたスケッチブックを展示します。また、十代の頃に家出をして単身で上京するほどに夢二は東京に憧れを持ち、その後の生活拠点としました。
本展覧会では、東京や都市文化を描いた作品のほか、夢二の遺品から絵葉書など戦前の東京の様子を伝える資料も紹介します。
さらに、夢二が「東京災難画信」と 同時代に執筆し挿絵も描いた新聞小説を中心に、新聞や雑誌上で発表した文学と絵画の作品のほか、新聞挿絵が貼り込まれたスクラップブックや当館初公開作品を含む原画と下絵も展示します。
https://www.kanazawa-museum.jp/yumeji/exhibit/index.html
●竹久夢二のすべて 画家は詩人でデザイナー」(京都 福田美術館、2023年7月14日(金)~ 10月9日(月・祝))
本展は2024年に生誕140年、没後90年を迎える画家、竹久夢二の回顧展となります。
「夢二式美人」と呼ばれ、一世を風靡した美人画の数々に加え、雑誌の挿絵、楽譜の表紙デザイン、本の装丁や俳句・作詞にいたるまで、多彩な才能を発揮したクリエーターとしての夢二の魅力が詰まった作品の数々をご覧いただきます。
200点以上の作品がまとまって公開されるのは関西では約30年ぶり。夢二ファンはもちろん、老若男女を問わずお楽しみいただける展覧会です。
https://fukuda-art-museum.jp/exhibition/202304302843
●企画展「夢二が見つめた1920年代」(竹久夢二美術館、2023年7月1日(土)から9月24日(日))
関東大震災からモダンガールまで夢二作品を紹介(FASHION PRESSより)
大正時代から昭和時代へと変わる1920年代は、日本の近代化に伴う様相が広く人びとに浸透していった時代であった。この時期、竹久夢二は、夢二式美人と呼ばれるセンチメンタルな女性像で人気を集める一方、急速に変化する社会を反映した作品も手がけている。
企画展「夢二が見つめた1920年代 ─震災からモダンガールの表現まで─」は、20年代における夢二の創作を紹介する展覧会。関東大震災にまつわるスケッチとエッセイ、当時流行したモダンガールを描いた作品などを展示する。
1923年に発生した関東大震災は、江戸時代の面影を残す東京に甚大な被害をもたらす一方、大規模な復興事業により新たな建築などの整備が進められ、東京は近代的な都市へと変貌してゆくこととなった。本展では、夢二が被災地・東京を描いた「東京災難画信」などを展示し、震災により変わり果てた風景や生活の様子、復興へ向けての動きに光をあてる。
大正時代は、女性の社会進出や関東大震災の発生などを背景に、女性の洋装の需要が高まった時期であった。この頃から昭和初期にかけて、洋装を着用する若い女性は、モダンガールと呼ばれている。会場では、モダンな装いを捉えた夢二の作品に着目し、モダンガールをアール・デコ風に表現した《涼しき装い》や、洋装と和装の取り合わせを描いた《湖畔の秋》などを紹介する。
https://www.fashion-press.net/news/103627
●館蔵品企画展「竹久夢二展~夢二式美人を中心に」を朝日町ふるさと美術館で開催。(「富山新聞」)
朝日町ふるさと美術館の竣工(しゅんこう)式は6日行われ、約50人が隣接する不動堂遺跡を含めた文化歴史ゾーンの核施設として滞在・体験型観光の拠点となるよう期待を込めた。旧美術館から移転、展示スペースを1・5倍以上にしてリニューアルオープンする。7日から一般開放される。
3億8212万円を投じ、同町横水の交流体験施設「なないろKAN」を大規模改修した。有利な財源を活用し、町の負担は総額の4分の1となる。周辺には歴史公園や埋蔵文化財保存活用施設「まいぶんKAN」もあり、町は「歴史と文化の薫り漂うふるさとゾーン」に位置付けている。
7日からは開館記念の特別展「光と影のモビール 現象する歌」、館蔵品企画展「竹久夢二展~夢二式美人を中心に」(いずれも富山新聞社後援)が開かれる。
特別展は現代アート作家小松宏誠さん(42)による光や音、動きを生かして空間を彩るモビール、羽根の立体作品などで、6日の内覧会では小松さん自身が幻想的な展示を解説した。朝日町の海をイメージし、和紙やフィルムで光のきらめきを表現した作品が注目を集めた。特別展は9月10日まで、竹久夢二展は一部作品を入れ替え10月22日まで。
https://www.hokkoku.co.jp/articles/-/1118614
●越懸澤麻衣著『大正時代の音楽文化とセノオ楽譜』が発売中!
https://honno.info/kkan/card.html?isbn=9784867800096
●ひろたまさき著『異国の夢二』が発売中!
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784065323465
●夢二の雰囲気に包まれてオリジナル懐石を楽しめる!――神楽坂「夢二」
https://www.kagurazaka-yumeji.com/
※ビジュアル夢二ブログ「夢二と台湾」⇒ https://jasmineproject.amebaownd.com/
■メッセージ■
2021年8月にスタートした週報「夢二と台湾」、目標の100号に2号加えて、ついに最終号を迎えます。コロナ禍にあえいだ2年間余の間、ありがとうございました。
おかげさまで、本プロジェクトは、10月14日の内輪の国内講演会を経て、11月2日に台湾大学、11月3日に北投文物館で講演会を実施する運びとなりました。
プロジェクト「夢二と台湾2023」はこれで完了することになりますが、台湾での夢二の追跡はこれで終わるわけではありません。かえって勢いを増しました。
謎に満ちた夢二の台湾訪問。資料がなかなか見つからないので前途多難ではありますが、この活動を行っている間に、夢二が台湾で何を考えたか、どんなことをしたかを想像するのはとても夢があって楽しいことに気づきました。そして、なお素晴らしいのは、それを想像するには夢二の生涯を理解することが必要だということです。
特に、夢二が台湾を訪れたのが、彦乃が1920年に亡くなってから13年目で、その間に、「夢二式美人」を立体化したお葉との暮らしや群馬県の榛名山への思い入れから出た「榛名山美術研究所」の設立宣言、そして米欧旅行という異質の状態が続きました。特に米欧旅行では彦乃とも約束した外遊の実現とあって、“山”の愛称で手紙を書いた彦乃のことや榛名山のことが片時も頭から離れなかった様子が日記にも表れています。
その波乱に満ちた晩年の人生の、まさに最後の大きな活動が台湾訪問だったわけです。展覧会開催後、自動車の故障で本土へ帰る船を逃し、次の船を待つ間に書いた新聞エッセイ「台湾の印象」は、短いながら夢二がいかに台湾で短い間にその現実を捉えてたかがよく分かります。まさに、1923年(大正12)の関東大震災の後焼け野原を毎日歩き廻って画文を連載した時の鋭い感性を思い出させる記述でした。
こういうことに気づいた、というのがこのプロジェクトの活動の最大の収穫のような気がします。講演では、現在分かっていることの集約と謎の部分の紹介を行う予定ですが、いま、この講演会はまさに第一歩目という感じがしています。
実は、夢二忌に当たる9月1日から、新たなフェーズを迎えるということで、現在、夢二ブログ「夢二の小窓」の準備を行っています。マルチ・アーティストである夢二はたくさんの小窓を持っています。それをひとつひとつ開いて覗いていこう、という趣向です。「週報」で2年間蓄積してきたことがその足場になっています。“夢二を探る、夢二を楽しむ”をスローガンとして、夢二の台湾訪問の行動をさらに明らかにするため、夢二の生涯とその業績すべてを対象として進めていこうと思っています。先は長いし、命は短い。動けるうちはやれるだけやって、そのまま倒れるなら本望。
これをベースとして、夢二生誕140年・没後90年に当たる2024年から、ブログとリンクする形で同名のYouTube番組をスタートさせられないかという計画も模索しています。挑戦は尽きません。
「夢二と台湾2023」は、最終的に私の夢二関係活動の大きな起爆剤となりました。今後ともよろしくお願いいたします。
■竹久夢二の素顔■
●廣田知子「みなと屋の夢二」(12)(『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)の「夢二を知る女性たち」より)
(注)本文は、文筆家の廣田知子が『猫町文庫』第四集 2013年(平成25)猫町文庫」に掲載したものです。
・東郷青年
一方、毎日みなと屋に出向くたまきの方にも東郷という名の当時青山学院在学中の19歳の学生がちょくちょく顔を覗かせるようになった。みなと屋の店は評判が高まるにつれて美校の生徒はもとより、一般の人達迄が、
「ここがみなと屋だよ」
と喋り合いながら覗いて行ったり、お下げ髪にリボンの女学生達も連れ立ってやってきては華やいだ雰囲気を撒き散らしていったが、時には不粋な警官がぬっと顔を出しては、
「春画のようなものは置いてないかね」
と小声でソノや花ちゃんに問いただすこともあった。
東郷青年が絣の着物に袴といった当時の書生スタイルで、
「奥さんいる?」
とやってくると、たまきは急に生き生きとしはしゃいで店の前のピアノのある喫茶店へお茶を飲みに入っていくことが多かった。それが平日の昼日中であったりすると、さすがにソノは怪しんで、
「あんた今日学校どうしたの」
と詰問口調になった。東郷青年は一寸もじもじして
「今日学校休んだんだ」
と至極当たり前の返事を返してよこした。ソノにすればまだまだ少年のような若者と、三十四歳にもなるたまきとの組み合わせなど、想像するだに薄気味悪い男女の仲としか言いようがなかった。
大正四年もまだ春浅く、ようやく節分も過ぎた頃、弁当を届けに来たばあやが、
「大変なのよっ」
と口角泡を飛ばす勢いで極度に興奮しながら喋り出した。
「奥さんが東郷さんと温泉へ行く約束してたんだって。それが旦那さんにばれて二人は大喧嘩よ。すると旦那さんが一体どうしたと思う?」
ソノは女のやさしさ、はかなさ、美しさを書き続ける夢二の怒りの形相など想像もつかない。いつか玄関で借金取りを邪険に扱った時の不快そうな表情をかろうじて思い浮かべながら、
「どうしたっていうの?」
とせき込んで聞くと、ばあやは一層興奮して、
「奥さんが新調したばかりの比翼のお召の神山を、旦那さんが下の長襦袢まで重ねてざっくり裁ち物鋏で切っちゃったのよ。これじゃどうにもならないから、奥さんはもう温泉へ行けなくなったのよ」
と右手の指を鋏に見立てて左の肩まで袖山を裁ち切る様子を真似て見せた。それは初心なソノにとって鳥肌の立つような、すさまじい男女の愛欲の世界であった。
ソノはこの日のことをこれ以上はどうしても思い出せない。たまきがソノと目線を合わせたとき、どんな表情を見せたのか下司の勘ぐりで一生懸命思い出してみるのだが、記憶は一切途切れたままである。長田幹雄編『夢二書簡』(一)の191頁によると、2月8日付、夢二からたまき宛の手紙の最後に「キズ口はうみをもちはせぬかと案じている。人の噂などにはかへられぬ。医者に見てもらふが好いよ」と記されており、宛先は富山の小川温泉となっている。恐らく逆上した夢二の鋏がたまきの肌を傷つけて、彼女は一人で郷里の温泉へ湯治に行ったのではあるまいか。
夢二はその後、彦乃、お葉、山田順子、その他何人かの女性たちと浮名を流しているが、どの女性も不妊のままでたまき一人がこの事件の後にも三男草一を生み、三人の男子の母親となっている。奇妙な事実に気がついた。
夢二の年譜を眺めていると、明治40年に二歳年上のたまきと結婚して、翌41年2月に長男虹之助が生まれ、明治42年5月にたまきと協議離婚してその年8月には離婚記念に富士登山している。この時もマスコミが人気者の変わった言動を面白おかしく報道しているが、たまきは高山病で須走(すばしり)までしか登れず、そのたまきの登山姿を情緒豊かに生き生きと描いたスケッチが残っている。翌43年5月には次男不二彦が生まれている。また三男草一が生まれた大正5年の前年に、例の東郷事件が起こり、夢二も笠井彦乃と結ばれているのである。つまり夢二は大いなる異常事件や、心身の極度の興奮状態を経なければ子供が生まれない体質であったということであろうか。
この時の東郷青年は知る人ぞ知る後の二科の重鎮・東郷青児画伯である。東郷青児も後に宇野千代らと同棲生活を送ったりしているが、一人娘のたまみさんはたまきと一字違いであり、晩年の青児が飽くことなく描いたマネキン人形のような女性像は、目の大きな鳩胸の容姿が初恋の人たまきのエッセンスを伝えて余すところがないとソノはよく語っていた。
その後ソノもこの情痴事件を契機にしてみなと屋を辞めてシンガーミシンの実業部に復帰した。夢二の家庭生活の乱脈振りに驚いた友人畑テルの忠告と、絵画を習うあてもなく、一銭の収入もない生活はやはり無意味なものに思われたからである。ソノの申し出に夢二は一言、
「残念だけど仕方ないでしょう」
と淋しそうに答えて許してくれた。
この翌年の10月にはみなと屋はたった二年の短命で店を閉じた。彦乃との愛に溺れてたまきとの生活基盤がゆるんでくるにつれて、みなと屋の品物の補充を怠った為である。
しかしみなと屋開店早々の活気溢れる時期に、夢二という時代の奇才と半襟の共同制作をしたというソノの体験は、彼女の青春時代を彩る華やかな思い出として、いつ迄も心に住み続け、子供達への語り草となったに違いない。(完)
※比翼のお召の袖山:「比翼」は長襦袢と着物の間にもう一枚着物を着ている下着のようなもの。袖山(そでやま)は、前袖と後ろ袖の境となる輪の部分を言います。和服の袖山は、洋服と違って縫い合わせて使うということはしない。
※二科会:美術団体。1914年(大正3)新帰朝の洋画家が中心となって、文展洋画部に審査における新旧二科制の設置を要望したが、文部省はこの願いを受け入れなかった。そこで、これを不満とした新傾向作家の石井柏亭(はくてい)、有島生馬、梅原龍三郎らが文展を離れて結成したもので、同年10月第1回展を開催。以後積極的に海外の動向を紹介する一方、新進作家の発掘育成に努め、また19年には彫刻部を新設、文展と対抗する有力な在野団体へと成長していった。だが、創立当初より会員の移動も頻繁で、30年(昭和5)に独立美術協会が、36年に一水会が、分派独立している。そして44年、戦争のため一時解散、戦後の45年(昭和20)東郷青児(せいじ)らを中心に再組織され、46年9月第31回展を開催した。この前後にも行動美術協会、二紀会の結成による分裂があり、55年には一陽会の派生をみた。なお、戦後は団体としての組織拡大が計られ、45年に工芸部、理論部を、51年に漫画部、商業美術部を、さらに53年には写真部を設け、79年には社団法人組織となった。毎年9月に公募展を開催するほか、海外美術の紹介と同時に海外巡回展を行うなど、国際化への積極的対応を示している。だが一方、1914年の創立から長い年月が経過し、しだいに当初の革新的性格が薄れてきたとの声も聞かれる。(「百科事典マイペディアより)
▼東郷青児
■夢二の世界■
PART 4 「夢二のデザイン」(「竹久夢二 《デザイン》モダンガールの宝箱」(竹久夢二美術館 石川桂子著、講談社)より
前号にて「16 暮らしのデザイン」をスタートさせましたが、この後、「17 絵はがきのデザイン」、「18 楽譜のデザイン」、「19 商業デザインの世界へ」と同書には素晴らしい解説が続いていますが、本ブログ最終回ということで、止む無くこれらを割愛させていただくことといたしました。これまでの記事でご覧のとおり、丁寧で的を得た夢二のデザインに関する説明がありますので、関心のある方は、ぜひ同書をご購入の上、お読みいただければ幸いです。
なお、同書の「あとがき」として、著者石川桂子氏の夢二への思いや長きにわたるご経緯に関する文章が記されていますので、これをご紹介してこの項を終わらせていただきます。これから10年余が経っていますが、今なお、同氏の言葉は新鮮に感じられます。そして、その後の同氏のご活躍ぶりについても機会をみて後継ブログ等でご紹介できたらと思っています。
・あとがき(記載内容は2012年時点ですのでご了承ください。)
今から約100年前に夢二が手がけた数々のデザイン、皆さまの眼にはどのように映ったでしょうか?
本書の編集を通じて、モダンな感覚に包まれながら、どこか懐かしさを感じさせるという二面性を持った夢二独特の和洋折衷のデザインに、私自身も改めて魅力を感じました。さらに、時代のニーズに応えながら、自身の個性も存分に発揮し、美の本質を追求した絶妙のバランス感覚、“可愛い”という視点から、いち早くデザインを手がけた先見の明に感服しました。
個人的なことになりますが、今春、竹久夢二美術館の学芸員になって丸20年が経ちました。これまでさまざまな角度から夢二の企画展を行いましたが、デザインをテーマに展示紹介したときには、夢二の意外な一面、美人画とは違う魅力を再発見したという声が多く寄せられていました。生活を豊かに彩るためのデザイン、現代においてそれは、日々の暮らしを潤すための欠かせない要素です。大正ロマンの時代に花開いた夢二デザインは、平成の今も古びることなく、普遍的な美の世界を形成しています。夢二が主に活躍した大正時代……その元年に当たる1912年から数えてちょうど100年という節目の年に当たる今年、夢二のデザインを一冊の本にまとめ、広く知ってもらえる機会をいただき、とても嬉しく思います。
振り返ると私が学芸員になったばかりの頃、夢二の次男・不二彦さんにお会いすることが出来ました。夢二の友人で元祖モダンガールだった望月百合子さん、夢二研究の第一人者だった長田幹雄先生からも多くのご教示を頂きましたが、今では夢二を知り、関わりの深かったほとんどの方が他界されて月日も経ち、時の流れを身にしみて感じます。このような夢二関係者の方々との出会いに改めて感謝し、学芸員の仕事に携わる契機をつくってくださった、竹久夢二美術館創設者である故・鹿野琢見元理事長の御霊前に、拙書の出版を報告したいと思います。そしてこれからも夢二の美とメッセージを広く伝えていけるよう、心を尽くしていきたいです。
(後略)
2012年の早春に 石川桂子
▼「竹久夢二 《デザイン》モダンガールの宝箱」(竹久夢二美術館 石川桂子著、講談社)
■夢二情報■
●「関東大震災100年 竹久夢二が見た震災直後の東京 中日新聞東京本社で企画展」(東京新聞本社、9月16日まで開催)
大正時代に美人画で人気を博した画家・詩人の竹久夢二(1884~1934年)が見た関東大震災直後の東京と、当時の都新聞(東京新聞の前身)を展示する企画展が、東京新聞(中日新聞東京本社、千代田区内幸町)の本社1階ロビーで開かれている。(大島晃平)
竹久夢二(竹久夢二美術館提供)
竹久夢二(竹久夢二美術館提供)
竹久夢二は、色白で細身の「夢二式美人」と言われる美人画のスタイルを確立し、「大正ロマン」を代表する芸術家。画壇に属さず、作詞や小説執筆などでも幅広く活動した。
大正時代に発行された都新聞で、自身初の新聞小説となる「岬」の連載を始めたが、直後に関東大震災が発生。小説の連載を中断し、震災直後の東京を伝える挿絵付きルポ「東京災難画信」を都新聞に21回掲載した。震災後の混乱を描きながら、現代にも通ずる差別や貧困の問題を伝える内容だ。
企画展「夢二の震災ルポと都新聞~関東大震災100年の記憶~」は、来年9月に創刊140周年を迎える東京新聞による特別展示。東京災難画信のほか、震災発生直後の都新聞の実物や、復興に向かう東京の写真などを展示する。9月16日までの午前10時~午後5時(日曜休み)。観覧無料。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/271872
●「竹久夢二新聞ちぎり絵コンクール」の作品を募集中。(東京新聞、9月15日締切。)
ちぎり絵に必要な下絵は本社1階ロビーなどで配布中。優秀作品の応募者には竹久夢二作品の刺しゅう入りオリジナルグッズを贈る。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/271872●企画展「明治・大正・昭和 レコードの時代と夢二の時代展 ~大衆を魅了した日本近代の音とデザイン~」(竹久夢二美術館、2023年9月30日(土)~12月24日(日))(FASHIONPRESSより)
https://www.tokyo-np.co.jp/chigirie
●「明治・大正・昭和 レコードの時代と夢二の時代展 ~大衆を魅了した日本近代の音とデザイン~」(竹久夢二美術館、2023年9月30日(土)~12月24日(日))
詩人画家・竹久夢二(1884-1934)が活躍した明治・大正・昭和は、レコードが大衆に受け入れられ隆盛した時代と重なります。はやり唄や落語、政治家の演説など様々な音源が記録され、音楽と音声を聴くためのレコードが日本で製造・発売して約110年の時間が流れました。
本展では、明治・大正・昭和戦前期に蓄音器で聴いていた、選りすぐりのSPレコードと共に、夢二が手掛けた楽譜表紙絵のデザインや時代風俗を描いた作品を展示紹介します。
「ぐらもくらぶ」代表・保利透コレクションを中心とした貴重なレコード及び資料と、大正ロマンを象徴する竹久夢二から見た、音楽を中心とした日本の近代芸術における足跡をお楽しみください。
協力・ぐらもくらぶ レコード資料監修・保利透
●「大正の夢 秘密の銘仙ものがたり」展、東京・弥生美術館で - “銘仙”着物をコーディネートで紹介(弥生美術館、2023年9月30日(土)~12月24日(日))(FASHIONPRESSより)
https://www.fashion-press.net/news/107661
●夢二が描いた関東大震災 渋川の記念館で特別展」(竹久夢二伊香保記念館、10月15日()まで)(『朝日新聞デジタル』より)
https://www.asahi.com/articles/ASR8K7X5JR8BUHNB00C.html
●関東大震災から100年の節目に、特別展示「夢二と関東大震災」を開催 被災者でもある夢二が遺した震災の記録を初公開も含め展示(夢二郷土美術館、8月29日(火)~12月3日(日))(PRTIMESより)
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000214.000052428.html
●「夢二の新聞連載ルポ 「東京災難画信」―100年前の自画自作小説と画信―」(金沢湯涌夢二館、6月24日(土)~9月10日(日)※毎週火曜休、8月15日(火)臨時開館、8月16日(水)臨時休館)
竹久夢二(1884-1934)は、明治末期から昭和初期に活躍した詩人画家です。今年は大正12年9月1日に発生した関東大震災から100年目となります。夢二は、震災発生後まもなく、絵入りルポルタージュの 「東京災難画信」を『都新聞』に連載しました。会場には、その手稿や震災直後の東京を描いたスケッチブックを展示します。また、十代の頃に家出をして単身で上京するほどに夢二は東京に憧れを持ち、その後の生活拠点としました。
本展覧会では、東京や都市文化を描いた作品のほか、夢二の遺品から絵葉書など戦前の東京の様子を伝える資料も紹介します。
さらに、夢二が「東京災難画信」と 同時代に執筆し挿絵も描いた新聞小説を中心に、新聞や雑誌上で発表した文学と絵画の作品のほか、新聞挿絵が貼り込まれたスクラップブックや当館初公開作品を含む原画と下絵も展示します。
https://www.kanazawa-museum.jp/yumeji/exhibit/index.html
●竹久夢二のすべて 画家は詩人でデザイナー」(京都 福田美術館、2023年7月14日(金)~ 10月9日(月・祝))
本展は2024年に生誕140年、没後90年を迎える画家、竹久夢二の回顧展となります。
「夢二式美人」と呼ばれ、一世を風靡した美人画の数々に加え、雑誌の挿絵、楽譜の表紙デザイン、本の装丁や俳句・作詞にいたるまで、多彩な才能を発揮したクリエーターとしての夢二の魅力が詰まった作品の数々をご覧いただきます。
200点以上の作品がまとまって公開されるのは関西では約30年ぶり。夢二ファンはもちろん、老若男女を問わずお楽しみいただける展覧会です。
https://fukuda-art-museum.jp/exhibition/202304302843
●企画展「夢二が見つめた1920年代」(竹久夢二美術館、2023年7月1日(土)から9月24日(日))
関東大震災からモダンガールまで夢二作品を紹介(FASHION PRESSより)
大正時代から昭和時代へと変わる1920年代は、日本の近代化に伴う様相が広く人びとに浸透していった時代であった。この時期、竹久夢二は、夢二式美人と呼ばれるセンチメンタルな女性像で人気を集める一方、急速に変化する社会を反映した作品も手がけている。
企画展「夢二が見つめた1920年代 ─震災からモダンガールの表現まで─」は、20年代における夢二の創作を紹介する展覧会。関東大震災にまつわるスケッチとエッセイ、当時流行したモダンガールを描いた作品などを展示する。
1923年に発生した関東大震災は、江戸時代の面影を残す東京に甚大な被害をもたらす一方、大規模な復興事業により新たな建築などの整備が進められ、東京は近代的な都市へと変貌してゆくこととなった。本展では、夢二が被災地・東京を描いた「東京災難画信」などを展示し、震災により変わり果てた風景や生活の様子、復興へ向けての動きに光をあてる。
大正時代は、女性の社会進出や関東大震災の発生などを背景に、女性の洋装の需要が高まった時期であった。この頃から昭和初期にかけて、洋装を着用する若い女性は、モダンガールと呼ばれている。会場では、モダンな装いを捉えた夢二の作品に着目し、モダンガールをアール・デコ風に表現した《涼しき装い》や、洋装と和装の取り合わせを描いた《湖畔の秋》などを紹介する。
https://www.fashion-press.net/news/103627
●館蔵品企画展「竹久夢二展~夢二式美人を中心に」を朝日町ふるさと美術館で開催。(「富山新聞」)
朝日町ふるさと美術館の竣工(しゅんこう)式は6日行われ、約50人が隣接する不動堂遺跡を含めた文化歴史ゾーンの核施設として滞在・体験型観光の拠点となるよう期待を込めた。旧美術館から移転、展示スペースを1・5倍以上にしてリニューアルオープンする。7日から一般開放される。
3億8212万円を投じ、同町横水の交流体験施設「なないろKAN」を大規模改修した。有利な財源を活用し、町の負担は総額の4分の1となる。周辺には歴史公園や埋蔵文化財保存活用施設「まいぶんKAN」もあり、町は「歴史と文化の薫り漂うふるさとゾーン」に位置付けている。
7日からは開館記念の特別展「光と影のモビール 現象する歌」、館蔵品企画展「竹久夢二展~夢二式美人を中心に」(いずれも富山新聞社後援)が開かれる。
特別展は現代アート作家小松宏誠さん(42)による光や音、動きを生かして空間を彩るモビール、羽根の立体作品などで、6日の内覧会では小松さん自身が幻想的な展示を解説した。朝日町の海をイメージし、和紙やフィルムで光のきらめきを表現した作品が注目を集めた。特別展は9月10日まで、竹久夢二展は一部作品を入れ替え10月22日まで。
https://www.hokkoku.co.jp/articles/-/1118614
●越懸澤麻衣著『大正時代の音楽文化とセノオ楽譜』が発売中!
https://honno.info/kkan/card.html?isbn=9784867800096
●ひろたまさき著『異国の夢二』が発売中!
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784065323465
●夢二の雰囲気に包まれてオリジナル懐石を楽しめる!――神楽坂「夢二」
https://www.kagurazaka-yumeji.com/
コメント